四 顔の行方

白幹ノ国しろもとのくに〉の北東に位置する〈白扇はくせん通り〉は総司令部と隣接する地区だ。ややこしいことに通りとあるが、地区名である。

〈白扇通り〉は小説家が多く住まう地区で、田園をのぞめる風光明媚な景色が有名である。白い煉瓦造りの建物が並ぶ国の中心部である〈白幹ノ通しろもとのとおり〉と違い、余所の国、町、村から仕入れた木材で建てられた伝統的な木造家屋が立ち並ぶ。

 志々目しのめ鏡一郎きょういちろうの家宅は〈白扇通り〉の端にある。田園を目前に臨めるのどかな場所だ。水の張る時期は空模様が鏡のように映り、幻想的な風景を見せてくれる。

 今は稲刈りを終えて真っ白い地面をむき出しにした田園が遙か先まで続いている。淡い白に満ちた風景の中でぽつぽつと人影と馬が見え、その奥には田園の所有者である人の家がある。

 田園と隣接する道は〈白扇通り〉の要の道である〈白流しろのながれ通り〉だ。ある時期になると田園から流れてくる霧によって道が白く覆われることからつけられた名前だった。風流な名前だと気に入っている者もいるが、車と馬車を走らせる者にとっては命に係わりかねない上にその間、〈白流通り〉は走行禁止となる。

 地面をならしただけの舗装されていない〈白流通り〉を真っ黒な軍用車が走っている。雨のおかげで土埃が巻き上がることなく、軍用車は目的地へ向かって走っていた。

 軍用車を運転しているのは高久たかひさだった。助手的には〈三色旗さんしょくき〉のチーズケーキが入った紙袋を膝に乗せた澄人すみとが座っている。

 高久は気が重かった。というのも志々目鏡一郎という小説家はなかなかに面倒臭い人物だからだ。軍人嫌いにもかかわらず、軍歌の作詞などの関係上、軍人と最も多く関わる。

 気が重いのはそれだけではない。出来れば澄人を会わせたくないのだ。

 志々目鏡一郎は男女問わず美しい顔をした人間を好んでいる。澄人の顔をかなり気に入っており、成人したら口説くと公言していた程だ。

「澄人さん」

「はい」

 穏やかな声だった。

「……私がいますから大丈夫かと思いますが、志々目先生の家では私の傍を離れないでください」

 澄人は少し驚いた様子だったが、すぐに表情を和らげて、微笑んだ。

「はい。そうします」

 顔がないのに表情が分かる。それはやはり、奇妙な感覚だった。

「高久さん」

「はい」

羽坂はざかさんは……」

 澄人はその先を言わなかった。言葉を選んでいるように開かれた口が閉じた――ような気がした。顔がないのだから、高久にはそう見えただけだ。

「ああ、そうでした。羽坂は今日から私の村に五日間程、滞在します。その間、澄人さんは私の家に泊まってください」

 澄人はどこか安堵したような表情をしていた。顔がないのに、嬉しそうに見える表情で澄人は口を開いた。口がないから正確には、声を発した、というのが正しい。

「高久さんの家、久しぶりなので嬉しいです」

 嬉しそうな表情をしていると分かるのに、顔がない。その違和に慣れようとしている自分に高久は恐怖を覚えた。

 恐怖を振り払うように高久は運転に集中した。白に満ちた田園が視界の端を流れる。どこまでもどこまでも白い道だ。白い道に対比して青空が高く、澄み渡っている。午後特有の柔い青が白い景色を優しく包む。もう少しすると夕焼けが〈白流通り〉を金と赤に染めていく。

