壁を這う男 その五

 私たちは銅鑼吉の店を出ると、倫敦駅へ向かった。駅に着くと同時に、虎井手警部と郡司巡査もやって来たので合流すると、剣津行きの列車に乗った。


「先生。言われたとおり、小間町に警官を向かわせましたぞ。まさか、猿の盗難事件を解決してくれたとは……、だけど、これからどこに向かうんですか?」警部が怪訝そうな顔をして聞くと先生が答えた。


「百日紅教授の屋敷だ」


 それを聞いて、警部と郡司巡査は困惑した顔つきになった。


「百日紅教授の屋敷って、まさか、僕たちが注意したのにも関わらず、まだ調査を続けていたんですか?」と郡司巡査は聞き返した。


「いいから、黙って付いてくれば良いんだ。屋敷に着けば全てが分かるさ」と先生がそっけなく答えたので、警部たちは渋い顔をした。


 剣津駅を降りると私たちは百日紅邸に向かった。屋敷に着くと、先生は銅鑼吉の店のときと同じように、──それも、警察官の目の前で──門の鍵穴に針金を挿し込んでガチャガチャと動かした。


「ちょっと、何してんですか先生!」警部は思わず声を上げた。


「大声を出すな。非常事態なんだ」と先生は門の鍵を開けると、扉を静かに開けて中に入っていったので、私たちもあとを付いていった。


「俺たち、完全に不法侵入じゃねェかよ・・・・・・」


 警部が苦々しく言うと、先生は「バレなきゃいいんだ。バレなきゃな」と開き直るので、私たちはため息を吐いた。


 先生が庭にある茂みの中にしゃがみ込んだので、私たちもしゃがんだ。


「ここで何をするんですか?」

 

 郡司巡査の質問に先生は短く答えた。


「教授が行動を起こすのを待つんだよ」


 その瞬間。突然、ガシャン!と凄まじい音がしたので屋敷の方を見ると、三階の窓硝子から椅子が突き破って、地面に落下してバラバラに砕けた。

 私たちが呆気に取られていると、割られた窓から人影がニュッと這い出てきた。月明りに照らされると、それは百日紅教授だった。 百日紅教授は壁伝いに生えている蔦を掴むと、縄代わりにしてスルスルと地面に降りた。

 百日紅教授は鳥羽氏が話していたように眼はギラギラと光っていて、口からはヨダレを垂らしながら歯を剥き出しにしていた。

 庭に降りた百日紅教授は、地面に手を突いて四つん這いで庭に生えている大木に目がけて走り出して、老人──いや人間とは思えない身軽さで登り始めた。

 上まで登ると奇声を上げながら、枝にブラ下がったり、枝から枝へ跳び移ったり、枝を折って木を叩いたりした。

 私たちは目の前のことが信じられず、呆然とした。そこへ、玄関の扉が開いて鳥羽氏が飛び出してきた。その後ろにはいすゞ嬢も付いてきた。二人とも、窓硝子が割れる音で外に飛び出したんだろう。

 二人は教授の変わり果てた姿を見るとガク然とした。特に、いすゞ嬢は口を両手で塞いで顔が青ざめていた。

 さらに、馬小屋からは中年の男──鳥羽氏の話していた馭者の巻平が血相を抱えて飛び出してきた。巻平も枝にブラ下がる教授を見るや否や、腰を抜かしてしまった。

 その横には、鎖に繋がれているが教授に向かってガウガウと激しく吠えて威嚇した。教授もろい助に気が付くと、地面に降りてろい助に向かって、石を投げたり奇声を上げて威嚇をした。

 すると、恐れていた事態が起こった。ろい助の首輪と繋がっている鎖は杭で地面に打ち付けられていたのだが、鎖がピンと張っていたせいで杭が地面からすっぽりと抜けてしまい、ろい助が教授目がけて走り出したのだ。

