4

「来て」


 少女が青く染まった手を伸ばす。


 本能的に近づいてはいけないという予感がしたが、それをかき消すような強い引力が彼女からは発せられていた。何故だろう、僕は彼女のことを知らなくてはいけない気がした。


 ゆっくりと近づくと、彼女の後ろにぐったりと倒れている男がいるのが見えた。男、と言ってもその顔はまだ若く、僕とそんなに変わらないように見えた。ぽっかりと口を開けたその顔は薄い青色に変色していて、黒くひかりを失った瞳は虚空を見つめ、だらりとのびた手足。死んでいるのは明らかだった。異様なのは、深い青色をした石英のような尖った結晶が男の左胸を貫き、ぼんやりとした青白いひかりを放っていることだった。そこから漏れだした血は本来の色を失い、彼女が纏う色、結晶と同じ青色を呈している。


「これは…」


「ブルーの臨界点を越えたら誰でもそうなるわ」


 ブルー。話には聞いたことがあった。かみさまの血液と呼ばれているそれは病気や傷がたちまち治るとか、身体能力が上がるとか、かみさまに近づけるとまことしやかに囁かれている物質で、こどもにしか使えない。主に裏社会で取り引きされて、高値で売買されたり、攫われたこどもたちが実験台にされて問題になっている、とツルギが言っていた。でも、実際にそんな物質が存在するなんて考えもしなかった。この男の姿はブルーを摂取し続けた者の成れの果てだというのだろうか。


「ねえ、彼の心臓が、ほしいの」


 息を飲む僕に、おもちゃを欲しがるこどものようなあどけなさで彼女はそう言った。そして、男の足元からなにかを拾い、僕に差し出した。それは大きな鉈だった。夜の闇の中で鈍いかがやきを放っている。


 心臓を?なんのために?

 僕の手はひどく震えていた。


 彼女から逃げることだってできたはずだった。なのに何故だろう、そこから動くことができなかった。針で留められたかのように僕はその場に立ち尽くしていた。


(何を恐れる必要があるの?死体になにを戸惑う?お前の手はもう汚れているのに)


 頭の中に声が響く。途端にむせるような血の匂いを思い出す。肉を刺す感触。茜さす赤い部屋。ああ僕は、母さんを、

 

 震える僕を彼女の目が見つめていた。長いまつげに縁取られた透き通る琥珀のようなそれはただしずかに僕に訴えかけていた。かすかな明かりが彼女の顔に絵画のような陰影をつくりだして、その超然としたうつくしさを一層際立たせていた。そして彼女は微笑んだ。どこか、かなしみを湛えた笑みだった。きれいだった。同時に、僕の胸は燃え盛る炎のような感情に襲われた。それは、決して恋と呼ぶべきものではなかった。例えるなら、かみさまを目の前にしたときのような強い信仰心に限りなく近い感情だった。ひかりを見た。永久に続く痛みの中のひかり、それは紛れもなく彼女だと、そう思った。


(犯した罪ならば重ねてしまえばいい)

 

 ぷつり、となにかが途切れる音がした。

 気がつけば僕は鉈を手にして、ずっしりと重たいそれを男に向かって力いっぱい振り下ろしていた。肉のやわらかい感触。青い血が飛び散り、そして滝のように流れる。赤い内臓がどろりと流れ出る。血なまぐさい匂いがあたりに充満する。何度か繰り返すと骨が砕け、そこから青いひかりが漏れだした。僕は手を伸ばす。ぱきり、と音がして胸を貫いていた結晶にびっしりと覆われた青い心臓が顔を出した。ぼんやりとした青いひかりを纏うそれはまだとくとくと脈打っていた。


 はあはあと息があがる。気づけば空は白み始めていて、朝焼けが赤と青に塗れて無惨な状態になった死体を照らしだしていた。治安の良くないこの街だろうと、誰かが見つけたらすぐに騒ぎになるだろう。


 彼女は僕から心臓を受け取ると、大事そうにそれを抱えた。


「ありがとう」


 明け方の薄紫色のひかりの中で彼女は笑う。


 白金色の髪の毛が風にふわりとなびいて、長いまつげを伏せた姿はある種の神々しい妖艶さがあった。青い血に塗れて、心臓を手にした彼女の残酷なつめたい気の狂うようなうつくしさ。彼女の琥珀の瞳は光をうつさず、どこか違う世界を見ているようだった。


「ねえ、たとえば、あなたは私と一緒に生きるの。私のために生きて死ぬの」


 彼女のすらりとした、青い血に塗れた白い手が僕の頬に触れる。雪のようにつめたい手だった。彼女のために生きて、彼女のために死ぬ。それはとても尊くうつくしいことに思えた。


 気がつけばどちらからともなく僕らは口づけを交わしていた。近くで見る彼女の顔はなめらかな陶器のようで、繊細に作られた人形のようだった。やわらかな、でもつめたい唇。生まれてはじめてのキスは血の味がした。


「明日、0時をまわったらモーネの港に来て」


 彼女はそう囁いて、その場を去った。

行き場のない高揚感と取り返しのつかない罪悪感とが入り交じったまま、僕はしばらく立ち尽くしていた。太陽が昇り、その白いひかりはじりじりと僕の目を焼いた。


 エカイユに戻ると、まだコークは寝ていた。血痕の目立たない黒い服だったのが救いだったのか、すれ違う人に怪しまれることなく帰れたのは奇跡だった。彼女はちゃんと誰にも見つからずに帰れただろうか。


 顔を洗い、服を脱ぎ、血の匂いがするそれをベッドの下に隠した。布団に潜り、目を閉じる。


 眠ろうとするが、彼女の白く長い手足が、細い腰が、豊満な胸が、長いまつげが、あのどこか夢を見ているような瞳が、小さな鼻が、つめたい唇が、花の咲くような声が、かなしげな微笑みが、次々に思い出されて僕を眠らせなかった。繰り返される悪夢の代わりに彼女の幻想が僕に取り憑いてしまった。寝返りを打ちながら、彼女のために生き、彼女のために死ぬ、という言葉を噛み締める。彼女は僕のひかり、彼女は僕のかみさま――その正体も、名前すら、知らない少女にこんなにも焦がれてしまう理由などわからなかった。ただ、僕の胸の炎はたしかな熱を持ってごうごうと燃えていた。すべてを焼き尽くすほどに。


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