 それは美しい風景だ。

 そう考えると小説家が〈白扇通り〉を選ぶ理由が分かる気がする。遠方を白く大きい鳥が両翼を広げて飛んでいる。

 大鷲だ。〈白山はくざん〉に帰る途なのだろう。悠々と大空を飛ぶ大鷲はやがて〈白山〉の方へと飛んでいった。


 軍用車を塀の前に停めて、車から降りた高久と澄人は、鏡一郎の家を見た。

 鏡一郎の家は伝統的な木造家屋である。黒光りの瓦が白い風景の中で鮮烈な存在を放っていた。堂々たる門構えに備え付けられた呼び鈴を高久は鳴らした。

 薬医門の門扉の隣の小さな扉が開き、人が現れた。表情のとぼしい少年は、この家の書生、遠城えんじょう晴彦はるひこであった。

 晴彦は高久と、澄人を見て珍しく驚いた表情を浮かべた。

「……澄人様?」

 思わず零れ出たという声だった。

「はい。晴彦さん。お久しぶりです」

 澄人の声で我に返ったのか、晴彦は慌てて頭を下げた。

「高久様と澄人様ですね。お待ちしておりました。少々、お待ちください」

 小さな扉が閉ざされ、間を空けずに門扉が片方、開いた。もう片方も完全に開き切ると、晴彦は高久と澄人を前に家に導いた。

 晴彦は澄人の顔について何も聞かなかった。家の主を待たせないようにとの気遣いからだろう。

「どうぞ。こちらへ」

 晴彦が案内したのは立派な庭を臨む客間である。緑広がる厳かな雰囲気の庭園は、鏡一郎がわざわざ土を入れ替えてまで作らせたものだ。〈白幹ノ国〉では植物は白く育つ。故に余所から持ってきた種や木を植えようとも、徐々に白くなってしまう。だから、庭の土を入れ替えねばならず、その際に〈白幹ノ国〉の土と完全に分断させるための処置が必要になる。

 手間暇に加え、莫大な金額がかかる為に、土を入れ替えてまで庭園を造ろうというものは少ない。この国の数少ない深緑の庭園のひとつと言っても良いだろう。

 そして客間ではこの家の主である志々目鏡一郎が部屋の右側――上座で肘をついて脇息にもたれかかり、足は片膝を立ててくつろいでいた。踵まである黒髪が青々とした畳の上に広がり異様な光景を見せている。

 純白の着物の襟の下から覗く紫烏色しうしょくの半衿――白と紫の組み合わせは、この男の酔狂だ。己の切れ長の目と薄い唇の妖艶さを感じる容貌を分かって敢えて化生の者に見えるような出で立ちを好んでいる。

 鏡一郎は一重の切れ長の目を高久に向けた。

「ようやく来たか。高久―――」

 言葉をさ迷わせた鏡一郎は目を大きく開き、驚愕の表情を浮かべた。

 切れ長の開かれた目は高久に向けられたものではない。高久の背後に立つ澄人に向けられていた。

 鏡一郎は体を起こして胡坐をかくと、背中を伸ばした。

「高久。貴様、厄介事を連れて来たな」

 鏡一郎の切れ長の目が細められる。高久は軍帽を脱いで、畳の上に正座した。続けて澄人も軍帽を脱いで高久のやや後ろに正座した。頭を下げようとした時、鏡一郎の声が遮った。

