五〈のっぺらぼう〉
〈
高久と澄人は一度、総司令部に戻り、準備を済ませてから車を乗り換えて〈日ノ裏〉の隣の地区である〈
幸間は〈日ノ裏〉で待つ
辻馬車に揺られながら、高久は窓の外を見た。小窓から見える景色はどこか薄暗い。
かつて〈ひとなし〉と呼ばれた〈日ノ裏〉であるが、今は昔の面影一つない治安と秩序の整っている地区に変わった。だが、それはあくまで表向きのことだ。
〈日ノ裏〉というのはその名の通り、日の当たらぬ裏を差す。日も当たらない上に、当時は線路が近かった為に蒸気機関車の煙によって建物はおろか、石畳も黒く煤けた地区だったのだ。
そして、〈ひとなし〉と呼ばれていたには理由がある。それは〈日ノ裏〉が因習から逃れる人達の拠り所であると同時に人身売買の横行する地区だったからだ。
〈ひとなし〉には二つの意味が籠められている。ひとつは、人を売るものはひとではないと侮蔑する意味。ふたつは、売られた人間の境遇を表すものであった。売られたその瞬間に彼らは人間扱いされることがなかったということを暗に示していたのである。
そんな時代を経た〈日ノ裏〉は今、表向きでは治安と秩序の整った地区になった。それでも〈日ノ裏〉のかつての
それは産土神の器、神の器としての人身御供であった。
――
その言葉の通り産土神と氏子は言葉を交わすことは出来ない。なら、清らかな人間を産土神、あるいは神に器として差し出せば言葉を交わすことが出来るのではないだろうか。そう考えた者によって人身売買された人間は産土神あるいは神の器として高値で売られていたのだ。
だが、大抵は精神が壊れて廃人となり、〈ひとなし〉の言葉の通り、人間として扱われなくなる。相手に惨いことを強いてでも産土神と言葉を交わしたい人間は多かったのだ。
その為、〈日ノ裏〉には当時の彼らを守る為の独自の法が存在していた。それは今も
高久にはもう一つの懸念があった。脇に抱えるように立てかけた白い軍刀を見る。
白い軍刀は高久と澄人も同じものだ。純白の房の付いた
高久の懸念は
〈忘れ神〉とはその名の通り忘れ去られた神のことだ。村がなくなり、忘れ去られ、行き場のなくなった神は新しい氏子を求めさ迷う〈忘れ神〉となる。そうならない為に氏子のいなくなった土地の産土神を次の氏子の産まれるまで眠らせる儀式、〈
だが、稀に〈白幹ノ国〉の把握していない新たに生まれた村もあり、そういう所では最後の氏子が死んだ時、〈忘れ神〉が生まれてしまうのだ。
長十はそんな〈忘れ神〉を拾って、いずれ消える時まで仮の氏子として傍にいてやるのだそうだ。そうすれば〈忘れ神〉は神の名残を残したまま消えることが出来るからだ。〈忘れ神〉はいずれ消える。だが、神の名残をわずかにでも残すことが出来れば、いつか産土神として世に
だが、〈忘れ神〉は危険な存在でもある。ごく稀に消えることが出来ずに〈
――色づく世界が、白に
〈荒ぶる神〉。時に〈あらがみ〉と呼ばれることもあるその末路は悲惨なものだ。完全に〈荒ぶる神〉と成り果てたら最早、神には戻れない。神と名がつこうとも〈荒ぶる神〉は最早、人の世においての災害となる。
災害となった神はまほらの力を籠めた白い軍刀で祓われる。――つまりは斬られるのだ。まほらの力を籠めた軍刀は全ての神の脅威だ。白い刀身が体を貫いたが最後、白に
高久は〈荒ぶる神〉と成り果てた神の末路を見たことがある。白くなった体は最後、砂となって消える。そして――本当の意味の神ではなくなる。
白に還れば、後には何も残らない。神だった証すら奪われて、文化諸共、白に消えていく。そして、気候までもが変わってしまう。
高久と澄人が脇に立て抱えている白い軍刀は、そういう武器だ。
使わずに済むならそれが良い。だが。
――長十が〈忘れ神〉を拾うのは初めてではないが、今回ばかりはどうにもきな臭い。
高久はプラットフォームで
「――澄人さん」
「はい」
名前を呼ばれた澄人が振り返る。はっとする美しい表情に一瞬、顔が戻ったと錯覚したが、顔はなかった。なのに――美しいと分かる表情が見える。
