孵る

赤オニ

前編

 通学路は左右に田んぼが広がっていて、夏にはセミの鳴き声がどこまでも続いている。

 日を遮るような高い建物はあまり無くて、まっすぐ続いた細道は、眩しくてたまらない。

 全身に降り注ぐ熱を感じながら、鉛のように重たい身体を引きずるように足を動かす。

 じりじりと、外からも内からも、焼かれていく。

 ――息苦しい。

 鼻から吸い込んだ空気は、熱い。ため息のように口から吐き出しても、重たい空気が抜けた感覚はしない。

 横を通り過ぎていく、同級生たち。

 足取りは軽く、はじけるような笑い声。明るい笑顔。

 眩しい。目が焼けるように痛い。

 彼らはわたしの姿なんて見えていないかのように、あっという間に先へ行ってしまった。

 熱は少しずつ、何年もかけて、蝕むのだろう。

 ああ、なんて――息苦しい。


「おはよー」

「はよ! 今日遅かったじゃん?」

 教室の扉は、開ける時に少し力を込めないと、固くて開き辛い。おまけに、開ける時も壊れそうなほど軋む音がして、結構うるさい。

 朝のホームルーム前。喋り声が飛び交う時間帯じゃなきゃ、みんなの視線を集めそうで、怖くて開けられない。

 挨拶を交わすクラスメイトを横目に、誰とも目を合わせないよう、うつむいたまま、早足で自分の席に座った。

 カバンから一冊の文庫本を取り出し、開く。文字を目で追って、物語の世界に意識を沈ませる。

 わたしという人間の輪郭があいまいになって、揺らいで、透明になっていく。

 物語の中は、とても心地が良い。

 強くなるために剣を振るい、宿敵と戦う。

 主人公には、強くて頼れる仲間達が居る。

 カッコよくて優しい男の子に恋をして、世界が鮮やかに色付いて見える。

 主人公には、何でも心の内を話せる大親友が居る。

 わたしじゃない誰かの人生が、一冊の本を開くだけで、体験出来る。

 本を開いている時、わたしはわたしじゃない。その場に居るけど、居ない。

 わたしという人間が、限りなく透明になれる場所……。この世界でなら、わたしは苦しくない呼吸が出来る。


 チャイムが鳴って、教室の扉が壊れそうな音を上げながら開いた。

 風船がはじけるように急速に引き戻された意識の中で、半ば無意識にページにしおりを挟み、閉じた本をカバンに戻した。

 何も変わらない、いつもの世界が始まる。授業中当てられた問題を、正しく解いてはいけない。

 心臓が、何かに握られているように痛む。冷や汗が噴き出て、喉が渇いてヒリつく。

 クスクスと漏れ出る嘲笑と、全身に突き刺さる視線。

 空気が、泥のよう。吸っても、吐いても、息苦しい。酸素が、入ってこない。

「はぁ……もういい。座れ」

 大人の声は、言葉は、この小さな世界では絶対的だ。


 家の中では親。学校の中では先生。

 大人の立ち振る舞いに、周りの子供も感化される。

 母や祖母が「ダメな子」と言ったから、家の中でわたしは【ダメな子】だった。

 2つ年上の兄がすべてに置いて、優れていなければ許されない世界。

 妹のわたしが兄より優れている部分があるなんて、そんなことは……あり得ない、世界。

 女は男を立てるもの。親戚のおじさんだって、連休で集まる度にそう繰り返す。

 女だからと台所に立つよう求められ、女だからと配膳や片付けを求められ、女だからと愛嬌を求められる。

 物心ついた時から、当たり前にあった世界。そういうものか、と飲み込むには、小骨のような違和感が喉に引っかかる。

 小さな世界だから、家の外でも、気を付けなければいけない。

 近所のおじちゃんやおばちゃんは、兄やわたしが生まれる前から知っている。学校の先生や、クラスメイトの口から伝わることもある。

 勉強が出来なくて、グズで、一人でうつむいている暗い子。周りの評価が、わたしの命に直結する。

 心臓は、常に握られているのだ。背を丸め、息を殺し、机の上に視線を張り付ける。早く、早く時間が過ぎてしまえばいい。休憩時間になったら、授業中のことなんてみんなさっさと忘れる。