「堅苦しい挨拶は止してくれ。晴彦!」

「はい」

 鏡一郎の背後の襖が音もなく開いた。襖の奥には晴彦が正座で控えていた。鏡一郎は高久を見た。

「厄介事を連れて来たのは恨むが、それで勘弁してやる」

 鏡一郎は細長い指をゆら、と畳に向けた。高久は畳の上の、〈三色旗〉のチーズケーキが入った紙袋を見た。

「丁度、甘いものが欲しかったところだ」

 そう言って鏡一郎は妖艶に笑んだ。



 珈琲コーヒーミルで豆を挽く音が微かに聞こえてくる。

 高久と澄人は並んで鏡一郎の真向かいに正座していた。視界の端には緑濃き庭園がある。

 鏡一郎は右肘を、胡坐をかいた右腿の上に乗せて頬杖をついていた。頬杖をついたまま澄人をじっと見つめていた鏡一郎は鼻を鳴らした。

「――なるほど。澄人が顔をなくした原因が分からないということか。顔だけではなく記憶もか。本当に厄介だな」

 高久から説明を受けた鏡一郎は深く息を吐いた。

「全く厄介事を連れて来たものだ。……それで、羽坂は澄人の顔を覚えているのか?」

「羽坂特務曹長は桐ヶ谷きりがや令人のりとを村へ送り届けている最中です」

 高久が言うと、鏡一郎はまたも深い息を吐いた。

「……それで、幸間こうまに聞きたいのは〈のっぺらぼう〉の力の件か」

「はい。乙顔おとがおさんにも話を聞くことが出来ればいいのですが」

 鏡一郎は面倒臭そうに頭をかいた。

「高久。貴様、心当たりはないのだな?」

「え?」

 鏡一郎は切れ長の目を高久に真っ直ぐに向けていた。鏡一郎は高久を食い入るように見つめると、再び息を吐いた。

「ならば、最悪の事態を想定しろ」

 高久は鏡一郎の言っている言葉を一瞬、呑み込むことが出来なかった。鏡一郎は天板の上を指でこんこんこんこん、と四回、叩いた。

「一つ。澄人の顔がない。二つ。澄人の顔の記憶がない。三つ。写真にすら澄人の顔が存在しない。四つ。澄人当人がどこで顔をなくしたのか、分かっていない。ここで考えられるのは妖怪だろうが、ほぼ、不可能に近い。何故なら〈のっぺらぼう〉は顔を剥ぐだけで記憶を取ることはない。記憶を取る妖怪もまた然り、記憶をなくすことは出来ても、写真の顔だけを消すことは出来ない。ならば写真の、人の体の一部を消せる妖怪が浮上するが、出入りの厳しい軍人の建物の、それも厳重に守られている書庫全ての記録を消せるとは思えない。故に僕は最悪の事態を考えろ、と言っているんだ。幸間に聞きたいことというのはそこにあるのだろう?」

 高久はここでようやく、鏡一郎の言葉を呑み込んだ。

「……しかし、それは」

「あり得ない話ではない」

 断言した鏡一郎は続けた。

「それを一番に分かっているのは、貴様ら軍人だろう。それでも排除したい可能性の一つであるのは理解する。そうだろう? 澄人」

 澄人はそっと俯いた。そうすると澄人はぞっとする程、美しい表情をする。顔がないのに表情は分かる。それは鏡一郎にも伝わっているようで固唾をのむ音が聞こえた。澄人は沈黙の後で、そうっと口を開いた。

「……そうかもしれません。志々目先生。私には〈じゅ〉がありませんから」

 澄人が微笑むと、満足したのか鏡一郎は口を開いた。

「祝い呪いは氏子のみ」

 歌うような鏡一郎の声が客間に響く。

「対の氏子を祝う勿れ。呪う勿れ。――この世の者は皆、言祝ぎと呪い、つまりは〈しゅ〉と〈呪〉の二つを持って産まれる。だが、稀に片方しか持たぬ人間が居る。有名なのは高久。貴様の友人である八代やしろ九重ここのえだろう。〈白幹ノ国〉の〈呪〉の御三家のひとつが八代家だ。あの家は〈祝〉を持たぬ代わりに男女共に力を得て産まれてくる」

 鏡一郎の言葉に高久は深く息を吐くと頷いた。

「ええ。そうです」

 鏡一郎は満足そうに笑むと、鼻を鳴らした。切れ長の目がゆっくりと澄人に向けられる。

「澄人。貴様もそうだ。最も貴様は〈祝〉の方だ。神に愛されやすい子というのは得てして神の〈祝〉の影響を受けやすい。それは神だけではない。氏子を持たぬ神、そして妖怪からも祝福されるということだ。澄人。貴様は神隠しにいやすい。だが、帰ってくる事も出来る」

 鏡一郎の指摘に澄人は少し、驚いた顔をしたようだったが、頷いた。

「はい。確かにそうです。だからこそ、神隠しに遭った子供を助ける役目は私に一任されます」

 鏡一郎はおもむろに天板を叩き始めた。

「ここに居ると、音が聞こえる」

 とんとんとんとん、と音楽を奏でるかのように鏡一郎は続けて天板を叩いた。

「ここは静かな所だが、夜になると音が鮮明に聞こえる。いや、本当に静かな場所を望むならば〈白幹ノ通〉が一番だ。あそこは音がうるさい反面、夜になれば静かになる。ここは違う。〈白山〉から音が下りる。虫等の様々な音が聞こえてくる。そしてたまに聞こえてくるのは太鼓と笛の音だ。あれは――神隠しに遭った子を呼び戻す為の音だ」

 どん、どん、どん、どん、どん、どん、どん、どん。

 七つ鳴らして、笛を吹き、また七つ鳴らして笛を吹く。神を呼び道を繋ぐための音だ。

「志々目先生。その通りです」

 鏡一郎は答えた澄人の顔を凝視したまま、何も言わなかった。切れ長の目は澄人の顔をじっと見つめている。あまりにも無遠慮に見つめる鏡一郎に高久が声をかけようとした時、鏡一郎の口が開いた。

「……不思議なものだな。顔がないのに表情が分かる」

 独り言のような鏡一郎の声に、高久は目を開いた。鏡一郎が言ったことで、違和で済ませていた自分に気付いた高久は目を下に泳がせた。

(何故……気付かなかった……?)