 誰もが、百日紅教授がろい助に噛まれてしまう──そう思った瞬間、ダーーーン!ダー―ン!という銃声が二回響いて百日紅教授とろい助はばったり倒れてしまった。

 父親が撃たれるのを目の当たりにしたいすゞ嬢は悲鳴を上げて気絶してしまい、倒れそうになったところを鳥羽氏が受け止めた。

 私たちが後ろを振り返ると、先生は杖型の猟銃を手にしていて、銃口からは煙が上がっていた。


「先生!どうして撃ったんですか!?」


「安心しろ、今撃ったのは麻酔弾さ。あのままじゃ、犬に喉笛を喰いちぎられていたところだからな」


 先生がそう言ったので、私は倒れた百日紅教授とろい助に駆け寄ると、確かに麻酔弾で眠っているだけだった。


「警部と郡司巡査は教授とろい助を屋敷に運んでくれ。それから、ワトソンくんは教授たちの体に異常はないか調べるんだ」


 先生の指示に従って私たちは動いた。百日紅教授とろい助は居間に運ばれた。教授たちは麻酔が効いて命に別条はなかった。そのことを鳥羽氏といすゞ嬢に伝えると、二人は安堵の表情を見せた。


だが、鳥羽氏たちとは真逆に警部たちは、しかめっ面をしていた。


「さてと・・・・・・」と警部が口を開いた。「先生、そろそろ詳しく聞かせてもらえませんかね。何で百日紅教授は、あんな猿の真似なんかしてたんですか?」


「そうですよ、教えてくださいよ」と郡司巡査。


「僕なんて、昨日の夜から何も聞かされていないんですよ」私も溜まっていた不満を吐き出した。


「いいだろう。だが、その前に一つ確かめたいものがある」と先生は鳥羽氏の方を向いた。「鳥羽氏、教授に送られてきた木箱を持ってきてくれないか」


 先生に言われると、鳥羽氏は駆け足で居間を飛び出して小さな木箱を持ってきた。

 

 教授が誰にも触らせなかった木箱を開けると、中には薬瓶と手紙が入っていて、それ取り出した。

 手紙を広げて、先生は眼を通すと「やはり、俺の睨んでいた通りだったか」と言った。「警部、教授は猿の真似をしていたんじゃない。本当に猿になっていたのさ」


「そりゃあ、一体どういう意味ですか?」警部だけでなく、私たちも首をかしげた。


「その答えは、これさ」先生は手紙を読み上げた。


『拝啓

 

 百日紅教授殿。貴殿が小生を援助してくれるおかげで、研究は順調に進んでおります。

 ここ最近は、お身体の調子は如何でしょうか?ご承知かと思いますが、小生の研究はまだ発展途中ですので、副作用の危険性があります。

 今までの薬に使ってきた猿は四足歩行のものばかりだったので、今回はより人間に近い大猩々の生き胆を使用した薬を送らせて頂きます。

 研究にも役立てたいので、服用後はいつも通り報告を下さい。


 敬具

 

 曳地蝋右衛門えいち ろうえもん


「エイチ・ロウエモン……?どこかで聞いたことがある名前ですね」


「ワトソンくんも医者だけあって、聞き覚えがあるようだな。“曳地 蝋右衛門”というのは、数年前に若返りの薬を研究していて、その成分を明かさなかったうえ研究をインチキ呼ばわりされて、学会を追放されてしまった生物学界の異端児だ」


 先生の話を聞いて私も思い出した。何年か前に新聞で、そんな科学者が変な薬を開発したという記事を読んだことがある。


 先生は話を続ける。「そして、俺とワトソンくんが銅鑼吉と一緒に捕まえた老人こそ、その曳地博士で、この薬瓶の中身は猿の生き胆から精製した若返りの薬なのさ」


 それを聞いて、私たちは思わず驚きの声を上げてしまった。


「人間の生き胆を食べると若返るという伝承は聞いたことがあるだろう?曳地博士はその伝承から着想を得て、猿の生き胆から若返りの薬を作ることを研究していたんだ。

 百日紅教授は亜里子嬢に婚約を断られた原因をかけ離れた年齢と考えた。そこで、研究室に籠って若返る方法を調べて行くうちに、曳地博士がかつて若返りの薬を研究していたことに行きつくと、彼の研究を支援する代わりに薬を貰って若返ろうとしたんだ。