 一分、一秒でも早く、時間が過ぎてしまえばいい。


 昼休みを告げるチャイムが鳴って、十分ほど経った頃、教室のドア付近が少し騒がしい。

 弁当から視線を上げると、そこには目立つ茶色の髪をした、一人の女子が立っていた。

 ――茜ちゃんだ!

 高まる感情のまま、喉の奥から上ってきた声を慌てて飲み込む。顔を上げたことに気付かれる前に、弁当に視線を戻した。

 茜ちゃんは、明るい茶髪だ。本人は地毛だって言ってる。けど、クラスの女子は「染めてるよね!」って、怒っていた。

 先生たちが茜ちゃんには注意しないから、それも含めて、怒っている。

 茜ちゃんは、茶髪で、言動がキツイ。だから、不良だって言われている。

 顔に大きなガーゼを貼ってきても、目の上に青あざを作ってきても、全部「不良だから」で済ませられる。


「小夜、はよ」

「おはよう。茜ちゃん」

 ちっとも減っていない弁当から視線を上げて、茜ちゃんの顔を見る。茜ちゃんは肩に下げていたカバンを下ろしながら、わたしの隣の席に座った。

 ふわぁ、と隠す素振りすら見せない豪快なあくびをしている横顔をチラリと見ながら、ほうれん草を口に運ぶ。

 弁当箱の中身は、ほとんどが残り物だ。だから、形も不揃いで、不格好。クラない。


「小夜~、コレあげる」

 横から伸びてきた手には、スーパーで安売りされている菓子パンが握られていた。茜ちゃんの昼食は、いつも菓子パンだ。「金がかからなくて、すぐ食えるから」とのこと。

 茜ちゃんは、バイトをしている。睡眠時間を削って稼いだお金のほとんどを、父親に渡している。

 ……父親の酒と、パチンコ代のため。

 中学生だった茜ちゃんに、金を稼いでこい、と暴力を振るう人だ。

 髪の毛を掴んで家じゅうを引きずり回された、とか。食事が少なくて気に入らないから頭を踏まれた、とか。

 聞いているだけで、悲しくて痛くなるような家。近所の人も、学校の先生も、見て見ぬふりをする。

 誰も、何も、言わない。そういう……世界。


「……茜ちゃんの食べる分が、減っちゃうよ?」

「いーの! アタシ今ダイエット中だから」

 制服の長袖から覗く手首は、折れそうなほど細い。

 茜ちゃんは真夏でも、半袖を着ている姿を見たことがない。薄着になることを嫌がっているように見えた。

 あの家で、満足な食事を摂れているわけがない。まともな睡眠時間も取れていない。

 目の下にできた隈を、化粧で誤魔化してるの。わたし、知ってるんだよ。

 優しい茜ちゃん。わたしの、たった一人の大切な友達。


「……じゃあ、半分こしよう?」

「んもー! 小夜は遠慮し過ぎ!」

 茜ちゃんはぶうぶう文句を言いながらも、ちゃんと半分に千切ってくれた。はい、と手渡された菓子パンを受け取り、今度は「ありがとう」とお礼を言った。

「どーいたしまして」

 にひ、と歯を見せて笑う茜ちゃんの顔は、中学の時と違って、キレイだ。

 高校生になってから、茜ちゃんは顔に大きなガーゼや、青紫色のあざを見せなくなった。小さなあざや傷は、もしかしたら化粧で隈と一緒に隠してしまっているのかもしれない。

 いつも酔っ払って、娘への暴力に加減なんかしたこと無くて、階段から突き落として腕の骨を折ったことだってある、あんな人が。