 八代もいながら互いに気付かなかった。表情が分かる違和を抱きながら、口にしなかった自分に高久は驚いていた。

 そんな高久の様子に気付いたのか、鏡一郎は体を起こした。

「気付かなった、というよりは気付いていて、疑問に思わなかった、というところか。いや、また違うな……」

 そう言って鏡一郎は天板に右手を乗せた。こん、と鏡一郎の指が天板を叩いた。

「本当に厄介だ。さて、どうしたものか」

 鏡一郎は澄人に視線を移して、微笑んだ。微笑むとぞっとする程、妖艶な笑みを見せる鏡一郎に高久は警戒心を隠さなかった。

 鏡一郎はにんまりと口の両端をあげて笑うと、天板に手をついて身を乗り出した。長い髪が白い着物と天板の上を這うように広がった。

 鏡一郎が澄人に手を伸ばす前に、高久は即座に立ち上がって、澄人を護る為に自分の体を盾に身を乗り出した。

 高久は鏡一郎を睨んでいた。鋭い目が鏡一郎を睨む様は、まるで鬼のようだった。

 鏡一郎は高久の目をじっと見つめると、目を細めて、ゆっくりと腰を下ろした。胡坐をかいた鏡一郎は満足気に笑んだ。

「やはり貴様は〈鬼の守り部〉だな。高久。貴様も知っているだろう。僕は未成年に興味がないんだよ。……っと澄人は成人していたか」

 こつん、と鏡一郎の指が天板を弾いた。その時、来客を告げる鈴の音が聞こえた。

「――来たか。〈日ノ裏ひのうら〉の闇医者」

 ややあって縁側に静かな足音がした。二人分の足音が消えたとき、晴彦が客間の外から声を掛けた。

「先生。お連れしました」

 縁側に正座した晴彦が鏡一郎を見る。同時に晴彦の背後を人が通った。〈日ノ裏〉の闇医者、幸間こうま松次郎まつじろうだった。幸間は齢五十五の柔和な雰囲気を持つ男性だ。三つ揃いの洋装に身を包んだ幸間は立派な口髭を蓄えている。見目だけなら優しそうな町医者だ。幸間を見て闇医者と思う人は少ないだろう。

 帽子を胸に当てた幸間は客間に入るや、目を見開いた。

「……澄人様?」

 晴彦と同じ反応だった。幸間は戸惑いに満ちた目を高久と鏡一郎に向けて、そして、もう一度、澄人を見た。

 誰も言葉を発することのないわずかな静寂を破ったのは鏡一郎だった。

「――やはり不思議だな。貴様らに問おう。何故、顔がないのに澄人と分かった?」



 客間が珈琲の香で満ちている。

 座卓の上には四人分のチーズケーキが並べられていた。ホールで買ったので半分が鏡一郎、半分を四人で分けたのが高久と澄人、幸間と晴彦の前に並べられている。

 幸間と晴彦が珈琲に手を付ける中、手を付けないでいる高久と澄人に鏡一郎は急かすように言った。

「貴様らも食べろ。僕が毒を入れないことは分かっているだろう」

 言いながら鏡一郎はチーズケーキをフォークで切り分けると、大きな塊をフォークで刺して、大きな口で食べた。しっかりと味わうように噛みしめて飲み込んだ鏡一郎は満足そうな笑みを浮かべて叫んだ。

「うまい! やはりチーズケーキは〈三色旗〉だ。僕は〈三色旗〉以外のチーズケーキをチーズケーキとは認めん」

 大仰な物言いだが、鏡一郎はチーズケーキと言えば〈三色旗〉以外、認めていない。二口程、食べた鏡一郎は未だ、チーズケーキはおろか珈琲に手を付けていない高久と澄人を交互に見た。

「やはり食わんのか」

 高久は頷いた。

「ええ。我々軍人は軍務中、飲食を禁じられておりますから」

「協力しないぞ」

 ――言われて高久は奥歯を噛み締めた。すると澄人が高久に声を掛けた。

「高久さん。せっかくですから、食べましょう。志々目先生の所ではいつも飲食していますから」

 そう言って澄人は微笑んだ。

 高久はこの違和を誰も疑問に思わなかったことに今更ながら、ぞっとした。

 そして――。


 ――やはり不思議だな。貴様らに問おう。何故、顔がないのに澄人と分かった?


