第32話

「あ……あほちゃうか、ヴォロージャ! ちゅーかうちのファーストキスどないしてくれてんねん!」

「俺もファーストキスだ、お相子にしておけ」

「そんな相子嫌や! うち、うちはヴォロージャの、おとんとおかん殺そうとしててんで!? そんな相手に家族にとか、こっ婚約者とか、何考えてんねや! うちは今夜かて王様の寝室に向かうかも知れへんねで!? そんなこと考えたら、さっさと捕まえて牢に入れてや!」

「お前は俺を殺さなかった」

「え?」

 真っ赤になって混乱している様を見るのは中々珍しくて良かったが、そう意地悪してやる気分にもなれなかった。とりあえず罪悪感は取り除いてやらないと。その為には俺が多少なり強引に事を運ばなければならない。横柄な王子を演じなければならない。チェスではキングも、クィーンすら戦うと言うのに、王子がいないのは何故なんだろう。やはり秘蔵っ子にしておきたいものなのだろうか。もしくは亡命させているのだろうか。

 どっちにしろ、無い駒は無い駒なのだ。だったら俺は法則を無視して暴れまわる。戦場を滅茶苦茶にしてやる。盤上を見る影もなくしてやる。ツォベール伯が次手を出せないように。父上と母上にも安全なように。そして何より、炉吏子を守るために。

 暗殺者を守るってのも変な話だよなあ、と、俺はちょっとだけ思う。思うだけ。炉吏子は俺の物だ。うちの物だ。勝手にいじられたくはない。これ以上、もう。


「第一王位継承者。鍵も何も必要ない四人部屋で寝てて、お前は俺を殺さなかったんだよ、炉吏子。王家の人間なのに、俺は殺さなかった。それはお前がもう無意識では俺の事を家族のように思っているって事だろう?」

「そ、そんなん……解らんけど……」

 おろおろと惑うあんず色の目。くるくる巻き毛。慣れた椿油の香り。

 俺がこんなに慣れ親しんでいるんだから、お前だってそうなんだよ、炉吏子。暖炉の中で燃え尽きる寸前の火のような、とろりとした色の目。ちょっと香ばしい髪油の匂い。凛々しくあることを強制されて来た我の強さ、プライドの高さ。文武両道・才色兼備を武器にしていた王妃を相手に渡り合うスポーツ、剣術。お前は俺に相応しい。

 俺を殺さない。炉吏子は俺を、そうしない。俺が『王』になったら解らないが、それまでに催眠は解かれているだろう。時間を掛けて解して行けば大丈夫だと、城の魔術師も言っていた。だから大丈夫。怯えなくて良い。逃げなくて良い。お前は俺の、お姫様。もうツォベール伯には返さない。たとえ呼び戻されても、王家の特権に辺境伯家は表向き逆らえないだろう。

「お前は俺を、殺せない。殺さない。だから俺はお前を愛せる。愛してる。どうなったって。どうしたって。それ以外お前には道がないのも事実だろう?」

「ッ」

「辺境伯家が次期当主を擁立したら、お前は帰る場所を失う。今だって居場所があるとは言い難い。そんなお前を、俺達は迎えてやれる。家族として。愛してやれる。ここに居ろと、言える。なんなら命令しても良い。出来ればしたくはないけれど、お前が怯えるのなら、全部俺の所為に出来るように、俺が命令する。炉吏子。浪花炉吏子。ローリィ・ド・ツォベールの名を捨て、この城の住人になれ。家族になれ」


 まず最初に赤くなったのは炉吏子のちょっと低い鼻だった。それからじんわり広がるように、白い顔の目元が染まる。頬まで行く頃には涙が滲んでいた。ぽろぽろ零れる透明な雫。俺はその一粒をぺろっと舐めた。薄い塩味。ぴゃっと炉吏子の巻き毛が弾む。笑って何度もキスしてやると、ぽかぽか叩かれた。テニスや剣の裁きからその力の無さは混乱によるものか照れによるものか、どっちにしても可愛らしいものだと思わされる。そう、俺は一撃みぞおちに食らった事すらあるのだ、こいつの腕に。それに比べたら頭をぽかぽかやられるぐらい大したことじゃない。

