5

 翌日はいつも通りの一日だった。朝、寝坊してコークに起こされたけどそれはいつものことだったし、昨日エカイユを抜け出したのも気づいていないみたいだった。いつもの薬を飲んで、食堂でいつもの味気ないトーストなんかをかじって、ツルギの書類整理を手伝っていたらあっという間に夜になっていて、昨日のあれは夢だったんじゃないかと思えてくる始末だった。コークがおやすみを告げて寝静まった後も、しばらくベッドの中で僕は迷っていた。


 でも、時計が二十三時を指したとき、意を決して僕は静かに布団から這い出た。音を立てないよう気を払いながら、リュックサックに薬の瓶と貯金箱、あとTシャツ何枚かを突っ込んで背負い、腕時計を手首に巻く。肌寒いのでモッズコートを羽織る。壁に貼ってあった幼いコークと僕の写真を連れていくか迷って、結局やめた。


 部屋を出る時、ふと振り返る。コークは口を大きく開けて、ごうごうといびきをかいて寝ている。ただでさえ幼く見えるその顔立ちは、今日はなぜか余計にあどけない子供のように見えた。

 さよなら、コーク。もう会えないかもしれない。心の中でそう告げて、僕は部屋を後にした。


 夜の廊下を誰にも会わないようにと祈りつつ、靴を持ち、ひたひたと歩く。さよなら、ツルギ。勝手に出て行ってごめんなさい。心の中でツルギにもそう告げる。そうして、呆気なく抜け穴までたどり着いた僕は、駅を目指して歩いた。できるだけ早足で、エカイユでの日々を思い出さないようにして。


 十分くらいでたどり着いた四区の駅は、さすがというべきか、酔っぱらいが倒れていて、床にはゴミや吐瀉物があちらこちらにぶちまけられているという有様だった。ツルギが四区の美化に力を入れたいといつか話していたけれど、この様子じゃ達成は遥か先だと思う。すこし嫌な気持ちになりながら、そういうものたちとなるべく目を合わせないようにして切符を買い、改札を通る。ホームに出ると、ここから乗る客は僕しかいないようだった。ほっと息を吐く。

 

やがて錆びた青い電車が鈍い音を立ててやってきて、僕の前でドアが開く。乗り込んだ車内も平日の深夜ということもあるのかがら空きで、僕が乗った車両にはうつむいたおじいさんが1人いるだけだった。


 モーネの港は二区にあり、近くにはアナテマの森という深い樹海が広がっていたはずだ。呪いの森とも呼ばれているそこは行方不明者が続出していて、自殺したい人間ぐらいしか行かないと言われるような場所。聖典には出てきていない場所だけど、アエテルヌムの人間はみな穢れた地として避けて通る。一度だけ、コークと漁師の仕事を手伝ったときにモーネの港は訪れたことがあるが、昼間でもなぜか薄暗く、森のせいなのか空気も澱んでいて、僕はすぐに体調を崩したのだった。彼女は、そんな場所に何故?


 考えてもわからない。ただ彼女に会いたい。それしか僕にはなかった。あの晩、死体を切ったときの感触はまだ手のひらに残っていたけれど、それ以上に、目を閉じればうつくしい彼女の悲しげな微笑みがそれをかき消すように鮮明に浮かび上がる。車窓を流れていく真っ黒な海のうねりと、彼女の幻想を交互に眺めながら、僕の胸は高鳴っていた。


  四十分くらいして電車は二区の駅に着き、四区とは明らかに違う清潔な構内に僕は少し驚きつつ、駅を出て港を目指した。港は駅からすぐ近くにあり、やはり記憶の通り、長くは居たくない場所のままだった。街灯がついているにも関わらず夜の闇にじっとりと沈んだその場所に立つと、ざわざわと近くの森から木々のざわめきが不穏に響いた。見渡せばあちこちに朽ち果てた船の残骸が残っていてさらに不気味だ。腕時計を確認する。二十三時五十七分。彼女はまだ来ていない。


 本当にこんな場所に彼女は現れるんだろうか。コートのポケットに突っ込んだ僕の手は少し震えて汗が滲む。気持ちを落ち着けようとただひたすらに、うねる真っ暗な水面を眺めていたそのときだった。


「こんばんは」


 どこからともなく降ってきた透き通った声に振り返ると、僕のすぐ後ろに彼女が立っていた。


 琥珀色の大きな瞳が僕を捕らえる。その数秒で僕は動けなくなってしまった。そんな僕を見て彼女は、ふふ、と曖昧に笑った。あの夜とは違う深紅のワンピースを身にまとい、細く白い足首が翻る裾からのぞいている。なびく淡い金色の髪の毛は夜の闇の中でも神々しくひかって見えた。


「来てくれたのね、ありがとう」


 立ち尽くしている僕の手を彼女の手が包む。ひどく冷たい手。なにか返そうとしたけれど、声が出ない。


「こっち」


 そう言うと、彼女は僕の手を引き、アナテマの森の方へと歩きだした。そっちは危ない、僕が言おうと口をぱくぱくさせているのを見て、彼女はまた少し笑って、


「おうちがあるの、この森に。私とあなたのおうち」


 と言った。家?呪われた森に?僕が混乱しているのもお構い無しに彼女はどんどん森へと近づいていく。


 たどり着いた森の入口は木々のざわめきが一層強くなり、先の見えない深い闇に包まれていた。彼女は慣れた様子で進んでいく。僕は必死に彼女の後を追う。真っ暗な道で何度かつまずきそうになるけれど、彼女はそんなの気にもとめずに歩いていく。どれくらい経っただろうか、彼女がいきなり歩を止めて振り返った。


「着いたわ」


 はあはあと弾む息を整えながら見上げると、そこには大きな建物の残骸があった。


 エカイユよりは小さな敷地だが、それでも充分広い。崩れたコンクリートの白い壁。割れて飛び散ったガラス片。中央には螺旋階段が空に向かってのびていて、ところどころ残ったドーム型と思われる屋根の骨組みが風でかたかたと音を立てて揺れている。ほとんど形を留めていないが、昔は立派な建物であっただろうそれを僕は呆然と眺めて呟いた。


「なんだこれは…」


 彼女はそんな声を気にもとめずに、僕に向き直ってぽつりと言った。


「名前」


 それが僕の名前を教えろということだと数秒してわかって、僕は彼女に告げた。


「俺はジュード……あんたは?」


「私はイエナ。……ねえ、ジュードって本当の名前?」


 イエナという少女は少し考えるようにして、僕にそう尋ねた。どうしてそんなこと聞くんだ。僕が言おうとした時、イエナに無理矢理抱き寄せられるようにして唇を塞がれた。彼女の舌がぬるりと入ってきて、歯列をなぞる。甘いその味と感触に途端に力が抜ける。


「……私ね、嘘つきは嫌いなの」


 僕の下唇をかるく噛むと、イエナは耳元で囁いた。やさしい声、なのにゾッとするような迫力があった。彼女に嘘はつけない。彼女はすべて見抜いているからだ。それが分かって、僕は口元を拭いながらなんとか絞り出す。


「……本当の名前は十歳の時に捨てた。ジュードという名前は親友がつけてくれた。俺はこれからもこの名前で生きていく」


 イエナはまた少し考えるような素振りをして、それから言った。冷たくかなしげないつもの笑みを浮かべながら。


「わかったわ。これからよろしくね、ジュード」


 そして、彼女は僕の耳元で告げる。ひどくやさしい甘い声で。


「ジュード、これからあなたは私のために生きていくの。死ぬ時も私のために」


 

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