後編

 真っ赤な空が、近い。大きな夕日が、千切れた綿みたいな形をした雲を染め上げる。

 眼下に、見慣れた町が広がっていた。田んぼと田んぼの間の、細道。カナカナカナ、と聞き慣れたひぐらしの鳴き声。遠くの方ではガァー、ガァー、とカラスが鳴いていた。

 細道を歩く、二人。折れた左腕を三角巾で肩から吊るした茜ちゃんと、うつむいている、わたし。在りし日の……光景。

 茜ちゃんの怪我が怖くて、うつむいたわたしは泣いていた。

「小夜~、ごめんてぇ」

 茜ちゃんの、機嫌を取るような猫なで声が聞こえる。

 ――ちがう、茜ちゃんが謝ることなんて、一個もない!

「あかっ、ね、ちゃ……ん。あやっ……」

 ひっくひっくとしゃくりあげているせいで、言いたいことが半分も伝わらない。


 わたしはいつも、そうだった。言いたいことが言えず、言葉を、感情を飲み込む。飲み込むそれらは成長するごとに重く、喉が裂けるように痛む。

 許されなかった。衣食住を与えてもらえるだけありがたいことだと、飲み込んだ数だけ自分にそう言い聞かせた。

 頭では分かっている。わたしは、こういう生き方しか出来ないのだと。

 心が反発するように叫んでも、胸の奥がじくじくと膿むように痛んでも、気付かないよう目を瞑り、耳をふさいだ。

 何も見たくない。何も聞きたくない。何も感じたくない。自覚したところで、何になる?

 許されなかった。許されなかったから、わたしの心と身体は何年経っても、あの真っ暗な部屋の中に居る。

 何か言おうと口を開いても、喉の奥に引っかかって声が出ない。勝手に身体が震え出して、冷や汗が止まらない。

 ずっと一人なら、よかった。わたしの中にあるこの感情が間違いだと、世界が否定してくれたら……諦められたかも、しれない。

 ――でも、茜ちゃんが居たから。茜ちゃんが隣で、何年も、「間違いじゃないよ。小夜は、苦しいんでしょ?」って認めてくれたから。

 わたしが生きていることを、否定しなかったから。

 血のつながった家族が嫌いでもいい。家族の言うことをすべて受け取る必要は無い。自分がそうだと思ったら、せめて自分ぐらいは、その感情を否定しなくていいよ、って……言って、くれたの。


「アタシ、小夜とどっか遊びに行きたいなぁ」

「あそ……び?」

 眼下に居たはずの茜ちゃんの顔がすぐそばにあった。あの日見た茜ちゃんの横顔。夕焼けに照らされた茜ちゃんの顔は、今まで見たことがないぐらい美しくて、壊れてしまいそうだった。

 二重のぱっちりとした大きな目が、キラキラ光って見えた。

 隣に居たのに、あの日は気付かなかった。あれは――涙、だったんだ。


「殴られるとか、食事抜かれるとか、そんなのぜーんぶ気にすることなく、小夜とたっくさん遊んで……お腹が痛くなるまで、笑うの」

 いいね、遊びたいね。あの時、わたしはそんなことを思って、口から「……うん」としか、出せなかった。

 すぐにうつむいて道の石ころに視線を落としたから、わたしの返事に茜ちゃんがどんな顔をしていたのか、分からないまま。


「……いい。すごく、いい!」

 聞こえてきたわたしの返事は、あの時言いたかった言葉だった。

「でしょー? 大きい本屋とか行こうよ。小夜が好きな本、たくさん見れるし」

「じゃあ、クレープ屋さんも行こう! 茜ちゃん、食べたがってたから」

「服も見に行こ! 小夜のコーディネートしたい!」

「アクセサリーショップも行かなきゃね。茜ちゃんに似合う、とびきり可愛くてカッコいいイヤリングを探したいの」


 声を上げて、心の底から笑いたかった。人の目に怯えず、まっすぐ前を見て歩きたかった。

 それが出来る自分なら、きっと自信を持って茜ちゃんと隣を歩けた。それが出来る自分なら、大切な友達に寄り添えた。


「じゃあさ、そん時になったら、電車乗ってすぐに行こう! 隣町の、おっさんの石像に集合ね。……小夜。あんたがアタシの幸せを願ってくれるのと同じでさ、アタシも小夜が幸せで居てほしい、ってずっと願ってるから。アタシ、小夜の笑った顔、好きだよ」

