壁を這う男 その弐

 翌日、私は荷物をまとめて宿屋を引き払い、〈二二一乙〉に引っ越した。

 〈二二一乙〉に着いた私が最初に始めたのは、私物を置くためにガラクタが乱雑して散らかし放題の部屋を片付けることだった。

 本当は宝積寺氏にも手伝って欲しかったのだが、当の本人は化学実験に夢中だったので、渋々、私一人で片付けることにした。

 宝積寺氏の変人ぶりは昨日で充分思い知らされたつもりだったが、片付けの最中にもっと常識外れした人柄を目の当たりにした。

 例えば、刻み煙草を室内靴スリッパの中に仕舞っていたり、読みかけの手紙には短刀が刺されていた。それだけならまだしも、私が一番仰天したのは牛酪バターの瓶から義眼が出てきたことだった。

 

 宝積寺氏に問いただすと、「それは、ある事件の被害者の生田目なばため氏の義眼だな。仕舞うところがなくて、とりあえず牛酪の瓶に入れていたのを忘れていたよ」とさらりと言った。教授が言ってたように、この人を研究するのは難問そうだ。


 やっと部屋を片付け終えると、私物や薬品、手術道具を棚に置いたり服を箪笥に仕舞った。ひと段落着いた私は何もすることが無かったので、とりあえず宝積寺氏に話しかけてみることにした。


「あの───」と言いかけて、宝積寺氏を何て呼ぶか決めていなかったことに気が付いて、真麻さんに倣って“先生”と呼ぶことにした。「宝積寺先生。どうして、先生は探偵を始めたんですか?」


 私が話しかけても先生は実験を止めなかった。最初は聞こえていないのかな?と思ったが、少し間を開けてから手を止めて話し始めた。


「人生というのは無色の糸が複雑に絡まり合っている。そこに一本だけ“真実”という名の赤い糸が混じっているんだ。それを探し出して取り除き、白日の下にさらすのが俺の仕事であり使命であるのさ」


 と、哲学者のようなことを言われたので、私は「そ、そうなんですか・・・・・・」としか言えなかった。


 会話はそこで止まってしまい、何となく気まずい空気が流れてしまった。そこへ真麻さんが事務所に入ってきた。


「先生、お客様がお見えになりました」


 それを聞いて、私は「これは先生の仕事ぶりから、先生の研究が出来る絶好の機会だ」と思った。

 真麻さんが部屋を出ると二人の若い男女が入って来た。男性の方は背が高い青年で、対照的に女性は小柄だった。

 二人とも美男美女という言葉が似合う容姿だったが、顔は青ざめていて不安気な表情だった。


「あの、どちらが宝積寺 進先生でしょうか?」


 青年の質問に先生が「俺だ」と答えた。「俺が宝積寺だ。隣にいる彼は居候のワトソンくんだ」


「ちょっ、居候って・・・・・・」自分が家主みたいな先生の口ぶりに私は口を尖らせた。


 青年はバツが悪そうに、「その、出来ればワトソンさんには席を外してもらいたいのですが・・・・・・。というのも宝積寺先生に依頼したいことが非常に“でりけぇと”な問題なので第三者がいるとちょっと・・・・・・」と口をモゴモゴと動かしながら言った。


「その心配はない」と先生。「俺はワトソンくんと出会って日は浅いが、彼は元・軍医で真面目な男だ。だから、依頼内容を他人に漏らすような真似は絶対にしない」


「そういうことでしたら・・・・・・。では、まず自己紹介をさせていただきます。僕は鳥羽勉とば つとむと云います。そして、彼女は僕の下宿先の百日紅さるすべり教授のお嬢さんのいすゞさんです」


「百日紅教授というと、剣津けんづ大学で生物学を専攻している教授だな」


「はい、そうです。僕は百日紅教授の元で勉学に励みながら、お屋敷でお世話になっている、いわゆる書生です。実は、今日ここに伺ったのは、百日紅教授について調べてほしいことがあるからなんです。教授は警察組織の上層部の方とは懇意でして、あなたと共にいくつもの事件を解決した警視廰けいしちょう虎井手とらいで警部から宝積寺先生に解決できない謎は無いと聞いたことがあるんです。それでこちらに伺った次第でして。

 ただ、話があまりにも突飛すぎて引き受けてくれるか心配で……。それに、教授の名誉に傷を付けるような真似はしたくないので、どうすればいいのか途方に暮れてしまって・・・・・・」と鳥羽氏は、また口ごもってしまった。


「鳥羽氏、依頼を受けるか受けないかは、依頼の内容が俺の興味を引くかによって決まる。分かったら、依頼の内容を聞かせてくれ」と先生が言った。


「はい。それにはまず、教授の人となりを話さなくてはなりません。百日紅教授は、剣津大学では優秀な学者の一人です。あの方は研究一筋の人生を歩んできました。奥様に先立たれて以来、僕が来るまではいすゞさんと二人暮らしでした。