 鏡一郎の言葉を高久が思い出した時、鏡一郎が言った。

「そうだ。それにこのチーズケーキは貴様が持って来たものだ。出処の分かっているものなら問題ないだろう?」

 だが、高久は答えずに鏡一郎を見ていた。鏡一郎も分かっているのか呆れんばかりのため息を吐いた。

「その〈鬼の守り部〉の顔をやめろ。やはり僕は軍人が嫌いだ。まあ、貴様と澄人のことは好きだから好きにしろ」

「では私、頂きますね」

 澄人は珈琲カップに手を伸ばすと、珈琲を一口、飲んだ。珈琲を飲んだ澄人の顔が花開くように明るくなる。

 左横に座っている晴彦に視線を移した澄人は微笑みながら言った。

「美味しいです。やはり晴彦さんのれる珈琲は美味しいですね」

 晴彦は無表情に近いながらも、わずかに笑んだ。

「だろう! だから晴彦を書生にしたんだ。晴彦の淹れる珈琲が一番美味しい」

 鏡一郎は満足気に頷くと、澄人を見た。

「……で、貴様らにもう一度、問うぞ。何故、顔がないのに、澄人と分かった? 晴彦。君から答えろ」

 君、と言われて晴彦は澄人を見た。

「……はっきりとは分かりません。ただ、澄人様であることは分かります」

「次。幸間!」

 突然、話を振られた幸間は驚きながらも口髭を撫でた。幸間は悩んだのち、ぽつりと言った。

「……私も晴彦様と同じ意見です。澄人様のことは御写真と、後は遠目でしか見たことがございません。だからこそ、はっきりと申し上げるのが烏滸がましいのですが、顔がなくても、不思議と澄人様と分かります」

 鏡一郎は頷くと、無言で高久を見た。

 高久は澄人の顔に目を向けた。顔がない。なのに、表情が分かる。そして、澄人であることも分かる。妙な違和が膨れ上がったその時、高久は雨の音で我に返った。

 忘れた頃に聞こえる耳鳴りが時折、思考を中断させる。疲れているのだろうか、と高久は鏡一郎に視線を移した。

「私も同じです。私の場合は事前情報があったから、というのもありますが、澄人さんであることに疑いを抱きませんでした」

 こん、と鏡一郎の指が天板を弾くように叩いた。

 更にこん、こん、こん、こん、と音楽を奏でるように叩かれた指が天板の上で止まる。

「改めて言おう。一つ。澄人の顔がない。二つ。澄人の顔の記憶がない。三つ。写真にすら澄人の顔が存在しない。四つ。澄人当人がどこで顔をなくしたのか、分かっていない。そしてここに五つ目を加える。五つ。顔がないのに澄人と分かる。……これは最早、神の領域に近い。高久。貴様はどう思っている?」

 鏡一郎に問われて、高久は幸間を見た。幸間はどこか戸惑った表情を浮かべていた。

「幸間先生。実はそのことで聞きたいことがあります。あなたには黙秘権がありますから、その時は答えなくても構いません」

 幸間は一度目を閉じてから、頷いた。

「ここ近年、〈日ノ裏〉で違法整形の噂が絶えません。同時に顔の売買、死体から顔が盗まれる事件が多発しています。最近では〈日ノ裏〉の雲海門うんかいもんの長の息子と、その仲間が捕まりました」

 幸間の目が見開かれた。高久は続けた。

「この二人は互いの顔を挿げ替えております。幸間先生。顔を変える医者を、知っておられますか?」

 幸間は開きかけた口を固く結んだ。それから首を振った幸間はようやく、口を開いた。

「やはり、言えません」

 高久は無意識に奥歯を噛み締めた。幸間が何も答えないことは想定していた。それでも、僅かでも澄人に繋がるものがあるならば、聞き出したいことがあった。

「少しでも構いません。知っていることを教えていただけないでしょうか」

 幸間の顔には迷いが見えた。口髭に隠れた口を開いた幸間は、高久を見た。その目を見た時、高久は幸間が答えない要因が自分にあることを悟った。

「……やはり、言うことは出来ません。高久様。私はあなたと、羽坂様に何よりの恩義があります。それでも、私は、〈日ノ裏〉の医者として、〈日ノ裏〉に住む人々を護る義務があります」

 穏やかな声だった。穏やかな声は続く。

「高久様。私は、あなたを信用していても、あなたの村を信用していません。〈秘級〉の等級をつけられたあなたの村を……私は信用することが出来ない。言っていることは、分かりますね?」