 顔を上げようとしたわたしの頭を茜ちゃんの手が押さえ、は見られなかった。

 茜ちゃんはとびきりキレイな顔で、一粒だけ涙をこぼした。

 


 ぱちん、とシャボン玉が割れたように、目の前の光景が消えた。

「あら、起きたのね」

 ピントが合わないぼやけた視界に、人影が映った。

 ぱちぱちと何度かまばたきを繰り返し、くっきりと見えたその人は――婦警さんだった。

「看護師を呼ぶわね」

 そう言うとわたしの頭上に手を伸ばし、線のついた筒のような物を握った。ピンポーン、と玄関のチャイムのような音が鳴る。

 天井から『どうされましたー?』とスピーカー越しのような少しひび割れた声が聞こえ、婦警さんがその声に答えていた。

 掛けられた薄い布団のようなものの中でごそごそと身体を動かし、仰向けになる。

 白い天井。カーテンで仕切られた空間。カーテンの上部は細い網状になっていて、そこから照明が見えた。

 カーテンの向こう側に影が見え、人の声が聞こえる。


「――ぁ、こ、ここ、は……」

 喉から出た声はあまりにも小さく、そして掠れていた。

「病院よ。貴方、お友達の家の前で倒れたの」

 お友達、という単語に、脳裏に茜ちゃんの顔が浮かんだ。

 夢の中で見たあの笑顔は、あの日茜ちゃんが浮かべていたものだったのだろうか。自分にとって都合の良い夢を見たんじゃないかと、不安が胸に押し寄せた。

「あっ、かね、ちゃん……は」

 慌てて身体を跳ね起こして婦警さんの顔を見る。久しぶりに声を出したような感覚で、声の大きさの調整がしづらい。

 喉が引っかかるような違和感に、何度か「ん……」と小さくうなる。

 婦警さんは小さく息を吐き、ほんの少しだけ表情を曇らせた。


「小夜さん。貴方のお友達、佐々木茜ちゃんね。……父親の性器を、噛み千切ったの」

 単語として頭には入ってくるのに、その意味がよく理解出来なかった。

 父親の、性器……? 噛み千切るって、それは……つまり。

 高校生になってますますキレイになった茜ちゃん。中学の頃と違って、娘の顔に目立つ傷やあざを作らなくなった父親。

 茜ちゃんは、睡眠時間を削って――深夜に、バイトをしていた。

 どくん、どくんと心臓がうるさく跳ねる。

 答えはすぐ目の前まで出ているのに、焼き付いた茜ちゃんの笑顔に、脳が受け入れることを拒絶する。

 だって、そんな。そんな、こと……一言、も――


「茜さんは、自分の身体を売ってお金にしていた。それを強要した父親からも、性的虐待があった……とのことよ」

 ひゅぅ、と喉の奥が締まったように狭まって、視界がぼやける。

 ピントの合わない世界で、わたしは歯を食いしばって静かに泣いた。押し殺した声に、喉がぐぅ、と鳴る。

 茜ちゃん。どれほどつらかっただろう。茜ちゃん。ずっと一人で戦っていた。

 何年も一緒に居たのに、わたしはただ傍に居ただけだった。茜ちゃん。茜ちゃん。茜ちゃん……!