 教授は今まで浮いた話は一つも無かったのですが、同僚で比較解剖学議長の茂田井もたい教授のお嬢さんの亜里子ありすさんに、あろうことか求婚したんです。ですが、亜里子さんにはやんわりと断られてしまいました。教授は今年で六十一歳になりますし亜里子さんとは三倍も歳が離れていますので、当然と言えば当然なのですが・・・・・・」


「まァ、そうだな」と先生。


「でも、教授は非常に歯がゆそうでした。あの方は社会的にも地位のある方ですし、裕福でもあります。ただ、年齢がかけ離れていることだけが唯一の問題でした。婚約を断られても教授はあきらめきれなくて、気を引くために蘭の花を贈ったことがありますが、亜里子さんが蘭の花が嫌いだと知ると、今度は薔薇の花を贈りました。それでも、亜里子さんの気持ちが変わることはありませんでした。

 彼女が求婚を断ったのは年齢以外にも、いすゞさんとは親友同志というのもあるんです。親友と義理とはいえども母娘になる事にも抵抗があったんだと思います」


「私は───」と、ここまで無言だったいすゞ嬢が口を開いた。「親友の亜里子が義理の母になるかもしれないと思った時には、確かに戸惑いました。でも、亜里子とは子供の頃から姉妹のように育ってきました。だから、形がどうであれ本当に家族になれることは喜ばしいことですから、受け入れる覚悟だけは出来ていました」


「それで、亜里子さんに婚約を断られて以来、教授には妙な行動が目立つようになってきました。

 教授は今まで隠し事なんて一度もしてこなかったのに、ある日突然、大学の研究室に何日も閉じこもるようになってしまったんです。しかも、中で何をしているかを全く話してくれないんです。

 僕たちは教授が新しい研究に夢中になることで、心の傷を癒そうとしているんだろうと思いました。同時期に教授は僕に十字の印が付いた木箱が帝都から届いたら、絶対に開けないでおくようにと言いつけました。僕は教授宛ての手紙や荷物を整理する仕事も任されていたからです。

 そう言われて何日かしたら教授が言った通りの小さな木箱が届きました。それが一回だけでなく何回も届くんです。ある日、教授の部屋で探し物をしているときに、戸棚を開けたらそこに例の箱がありました。その箱をどかそうと思って触りかけた瞬間、部屋に戻ってきた教授は烈火のごとく怒って僕を激しく罵りました。そんなことは初めてなので、僕は深く傷付くと同時に内心腹も立ちました。結局、その日は一日中、教授は僕に敵意剥き出しの眼で睨んでいました」


 ここで鳥羽氏は懐から日記帳を取り出して、それをめくり出した。


「えっと・・・・・・、それが七月二日のことです」


「そんなことを日記に書き残したのか?」と、先生。


「はい、教授からの仕打ちがあまりにも理不尽だったので、怒りをどこかにぶつけたかったんです。さらに、同じ日に教授が愛犬のを散歩に連れて行こうとしたら、いきなり教授に噛み付いたんです。・・・・・・恥ずかしながら教授が噛まれたとき、僕は内心ほくそ笑みました。あんなに激しく罵った罰が当たったんだと思ったからです。

 それから、七月十一日と二十日にも同じような騒ぎが起きました。そんなことがあったので、ろい助を馬小屋に閉じ込めて鎖で繋がなくてはなりませんでした。ちょっと前までは教授によく懐いていたのに・・・・・・」


「鳥羽氏、話が逸れているぞ」と少し苛立った感じで先生が言った。このとき先生は、天井を見上げていて話を聞いていないようだった。


「すみません。そのときの僕は私物をちょっと触ったぐらいで、そんなに怒らなくてもいいだろうと根に持っていたので。でも、そんな気持ちは吹っ飛んでしまいました。教授に対する感情が、怒りから恐怖に変わってしまったからです」


「一体、何があったんだ?」


「はい。一昨日の九月四日の真夜中のことです。僕が夜遅くまで自分の部屋で勉強をしていると廊下から妙な物音が聞こえてきました。それで、扉を静かに少しだけ開けると、僕は自分の眼を疑いました。

 教授が猫背になって歩いていたんです。しかも、普通の歩き方じゃないんです。両手を床に付けて前屈みになって歩いているんです。それは、歩くというより“這う”という表現が正しいかもしれません。眼は変にギラギラしているし、口は半開きになってヨダレをポタポタと垂らしていました。その異様な光景に、僕は体が硬直してしまい動きたくても動けませんでした。教授はゆっくりと這っていたのですが、急に四つん這いになると動物のように身軽な動きでピョンピョンと跳ねだしたんです。

 あのとき、教授と眼が合っていたら、僕はどうなっていたか分かりませんでした。教授が僕の部屋の前を通り過ぎたあと、あまりの恐怖に布団に潜り込みました。僕は怖くて怖くて、その日は朝になるまで一睡もできませんでした。しかも、朝になると教授は何事も無かったかのように、いつも通りの様子だったので余計に不気味でした」


