第7話 音読は寝起きで遂行するもの
ファミレス帰りの姫川は、心配する要素しかなかった。
朦朧とする意識の中、玄関で限界を迎えていた。あんなところで倒れたら、よくないに決まっている。
次の日、姫川は時間通りに登校した。暗い顔ではなかった。むしろ晴れ晴れとしていた。
ホームルームが終わってから、機を見て姫川を連れ出した。事情を聞いておきたかったのだ。
「おはよう姫川。あの後、大丈夫だったのか」
「うん。慣れっこだから。数時間もすれば目が覚める。それから寝る支度。残りの時間は、最高の環境で、最上の睡眠だった」
「それはなによりだ」
流れるように言葉を発していた。睡眠にぞっこんの姫川だから、やや早口かつ熱烈だった。
「とはいえな、あんな姿を見せられちゃ心配になるのがふつうなんだ」
「私にとっては日常なのに」
「当たり前を疑ってほしいな」
「わかった。だからそんなむっとしないで」
いわれて気づいた。ちょっと怖い顔をしていたかもしれない。
あの夜のことは、お世話係とかの枠を超えて、純粋に気がかりだった。サラッと流されれば、すこしは思うところがある。
「すまない。お互い注意しないとな」
「そうだね」
この場はそうして収まった。
お世話係、二日目。
学校でやることは、さほどない。姫川が奇行に走らないか、目を光らせるくらいだ。
クラスの中で「あーん」なんて不可能。変に関わるのもいささか急すぎる。クラスメイトからそう映る。ゆえに、おとといからほとんど変わらない。
「……という流れを受けて、著者は活動に参加したわけであって」
国語教師が、つらつらと説明を続けている。
国語の時間は文理共通だ。ホームルームの教室を使う。
姫川は相変わらず寝ていた。数人ほど、その様子を見てニヤニヤしている。
ほとんどのクラスメイトにとっては、見慣れた光景だ。いまさら話題にあがることもない。
「以上が背景の説明になる。本文に入ろう。前の席から読んでくれ」
我々の教師は、高校生にもなって音読をやらせる。ワンパラグラフの交代制。人によって長さがまちまちだから、不公平感があるという評判だ。
そんなことは本題ではない。
この順番と長さだと、姫川が当たってしまう。
当然といえば当然だが、見ての通り、姫川は夢の世界に誘われている。現実世界に引き戻すのは難しそうだ。
どうする。
姫川と俺の席は、決して遠くはない。かといってめちゃくちゃ近いわけでもない。合図を出すには厄介な席だ。
悩んでいるうちに、次が姫川の番になった。
「……というわけです」
最後の一文が終わった。もう逃れられない。
「姫川、次を読んでくれるか」
姫川のひの字を聞くや否や、危険を極めて正確に察知したらしい。
「ぁい」
寝ぼけた、間抜けな声だったが、自分の責務を放棄するつもりはないらしい。
長かった。最初の数文はひどいものだったが、あとのパートは素晴らしいものだった。
声がいいのだ。歌うように読み上げる。さきほどまで寝ていたことなど帳消しにできそうだ。
明瞭で、ハキハキと、流れるように。
終わったときには感極まってスタンディングオペレーションだ。あくまで心の中の話だが。
「……ここまでだな。では本文の分析に入る」
そういわれてから、姫川はふたたび眠りの時間に突入した。自分の仕事をやり切ったとでもいうように、安心して眠る後ろ姿だった。
「よく乗り切ったな」
授業後。
俺は、姫川に話しかけた。危ない橋を渡った感想を、聞きたかったのだ。
「寝ることにはこうした対価がつきものだから」
「他の授業はどうなんだ」
姫川とて、すべての時間を睡眠に充てているわけではない。小テストやグループワークなどの活動には、いちおう参加しているという。
国語で音読をやる姫川は初見だったので戸惑った。あとの授業はレベル分けの違いからそんなに知らない。
「もうひとりのお世話係の子にサポートしてもらった」
「人任せかいな」
「人材の有効活用よ」
「いい換えても変わらないぞ」
国語の次は数学だ。クラスが別になる。いったんお別れだ。
「ちゃんと受けてくれよ」
「安心して。数学はもうばっちしだから」
「寝る気満々かな?」
「その方が有意義な時間だもの。大智は、その……頑張る価値はあると思う」
「悪口をいうつもりだったな」
てへ、と舌を出してきた。かわいいから許されるだけだ。心の中では助走をつけてビンタしている俺がいた。
「私、できる女だから」
後ろの髪を、両手でファサっとすくいあげる。お芝居をしているみたいだ。
要するに、正直ふざけているようにしか見えない。
「全世界が驚嘆する天才頭脳の持ち主様は素晴らしいな」
「ふん。わざとらしいったらありゃしないのね」
「柄にも合わないことをするもんじゃない」
姫川ができる人であるのは認めざるをえない。尊敬すべき点はいくつもある。
学校内でさえ睡眠を楽しむ姿は、まったくもって参考にしてはいけないが。
「今回の数学は、ちょっとは起きててほしいな」
「善処するわ」
「頼むぞ」
いいつけておいた通り、姫川はちょっとだけ起きていたらしい。数学の解説、およそ三分。
演習時間はさすがに起きているそうだが、すらすら解けてしまうので、余った時間は睡眠に充てられる。
「ちょっと今回は難しかったな」
「そうだったの」
「世界は姫川だけで構成されていないんだ」
「見せてー」
「これだ」
これはお茶の子さいさいじゃなくちゃ、とひとりごちていた。
できることなら苦労はしないさ。いい返したが、腑に落ちていないようだった。
「姫川に必要なのは、他者理解の精神かもしれないな」
「完璧な人間はいないなんてクリシェもいいところよ」
「知っていると実践できるは違うという」
「……一理ある」
ここは折れた。
姫川には、やや横暴というか、子どもっぽいところがある。
そんな姫川への対処も含めた意味で、お世話係などという名称がつけられたのだろうか。真相は闇の中。
「お互い助け合う。それでいこう」
「いいアイデアね。前任にはない発想!」
「前任は放任主義の信奉者だったのか」
「放任も拘束も善し悪しよ」
まだ二日目だが、ちゃんとやっていけるのだろうか。
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