 茜ちゃんが高校生になったからと言って、何か変わるわけでもない。でも、目立つところに傷やあざを作らなくなった。

 ……なんで。

 茜ちゃんと半分こした菓子パンは、甘くて、食べ慣れない甘さに、胸の奥がムカムカした。



「小夜。貴方、人付き合いは考えてしなさい」

 自室に居ると、ノックも無く引き戸が開いた。この家に、わたしと言う人間に価値は無い。たとえ着替え中だろうと、気にせず突然開けられる。

 以前、着替え中に開けられ慌てて身体を隠したわたしを見て、「あら、子供のくせにもう恥ずかしがるの? いやらしいわねぇ」と、嗤われた。

 古い家だから、廊下を歩けば木の軋む音が聞こえる。わたしは自室に居る時も、常に神経を張り詰め、聞こえる音に集中するようになった。

 見つかれば没収されてしまうであろう本や、小さい頃からつけている日記を、素早く隠さなければいけない。

 読書、という行為すら、この家の「女だから」の検閲に引っかかる。


「……何のこと、です――」

「あんな派手な髪をした下品な女、ダメよ。みっともない。あんな女と一緒に居たら、逸希にも迷惑がかかるでしょう?」

 この家で何よりも優先されるのは、兄の逸希。わたしの、2つ年上の兄さん。

 とても成績優秀で、有名な県外の大学に進学する予定。……と、兄を溺愛する祖母は、兄が小学生の時から近所の人にそう繰り返していた。

 物心ついた時から、兄は【優秀な兄】、わたしは【不出来な妹】と言う役割を求められていた。

 兄は、すべてに置いて優秀でなければいけない。わたしは、すべてに置いて劣った人間でなければいけない。

 役割を果たせない人間は、この家に要らない。

 


 ――あれはわたしが五歳、兄が七歳の時。

 わたしはまだ、自分の役割をあまり理解していなかった。

 ただ、母や祖母からかけられる言葉や、連休になると遊びに来る親戚のおじさん達の態度を見て――わたしは、あまり大事ではないのだろう……ぐらいの、ぼんやりとした認識だった。

 食事は兄が一番で、わたしは残り物しか食べさせてもらえなかった。お腹が空いた、と訴えても「みっともない」と叱られた。

 兄はわたしに意地悪な人で、よく馬鹿にされた。わたしは兄が、嫌いだった。意地悪で、偉そう。だから、嫌い。

 親戚のおじさんやおばさんが集まると、この家はいつもよりにぎやかになる。

 ごちそうが出ても、それらがわたしの胃に入ることはなかったけれど、雰囲気が何だか楽しいから……好きだった。

 おじさんが兄に「これ、分かるか?」と質問をした。何気ない、雑談の延長だったんだろう。

 兄は、穴が開くほどじぃっと見つめていたけど、口を開きかけては閉じ、無言のまま青ざめ、やがて小さく震え出した。


「あ、さよねー、それ知ってるよ」

 いつもより、にぎやかな雰囲気。浮かれて、気分がふわふわしていた。だからあんなことを、つい口走ってしまったのだ。

 いつも兄しか褒めない母に、自分の良いところを見せて、褒めてもらいたかったのかもしれない。普段偉そうに「お前、こんなことも分からねぇの?」とわたしを馬鹿にする兄を、見返してやりたかったのかもしれない。