「……澄人さん。〈日ノ裏〉では何があっても私から離れないで頂けますか?」
高久は静かながらも響く声で言った。対して澄人は高久の迫力に気圧されたのか、戸惑った表情を浮かべていた。
まるで子供のようにも見えるその顔を見て、高久は戸惑いを覚えていた。顔がないのに慣れたと思っていたが、顔を見ると妙な違和が付きまとう。どこかに顔があるような気さえするのに顔を前にするとやはり顔がない。妙な違和を気持ち悪く思いながらも高久は続けた。
「〈日ノ裏〉は悪意の町でもあります。あなたのような〈
先の言葉に迷い、言い澱んだ高久に澄人は微笑んだ。
「存じ上げております。羽坂さんのお供をした時に色々と……」
澄人はその先を濁した。その先は高久もなんとなく、察してしまった。羽坂だ。おそらく、澄人に言い寄った男を容赦なく殴ったのだろう。
煙草を吸いながら無言で、拳に血がついても殴り続ける羽坂の姿を容易く思い浮かべてしまった高久は笑いそうになった口元を親指で押さえるように拭った。
「羽坂か。あいつは色々とやり過ぎる」
「……そうですよね。私が止めても……何度も殴っていました」
車輪が石を跳ね飛ばす音が聞こえる。澄人は窓に顔を向けた。
「羽坂さんは……いつも、そうですから」
その声はどこか寂しい響きを孕んでいた。
――あいつは澄人に情を抱きすぎる。
それは軍人における戦場を共に駆け抜けた者同士の
時に互いを守り、守られる関係は
だが、羽坂は教官である以上、教え子である軍人に必要以上に入れ込むことはしない人間だった。澄人が特別だった。それだけの話だ。
「分かっています。羽坂はあなたの為ならきっと、無理をするでしょうから。それに、あいつには色々とお世話になっています。ですから、私を使ってくださって良いんですよ」
「使うだなんて、そんな!」
咄嗟にふり返った澄人が辛そうな表情を浮かべている。高久は言葉が過ぎたことを悔いながら続けた。
「言葉が過ぎましたね。……澄人さん。私はあなたの顔を取り戻すのが軍務です。これはあくまでも軍務です。だから、あなたは、自分の御身をお守りください。言っている意味が分かりますね?」
高久が表情を消すと、澄人は息を呑んだ。顔はないのに、その目が揺らぐのが分かった。澄人は固まったまま、答えなかった。答えることが出来ないことは、高久が分かっていた。
何故なら高久は〈白の御楯〉として、いざとなったら自分を見捨てても逃げろ、と澄人に言ったのだ。これは全ての〈白天ノ子〉に共通する認識でもある。
〈白天ノ子〉は旗を持ち前線を行く為に防御が二の次になる。その防御を代わりに担うのが〈白の御楯〉だ。その為、傲慢な言葉を使うならば守られて当然であるという感覚を常に持たねばならない。戦争時だけではない。平時の軍務も同様に大人しく守られ、逃げろと言われたら即座に従う精神がなければならない。そうしなければ却って〈白の御楯〉に危険が及ぶからだ。
清廉潔白たる〈白天ノ子〉にとっては最も苦しいものとも言えよう。
「私は」
「いいですね?」
高久が有無を言わせずに詰め寄ると、澄人は無言で頷いた。だが、耐え切れなくなったのだろう。高久を真っ直ぐに見つめて、言った。
「私は……あなたに、死んで欲しくないです」
そうして澄人は
澄人は人が傷つくのを異常に怖がるきらいがある。それは〈
あの件で〈白天ノ子〉の大半は生きて帰ったが、〈白の御楯〉は途中で戦前を離脱した羽坂を除いて誰も帰ってこなかった。生き残った〈白天ノ子〉は澄人を含め、今も誰も何も言うことが出来ていない。
「……死にませんよ」
澄人は顔をあげなかった。高久は前を見たまま、続けた。
「私は、生を全うして死ぬことに決めています。私の死因は絶対に老衰です。それだけは絶対に叶えたいと思っています」
澄人が顔をあげて自分を見ているのが分かる。これは自分の願いだ。絶対に叶えたいと思っている心からの願いでもあった。
「……私は、教官時代、あなたに生き延びる術を叩き込みました」
「はい。覚えております。少しでも死に近い行動を取ると叱られました」
苦笑する澄人に高久は口元を綻ばせた。
