5
「怒られるのかと思ったら、モニカはやさしいのね。こーんなに絵を描く道具貸してくれて」
ぼくとエデンはモニカから受け取ったおおきな箱を手に、歩いている。白い廊下は、歩くたびにきゅっきゅと音がする。
あの授業の後、モニカに呼び出されて訪れるとモニカは倉庫から出してきた埃だらけのおおきな箱をぼくたちに渡したのだった。
「昔使ってずっとしまっていたから使えるかわからないけれど、せっかくかみさまが絵の才能をお恵みくださったのだから続けてみたらいいわ」
そうモニカは言って、ぼくの肩を触って微笑んだ。
ぼくはモニカのその親切さと、人に向き合う真っ直ぐが好きだなと思う。ほぼひとりで教会や孤児院のすべてを取り仕切るのは簡単なことではないし、ましてやその中で、ひとりひとりに向き合うなんてとてもむずかしいことだろう。でもモニカは、こどもたちが何が好きで何が苦手かをぜんぶ把握しているようなのだ。そして、その子が得意なことはできる限りやらせてあげるの、とエデンが教えてくれた。
テラスに出ると何人かのこどもたちが海へ降りて遊んでいた。潮の匂いがふわりと漂う。打ち寄せる波がひかりをあびてきらめく。
「ここがいいわ!海も見えるし」
テーブルに箱を置いて広げると、中にはスケッチブックに色鉛筆、クレヨン、油絵具や古びたパレットなんかも入っていた。
フェンスにもたれかかったエデンの白く長い髪が潮風になびいて、弧を描いてほどけては、西日を浴びてさまざまな色のかがやきを放つ。寄せては返す波が反射してひかるのと同じように、エデンの大きな目も深い青を湛えて宝石のようにきらめく。綺麗な線を描く裸足のままの白い足。ふんわりとなびくドレス。ちいさな手で髪をかきあげて、微笑みを浮かべるその姿は息をするのも忘れるくらいうつくしかった。
忘れないように、急いでスケッチブックを広げて、鉛筆で形をとっていく。やわらかな髪、大きな目、細い首、しなやかな手足。
「ねえ、ぼくも描いて!」
「わたしも!」
気がつくと、いつの間にか海で遊んでいたこどもたちも集まってきて、ぼくの前には列ができていた。
「ハル、この子たち先に描いてあげて」
意外にもエデンはあっさり順番を譲って、ぼくのとなりに腰掛けた。
ぼくはすこし残念に思いながらも、スケッチブックのページをめくる。
こどもたちを描くのはエデンを描くより簡単だった。でも当たり前だけどその子それぞれに特徴があって、目の大きさ、鼻の高さ、唇の形、それらをうまく捉えるのはなかなかに大変で、たのしかった。ぼくは気がつけば、夢中になって鉛筆を走らせていた。
鉛筆で形をとって、色鉛筆で色をつけていく。ひかりの色や空気の色も感じながら、淡く塗り重ねていく。
「わあ!すごい!そっくり!」
手渡したときのうれしそうな顔を見ると、胸がじいんとした。自分のしたことで誰かがよろこんでくれるのはこんなにもうれしいのだと噛み締めながら、ぼくは絵を描き続けた。
最後の子を描き終えて、気がつけば外は暗くなっていた。遠くで夕焼けの残り香が燃えて、空は深い藍色に変わって星が瞬いていた。
「ようやく、エデンの番ね」
そう言って、暗い海を背にエデンが立ったとき、いきなりぼくの脳裏に稲妻のようにある風景が流れ込んだ。
荒れ狂う黒い海。泣き叫ぶ声。何かが潰れるような音。
気がつけば、あの時ぼくの描いたエデンと同じ、かなしい顔の女の子が立っていた。肩でゆれる白い髪。束になったまつ毛。深い青の瞳。エデンよりすこし大人びた顔の彼女は青いワンピースに身を包み、その腕も顔も青い血にまみれていた。激しい波を受けながら立っている。そして胸にはぽっかりと深く黒い穴が空いているのだ。なにもかも吸い込んでしまうような漆黒のその穴は、ぼくを責めるように見えた。くろぐろとうごめく暗い暗い波のような暗闇。
ああ。君は。
「ハル、ハル!」
名前を呼ばれて、はっと気がつくとひどく心配そうな顔をしたエデンがいた。
「ハル、どうして泣いているの?ハル、」
きつく抱きしめられて、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
胸がひどく苦しくて、ちいさく声が漏れる。まだ激しい波の音がすぐ近くで聞こえていた。
ぼくは一体何を見たんだ?
結局その日は食事も取れずに、ベッドに潜り込んだ。
暗い部屋でじっと目を閉じると、ぼんやりとさっきの光景がよみがえる。こわくて、かなしくて、でも忘れてはいけない気がして、ぼくは何度も目を閉じる。
「ハル、」
かちゃりと部屋のドアを開ける音がして、エデンがちいさくぼくの名前を呼ぶ。エデン、と返すと足音が近づき、ぼくの目の前でぱたりと止んだ。
「ハル」
目を開けると月のひかりを浴びたエデンがぼくをみつめていた。貝殻のような虹色を帯びた髪の毛。しずかな海の瞳。
「エデン、ごめんね。ぼく、」
言いかけたぼくの額に、エデンは手を当てた。
ひんやりとつめたい氷のような手のひら。
「ハルはわるい夢を見たのね」
あれはほんとうに夢だったんだろうか。もしかしたら、ぼくの失くした記憶の一部だったんじゃないのか。だったら――ぐるぐると巡る思考を塞ぐようにエデンはこう続けた。
「おまじないをしてあげる、もうわるい夢を見ないように。ハル、目を閉じて」
言われるがままに目を閉じると、やわらかくてつめたいものが唇に触れた。それがキスだと気づくまでに時間はかからなかった。唇が離れて、エデン、とぼくが名前を呼ぶとエデンは真剣な、でもどこか泣きそうな顔をして言った。
「ハルはエデンが守るから、信じていて」
出会ったときから繰り返すようにそう言い聞かせるエデンは、ほんとうはなにかを知っているのだろうか。考える暇もなく、ぼくの瞼は重く、身体は眠りに落ちていく。そしてぼくは眠りの入口で、エデンが囁くのを聞いた。
「だいすきよ、ハル」
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