「……救急車を呼んだのは、茜さんだった。父親に無理やり押さえつけられて、舐めるようにって口に突っ込まれたから、噛み千切ってやった……と、ね。茜さんを保護した時、彼女から言伝を預かっていたのよ。アタシに何かあったら飛んできて泣きじゃくるだろう、友達の小夜にって」

 勝ち気で、理不尽なことが許せない子だった。相手が男でも女でも、大人でも向かっていく、強くて無鉄砲なところがあった。

 殴ってくる父親は体格と力の差でどうしても勝てないと、悔しそうに切れた唇を歪めていた。

 格闘技を習って、いつかあのクゾ親父をぶん殴ってやるんだと、細い腕でパンチのような動きをして笑っていた、優しい茜ちゃん。


「う……うぅ……!」

 胸の奥が痛い。じくじくと膿むように。握りつぶされるように。無理やり引っ張られて裂かれるように。痛い、痛いよ。

 怖くないわけが無い。自分よりも身体の大きな相手に圧倒的な力で押さえ込まれて、怖くないわけが……。


「小夜さん。茜さんから預かった言伝、伝えてもいい?」

「ん……う、は、い……」

 袖で涙をこするように拭っていたら、その手を掴まれて婦警さんにポケットティシュを渡された。

 こんな時まで自分が情けない。

 お礼を言って渡されたティッシュで鼻水までしっかりとかみ、腫れぼったい瞼を押し上げ婦警さんの目を見た。

 婦警さんの口から伝わる、茜ちゃんの想いを一語一句聞き逃さないように。


「小夜、急に居なくなってごめんね。婦警さんに伝言頼んだから、聞いてくれると嬉しいな」

 ――――小夜、アタシとした約束、覚えてる? 二人で、なーんも気にせず遊びに行こうって話、したよね。アタシにとっての、支えだったんだ。

 小夜に言ってなかったけど、アタシおじさん相手に股開いて金稼いでんだ。ビックリでしょ? 引いたかな。アタシ、他の誰に嫌われたってどうでもよかった。アタシの顔が年々出て行った母親に似てくるから、セックスも上手いだろう……なんて、理由で身体を売らせるクソ親父にも。家の事情を知っていて、汚いものを見るような目を向けてくる近所のジジババにも。自分の知らない世界は存在しないと否定する、視野のせまーい同級生にも。どうでもいいの、どうでもよかったんだよ。小夜、あんたが傍に居てくれたら、それだけで。


 小夜、あんたは自分の苦しみを否定したけど、子供が生きてるだけで罵倒してくる親なんて、もれなくクズでいいんだよ。

 そんな親の背景なんて、子供のあんたが汲んでやる必要は無いの。いい? 分かったね?

 あんたは優しくて、自分より誰かを優先するから、アタシ、チョー心配。変な男とか、引っかかっちゃダメだからね。あんたみたいに優しくて真面目な子は、絶対幸せにならなきゃ。


 小夜、笑って。アタシ、小夜の笑顔がだーい好き。

 つらかったら、悲しかったら、笑ってよ。アタシの最高傑作の変顔思い出してさ。

 小夜、あんたがアタシの幸せを願ってくれるように、アタシも小夜が幸せで居られることを願ってる。

「……アタシ、クソ親父に一矢報いたからね。小夜は暴力しちゃダメだよ。あんたは頭が良いから、もっと陰湿な方法にしな。じゃ、またね」


 オレンジ色に染まった細道で、左腕を三角巾で肩から吊るした茜ちゃん。

 いつもと同じはじけるような明るい笑顔で、「またねー!」って大きな声で右手を振っていた。門限に合わせて急いで走るわたしの姿が見えなくなるまで、茜ちゃんは手を振り続けていた。


「また、ね……ぇ、あか、ねっ……ちゃ、ん……」

 脳裏に浮かぶ光景に、ぼろぼろ涙があふれ出す。拭っても拭っても止まらない。

 婦警さんの手には、ノートを千切ったような一枚の紙が握られていた。びっしりと紙を埋め尽くす文字に、自分で読まなくてよかった、と思った。

 大切な茜ちゃんからの手紙、涙で濡らしてしまったら、文字が滲んじゃう。

 わたしが茜ちゃんを拒絶した後に、書いてくれたのかな。ごめんね。わたし、茜ちゃんからもらってばっかで、なんにも返せないまま。


「笑う、笑うよ、茜ちゃん……。わたし、たくさん笑うから」

 いつか、約束を果たす日までに、変顔も練習しとくから。

 だから、二人でお腹痛くなるまでたくさん……たっくさん、笑おうね。

 