「何でッ、分からないのッ!? 貴方、お兄ちゃんでしょう!」

 ガチャン、と、固い物が割れる音。母が手に持っていた大皿を、床に落としていた。

 皿の破片と一緒に散らばったおかずを踏みつけながら、今まで見たこともないような恐ろしい形相をした母は、兄の頭を殴りつけた。

「どうしてッ! こんなこと、ぐらいッ分からない、のッ!?」

「ごめ、ご……め、なさ……」

 殴られた勢いのまま兄が尻もちをついても、母は狂ったように怒鳴り、馬乗りのような形で兄を殴り続けた。

 親戚のおじさんたちが慌てて母を止め、兄はダンゴムシのように身体を丸め、ガタガタと震えていた。

 兄の履いたズボンは濡れ、小さな水たまりが出来ていた。


「お前、本当にダメな奴だなぁ」

 一体何が起こったのかも分からないまま、呆然と立っていたわたしの腕を、身体の大きな男の人が掴んだ。

 酒の席でいつも豪快に笑っている、気のいいおじさんだ。なのに、この時はとても怖い顔をしていた。

 折れそうなほど強く腕を掴まれたまま、わたしは廊下を引きずられるように引っ張られた。


「おじっ、さ……いた、いたいよ!」

「ダメだぁ。ちゃあんと、理解せにゃ」

 連れてこられたのは、離れにある、四畳ほどの小さな和室だった。普段人が出入りしているところなんて、一度も見たことがない場所。

 室内にある、太い柱につながった、これまた太いロープの先を、右足首に巻かれた。ロープは所々ささくれ立ち、素足にちくちくと刺さって痛い。

 何が起こっているのか、まったく分からない。ただ、自分がとんでもないことをしてしまったんじゃないかと、恐怖に震えた。


 ロープで太い柱とわたしの右足首を固定したおじさんは、何も言わずそのまま部屋を出て行った。

 ぴしゃり、と引き戸が閉じられた室内は、一筋の光すら入らない、真っ暗闇だった。

 墨を塗りたくったような、黒。

「やぁだ! やだよぉ! こわいよぉ、やぁあ!」

 立ち上がって走ろうにも、右足首のロープに強く引き戻され、前のめりに転ぶ。打ったおでこが、ロープに引っ張られた右足首が、掴まれた腕が、痛くて痛くてたまらない。

 じんじん、ひりひり、ずきずき。身体のあちこちが痛い。

 みっともない、と母に叱られた時のように、喉の奥から声を絞り出してわぁわぁと泣いた。

 泣いても、叫んでも、真っ暗なまま。やがて泣き疲れて、こてんと眠ってしまった。大声で泣いたことで、喉と頭の痛みで目を覚ました。


 目を開けているのか、閉じているのか、視界は変わらず真っ暗だった。

 季節は夏で、かすかにセミの鳴き声が聞こえた。じっとりとまとわりつくような熱気。鍋で蒸され、萎びた野菜の気分だ。

 手でぺたぺたと触る肌は熱を持っているのに、身体の奥は酷く寒い。額から頬を汗が伝う感触があるのに、わたしは両手で肩を抱くように丸まり、震えていた。

 怖い。死ぬのかな。もう死んでるのかも。

 目を開けているのか、閉じているのかも分からない。はっはっ、と犬のような息遣いが聞こえ、それが自分から発せられたものだと遅れて気付く。

 頬に触れる畳の感触も、かすかに聞こえるセミの鳴き声も、すべて遠くなっていく。暗闇に、身体が溶けていく。

 わたしという人間の輪郭があいまいになって、揺らいで、透明になっていく。

 死んでいるのか、生きているのか、もう、どうでもよかった。

 生まれて初めて、心地良い、と感じた。



 降ってきた冷たさに、心臓が縮み上がる。真っ白な視界に目の奥がずきり、と鈍く痛み、ようやく自分がそれまで目を閉じていたことに気付いた。

「おぉ、生きとった。どうだ、反省したか?」

