into the blue
@umibe_ghost
プロローグ
あたしがかみさまに出会ったのは、ある三月の朝だった。
その日あたしは、いつものように散歩に出かけた。
燃えるような朝焼けと夜明け前の青さが水面で混じり合い、おだやかに揺れる海。どこまでも澄み切った清潔な空気。ゆっくりと夜が後退していく空。静寂の中、世界がゆっくり息をし始めるのが分かる。あたしはこの時間の海が一番好き。朝の散歩は、雨の日や雪の日以外欠かすことのない日課になっていた。
海岸沿いの乾いた小道を抜け、見晴らしのいい浜辺に降りる。変わりはじめた空と海の果ての色を眺めながらしばらく歩いていると、遠くでかすかに光る波打ち際に真っ白な生き物が横たわっているのが見えて、あたしは立ち止まった。
小さな頭があって、何も着ていない裸の身体があって、二本ずつの手足。姿形は人間のこどものようだけど、身体を覆い隠すほどに長い髪は純白で、だらりとのびたか細い手足も雪のように真っ白に透き通っていた。まだ薄暗い空気の中で、まばゆいばかりに輝いている白。それは、どう見ても生きている人間のものではなかった。
時々、このあたりにこどもが置き去りにされることがある。あたしが仕え、暮らしているカエルレア教会は孤児院としての役割も担っている。それを知っている親が子を置いていくのだ。孤児院の近くに置き去りにするのはせめてものやさしさのつもりなんだろうか。アエテルヌムの最北端に位置するこの場所は夏でも凍えるほど寒い夜があるというのに。
今まであたしは死んでしまったこどもを見つけたことはないけれど、それを運が良いことだとは思えない。この島では、たくさんのこどもたちが誰にも見つけてもらえずにひとりぼっちで死んでいるということも、あたしは知っているから。そのことを思うといつも胸が苦しくなる。
もしかしたら、この子もそうやってひとりきりでここで息絶えてしまったのかもしれない。そう思うと、あの美しすぎる白は残酷な死の色に思えて、ごくりと唾を飲み込んだ。
正直、近寄るのも、触れるのも怖い。伏せられた顔がどんな表情なのかなんて見たくない。だけど、死んだあとも孤独なままで、このまま朽ち果てていくのはあまりにもかわいそうなことだった。
あたしは拳を握りしめ、ゆっくりと白いこどもに歩み寄った。
目の前で眺めるその姿はいっそう美しく、まぶしかった。長すぎる髪に隠れて気が付かなかったが、うずくまる小さな背中には裂けたような大きな傷があり、それを見た瞬間、あたしは息を飲んだ。
かみさま。声にならない声でそう叫んだ。
傷口はてらてらとまだ濡れていて、そこに満ちた血液は"青色"をしていたのだ。
『かみさまは聖なる海と同じ色の血液を持っている。それはいつしか私たちの罪や魂を癒すだろう。』
聖典に記された言葉を思い出す。あたしは跪き、震える指を合わせ、祈る。その血液はたしかに海の色をしていて、そのこどもがかみさまであることをはっきりと告げていた。
ふと、ぱきりぱきりと氷の割れるような音がかすかに聞こえた。見ると、かみさまの傷口から花びらのような薄く繊細な青い結晶が次々と生まれ、溶けるように消えていくのだった。それを繰り返し、すべての結晶が消えたとき、大きな傷は跡形もなくなっていた。
その美しい再生が終わると、かみさまはゆっくりと起き上がり顔を上げた。
そこには真っ白な睫毛に縁取られた、ふたつのきらめく海があった。血液と同じ深い青色があたしを映して輝いている。
跪いたまま見とれているあたしを見て、かみさまは首を傾げ、そして小鳥のさえずりのようなかわいらしい声で言った。
「おはよう」
登り始めた太陽に照らされて、あたりはまばゆいばかりの金色に包まれていた。ひかりの中でかみさまはやさしく笑った。真っ白な髪が潮風になびき、淡い色を放ってきらめいている。まるでオーロラのように。
それは、人生の中でもっとも神聖で美しい瞬間だった。これから先も、こんな景色は二度と見ることができないだろうと今でも思う。
ひとりでにぼろぼろと涙がこぼれ、喉の奥から嗚咽が漏れた。あまりにすべてがまぶしかった。そして、このお方こそあたしのずっと信じてきたかみさまなのだと、慈愛に満ちた救い主であると確信した。
「ここは?あなたは誰?どうして泣いているの?泣かないで、」
かみさまの小さな手があたしの頬に触れた。そのてのひらは冷たくやわらかかった。かみさまは幻想ではなく、たしかにここに存在していた。しゃくりあげながら、あたしはやっとのことで呼びかけた。
「か、みさま」
「かみさま?わたしはエデンよ」
「エデン?」
エデン。口の中で確かめるように、その名前を呼んだ。聖典には無かった、かみさまの名前。エデン。どんな意味があるのだろう。不思議な名前。
エデンはあたしが泣き止むまで、頭をしばらく撫でてくれていた。海を背に立つエデンは、十二歳ほどの少女となにも変わらない姿に見えた。しかしよく見てみると、その身体は平坦でつるりとしていて、足と足の間に"あるべきはずの器官"が見当たらなかった。
だけど、それこそがエデンの穢れなき純粋を、存在の完璧さを示すものであると、あたしには思えるのだった。
ようやくあたしの涙が止まったときには、もう夜は姿を消していた。遠くで響く海鳥の声。空はどこまでも高く、海はどこまでも深い青。
エデンはしばらく何かを思い出そうとするみたいに虚空を見つめていた。そして、ふとあたりを見渡し、それから波の音にかき消されそうな声で、泣きそうな顔で言った。
「ねえ、ハルはどこ?」
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