2

 エデンとぼくは手を繋いで、ずっと寄り添っていた。エデンはぼくよりすこし小さくて、上から見る白いまつげが霜柱のようだと思った。


「ねえ、エデンはぼくを知っているの?」


 ぼくが聞いても、エデンは微笑むだけで何も答えてくれない。


「……ぼくはエデンを知らないはずなのに、昔から知っているような気がするんだ。どうしてだろう」


 ぼくは窓の外の海を眺めながら、ぽつりとそう呟いた。


 エデンについてだけじゃない。ふたり並んで見ていると、この景色さえ、吸い込まれそうなあの青の色さえも、どこかで見たようななつかしいものに変わっていた。胸の奥にじわじわとあたたかい、でもどこか切ない気持ちが広がっていく。きっといつか、ぼくたちは一緒にあの海を見ていた。はっきりとは言えないけれど、そんな気がしてならなかった。


 ふとエデンを見ると、その横顔はぼんやりと虚空を見つめていた。その瞳は黒くかげっていて、ぼくはなんだか不安になってエデンの手を強く握った。


「エデンはね、」


 エデンが何かを言いかけたとき、それをかき消すようにノックの音が部屋に響いて、金色のポニーテールの女の子と、派手なシャツを着たどこか怪しげな男の人が顔を出した。


「わあ、ふたりとも、こんにちは!」


 エデンは立ち上がって訪れたふたりに満面の笑みを向けた。その目はひかりをを取り戻していて、ぼくは少しほっとする。


「こんにちは、エデン。そして、はじめまして、ハル。無事に目を覚ましてよかった」


 青いリボンでまとめた鮮やかな金色のポニーテールを揺らしながら、女の子の方がにこりと笑って言った。アーモンド型の少しつり目がちなまっすぐな瞳。エデンの服と同じ色の生地でつくられたワンピース。木でできた小さなトランクを片手に持っている。


「あたしはモニカ。こっちがツルギ」


 ツルギと呼ばれた男の人は、栗色のくせっ毛なのか寝癖なのか分からないあちこちくるりと跳ねた頭に、眠たげなたれ目をしていた。幾何学模様のシャツと穴の空いたぶかぶかのズボン。擦り切れたサンダルを突っかけて、気だるそうに立っている。


 ぺこりとぼくが頭を下げると、ツルギは無精髭を撫でながら「よろしく」と言って、へらりと笑った。


 モニカがぼくの前にしゃがみこみ、手にしていたトランクを開ける。中には包帯やはさみ、ガーゼや錠剤の入った瓶が詰められていて、どうやら救急箱みたいだ。


モニカは、そこから脱脂綿と茶色い小瓶を取り出すと「ごめんね」と一言告げて、僕の頭のあたりをごそごそと触りはじめた。ツルギは窓辺にもたれかかり、その様子を見ていた。


 しばらくすると、するすると白い布がほどけるように外れ、頭がすこしだけ軽くなったようだった。その時はじめて自分の頭が包帯でぐるぐる巻きにされていたことに気が付いた。


「あれ……もう傷が消えてる」


 モニカはぼくの頭を探るようになぞりながら、首をかしげて呟く。ふと、床に落ちた包帯を見ると、錆のような色になった古い血液がべったりとこびりついていて、ぼくは息をのんだ。


「これはなんで……ぼくはどうしてここにいるんですか」


 震える声でぼくが言うと、モニカとツルギはきょとんとした顔をして、お互いの顔を見合わせた。


「三日前の朝、あなたは海辺に倒れていたの。身体中傷だらけだったから、軽くだけど手当てさせてもらってる。それから、今日までずっと眠っていたんだよ」


「海辺に?どうして?」


「……自分のことを覚えていないのか?」


 ツルギが怪訝な顔で尋ねて、ぼくはうなずく。

エデンがぼくの隣に腰掛けて、小さな声で告げた。


「ハルはなにも覚えていないの。自分のことも、ここがどこかも、エデンのことも」


「かみさまや……ブルーのことも?」


「かみさま?ブルー?」


「いや、覚えていないならいいんだ。なにか君はかみさま……エデンちゃんと関係があるのかと思ってさ」


 どこか残念そうなツルギの言葉に、かぶせるようにエデンが言う。


「エデンはかみさまじゃないわ」


「エデン……あなたがかみさまじゃなければなんなの。青い血液を持っているのはかみさまとあなたしかいないわ」


 そう言ったモニカに、エデンは不機嫌そうに唇を尖らせながらうつむいた。


 モニカとツルギの肌の色は黄色と赤を混ぜて薄めたような色、ぼくの知っているふつうの人間の肌の色だった。ぼくは自分の手を見る。ふたりよりも青白い手のひらだけど、それでも指先には血の赤が薄く透けて滲んでいる。


この中でエデンだけが不思議なほど真っ白な肌をしていた。頬や唇、指先は淡いブルーに染まっていて、それがエデンの血液の色だった。


 エデンをはじめて見たときに天使だと思った。ぼくは天使もかみさまも見たことがないけれど、エデンは人間というよりも、かみさまといわれたほうが正しいような女の子だった。ぼくたちとは違う新種のとても綺麗な生き物みたいだ。


「だって…覚えてないんだもの」


「エデンも自分のことを覚えていないの?」


 ぼくが聞くと、エデンは目を伏せて息を大きく吸って吐いて、しばらくそれを繰り返していた。そして、まっすぐにぼくを見て、消え入りそうな声で言った。秘密を打ち明けるみたいに。痛いほどに強くぼくの手を握ったまま。


「ハルは、ハルはエデンに忘れないでって言ったの。ハルはひとりぼっちで、傷だらけだった。エデンは手を伸ばしてハルの名前を何度も呼んだけど届かなくて、ハルは真っ黒い波に飲み込まれてしまうの―――エデンが覚えてるのはそれだけ。エデンはエデンのことも分からない。その夢を何度も何度も繰り返して、ハルは何度も何度も海に飲まれて消えてしまう。そしてようやく目が覚めたら、ここにいたの」


 エデンが悲しい顔をして必死にぼくの名前を呼ぶ姿を想像すると、胸がずきりと痛んだ。


 そして同時に、ぼくは水の中の記憶を思い出していた。


あの水の中でぼくは何を聞いたんだっけ?

とても大切なこと、忘れたくなかったこと。

忘れてしまったこと。


あれはエデンの声だった?


「ねえハル。忘れないでって約束したのに、それだけしか覚えていられなくて、ごめんね」


 エデンの大きな瞳から、ひとすじの透明なしずくが頬を伝って落ちていった。ぼくは堪えきれずに、エデンを強く抱きしめた。


「ぼくこそごめん、ごめんね。エデンのことなにも思い出せないんだ」


 鼻の奥がつんとして、また涙が出そうになってしまう。

ぼくたちが覚えていることは、なくしたことだけ。


「いいの、いいのよ」


エデンは首を横に振って言った。


「またハルに会えたんだから、それだけでいいの」

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