 降ってきたものは、冷水のようだった。いつの間にか、庭に出されていた。眩しくて、痛くて、目を開けられない。

 わたしをあの部屋に閉じ込めたおじさんの声は、いつもの穏やかな声だった。お酒を飲んで、赤らんだ顔で豪快に笑う、いつものおじさんの顔が浮かんだ。

 兄は、【優秀な兄】を。

 わたしは、【不出来な妹】を。

 与えられた役割を、放棄してはいけない。出来ない人間に、生きる価値は無い。

 わたしは、そこでようやく――自分の立場を、理解した。そして……兄の、立場も。



 夜中、兄の自室から明かりが漏れていた。気付かれないよう通り過ぎると、中からくぐもった声と、鼻をすする音が聞こえた。

「もっ、と……べんきょ、しな……」

 ぐずぐずと鼻をすすり、あの偉そうな顔を歪めて、泣きべそをかいて机に向かう兄の姿が、想像出来た。

 兄は、どこまでも求められた。長男、だから。

 祖母は、特に兄を可愛がっていた。自分の長男のことも、大層自慢していた。

 そんな可愛くて自慢の息子を奪った女が、祖母は大嫌いだった。家に父の姿は、無い。

 わたしが物心ついた時から居なかった。もう死んでしまっていることだけ、耳にしたことがある。

 祖母と母は同じように兄を褒め、可愛がり、わたしを邪険に扱った。

 でも、母は祖母に酷く嫌われていた。



 母の妹だというその人と出会ったのは、わたしが中学生になった頃。

 叔母さんはわたしの顔をじぃっと静かに見つめ、温度の感じられない声で「知りたいなら、教えてあげる」とだけ言った。

 母が若い頃から、奔放な性格で実家に迷惑ばかりかけていたということ。駆け落ちのように結婚したことで、実家から親子の縁を切られていたこと。

 叔母さんは淡々とした口調で、それらを語った。

 駆け落ちのように結婚をした後、夫が事故で急死。二人の子供を抱え、母は一度実家に連絡をしたが、「縁を切ったから」と突っぱねられた。

「姉がね、私に連絡を寄越したことがあって。あんたたちが薄情なせいで、あたしの子供たちが苦しむことになる……って、脅されたの」

 母が祖母から嫌われている理由、父が居ない理由を理解した。

「私もだけど、家族はみんな、姉のワガママな性格に振り回されて、もう疲れてしまったの。父と母は、あいつの自業自得だから放っておけ、って言っていたんだけどね。でも、子供の貴方たちには、何の罪もないから……」

 叔母さんはそこで一度言葉を止め、わたしの目を静かに見つめた。

 どきりと心臓が跳ね、慌てて視線をそらすようにうつむいた。

「小夜ちゃんと逸希くん、二人とも、もしくは一人でも。希望するなら、私の家に来てもいいのよ」

「……え」

 ぱちりと瞬きをして、そろそろと顔を上げ叔母さんの目を見た。

 相変わらず感情の見えない表情だけど、少なくとも――悪意は無い……ように、思えた。


「私に、子供ができなくてね。夫婦で住むには少し、広いから……。来たくなったら、連絡を頂戴」

 雑に千切られたメモの切れ端を渡され、叔母さんは行ってしまった。そこに書かれた電話番号をわたしは必死に記憶し、メモはすぐに処分した。

 兄にもこのことを伝えようか、少しだけ迷った。けれど、兄は祖母のお気に入りで、そう簡単に手放すとは思えなかった。

 兄とはもう何年も会話らしい会話をしてしないので、何を考えているのかも分からない。

 幼き日、廊下で聞いた兄の苦しみ。わたしはそれを振り払うように目を瞑り――このことは自分の中だけに秘めておこう、と決めた。

 わたしは弱いから、自分が溺れている状態で、誰かを助けられる余裕は無い。

 ……ごめんなさい。兄さん。

 


