3
――――――
その日は雨が降っていて、空には憂鬱な色をした雲が立ち込めていた。前日が夏日だったというのに、打って変わったようにとても寒く、窓から見える海までもが鈍いブルーグレーに染まって見える。アエテルヌムはここ数年気候が不安定でこんなことはよくあるの、とモニカは言っていたけど、なんだか気持ちがどんよりと沈んでしまうような天候だった。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てる談話室で、ひとつのテーブルを挟み、ぼくはエデンを、エデンはぼくを描いていた。
真剣な顔でペンを走らせるエデンを見ながら、僕も鉛筆で陰影をつけていく。あれから何回か描くうちに、大人びたように描いてしまう癖も治ってきて、スケッチブックのエデンは目の前と同じあどけなさの残る姿に変わっていた。よかった、とぼくは思う。もうあの夜のことは忘れかけていたし、思い出しても悪い夢だったんだと考えるようになっていた。
ぼくたち以外の子供たちも今日は外に出ることなく、室内で思い思いに過ごしているようだった。モニカは暖炉の前の椅子に腰掛けて、むずかしい顔で書類をめくっている。
「できたわ!」
やがてエデンがうれしそうに立ち上がり、ぼくに絵を差し出したそのときだった。リリリリリ…と電話のベルが鳴って、モニカが足早に駆けていく。一瞬、それに気を取られたエデンだったが、すぐに僕を見て自慢げに絵を見せる。
「今日は色使いを変えてみたの!ここがね…」
「師匠!?!!」
エデンが言い終わらないうちにモニカの悲痛な叫び声がそれを遮った。
「師匠!!一体なにがあったの?!?ねえ、しっかりして、お願い!!!ツルギ!!!」
少し離れたこちらまで響くような大きな声で電話口に必死に呼びかけるモニカの声。それを聞きつけて、子供たちがざわざわと集まってくる。ぼくとエデンも急いでモニカのところへ向かう。
「……どうして、」
モニカはその場に崩れ落ちて、それからちいさく呟いた。ツーツーツー、と電話が切れたことを知らせる音がかすかに受話器から響いていた。
「モニカ!!一体なにが…」
エデンが問いかけるけれど、返事がない。モニカの肩はひどく震えていて、それでも必死に呼吸を整えていた。立ち尽くすぼくの手をエデンがぎゅっと握る。
「……みんな、これから言うことを聞いて」
ようやく絞り出したモニカの声もやっぱり震えていて、見上げた顔はいまにも泣き出しそうだった。それでも、彼女は立ち上がり、はっきりとした口調で繰り返す。拳を強く握りしめたまま。
「これからあたしの言うことを聞いてね。いいわね。エデンとハル以外のみんなは礼拝堂に隠れて。静かにして、そこから動かないこと。そして、」
エデンとぼくのほうに向き直って、モニカは告げた。
「エデンとハルは納屋に隠れて。でも誰かの気配がしたらすぐに納屋から逃げて。絶対にエデン、あなたは見つからないこと。ハルはエデンを守ってあげて」
ぼくの肩を強く掴んで、お願い、とモニカは言う。ぼくはこの状況に混乱しつつも、うなずいて、エデンの手を取り納屋へと走った。
雨の中を走りながら、エデンを見るとひどく、不安げな表情をしていて、ぼくは手の握る力を強めた。これからなにがあっても、ぼくがエデンを守るんだ。
教会の裏にある納屋の中に入り、重たい扉を閉める。かび臭い匂いに包まれながら、ぼくたちはちいさくなって、戸棚の影へと身を隠す。エデンはぼくの手を握ったまま、寄り添った。それからしばらくは、ぽつぽつと雨の音と、ぼくらのかすかな呼吸の音だけが聞こえていた。
突然、ゴロゴロ…ピシャーン!という音がして閃光が納屋の中を白く照らしたと思えば、辺りは真っ暗になり、ざあざあとつよくなった雨が屋根を激しく叩いた。その時だった、誰かの足音がかすかに聞こえ始めたのは。
ぼくはエデンを覆い隠すように抱きしめ、足音にじっと耳を澄ます。話し合う男の人の低い声が聞こえる。
「もう誰もいないな」
「礼拝堂にいるのがすべてか」
遠ざかる足音にほっ、と胸をなでおろしたのもつかの間だった。
「……いや、まだこの納屋の中を調べてない」
そんな声が聞こえた数秒後、勢いよく納屋のドアが開け放たれた。現れたのは、顔半分を白い仮面で隠した二人組の男だった。白を基調にして青い模様の描かれたお揃いの服を身にまとい、片方の手には黒光りする何か――――銃だ。拳銃を持って、ふたりはずかずかと納屋の中へと入ってきた。
「ハル!走って!」
エデンが甲高い声で叫び、恐怖で固まっているぼくの手を取り、勢いよく男たちの間を走り抜ける。
「おい!待て!」
すかさず、男たちが追いかけてくる。ぼくはエデンの手を強く握り、全力で走った。雨粒が頬で弾ける。ぬかるんだ道に何度か転びそうになりながらも、必死に走った。
ふと、雨の中を裸足のまま駆けていくエデンがぼくを振り返り、すこしだけ笑った気がした。そして、エデンはいきなり立ち止まり、僕を押しのけて男たちの前に立ちはだかる。パンッとなにかが弾けるような音がして、ぼくの顔に青いものが勢いよく飛び散った。
「エデン…?」
顔を上げたとき、エデンの右目はぐちゃりと潰れて、そこからどろりとした青い液体がぼたぼたとこぼれ落ちていた。ぼくは声にならない悲鳴をあげる。
「か、かみさま……!!!」
「青い血……!?!やっぱり噂は本当だったのか」
男たちも悲鳴混じりにうろたえていて、片方は泥まみれの道に跪き、エデンに向かって頭を下げている。エデンはそんな状況を面倒くさがるようにため息をつくと、震える僕の手をぎゅっと握った。
ぱきり、とかすかな音がして、エデンの潰れた右目から半透明の青い結晶が現われては、消えてゆく。それを何度か繰り返すと、潰れてしまった右目はいつの間にか、白いまつ毛に縁取られた、元通りの深い海のような大きな瞳になった。その光景は思わず見とれるほどに、あまりに神秘的でうつくしかった。
「ハル、行こ」
再生が終わるとエデンはなんてこともなかったような顔をしてぼくに笑いかけた。そうして、泥に濡れた白い足首が踊るように駆け出して、僕の手を引くのだった。雨の中でも真珠のような輝きを持った髪の毛をなびかせながら。
into the blue @umibe_ghost
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