「生の執念を叩き込み、生きろと告げた少尉達を差し置いて、私が命を投げ出すようなことはしません。何があろうとも、私は生きます。ですから、あなたが私を選んだのは正解です。あなたもそれが分かっているから、私を選んだのでしょう?」
高久は澄人を見た。その時、澄人の顔がはっきりと見えたような気がした。だが、澄人の顔を見るとそれは気のせいであると突き付けられる。だが、澄人の表情は見えずとも、その顔は確かに安堵に満ちていた。
「はい。ずるい言い方ですが、高久さんなら、私を守るために死なない人だと思いました」
澄人の答えに高久は口を綻ばせた。
「ですから、それを踏まえてもう一度、言います。〈日ノ裏〉では私から離れないこと、そして、私に何かあったら真っ先に自分の身を優先してください」
「――はい」
澄人の力強い声に確かな答えを得た高久は頷いた。
(これで問題ない。澄人は自分の身を守る)
馬車が少しずつ速度を落としたことから〈日ノ裏〉に近付いていることが分かった。馬車はゆっくりとした速度を保ちながら走っている。
「高久軍曹。ちょっと良いでしょうか」
「今から〈日ノ裏〉に入ります。もう一度、確認いたしますが、入りますか?」
覚張が念押すように聞いた。
「よろしく頼む」
高久の返答に覚張は頷いた。
「何度も申し訳ありません。軍人さんといえ、決まりですからね」
覚張は苦笑しているようだった。〈日ノ裏〉に入る前には一度、確認を得るのが通例だ。それは軍務として赴いている軍人とて例外ではない。
「いえ。決まりですから構いません。最近はどうですか?」
覚張は声を落とした。
「かなりごたついています。実は揉め事が起きていましてね、本来なら入るのは止した方が良いんですよ。最近では御者も中に入りません」
「……何かありましたか?」
「いえね、高久軍曹だから言いますけどね、長十の様子が可笑しいです」
高久は一度、情報を遮断する為に目を閉じた。
(思った以上に不味いことになっているかもしれない)
「長十はどんな様子ですか?」
「
高久は目を開けた。
「覚張」
「はい」
「今から面倒なことを頼む。幸間と乙顔を乗せたらすぐに動けるようにしておいて欲しい」
「承知いたしました」
高久は窓帷を閉めて、背もたれに体を預けた。馬車の振動が直に背中に伝わる。
「澄人さん」
いつも通りの呼び方で澄人を呼ぶ。
「はい」
「かなり面倒なことになっているかもしれません。先程も言ったように――」
「自分の身は自分で守り、何かあればすぐに逃げます」
澄人の返答に高久は口元を綻ばせていた。
辻馬車は何事もなく〈日ノ裏〉を進み、幸間が住む低層集合住宅の前で停まった。扉を開けて周囲を黙認する。整然とした通りは老若男女問わず人が行き交う他、変わった様子はない。
「澄人さん。行きましょう」
「はい」
二人が辻馬車から降りて最初にしたことは軍刀を
軍刀帯への装着を終えた高久は顔を上げた。
幸間の住む家は煉瓦造りの低層集合住宅だ。階段を上がった先に玄関がある造りの建物である。呼び鈴を鳴らす為の紐を引くと、遠くで微かな鈴の音が鳴るのが聞こえた。
高久は後方を確認した。覚張が馬を慈しむように
金具が
「早く入ってください」
挨拶もそこそこに幸間は中に入るようにと体を引いた。澄人を先に入れてから高久も続いて中に入ると、扉はすぐに閉められた。
橙色の灯りが飴色に変わった階段を照らしている。幸間は鍵を閉めると、高久と澄人を見た。
「高久様。少し不味いことになりました」
「長十の件ですか?」
高久が聞くと、幸間はすぐに頷いた。
「はい。今の長十は何をするか分かりません。その前に厄介なことが起きましてね。靴はそのままに、二階に上がって頂けませんか?」
幸間が案内したのは二階の部屋だった。外の様子が見える細長い窓が並ぶ部屋の中に一人、洋卓の上に突っ伏して泣いている者がいる。
「こちら、
幸間の声に気付いて突っ伏していた人物が顔をあげる。その顔をみて高久は驚いた。説明の必要もない。顔に涙の跡を残した〈のっぺらぼう〉――乙顔常和だった。