「あ、茜、ちゃん、は……」

「あの家のお父さんもねぇ、昼間からお酒なんか飲んだりして……ああ、嫌だ。とにかく、金輪際関わらないように」

 言いたいことだけ言って、母は行ってしまった。

 茜ちゃんの父親が、昼間から酔っ払っていることだとか。父親が暴れたら、絶対近所の人達には聞こえているだろうとか。――知っているのに、見ない。

 あの時と、同じ。

 茜ちゃんが階段から突き落とされて腕を骨折した時、心臓が止まるかと思った。一生会えなくなっていた可能性だってあった。

 登校した茜ちゃんが「あのクソ親父にも、病院に連れて行くなんて発想、あったんだねぇ」と笑っていたことも。

 茜ちゃんの父親が、翌日も平然と酒の缶を片手にふらふらと歩いていたことも。

 怪我をした茜ちゃんを見て、一瞬ぎょっとした後、すぐに何事も無かったように授業を始めた先生も。

 遠巻きに「やばぁ」なんて、他人事として喋っていたクラスメイトも。

 生まれて初めて、自分でもびっくりするぐらい、感情がぐちゃぐちゃになった。悲しいのか、悔しいのか、自分でも分からない。

 でも、許せなかった。何もかも、無くなってしまえばいい、と思った。

 そして、同時に。大切な友達を悪く言われて、1つも言い返せない、弱い自分に……吐き気がした。

 ずきずきと、鈍く重い痛み。暗闇に溶ける、意識。生まれたことを、生きていることを、否定するような――あの、目。

 ……ああ、嫌だ。

 わたしは今でも、あの暗闇の中で、泣き叫んでいるの?



「おはよー、小夜」

 いつもの笑顔。いつもの茜ちゃん。何も、変わらない。変わらない。そう――何1つ。

 わたしは臆病で、卑怯者だ。

 茜ちゃんが大好き。茜ちゃんは、馬鹿でグズなわたしに優しくて、一度だって否定したことが無い。

 父親に殴られても、怪我をした茜ちゃんを心配する、わたしの心配をするような……とても、良い子。

 小学校からずぅっと一緒。周りから「金魚の糞」って馬鹿にされても、わたしは茜ちゃんと居られるだけで良かった。

 茜ちゃんは思ったことをはっきり口に出せる。キツイってよく言われてるけど、目は大きいし鼻も高くて、すごく美人。

 痩せているけど貧相な雰囲気じゃなくて、手足が長いからスタイルも良い。

 そんな素敵な女の子に気にかけてもらえる……それだけで、わたしのような人間でも存在していていいのだと、そう思えた。

 

 ――汚い。醜い。なんて、醜悪な感情。

 茜ちゃんのそばに居ることで、息をしていたのに。そばに居ることで、一層自分が惨めになる。

 目に見える傷があっても、助けてもらえない姿をずっと見てきたのに。

 痛くてつらいだろうと、想像するだけで胸がつぶれそうなほど痛むのに。

 傷だらけの顔で笑顔を浮かべて、わたしを気遣う茜ちゃんの姿が眩しくて、どうしようもなく惨めになる。

 わたしも殴られて、目に見える傷があればよかった……なんて、考えてしまう自分の浅ましさに、反吐が出た。

 家で、学校で、自分と言う存在を少しずつ、物心ついた時から削られていく。生きていくために、そうしたはずなのに。

 心が削れて、息が苦しくて、つぶれてしまいそう。目に見えないモノは、認めてもらえない。そんなモノは存在しない、と否定される。

 衣食住に困らず、暴力に怯えることも無く、穏やかな生活。ただ毎日、存在を否定されるだけ。言葉で、態度で、視線で。


 茜ちゃん。わたし、あなたのことが大好き。だから、あなたのことが嫌いで、憎んでしまう。

 嫌い。好き。嫌い。大好き。大嫌い。憎いの。あなたが眩しくて、自分がこんなにも……醜いことが。

 ――馬鹿でしょう?

