4
潮の匂いがするやわらかな風が髪をなびかせる。
みなおそろいの白と青の服を着たこどもたちが、まばゆいひかりの中でたのしそうな声をあげて、歌いながら、手を繋ぎ、走り回っている。
白い壁で囲まれた教会の明るい中庭。上を見上げればどこまでも高い青い空が見える。芝生が植えられた地面に座って、ぼくは聖典のページをめくる。
『生きることそれ自体が罪を重ねるということにほかならない。まぶしいひかりに立ったとき、かならず影が生まれる。あなたがひかりの中にいるとき、かならず誰かが影のなかでふるえている。どんなに正しくうつくしい人であろうと、存在はかならず誰かのひなたを奪っているのだ――わたしたちは影の中の人に手を差し伸べ、ひかりのなかにいて驕ることなく、影の中にいようとも信じることをやめず、さすればかみさまがすべてを赦し、影のない永遠のひかりの中へ連れて行ってくれるだろう』
エデンはぼくのとなりでまどろんでいる。
ちいさな呼吸に合わせて伏せた花束みたいなまつげがゆれる。それがとてもかわいらしくて、ぼくは笑みを浮かべる。
「ねえ、あなたはどこからきたの?」
突然降ってきた声に顔をあげると、赤毛の三つ編みを揺らした女の子がぼくを見つめていた。
「えっと、おぼえていないんだ」
ぼくがそう言うと、となりでまどろんでいたエデンが目を覚まして、言った。
「エデンとハルは海から来たの」
「海から?いのちはみんな海から生まれるわ」
くすくすと女の子は笑って、ぼくを指さしエデンに聞いた。
「かみさまとこの子はどういう関係?」
「エデンはかみさまじゃないわ…」
そう呟いたあと、すこし考えて、
「エデンとハルは愛し合ってるの」
エデンはぼくに抱きつきながらきらきらと笑ってそう言った。ぼくは照れくさくて顔を覆う。
まだお互いをほとんど知らないぼくたちが愛し合っているなんて、誰かが聞いたら笑うかもしれない。それにぼくは愛がどんなものかはっきりとはわからない。けれど、エデンはぼくを愛して、ぼくはエデンを愛してるとそう信じてくれていることが、なんだかすごくうれしく、誇らしかった。
「いいなあ、かみさまに愛されるなんて!」
女の子が驚くようにそう言ったとき、鐘の音がひびいた。
「お昼の時間だわ」
遊んでいたこどもたちが一斉に走り出す。ぼくも聖典を閉じて立ち上がる。
「あたしユマ。よろしくね、ハル」
女の子はそう言ってウインクをして、手を振りこどもたちの群れへと駆けていった。
食堂では子供たちがもう席について、ひそひそと何か話したりしている。ユマも隣合った女の子たちと笑っていた。
食事の準備や掃除はモニカと日替わりの当番のこどもたちが行っていて、白いエプロンをつけたモニカとこどもたちが忙しなく配膳に歩き回っている。
長い長いテーブルの端にぼく、真ん中に置かれた一番大きな椅子にエデンは座り、ぼくの方を見てはずかしそうにほほえんだ。
「さあ、みんな準備できたわね」
モニカが言うと、こどもたちはみなエデンの方を向き、手を組んでお祈りの姿勢になった。ぼくも手を合わせる。
「「青くかがやくかみさま、今日もお恵みを感謝します。このいのちを頂くことにお赦しを、この食事に祝福を」」
見るとエデンは青ざめた顔をしていて、ぼくは一瞬心配になったけれど、彼女の血は青く、ぼくたちが顔を赤らめるように、それが照れているのだとすぐにわかった。
「さあ、いただきましょう」
ライ麦パンと魚のスープ、ミルク。
白いお皿にのせられたそれら、すべての食事はかみさまがお恵みくださったものなのだと聖典に書いてあった。エデンが聞いたらきっと否定するだろうな、と思いながら頬張る。
お昼が終わると、授業の時間がある。
簡単な算数、理科、国語、聖典の勉強をする。
スピカ、デネボラ、アークトゥルス、ポラリス。
モニカが黒板に貼られた図を指さしながら唱える。
「おとめ座の青い星スピカ、しし座のデネボラ、うしかい座の赤い星アークトゥルスを繋いだものが、春の大三角とよばれるものです。春の大三角の左上にあるのが北斗七星。柄杓の端、いちばん明るい星がポラリス。北極星と呼ばれる星ね。夜空の星はこの星を中心に回っていて、旅人の道しるべにもなったと言われているの」
夜空に思いを馳せながら、ぼくは手元のノートに黒板の図を写し取る。鉛筆のかりかりとした音はどこかなつかしく響いた。
ぼくの隣でエデンは退屈そうにあくびをしていたと思えば、ふとなにか思い立ったように鉛筆を動かしはじめた。
しばらくすると、とんとんと肩を叩かれて、エデンのほうを見ると二つ折りにされたノートの切れ端をぼくに差し出している。
受け取って開くと、そこにはたぶんぼくとエデンだろう、とても上手とは言えないけれどかわいらしい絵で描かれた男の子と女の子がふたり並んでいた。
ふふ、と笑みがこぼれる。
ぼくもこっそりノートの端にエデンを描いて渡そうとするけれど、うまく描けない。何度描き直しても、すこし大人びてしまうのだ。
そうこうしていると、それをそわそわ見ていたエデンがノートを覗き込んで、そしてそのまま取り上げると叫んだ。
「すごいわ!ハル!」
急にそう言い立ち上がったエデンに、こどもたちがざわめき出す。
「エデンにハル、一体どうしたの?」
「ごめんなさい…ぼくが悪いんです」
困り顔のモニカにぼくがそう言って謝るのを聞かずにエデンは言う。
「ハルは絵の天才よ、みんな見てこの絵!」
はずかしさに顔が熱くなり、ぼくはうつむく。
エデンの手にしたノートをこどもたちが代わる代わる覗き込んで、わあと声をあげた。
「たしかに上手ね。でも、授業はちゃんと聞いてね。あとでふたりともあたしのところに来なさい」
モニカにそう言われて、やっとエデンは座り、それでもぼくを見てにこにこしている。
ぼくはうつむいたまま、このちいさな太陽のようにまぶしくて、どこまでも自由な女の子にとことん振り回されるんだなと思った。きっとこれからも。
騒がしい教室のまま授業は再開し、ぼくはやっと手元に戻ってきたノートを見返す。白い花束のようなまつ毛と大きな目、白く長い髪、どれもエデンの持つものだけどぼくの描いたエデンと呼ぶには大人びて、どこかさみしげだった。だけど眺めているとどこかなつかしく、胸がくるしくなるような感覚になるのだ。なぜだろう。
教室の窓から見える海を眺めながら、ぼくはエデンじゃない、エデンによく似た彼女に想いを馳せていた。
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