 婦警さんにひたすら頭を下げお礼を言って、わたしは家に帰ってきた。

 病院からわたしが倒れたと連絡がいっても、家族は誰も迎えに来なかった。

 今まで誰かに話そうなんて思わなかった家のことを、わたしは家に向かう道中、婦警さんに口にした。

「……変わらないのね、あそこは」

 険しい表情でそう呟いた婦警さんの顔を見ると、わたしの不安を和らげるように口元を少しだけ緩めた。

 婦警さんは元々、あの町で育ったそうだ。女らしさを求められる閉塞感が嫌で家を飛び出し、夢だった警察官になった。

「外の世界は広いわよ。あんな町、米粒みたいなものだから」

 婦警さんの言葉にわたしは少しだけ笑って、こくりとうなずいた。

 ずっと、言葉にすることができなかった。

 わたしの身体にはあざも傷も無くて、目に見えないものを苦痛だと言っていいのか、分からなかった。けれど、わたしは確かに苦しかった。怖かった。痛かった。

 それらを認めてもいいのだと、初めて思えた。


「あの、少し携帯を借りてもいいですか?」

 叔母さんの話を聞いてから、ずっと迷っていた。

 あの家を出たら、何かが変わるかもしれない……そんな、曖昧な希望の光。でも、茜ちゃんが居たから……わたしは、これまでこの土地で生きていけた。

「いいわよ」

 はい、と渡された携帯に、記憶に染み込ませた数字を打ち込む。

 すぅ、はぁ。深呼吸をして、携帯を耳にあてる。呼び出し音が続く。二回、三回……。正直、気持ち的に半分以上、出ないんじゃないか――と、思っていた。

 叔母さんの話を聞く限り、母はずいぶんと迷惑をかけていたようだったし、関わりたくないと思うのが、当然だと。

 それでも、わざわざ来てくれて、あの話をしてくれた。何度目かの呼び出し音が、途中で途切れた。


『はい、もしもし』

 女の人の、声だった。

 叔母さんと会って話をしたのは、もう三年近く前のことで、電話に出た人が叔母さんの声なのか、判別がつかなかった。――それでも。

「もしもし……叔母、さん。わたし、小夜……です。秋月、小夜。……覚えて、いますか?」

 どくん、どくんと心臓が跳ねる。喉が乾いて、ヒリつく痛みに口元を歪めた。

『あ――』


  