 だが、若返りの薬の成分が猿の生き胆だったから、教授は薬の副作用で猿に変化───いや、“退化”してしまい廊下を四つん這いで歩いたり、壁を這って登ったりしたんだ。

 そして、ろい助は教授の体から発する獣臭から、飼い主を人間ではなく天敵の猿と見なして噛みつこうとしていたんだ」


「じゃあ、銅鑼吉が動物園から猿を盗んでいたのは・・・・・・」


「若返りの薬の材料として集めだ。銅鑼吉はよろず屋と名乗っているが、金のためなら法を犯すことも厭わない男だそうだ。

 銅鑼吉は今までにも、恐喝や暴行、窃盗の前科があるロクデナシなんだ」


「そんなに危険な男だったんですか……」


「あの・・・・・・、刑事さん。父はどうなるんでしょうか?」といすゞ嬢が、心配そうな顔で警部に聞いた。


「そうですな。お父上殿は違法な研究を支援したうえに、怪しげな薬物を使用したので逮捕されることは免れないでしょうが、ヤブ医者に騙されていたわけですから、そんなに重い罪には問われないと思います」と警部が答えた。


「そうですか……」いすゞ嬢は目に涙を浮かべて口に両手を当てた。


 私も警部に聞きたいことがあったので、質問した。「先生はどうなるんでしょうか?凶暴化しているとはいえ、人に麻酔銃を撃ったわけですから……」


 警部は少し黙り込んだが、口を開いた。「いや、先生が撃ったのは人じゃなくて猿だ。それに、先生が麻酔銃を撃たなければ、本当に犬に喰い殺されていたかもしれねェから、結果的には命を救ったんだよ」


「はい、先生は父の命の恩人です」


「宝積寺先生には感謝しきれません。本当にありがとうございます」いすゞ嬢と鳥羽氏は先生に礼を述べた。


「た・だ・し」と、警部が先生に近寄って、「見逃すのは今回だけですぞ。本来なら先生は不法侵入と銃刀法違反なんですからな」と怖くした顔をグイっと近づけて釘を刺した。


 郡司巡査も同じように私に近寄ってきて、「ワトソンさんも先生の助手なら、ちゃんと見張っておいてくださいね」と言ってきた。


 私は内心、「助手じゃないんだけど・・・・・・」と思った。


 先生は「分かったよ。二度とこんな真似はしないさ。面白い事件が起こらない限りな」と言った。まったく、どこまでも自由な人だ。


 翌日、先生は数本の試験管やフラスコに様々な液体を混ぜて、科学実験に打ち込んでいた。今度は、先生が得体のしれない薬を作るんじゃないかと心配だ。

 そんな先生を横目で見ながら、私は朝刊に目を通すと連続猿盗難事件の犯人である曳地 蝋右衛門と銅鑼吉、そして百日紅教授が逮捕されたことが記されていた。

 だが、驚いたことに記事には先生が事件の真相を解いたことは載っておらず、全て虎井手警部が解決したことになっていたのだ。


「どうして、捜査の手柄が警部たちの物になっているんですか?」と、私は記事を先生に見せた。


「どうしてって、最初に言っただろ。俺にとっては“事件そのものが報酬”なんだよ。俺は事件を解決したら、あとのことは全て警部たちに任せているんだ。だから、手柄も譲っているのさ」


「そんな、先生のおかげで猿の盗難事件が解決できたのに、手柄を独り占めするなんて・・・・・・」


「何故、君が不満そうな顔をする?事件を解決した俺が良いと言ったら、良いんだ。あんなに不可思議で愉快な事件を解決できて俺は満足なんだよ」

 

そう言われても私は納得がいかなかった。


「・・・・・・よし!決めましたよ。僕はいつか先生の活躍を本にまとめて発表します。そして、世間に本当のことを知らしめるんです。

 そうじゃないと、不公平ですからね。そのために、今から事実を書き溜めておかないと」


「まァ、好きにしたまえ」と、先生は呟いた。


 私は早速、タイプライターで今回の事件の詳細を書き始めた。

 記念すべき第一作目の題名は『宝積寺 進の名推理──壁を這う男──』だ。


──終──

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