五月 海辺の教会、かみさま
やわらかな水の感触に包まれて、ぼくの身体はゆっくりと沈んでいく。
濁った灰色の中で、小さな泡が鈍くひかっては消えていくのを見た。手足は凍ってしまったみたいに冷たく固まり、少しも動かすことができなかった。
落ちているのは身体だけではなくて、意識も同じように沈んで、滲んで、遠くなっていく。何も思い出せなくなってしまう。何も感じなくなってしまう。どろりとした底闇がぽっかりと口を開けてぼくを待っている。
忘れたくない。
動かない口でそう叫んだけれど、それが何のことだったのかさえ、すぐに思い出せなくなってしまった。ただ、ぼくは大切な何かを失っていく。忘れてしまう。それだけは、残酷なほどにはっきりと分かった。
やがて意識の途切れる隙間で、ぼくはかすかに誰かの声を聞いた。
『いつか生まれ変わったら、今度こそひとつになろうね』
白い天井。踊るひかり。
「おはよう、ハル」
小さな手が頬に触れて、やさしく涙を拭った。ぼくは泣いていた。
束になったまつげ、長い髪、肌さえも、眩しいほどに真っ白で透き通った女の子がそこにいた。どこもかしこも白い身体の中で、大きな瞳だけが深い青を湛えてぼくの顔を覗き込んでいる。
天国だ。そう思った。ぼくは死んだんだ。
白く輝く天使の少女と、ひかりの溢れた部屋。
目を強く瞑って、また開く。ぼくは死んだんだ。
「おはよう、ハル」
女の子はもう一度そう言って、困ったように笑った。
水の中の冷たさがまだ指先に残っていて、頭はひどく重たかった。呼びかけられたハル というのが何のことなのか理解できずに、ぼくも困ったように笑い、言った。
「おはよう、ございます」
弱々しい少年の声が喉から溢れて、自分がこどもだと初めて気付いた。そういえば、ぼくは、一体誰なんだ?
軋む身体を無理矢理起こすと、目に飛び込んできたのは果てしない青だった。どこまでも広がっているような海と、雲ひとつなく晴れ渡っている空。ときおり揺れる波がきらめきを放って、ぼくは目を細めた。
白い窓枠に切り取られたその風景は、青の絵の具だけで描かれた絵画みたいにぼくの前に飾られていた。
「この部屋が一番よく海が見えるの」
女の子は得意げにそう言って、スカートの裾を持ち上げ、くるりと回ってみせた。それに合わせて、膝下まで伸びた真っ白で透き通った髪の毛が舞い上がり、ひかりを浴びてきらきらと虹色に輝く。見とれるほど綺麗だった。
「最初はね、カーテンがあったけどエデンは朝でも夜でも海を眺めていたいから、カーテンは外したわ。そして、そのカーテンはモニカがエデンのドレスにしてくれたの!」
ドレスはスカート部分が二重のつくりになっていて、膝丈のコバルトブルーのしなやかな生地に、薄く透ける白い生地が幕のように重ねてあり、腰と、首の後ろにはスカートと同じブルーのリボンと青い花の飾りがついている。彼女の姿と同じ色だけでつくられたその衣装は、とてもよく似合っていた。
「君はエデンっていうんだね」
「そう、覚えていないの?」
ごめんなさい、とぼくが言うとエデンは小さく首を振って、少しさみしげに笑った。
「自分のことはなんにも。ここは天国なの?僕は死んだの?エデンはぼくを知ってるの?」
「ハル、落ち着いて、」
そう言ってエデンはぼくの手を握った。氷みたいに冷たい白い手。
見渡すと、部屋にあるのはぼくの寝ているベッドと、枕元にある小さな飾り棚、窓辺にある机と椅子。家具といえるものはそれだけだった。
シングルベッドには、白いシーツと布団がかけられている。白いペンキで塗られた机の上には、古びたオイルランプが置いてあるだけだ。白い床、白い壁。白に溢れたその部屋で、飾り棚の上に生けられた小さな青い花と、窓から見える青い景色だけが鮮やかな色味を帯びていた。
部屋はまるで病室のようだったけれど、あの無機質な冷たさは無く、明るくあたたかい空気に満ちているように思えた。
ぼくは自分のことを必死に思い出そうとしていた。だけど、ぼくの知っている自分のことは、エデンの呼んだ"ハル"という名前、夢かもしれない水の中のこと。それ以外にはなかった。記憶の糸を辿る前にその糸は短く途切れていて、何にも結びつかずに無意味な断片として頭に散らばっているだけだった。
意識が途切れる瞬間に聞いた言葉さえ、もうぼんやりと掠れてしまって思い出せない。そもそも、本当に声を聞いたのかそれすらも不確かになっていた。
胸が締め付けられるように苦しくて、息が詰まる。頬を涙が伝って、ぽろぽろと落ちていく。
ぼくは忘れたくないと願った。だけど、忘れてしまった。それが何なのか分からないけれど、本当に大切なものだったのだと胸の痛みが訴えていた。
今のぼくには何もなくなってしまった。そんな気がした。
「ハル、泣かないで」
ぼくの涙をまた拭って、ゆっくりとぼくの身体に腕を回し、エデンはやさしく抱きしめてくれた。エデンはふわりと海のにおいがして、吸い込むとなつかしい感覚が胸の奥に広がっていく。
「ハルは生きてる。ここは天国じゃないけれど、エデンと一緒に生きていくのよ」
エデンの小さな身体は冷たくて、だけど言葉はあたたかく、力強かった。
エデンはぼくの手を取り、ぼくの左胸にそっと当てた。とくり、とくりと心臓はちゃんと脈を打っていた。それがなんだか嬉しくて、おかしくて、ぼくは笑みを浮かべた。それを見て、エデンも微笑んだ。
「大丈夫、ハルはエデンが守るから」
たった今出会ったばかりの女の子はぼくを守るといって、それを信じる理由も根拠もありはしなかったけれど、でもぼくはその言葉で生きていける気がしていた。どこまでも生きていける気がしていた。
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