 わたしも茜ちゃんと同じように、目に見える傷があったら……。近所の人達に気付かれるぐらい、家の中が荒れていたら……。

 そんなモノは存在しない、なんて……傷を、痛みを、否定されないような――そんな、気がしたの。


「小夜? どした? ……体調、悪い?」

「……ごめん。おか、あ……さん、に……」

 声が震えている。情けない。視線を机の上に縫い留めたまま、身動ぎ1つ出来なかった。

「……そか。ん、分かった。ありがと、話してくれて」

 教室の話し声に紛れそうなほど、小さな声だった。落ち込んだとか、傷付いたとか、そういう声の大きさじゃない。

 茜ちゃんはいつもハキハキ話すタイプで、声がよく通る。クラスメイトに聞かれないように、声を小さくしたんだ。

 近くにあった気配が消えて、それでも顔を上げられなかった。

 胃がぎゅうっと締め付けられるように痛んで、目の奥がじわりと熱くなる。ダメだ、耐えろ。泣いていいのは、わたしじゃない。

 歯を噛みしめ、濁流のような勢いで迫ってくる涙を必死で止めた。

 


 その日の夜遅く、町に警察と、救急車が来た。

 茜ちゃんの父親が大怪我をして、救急車に運ばれて行った。そして、茜ちゃんも別の救急車に乗って、運ばれて行った。

 近所の人達が「いつかやると思ってたわぁ」「よく叫び声も聞こえとったし……」なんて、話をしているものだから、思わずその場で吐いた。

 とっくに溶けた夕食も、空っぽの胃から出る胃液も、げぇげぇと吐いた。何も出なくなっても、吐き続けた。

 あふれてくる涙や鼻水、よだれで顔がぐちゃぐちゃになる。

 誰も、何も、触れない。知っていたのに。いつか? やると……そう、思っていた?

 叫び声が、まだ十五歳の女の子だと――分かっていたのに?

 町の人間は誰も、一人でうずくまるわたしに声をかけなかった。

 避けるように距離を取り、周囲の話し声に紛れてすらいない声の大きさで、「みっともないねぇ」と話していた。


「ちょっと、貴方。大丈夫?」

 かけられた声と、背中をさする手のひらに、顔を上げた。

 ――婦警さんだ。

「貴方、この家の子の……お友達?」

 こくこくと、首を縦に振った。

 婦警さんは眉を下げて、小さく「そう」とつぶやいた。

「あ、の……あか、あかね、ちゃ……」

「貴方……秋月小夜さん?」

「え、あ……は、い。なん、で……」

 わたしの名前を、と続けようとしたところで、婦警さんがハンカチを出し、わたしの顔を優しく拭いた。

 ハンカチ、汚れちゃう……!

 口を開きかけたわたしを見る婦警さんの目が、とても穏やかなものだと気付いて、身体から力が抜けた。わたしを同じような目で見てくれていた、茜ちゃんが重なって見えた。

 されるがままに顔を拭かれ、支えてもらいながら何とか立ち上がった。


「ねぇ、小夜さん。ご両親、近くに居る?」

「え……っと……」

 婦警さんの言葉に、どっと冷や汗が噴き出た。

 サイレンの音が聞こえ様子を見に外へ出た母が、近所の人から茜ちゃんの家の前に停まった、と言う話を聞くと同時に家を飛び出して来てしまったことに、今さらのように気付いた。

 自覚したことで、胃がねじられているような痛みと、肺がぺしゃんこにつぶれたような息苦しさに襲われた。

 どうしよう。どうしよう。わたし、なんてことを……。


「ちょっと、大丈夫? 震えてるけど……」

「ど、ど、しよ……おこ、おこらっ、おか、さ……」

 自分でも、身体がひどく震えていることに気付く。

 止めなきゃ。近所の人が見てる。全部、伝わってしまう。ぐるぐると思考が回り、息を吸っているのか吐いているのかすら分からない。

 がんがんと内側から、頭を鈍器で殴られているような感覚。音が、光が、すべて遠くなって、引っ張られた紐が千切れるように――ぶつりと途切れた。

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