 家の前に着き、わたしは婦警さんにもう一度頭を下げた。

「ありがとうございました」

「……力になれなくて、ごめんなさいね」

 視線を下げた婦警さんの申し訳無さそうな顔に、わたしは慌てて首を横に振る。

「大丈夫です! わたし、声出せるように頑張ります。もう高校生だし。……茜ちゃんに会った時、やったじゃん! て、言ってもらえるように」

 茜ちゃんが今後どうなるか、そこまでは教えてもらえなかった。もしかしたら、もう二度と会えない可能性もある。

 でも、いつか訪れるかもしれない……約束の日ために、山盛りの土産話を用意しておこうと、強く思った。

「そう。……無理しちゃダメよ。でも、頑張ってね」

 優しい目にこくりとうなずき、もう一度頭を下げた。

 婦警さんの背中が見えなくなるまで見送り、玄関の引き戸の前に立つ。すぅ、と小さく息を吸い込む。


 空には大きな夕日。綿を千切ったような雲を赤く染め上げる。遠くでカラスがガァー、ガァー、と鳴いている。

 ポケットに茜ちゃんからの手紙が入っていることを確かめ、引き戸を開けた。

 玄関には、誰も居ない。家の中はシン、と不気味なほど静まり返っていた。

 この時間、祖母は散歩に行っている。兄はまだ学校だろう。

 古い家だから、廊下を歩けばどうしたって軋む音がする。

 しかし、歩く音がうるさいと祖母や母に叱られていたから、わたしはいつも廊下を歩く時、息を殺すように静かに歩いていた。

 静かに歩いたところで、軋む音はする。その度に「うるさい!」と怒鳴りつけられる。わたしはその声にビクリと震え、謝罪を繰り返す。

 そういう――家だった。


 ギシギシと、古い木を踏みつける音がする。そぉっと足を置いても、体重をかけたら結局音は鳴る。だったら、普通に歩いたって何も変わらなかったのだ。

 背筋を伸ばす。怒鳴り声が飛んできても、前を向けるように。

 居間の戸を開けると、母が居た。食卓テーブルに腰掛け、肘をつき、手のひらで顔を覆っていた。

 肩を丸めた母の身体は、いつもより小さく見えた。


「……何、よく、帰って来れたわね。この、恥さらし。あんたのせいで、あたしが、あたしが……どれ、だけ!」

「母さん。わたしね、ずっと日記をつけていたの」

「……はぁ?」

 わたしの言葉に、母はのろのろと顔を上げ、わたしを睨みつけた。

 いつも、その目で見られることが怖かった。睨まれるだけで、酸素を奪われたような苦しさに襲われていた。

 でも、初めて母と目を合わせた今、息苦しさは感じない。まっすぐ見つめ返すわたしと目が合った母は、一瞬戸惑いの色を見せた。

「母さんや兄さん、お祖母様。親戚のおじさんとおばさん。みんなにかけられてきた言葉や、態度。わたしが五歳の時にされたことも、全部、日記に残してあるんだ」

 声はもう、震えなかった。

『あんたは頭が良いから、もっと陰湿な方法にしな』

 茜ちゃんの、「やったじゃん!」という声が、聞こえた気がした。

 母の目が大きく開かれ、その奥に強い憎しみと怒りが見えた。驚いた母の顔は、わたしの言葉を飲み込むと同時に、ぐしゃりとひどく歪んだ。

 食卓テーブルに手のひらを叩きつけ、椅子を倒すような勢いで立ち上がった母は、血走った目でふぅふぅと浅い呼吸を繰り返す。


「日記、が……何? あんたなんか……生むんじゃなかったッ! 鈍臭くて、そのくせ冷めた目をして……逸希だって! あのババアの言う通りこの家に置いて、あたし一人で出て行けばよかった!」

「わたし、この家を出て行くよ。今まで、お世話になりました」

 ぺこり、と小さく頭を下げ、母の言葉を待つことなく、自室に戻った。

 閉めた戸の向こうから母の半狂乱した金切り声が聞こえたけど、振り返ることはしない。

 ――もう、いいんだ。



 自室で荷造りをした。といっても、わたしの荷物なんて微々たるもので、トートバッグ1つに収まる。

 叔母さんが迎えに来るまで外に居ようと思い、すっかり空っぽになった自室を出て廊下に出た時だった。

「おい」

 声をかけてきたのは、兄の逸希だった。兄が小学生になって以降、会話らしい会話をしていなかったのに。

 久しぶりに正面からまっすぐ見た兄は、ずいぶんと身長が伸びていた。

 ど、どうしよう……。出ていく前に見つかる、なんて……。

 兄に叔母さんのことは話していない。一人だけ逃げるのか、と責められても仕方がない。肩に下げたトートバッグの紐をきつく握りしめ、何を言われるのかと身構える。

「おれ、県外の大学に行くから」

「……え?」

 降ってきた言葉があまりにも予想外で、思わず兄の顔を見上げた。

 幼い頃は、ニヤニヤと意地の悪い顔でしかわたしを見てこなかった兄。今は、少し眉間にシワを寄せた不機嫌そうな顔をしている。


「こんな辺鄙なとこから、県外の有名な大学に進学するんだ。ババアもさぞかし鼻が高いだろうよ」

 ば……? ババアって……お祖母様、のこと……?

 確かに、ここ何年……いや、下手したら十年ぐらいはまともに兄と会話していなかった。

 会話をしていない間に兄の口の悪さに磨きがかかっていても、おかしくはない……けど。

 わたしが見てきた兄は、祖母や親戚のおばちゃんたちに「いつもありがとうございます。僕、頑張りますね」って穏やかな笑顔を浮かべるような人だ。

 目の前にいる、口の悪い男は一体……?


