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 注射器の中の青い液体が血管に注ぎ込まれる。


 ブルーの結晶は熱を加えると液状化する。週に一回それを静脈注射するのが決まりだった。僕は自分の傷跡だらけの右腕を苦い気持ちで眺めている。そして、コークを思い出す。


 コークは元気だろうか。僕がいなくなって、楽になれただろうか。僕の腕には、コークがなにかで怒る度に押し付けた煙草の跡が無数の水玉模様のようになって残っている。泣けないコークが叫びのように僕に残した傷跡。僕は暑い日でも長袖を着ていて、エカイユでシャワーを浴びるときも誰にも会わないように細心の注意を払っていたから、みんなこの跡には気がついていないと思う。ツルギでさえも。見つかってコークが責められるのは嫌だったし、なによりそれくらい僕の存在が彼を苦しめていたのだろう。


 イエナはそんな傷跡を気にもとめず、なにも言ってはこなかった。イエナの右腕も儀式のためにつけた傷跡が残っていて、でもそれは僕のとは違う、とても綺麗なものに見えていた。


 針を抜き、脱脂綿で傷口を拭いて彼女は告げる。


「今日は"六番"。情報はメモにまとめてあるわ」


 夜になってイエナが作ってくれた夕食を摂り、車に乗って目的地へと向かう。今日は一区の端にあるビル。写真を見ると、人相が悪くガタイの良い少年が写っていた。


 一区はアエテルヌムの中心にあり、一番栄えている区画でもある。大聖堂を中心に広がる市場には夜も遅いというのに無数の人が集まり、きらびやかな飲食店のテラスでは大人たちがグラスを重ねる。そんな華やかな街並みを眺めながら、僕はいまから人を殺しに行くのだと思うととても不思議な気持ちだった。


 車を走らせ、目的のビルの陰で六番が現われるのを待った。


 二十分ほど経っただろうか、写真と同じ目つきの悪い少年がズボンのポケットに手を突っ込みながら、周りをぎろりと威圧するようにして現われる。六番が路地に消えたところで、僕は静かに車を降り、慎重に後をつけはじめた。


 真っ暗な路地裏で六番との距離を徐々に詰めていき、鉈をその頭へと振り下ろす。


「くっ…おい!なんだお前…ッ!!」


 振り返った六番の頭に鉈の刃先ががつんと当たる。肉が切れ、骨の砕ける感覚。途端に黒い血飛沫をあげながら叫ぶ彼に、もう一度鉈を振りかざしたその時だった。


「っ……?!」


 脇腹にじわりとあたたかい感覚を覚えて、とっさに手をあてる。ぬるりとしたそれが僕の血液だと気づくのに時間はかからなかった。


 見ると六番は割れた頭からだらだらと血を流し、ふらつきながらも僕の血で濡れたサバイバルナイフを構えて睨みつけている。背中を汗が伝う。不思議と痛みは全く感じなかったが、この出血量は危ないかもしれない。混乱した僕の頭の中で繰り返されるのはイエナのあなたは私のために死ぬの、という言葉だった。


 もう一度、鉈を構えて六番へと振りかぶる。六番が同時に振り下ろしたナイフの刃先が僕の足を切る。が、僕の鉈はそのまま六番の頭から肩へと大きく切り裂いて、ぐっ、と低い呻き声をあげた彼は前のめりに倒れた。


 ひかりを失くした男の目。足元にできた血溜まり。はあはあとあがる息を整えながら、急いで六番の解体に取り掛かろうとした瞬間だった、


「おい!何やってる!」


 懐中電灯のひかりとともにばたばたとこちらへ駆けてくる足音が聞こえたのは。急いで僕は鉈を手に車まで走った。


 車のドアを閉めてキーを回す。全力でアクセルを踏むと車はブロロロと低いうなりをあげて走り出した。


 失敗した。失敗した。失敗した。うう…とちいさく呻きながら、ハンドルを握る僕の手は震えていた。イエナに合わせる顔がない。脇腹にまだ血は流れていて、生ぬるいその感覚と背中を無数に伝う汗がとても気持ち悪い。イエナはこんな僕を見捨てるだろうか。考えれば考えるほど怖くなって、このまま死んでしまったほうがましな気がしてくる。息がくるしい。


 どうにか森の近くまで辿り着いて車を停めたとき、森の入口からこちらへ向かってくる人影に気づいた。すらりとしたうつくしいウェーブを描くその影は、遠くてもわかる、イエナのものだった。


「ジュード、早かったのね」


 車のドアを開けながら、イエナが微笑む。真っ白なワンピースをたなびかせて、月明かりに照らされた彼女は一段と神々しく、冷たく見えた。


「イエナ…ごめん、ごめんなさい…僕は……」


 ぼろぼろと涙をこぼしながら嗚咽混じりに謝り続ける僕を、イエナはすべてを悟ったようにふわりと抱きしめた。ワンピースが赤く染まるのも気にもとめずに。


「帰ろう、ジュード。私たちの家に」


  その晩、夢を見た。


 目の前に広がる真っ青な海。足元に白い波と泡がちぎれて広がる。顔を上げると、少し離れた草むらで座り込んで僕を見ている少年がいた。


 クセのある少し長めの黒い髪、うるんだ黒い瞳。被った麦わら帽子が白い肌に影をおとしていた。彼は、スケッチブックを抱えて、片手に持った鉛筆を夢中で走らせている。それが僕を描いているのだと気づいたとき、目が覚めた。


 静まり返った寝室。僕の隣でイエナはぐっすりと眠っていた。起こさないように布団から出て、水を飲みにキッチンへと向かう。冷たい水を飲み干し、ソファに座ってぼんやりと様々なことを思い返す。


 脇腹の傷はあれからイエナが手当てしてくれて、ブルーの効力もあるのかもうすでに塞がり始めていた。痛みは最初から最後まで一切感じることはなかった。イエナが言うにはそれもブルーの力かもしれないとのことだった。痛みを感じないことが果たしていいことなのか、僕にはわからない。痛みに邪魔をされないといえばいいことにも思えるけれど、それは自分の肉体の限界値を気づかずに超えてしまうかもしれないということも示していた。


 そして、夢。僕がここ数年間見る夢は、決まって母さんの夢ばかりだった。あの少年は一体誰なのかわからない。目が覚めたとき、不思議と懐かしさが胸いっぱいに広がっていて、とても奇妙な感覚だった。しかし、そんな感覚も暗い部屋を眺めていたら、だんだんと薄れていった。


 僕は自分の手を見る。僕が奪ってきたもの、これから僕が奪っていくもののこと。イエナはきっと僕が死ぬまでここで帰りを待っていてくれるのだろう。ならば僕ができるのは、彼女のために奪い続けることだ。汚れ続けることだろう。


 母さんの声はいつしか聞こえなくなっていて、それにさみしさがなかったかと言われたら嘘になるけれど、その代わりに僕を許して抱きしめてくれるイエナがいる。それは、なんてしあわせなことだろう!彼女のために生き、彼女のために死ぬ、それを叶えるために僕は生まれて、生きて、死ぬんだ。

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