 ちゅ、ちゅっと顔中にキスを降らせる。涙を吸って行く。鼻水は流石に舐めない。炉吏子は途方に暮れるように、何度か俺を押し戻そうとしたが、寝ている炉吏子を抑え込むには俺の身体はうってつけである。背だって炉吏子より伸びたんだ。あの小さな劣等感は無くなって、だから俺は炉吏子の手をやんわり掴み、シーツに縫い留めることが出来る。ひゃ、や、と繰り返していた炉吏子の声はやがて無くなり、涙もやがて無くなり、俺は炉吏子の口唇に口唇を這わせる。

 ぽってりした舌を絡め取って、唾液を送り込む。小さな喉がこくんっと鳴ったのに興奮して、舌を絡めまわした。くちゅくちゅと音が鳴って、俺も炉吏子の唾液を飲み込む。母上は俺が赤ん坊の頃に風邪を引いた時、息が詰まらないように鼻水を口で吸って取っていたらしい。こんな気分だったのかな、なんて炉吏子を見ると、目がぼーっとしていた。しかし昨夜見たような虚ろさではなく、熱を出しているようなそう言う茫洋さだ。


 ぬるぬるになった舌をちょっと名残惜しくなりながらも離すと、炉吏子はすぐに意識が戻らないようで、目じりに涙を浮かせ、はー、はーっと荒い呼吸を繰り返している。息を止めていたのだろうか。可愛いやつ。髪をくるくる指に撒いてちゅ、とキスすると、はっと我に返ったような炉吏子にごつんっと頭突きを食らった。

 さすがにこれは痛い、じろり睨むと、知った事じゃないと言いたげな目で睨み返された。まだ呼吸は荒い。顔も赤い。それでも抵抗する意思を隠さないのは、彼女のプライド。高すぎる矜持。嫌いじゃない、強さ。王妃になるには十分な、我の強さ。本当、たまんねー奴だよ、お前は。

「な、に……してくれてんねん、本当に……うち、もうお嫁いかれへんやんかぁ」

「うちに嫁いで来れば良いだけだ。そうすれば名実ともに父上と母上がお前の両親になってやれる」

「暗殺者やで? うち」

「それでも良いと、言ってくれる人たちだって、知ってるだろ?」

「ほんま、たまらん……」

 はあっと息を吐いて、炉吏子は顔を隠そうと前髪を振る。だけど切ってしまったそれは真っ赤な顔を隠すには足らない。まして汗だくな彼女の事だ、髪が根元から上がってしまって、それを枕の上で振ることはただ顔を露にするだけになってしまっている。可愛いな、と、思った。愛しいな、と思った。


 ずっと王都にいてくれたら。ツォベール伯家から遠ざけて置けば、やがてあの暗示も解けるだろう。そうしたら俺は、こいつの一番になれる? 父親よりも、強い存在としてこの心の中に、あってやれる?

 出来たら良い。そうなれたらいい。俺は炉吏子の、帰る場所になってやれる。父上も母上も、メイドたちだって。きっと、そうなってやれると思うから。だから、俺達を家族にしてしまえば良い。俺達の家族になってしまえば良い。それですべては丸く収まるのだから。

「愛してるよ、炉吏子。だから俺のお嫁さんになってくれ」

「九歳やで? うちら」

「父上と母上は幼稚部から決められた婚約者だったぞ。お前も今あたりから俺の弱点を探っておけばいい。母上みたいな良い根性の王妃になれる」

「あの人と嫁姑の中になったら大変そうやな……」

「問題ない、即位した時は今までにない破天荒王妃だとあちこちから陰口があったらしいが、今は大貴族にも物を言わせないあの様だからな」

「ほんま、つよ……」


 はぁーっと長く息を吐いてから、炉吏子はやっと俺を見る。

 涙はもう名残がない。ただ、顔は赤い。ファーストとセカンドを頂いたわけだが、俺にもどうやら父上のたらしの才能は入っていたようで、炉吏子はめろめろである。否、勝手に読んだ小説なんだけど。子供の手の届く範囲にはそれ以上の表現のある恋愛小説は置いていないらしい。現実の浮気が出来ないから恋愛小説で気を紛らわせているのかとも思ったんだが、どうなんだろう。欲求不満なのか? 父上。

 まあそんな事今はどうでも良くて、俺はやっと炉吏子の腕を解放する。すいっと腹筋の容量で身体を起こされ、また頭突きを繰り出されそうになった。

「応えはともかくとして。うち、あの二人には自分の素性言うときたい」

「何で?」

「ほんとに受け入れてもらえるか、解らんやん。『浪花炉吏子』が」

 あの二人なら大丈夫だと思うがなあ。

 思いながら俺は、炉吏子の巻き毛に指を絡めた。

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