「県外行ったら、おれは二度とここに戻る気はない。ババアたちに良いように扱われる、トロくせぇ妹も、置いていくつもりだった」

 兄の言葉は淡々としていた。『出来ない』ことが許されず、どこまでも求められた兄。

 それらを強いた人たちへの感情も、同じ家で育った一人きりの兄妹への感情も、目の前に立つ兄の言葉には一切感じられなかった。


「おれは、この家で生きていくために、お前を……見捨てた。お前が【不出来な妹】で居てくれたから、おれは生きられた」

「にぃ、さ……」


 兄の言葉に、感情は無い。罪悪感も、後悔も、何もかも。

 不機嫌そうな顔で、淡々と話す兄。なのに、血を吐くような苦痛が見えた。

「お前は、おれよりずっと賢い。そして、優しい。……おれはお前を見捨てたし、お前もおれを見捨てた。でもそれは、生きていくためだから……仕方が、ない。それでも。それ、でも…………小夜、今まで助けてやれなくて、ごめん。おれは……【良いお兄ちゃん】には、なれなかった」

 大人たちが口にした、「お兄ちゃんだから」という言葉が、兄を苦しめていた。

 兄として、妹よりも『出来る』ようにならなければいけない、周りからの重圧。兄はわたしを優しい、と言ったけど。兄だって、とても優しい人だ。

 優しいから、大人の求める【優秀な兄】と、自身の求める【良いお兄ちゃん】が乖離して、苦しんでいた。


「……兄さんは、真面目で努力家だから、いつか頑張りすぎて壊れちゃうんじゃないかって……心配してた。差し出したのは、わたしなのに。でも、今安心できたから、もう大丈夫。ありがとう、兄さん。……それじゃあ、行くね」

「……ああ」

 兄の横を通り、まっすぐ玄関へ向かう。わたしは振り返らなかったし、兄も振り返らなかったと思った。

 くたびれたスニーカーを履き、玄関を出て扉を閉める。

「さようなら」

 小さく声に出し、叔母さんの車が待つ場所にまっすぐ歩いて向かった。



 それまで関わりのなかった人との生活は、多少のストレスがあっても、案外気楽なものだった。

 何より、家の中で息を潜めなくても良い、というのは、とても楽だった。

 叔母さんも、旦那さんも、割と放任主義……といった様子で、わたしにはとても新鮮に感じた。

 物心ついた時から染み込んだ感覚はそう簡単に拭えるものではなく、日々認識の違いを感じる。

 それでも、あの閉じられた世界よりは、ずっと息苦しくない。

 生きていることを、自分で考えて行動することを、自分の意見を、否定されずに過ごせるのは、不思議な気持ちだった。

 バイト先での失敗や、嬉しかったこと。面白かった本や、可愛いアクセサリーを買ったこと。

 クレープが美味しいお店、おしゃれなカフェ。

 いつか訪れるその日のために、お土産話をたっぷりとためておく。

 婦警さんから渡してもらった茜ちゃんからの手紙は、今も大切に箱に仕舞っている。

 生活が落ち着いてから、時間を作っては、茜ちゃんと約束した石像の前で待つ。

 あの約束は、わたしが作った都合の良い夢、だったのかもしれない。

 茜ちゃんが今、笑って過ごせているのなら……それで、良い。

 ただ、わたしが待ちたかった。来るかもしれないその人と、お腹が痛くなるまで笑って遊ぶ日を、諦められるまで。


 大学生活は穏やかなものだった。

 友達……と、言っていいのか分からないけれど。それなりに話をする相手も、何人かできた。

 話題が途切れることなく、いつもきゃあきゃあと姦しい彼女たちは、恋バナというものが大好きだった。

 カッコよくて優しい〇〇君が、とか。

 モデルをやっていてスタイル抜群の××君が、とか。

 デート中の彼氏についての愚痴をこぼしたり、少し悪そうな先輩について語ったり、話の速さには少しついて行けないけれど、彼女たちのくるくると変わる表情を見ているのは楽しい。