人が来たことで更に感情が高まった乙顔が臆面もなく泣き喚いた。
「少しは静かに泣けないのですか。全く……」
幸間は乙顔に近づいて背中を撫でた。
「だって、だって……僕、死んじゃうよおおお」
言われたことをやっただけなのに――という旨のことを乙顔は泣きながら言った。
「ご覧の通りです。外に出ると長十に殺されると言ってここを動こうとしないのです」
高久は泣いている乙顔に近づいた。出来るだけ声の調子を柔らかくしながら問いかけた。
「乙顔さん。逃げますよ」
高久が問う。乙顔は泣き止んだと思えば大泣きした。
「顔が怖いよぉ」
顔が怖いと言われてしまった高久は一歩引いて、澄人を見た。澄人が乙顔に近づくと、乙顔は泣き止んだ。澄人の雰囲気が優しそうだからではない。顔だ。顔のない澄人を前に乙顔は驚きで泣き止んだ様子だった。
「……え?」
困惑に満ちた声が漏れる。
「え? 何これ。顔がない」
乙顔は澄人の頬を両手で挟み込んだ。
「はい。顔を奪われまして……」
「え? 顔? 澄人少尉……? え? 何これ」
先程までの号泣が嘘のように乙顔は今、困惑していた。その様子から察するに澄人の顔がないことは〈のっぺらぼう〉の一族とは関係ないようだった。
「あなたに聞きたいことがあります。後、手を離してください」
高久の圧を前に乙顔は即座に澄人の顔から手を離した。そのまま手をあげながら乙顔は頷いた。
澄人の顔で一気に涙が引っ込んだ乙顔が高久を見る。また号泣されたら困ると思ったが大丈夫なようだった。
「澄人さんの顔ですが、ご覧の通り、顔がありません。同時に顔を思い出す事も出来ない。一応、聞きます。澄人さんの顔に心当たりはありませんか?」
「ないよ! 僕は生きた人間の顔だけはその人の許可がない限り、絶対に取らない! 僕が取ったのは
隠すことなく言った乙顔に幸間が片手で顔を覆う。高久も同じ気持ちだった。長目は長十の息子、半東は顔を挿げ替えた男の名前だ。出来れば聞かなかったことにしたいがそうもいかないだろう。
「乙顔! あなた、死体の顔を剥ぎ取ることだけはしないようにと、私はあれほど言ったでしょう!」
幸間が声を上げると、乙顔はすかさず、反論した。
「剥いだんじゃない! こう、卵の殻をむくみたいに、つるん、と
見当違いの反論をぶつけられて呆れた幸間は力なく答えた。
「同じことでしょう……」
「そうだけど、そこは微妙に違うというか……」
乙顔は微妙な意味合いが大事なの――と続けた。二人のやり取りを聞いていた高久は口を挟んだ。
「すいませんが、後のやり取りは辻馬車の中でお願いします。乙顔さん。質問を変えます。これは、〈のっぺらぼう〉の御業ですか?」
「違う」
乙顔は、はっきり言い切った。
「〈のっぺらぼう〉の一族は顔を取るだけで、顔に関する記憶まで取らない。それに……」
乙顔は立ち上がった。
「澄人少尉。笑ってください」
言ってから乙顔が笑った。乙顔は笑ったのが顔の筋肉と影で分かる。たいして澄人は顔のない状態のままだった。
「成る程……」
幸間が思わず声をあげていた。
「分かりましたか? 僕ら〈のっぺらぼう〉は顔がないけれど、こうして表情は分かる。それは顔を取った人も同じようになります。でも、澄人少尉は違う。完全に顔がない。少なくとも、〈のっぺらぼう〉にこういう力はないです」
高久は〈のっぺらぼう〉のことではなかったことに安堵しつつ、振り出しに戻ってしまったことに焦りを抱いていた。
(〈のっぺらぼう〉ではないなら、一体……)
最悪の事態が頭に過ぎったが、それだけは避けたいものだった。
その時、嫌な金属音がして高久は窓に近付いて外を見た。町が淡い光に満ちている。後少しで夕暮れが迫る。完全に日が落ちる前に〈日ノ裏〉を出たかった。
「用意を済ませたら直ぐに出ます。まずは私が最初に外に出て周囲に異常がないかを確認します。そこで問題なければ合図しますので乙顔さんから辻馬車に乗ってください」
乙顔と幸間は同時に頷いた。
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