「フム・・・・・・。医者の意見を伺いたいものだな。どう思う、ワトソンくん?」と、急に話を振られたので、私は少し驚いた。


「え?ええと、そうですね・・・・・・。僕が思うに教授は腰痛だったんじゃないでしょうか?人によっては、真っ直ぐ立って歩けないぐらい腰が痛くなりますし」


「如何にも医者らしい平凡な意見だな。だが、普通腰が痛かったら手を突くのは床じゃなくて壁じゃないか?しかも、そのあと軽やかに飛んだり跳ねたりしてるんだから、腰痛じゃないのは明らかだ」


「そ、そうですよね・・・・・・」


「ご婦人は父親の奇行については知っていたのか?」先生が、今度はいすゞ嬢に質問した。


「いいえ、全く知りませんでした。聞かされても信じなかったと思います。少なくとも、あんなことが無ければ・・・・・・」と、いすゞ嬢はうつむいてしまった。


「貴女は一体何を見たんだ?」先生は膝を抱え込み両手の指を突き合わせる独特な姿勢を取っていたが、さっきまでとは違って、興味深そうな目をしている。


「いすゞさん、説明できますか?出来なければ僕が代わりにしますけど」鳥羽氏に聞かれると、いすゞ嬢は首を小さく横に振った。


「大丈夫、自分で話せます。───昨晩のことです。私が寝室で寝ていると、外からの吠える声が聞こえて目が覚めました。ろい助はめったに吠えることがない大人しい犬なので、私は珍しいなと思いました。

 すると窓がガタガタと揺れる音も聞こえました。私は窓の方を見ますと、全身から冷や汗が吹き出ました。私の寝室は三階にあるのですが、窓から父が部屋を覗いていたんです。私は恐怖のあまり悲鳴を上げて失神してしまい、気が付いたら朝になっていました。起きたとき、昨日のことは夢かと思ったんですけど、窓硝子まどガラスには顔を押し付けたり、叩いたときに出来たと思われる脂や手の平の跡がペタペタと付いていたんです。だから、昨晩のことは夢じゃなかったんです」


「お父さんは梯子を使ったんでしょうか?」私の質問に、いすゞ嬢は首を激しく横に振った。


「いいえ、家には三階にまで届く梯子はありません。でも、窓を開けると壁を伝っている蔦が何カ所か剥がれていました。ですから、父は壁を這って登ってきたということになります。でも、人間にそんなことは出来ないでしょう?」


「窓から覗いていたというのは、何かの見間違いという可能性はないでしょうか?」


「いいえ、あれは間違いなく父でした」


「でも、当時は真夜中だったんですよね?それじゃあ、顔はハッキリと見えなかったんじゃないですか?」


「その日は満月でしたから、外は明るかったんです。ですから、見間違えるハズがないんです」


 私の意見は次々と真っ向から打ち消されてしまったので、少し肩身の狭い気持ちになってしまった。


「で、それから、どうしたんだ?」と、再び先生がいすゞ嬢に質問をした。


「はい。鳥羽さんのときと同じで、やはり父は朝食の時には夜の奇行が嘘のように、いつも通りの厳格な顔つきをしていて、特に変わった様子はありませんでした。

 父親に娘の部屋を覗いたかなんてことは聞くに聞けませんから、一人で悩んでいると鳥羽さんが私の様子から何かあったのだと察してくれて、話しかけてくれたんです。それで、鳥羽さんに昨晩の出来事を話したら、彼も父の奇行を目の当たりにしていたことを知って驚きました。そこで二人で話し合って宝積寺先生の元に伺ったのです。

 先生、どうか父の不可解な行動の謎を解いていただけないでしょうか?」


 話を聞き終えるとしばしの間、しばし、沈黙が流れた。私は二人の話を聞いて恐ろしくもあり、あまりにも現実離れした内容なので本当の話なのかと疑った。先生はしばらく黙りこくっていたが、やがて口を開いた。


「非常に興味深い事件だ。今まで手がけてきた事件の中でも段違いだ。これは早急に調査に乗り出さないとならないな」


「では引き受けてくれるんですね?」と今まで暗い顔をしていた鳥羽氏といすゞ嬢が顔を少しばかり明るくした。


「ああ、こんなに面白い事件を逃すワケにはいかない」


 先生は普段の仏頂面からは想像ができないぐらい、子供のように目を輝かせていた。

 依頼人が深刻に悩んでいるのに、「面白い」という発言はどうなんだろうと、私は少し顔をしかめた。だが、先生は二人の気持ちなどお構いなしといった感じで話を進めた。


「ご婦人の寝室の窓を調べたいから、教授が留守のときを伺いたい。いつなら大丈夫だ?」


「父は大学で講義に出ているので、明日の十一時頃でしたら大丈夫です。ただ、昼食を食べるために、一度家に戻ります」


「なら丁度いい。ワトソンくん」と先生は私の方を向いて「都合が良くても悪くても君も一緒に来てくれ」と言ったので私は驚いた。


「え?僕も行くんですか?」


「窓を調べ終わったあとに、百日紅教授と会って彼の様子から病気なのかを医者の目で判断してもらいたい」


「は、はい。僕なんかでお役に立てるのであれば着いていきます」


 このとき、私は先生に誘われなくても、強引にでも捜査に付いていくつもりだった。こんなに不可思議な話を聞いた以上、事の真相を知りたかったからだ。

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