「小夜は彼氏作んないの?」

 そんな一言がきっかけで、合コンに連れていかれそうになったこともあった。

「わたしはいいよ」

 そう断ると、彼女たちは顔を見合わせた。

 少し強引なところがあるけど、わたしの意思を尊重してくれる彼女たちは「小夜がいいならいいけど。その気になったらいつでも言いなね」と頼もしい笑顔を見せてくれた。



 県外への就職を機に、叔母さんの家を出ることにした。

 同時期、町の開発が進むとかなんとかで、石像が取り壊されると知った。石像の取り壊しが始まる前の週、わたしはいつものように石像の前に居た。

 この数年で、町の景色もずいぶんと変わった。お店が出来て、人が増え、賑やかになった。

 県外へ行き仕事を始めたら、もう今までのように気軽には来られない。何より、目印の石像がなくなってしまう。

 夕暮れ時になり、そろそろ帰ろうかと石像を見上げる。

「……茜、ちゃん」

 ぽつり、と小さく声を漏らした時、後ろに何かがぶつかったような衝撃に、反射的に振り返る。


「いたた……」

 尻もちをついた、六、七歳ほどの女の子と目が合う。

「ごっ、ごめんなさい! 前、見てなくて……」

 さっきの衝撃は、この子がぶつかったからか……。

 わたしはしゃがみ、女の子と目線を合わせる。怖がらせないよう、なるべくゆっくりとしたトーンで声をかけた。

「わたしは大丈夫。あなたは、怪我してない?」

「う、うん。だいじょうぶ」

 こくこく、と首を縦に振る女の子は、素早く立ち上がった。

 女の子はぺこぺこと何度も頭を下げ、そわそわと落ち着きのない様子で視線を動かしていた。

 どうしたの、とわたしが声をかけるより先に、女の子に駆け寄ってきた人の声が被さる。

「ごめんなさい! この子、何かご迷惑を……」

 顔を見るより先に頭を下げられたので、わたしの方が慌ててしまった。

 駆け寄ってきた女性は二十歳前後といったところで、手足がすらりと伸びたスタイルの良い人だ。……お姉さん、かな。

「だ、大丈夫です! あの、近くで転ばれたので、声をかけていただけで……」

 わたしにぶつかって転んだ、と正直に言ってしまうのもなんだか気が引けたので、焦って少し上ずった声でなんとか説明をする。

 説明を聞いた女性は、気まずそうに顔を逸らす女の子の手を握ったまま顔を上げた。


「そうです、か――」

 ばちりと目が合った女性に、見覚えがあった。

 色素の薄い茶髪と、ぱっちりと開いた大きな目。左の目じりに、縦に2つ並んだホクロ。

 いつか訪れるその日を夢見て、待ち続けた。わたしの、大好きな友人。

「え、あか、ね……ちゃ――?」

「さ、よ……?」

 同時に固まったわたしたちの言葉に、女の子だけが反応した。

「あ、その人が茜おねーちゃんがよく話してた、さよって人?」

「え……」

 女の子の言葉に、もう一度茜ちゃんの顔を見た。茜ちゃんは、大きな目にたっぷりの涙をためていた。 

 びっくりして固まるわたしに、茜ちゃんは突進するような勢いで抱きついた。

「ざ、よ……ごべ、ん……! あ、あだっ、あだ、じ、ぃ……いぃ……」

 ぎゅうぅ、と痛いほど強く抱きしめられ、茜ちゃんの体温が伝わる。

 ひっ、ひっ、としゃくりあげる茜ちゃんに、じわじわと押さえていた感情がこみ上げてくる。

 茜ちゃん。茜ちゃん。……茜、ちゃん。

「あい、た……か、った……!」

 あの日、自分から離した。大切な人。

 確かめるように、きつく抱きしめた。

 抱き合って、たくさん泣いた。会いたかった、とお互い鼻声で繰り返した。 



「あの後、施設に入ったの。今はもう、就職して一人暮らしなんだけど。たまに施設のチビ連れて遊んでやるの」

「チビじゃないー!」

「前見ないで走って転ぶんだから、まだまだチビですぅー」