 幸間に問われて高久は頷いた。

 分かっていたことだった。〈日ノ裏〉はかつて〈ひとなし〉と呼ばれる程、治安の悪かった地区だ。今や考えられないが、身元不明の人々が多く集まる場所でもあった〈日ノ裏〉は、とある事情から逃げて来た人々の隠れ場所でもあった。

 ――祝い呪いは氏子のみ。

 この言葉は綺麗なだけの言葉ではない。祝いも呪いも全ては氏子に与えられる。それは氏子にとって決して、幸せを与えるものではない。

 因習だ。

 否応なしに与えられる呪いを受けて苦しみながら死ぬ村もある。〈日ノ裏〉はそんな因習から逃れた人々の救済の地であったのだ。

 そしてそれは、今も同じだった。

〈日ノ裏〉が〈ひとなし〉と呼ばれた頃から治安と秩序の整った区画に変わっても、産土神から、あるいはその土地の人間から逃れる人々は今も絶えない。

 高久は座布団から降りて、畳の上に座り直すと、幸間に向き合った。

「高久様……?」

 幸間の戸惑う声を聞きながら、高久は畳に手をついて深々と頭を下げた。

「幸間先生。……私達の住む村は、御存じの通り、〈秘級〉に位置する村です。双子の片割れを間引く因習の残る、古い村です。……ですが、ここ二百年、双子の片割れを間引く因習はなくなりました。私と、亡くなった妹が〈白幹ノ国〉で軍人として生きていたことがなによりの証拠です」

「高久さん!」

 澄人から声が上がる。澄人の手が高久の背中に触れた。

「高久さん。駄目です。それ以上は、いけません。私の為に、村のことを口にしないでください!」

 澄人の悲鳴のような声に幸間の目が見開かれた。頭を下げたまま高久は続ける。

「澄人さん。私は構いません。この場の全員を信用しているからこそ、村のことをお話します。どうか、口外することのないよう、お願いします」

 背中に置かれた澄人の手から震えが伝わる。高久が頭を下げたままでいると幸間の声が下りた。

「……約束しましょう」

「僕も同じく。晴彦」

「わたくしも誰にも言いません」

 高久は顔を上げた。背中に触れたままの澄人の手が震えている。

「澄人さん。大丈夫ですから」

 高久は振り返って澄人を見た。――その時、一瞬だけ澄人の目の、その色が見えたような気がした。

 高久は体を戻すと、畳の上に正座したまま、口を開いた。

「私の村の産土神は二つ柱でひとつの神様です。ある時から一つ柱となった産土神は村に双子が産まれることをお許しになりませんでした。以来、双子が産まれると十四歳になってから片方を差し出す因習が確かにありました。……ですが、二百年前、その因習は途絶えました。双子を生かしたかった村の人々が村の外に祀られていた雲外鏡うんがいきょうをもう一つの産土神としました。それが〈鏡ノ径かがみのこみち〉です」

 その時、鏡一郎の目が僅かに開いた。鏡一郎は口を開いたが、思う所があったのだろう、口を閉じて、高久の言葉の続きを目で急かした。

 高久は続けた。

「……ですが、双子を村で生かすという祈りは叶わなかったと伝えられています。分かっていて、もう一つの産土神としたのは双子を生きて逃がす為でした。それを境に私達の村では十四になる前に双子を逃がす風習が出来たのです」


 ――帰ることなく生きてくれ


 別れを告げる歌を思い出しながら高久は続けた。

「そのことを、村の産土神様は黙認してくださっています。以来、産土神様は、二百年、贄を受け入れていません。私達も差し出していません。その代わり、神の手を完全に離れる十四までに村を出て行くことにしているのです。村を出て行った後は、どちらが死ぬまで村に帰れません。天寿を全うして二度と村に帰らないことが私達の村にとって、誉れでありました」

 高久は息を吐いた。


 ――死んで帰ろう。私達の村に。


 妹の言葉を振り切るように高久は続けた。

「ですが……私達の村が因習と呼ばれる村であることに変わりはありません。……危うい土壌の上にあることは確かです。それでも私の村の人々は逃げる人を追うことはありません。何よりも……命を優先してきた村ですから」