 わざとらしく唇を尖らせて隣に座る女の子をからかう茜ちゃんの表情は、明るいものだった。

 穏やかな表情に、わたしは安堵して小さく息を吐いた。

 あの頃のような、警戒心を全開に周囲の気配にピりついていた雰囲気は、すっかり消えていた。

「施設も施設で、それなりに大変だったけどね。でもまぁ、命の危険が無い生活ってだけで、ずいぶんと気が楽よね」

 あはは、と明るく笑う茜ちゃんの言葉に、あいまいにうなずく。


 あの環境は決して健全だったとは言えないけれど、わたしは今でも母を恨む気持ちは持っていない。

 思うところは、そりゃあ、多少はある。

 けれど、何年もかけて染み込んだ思考や価値観は、そう簡単に変わるものではない。

 繰り返された言葉は、今でも奥底に根を張って、潜んでいる。

 恨んではいない。そういう感情を抱けるほど、まだ切り離せていない。

 それでも、これからも続くであろうわたしの人生の中で、もう二度とあの家に足を踏み入れることはしないし、あの人たちと関わることもしない。

 それだけは――断言できる。


「わたしね、今叔母さんの家に住んでるの。もう、息苦しくないよ。……あの日、すごく――すごく、後悔した。大切だったから、手を離すべきじゃなかった……って。守れるほど強くはないけど、傍に居ることぐらいはできたはずだった。だから……ごめん」

 まっすぐ茜ちゃんの目を見て話し、わたしは深く頭を下げた。

 優しい茜ちゃんに、甘えていた。

 わたしは臆病で、嫌なモノ、怖いモノから目を背け耳をふさいだ。

 背景を知っていたのに、笑顔の裏にすべて押し込んだ茜ちゃんの素顔を、見ようとしなかった。

 母の言うことを、すべて聞き入れて動いたわけじゃない。禁止されていた本だって隠れて読んでいたし、人に見つかって母たちに伝わることが無ければ、ダメだと言われたことも、多少はやっていた。

 それでも、わたしは……わたしの、暗く醜い感情を選んだ。眩しくて、妬ましい。大好きで、大嫌い。

 自分に自信が無くて、大切な人を傷付けた。

 少し間があいて、頭上から聞こえた声は、穏やかだった。

「小夜、アタシね……成績、悪かったでしょ? 勉強、よく分かんなくて。

先生たちもさ、あいつはやる気がないって諦めてて。でもさぁ、小夜は、アタシの勉強に付き合ってくれたでしょ。分かんないって言うアタシに呆れることも、怒ることもせずに。優しいなーって思って、アタシ、小夜のこと大好きになったの。

だから、いいんだよ。優しい小夜が、自分を蔑ろにするんじゃなくて、大切にする方を選んだことに、アタシは安心したから」

 優しい声。あの頃と、何1つ変わらない。

 目の奥がじわり、と熱くなる。

「なんでかな、ってずっと不思議だったんだけどね。アタシ、小夜とあの石像前で集まる約束をしたような気がしてて……そんな約束、した覚えはないのになーって、ずっと不思議で。

でも、なんか気になってて。そんで、今日石像前で、小夜と会えた。……約束した覚えはないのに、小夜が約束を果たしてくれた気がした。ありがとね、小夜」

 あの頃より少しだけ大人になった茜ちゃんの笑顔は、相変わらず眩しいくらいキレイだった。

 ぎゅぅ、と唇を嚙みしめた。

 あれは、わたしにとって都合の良いただの夢。……そう、思っていた、のに……。

 抑えていた涙が、ぶわりとあふれ出す。

「あが、ね……ちゃ……」

「あはは。もう、小夜はずっと泣き虫だね」

 そう言って笑う茜ちゃんの両目も、涙で潤んでいた。

 大切で、大好きな親友。

 その手をきっと、もう離したりはしない。

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孵る 赤オニ @omoti64

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