 幸間の目には涙が浮かんでいた。

 高久は再び畳の上に手をついた。

「幸間先生。お願いします。〈日ノ裏〉で得た情報が逃げた人々の不利益にならないようにいたします」

 どうか――と高久は頭を下げた。長い沈黙の後で幸間は、ようやく口を開いた。

「高久様。頭を上げてください」

 高久はしばらくしてからゆっくりと頭を上げた。そこには涙を流して自分を見つめている幸間がいた。

「知らなかったこととは言え、君に村を裏切るようなことを口にさせてしまいました」

 幸間は座布団から降りて畳の上で正座すると、高久に向かって深々と頭を下げた。そうして顔を上げた幸間は穏やかな声で言った。

「私の知っていることを話しましょう」

 その時、天板を叩く音が響いた。高久、澄人、幸間が目を丸くしていると、鏡一郎が叫んだ。

「せっかくの珈琲が冷めたではないか馬鹿者!」


 温くなった珈琲を高久以外が飲んでから、新しく淹れ直した珈琲が晴彦の手でそれぞれの目の前に置かれると、会話が再開された。

 最初に口を開いたのは幸間だった。

「先ず、最初に説明しますと、〈日ノ裏〉は違法な治療を生業とする医者が存在します。その違法な治療のひとつが〈のっぺらぼう〉の御業みわざを使った整形です。この整形は帝国で行うような整形治療ではありません。死んだ人間の皮を使って見た目を変える違法な整形治療です」

「ほう……興味深いな」

 珈琲を飲んでいた鏡一郎がカップから口を離して言った。

 幸間は静かに頷いて続けた。

「妖怪だからこそ、成せる御業です。……この整形は一人の妖怪だけでは出来ません。先ず、〈のっぺらぼう〉、そしてばけの皮衣。……彼らの多くは人間の死体から皮を取ります。〈日ノ裏〉に住む変わりに死んだら皮を寄越せと言う契約まで結ぶ妖怪もいると聞きます。随分と大昔にはこの整形治療は盛んに使われていましたが、今は帝国の法律で禁止されました」

 幸間はその先を説明したくないようで悩んでいる様子が見えた。

「……あまり事細かに説明したくないのですが、彼らの治療法は人によっては夢なのです。全身大火傷を負った患者の皮膚を丸ごと挿げ替えて治せる力があるのですから。でも、都合の良い能力ではありません。〈のっぺらぼう〉の能力は、あくまで皮膚を取るだけです。そこからばけの皮衣が〈のっぺらぼう〉の取った皮膚を張り付けるという自分に用いた業を転用することで、人間に応用出来るようになりました。ですが、大火傷で負った皮膚の下の損傷を治すことは出来ません」

「……あくまで表面だけ、なんですね」

 澄人の言葉に幸間は暗い表情を見せた。

「そうです。ここから分かるように、あくまで、表面だけなんです。これがどういう意味か、分かりますか?」

「見た目だけは年老いぬまま、年を重ねるということですか?」

 澄人が言うと、幸間は深く頷いた。

「そういうことです。中は年を取り、腰や指が曲がっても、外側はあのままです。これほど、滑稽なものもないでしょう。人間は、自然に年老いることが美しいのですよ」

 幸間はそう言って、ここに来てから初めて、微笑んだ。しかし表情は直ぐに消えた。

「……ですが、知っての通り、〈のっぺらぼう〉の一族というのはあまりにも人が良すぎる一族です。大火傷を負った人を前にして、彼は……乙顔は法を犯してでも人を助ける優しい子です。高久様。雲海門の息子の顔を挿げ替える手助けをしたのは乙顔です。そして……死んだ人の顔を盗ったのも、信じたくはないですが、乙顔で間違いないでしょう」

 幸間の震える声に高久は目を閉じて息を吐いた。

「ただ、これだけは言えます。乙顔が澄人様の顔を盗ることはありません」

 断言した幸間に高久は目を開けて頷いた。

「分かっています。その上で乙顔さんにお聞きしたいのは、〈のっぺらぼう〉の一族の御業です」

「〈のっぺらぼう〉の……」

「はい。この件、乙顔さんの故郷にも話が広がっています。村の等級が変わりかねない緊急事態です。ですから、その前にお話を聞いておきたいのです」

 幸間は口髭に手を当てて息を吐いた。無自覚の行動のようだった。

「高久」

 鏡一郎の声に高久は顔を上げた。

「なら貴様がやることは一つだろう。今すぐに〈日ノ裏〉に行って乙顔を連れてくることだ」

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