第30話
「身体測定?」
きょとん、とした炉吏子の言葉に、父はああと頷いた。朝食の席、友人二人にはもう事情は話してある。だからとくに訝ることもせず、ぱくぱくと朝食を食べ勧めていた。今朝はチーズトーストだ。よく伸びるのを二人ははむはむと一生懸命食べていて、こっちに口を出している余裕もない。
「こっちに来てからまだだろう? 学校に結果を送るから、今日は一日休んでくれないかとね」
「身体測定って一日掛かるもんなんですか」
「うちの学園は掛かるかもしれないな。シャトルランなんかもあるし、百メートル走も取る。持久走もな。お前あんまり走るのは得意じゃなさそうだが、どうなんだ?」
「走る場所がなかったからねえ、平地をまっすぐ走ったことは確かにあんまりないかもしれないわ」
「じゃあやっぱり、記録は取っておいた方が良い」
「私よりヴォロージャじゃありません? 最近私より背が高くなってきた気がしますもの」
「それは来年のお楽しみだよ。その時も同じクラスだと良いのだが」
タヌキめ、父上。既に学園に初等部在学中は俺たち四人を一緒のクラスにするよう申し渡しているのを、俺は一昨日辺りから知っている。仲の良いナイトとプリンセスを一緒にしておくように。俺はナイトにはなれないかもしれないが、友人二人は炉吏子を守ってくれるだろう。身を挺して、かは分からない。でも俺より心強いのは事実だ。俺は、王子は、いつか断罪をも考えなければならない立場だ。その罪を。たとえどんな理由があろうとも。そしてそれは父上も一緒だ。
でも腹は決まっている。俺は決まり切れていない。それが王と王子の差なのだろう。絶対的な、王として過ごしてきた時分の差。それは大きい。とても、大きい。
制服に着替えた友人二人を見送って、炉吏子には運動しやすい軽い服を着せる。膝が見える半ズボンに薄いシャツだ。勿論母上のお下がりである。何でも揃ってる。母上強い。俺が女の子だったら着せ替え人形にされていたこと請け合いだ。男に生まれて良かったと、心底思う。
きゃあ、と母上は嬉しそうにして、自分も意味なくポロシャツの体育着を着ている。今日は一日付いてくれる予定だ。何事もないように。ちなみに炉吏子は一応身体検査をして、あの物騒なカッターナイフを持っていないことは確認済みだ。
身長、体重を測り、やっぱり俺の方がちょっと背が伸びたことに気付く。笑っていると母上にシャトルランに付き合わされた。三人でへとへとになるまで走って、それからやっぱり三人で百メートル走。炉吏子が早かった。持久走は流石について行くのを遠慮したが、母上は走った。それからテニスの相手を母上がして、レモンのはちみつ漬けにまた二人とも口をむぎゅーっとさせる。酸っぱいなら食わなきゃ良いのに、言ったところこれが無ければ体育ではないらしい。体育になっていた、いつの間にか。それから剣の腕試しを。これも母上がやった。腕前は五分、と言ったところか。一突きずつ与えあった所で時間が来る。珍しく母上が神妙な顔をしていた。
「あの剣技、確かに実戦用剣術だわ。しかも大人相手に対応できるようになってる。ツォベール伯はどうしてそんなものを炉吏子ちゃんに仕込んだのかしら」
「母上も辺境伯と面識はあるんですか?」
「あったり前じゃない、一応親戚だし学園でも同学年よぉ? 陛下と違って浮気なんかせず、身体の弱い婚約者をいつも気遣ってて女子には大人気だったんだからぁ」
「あー……父上その辺は緩かったらしいですもんね……」
「ゆるゆるの貞操観念よ。子供が出来たから別れろって言ってきた女子もいたわ」
「何それ最悪やん。やり捨てたんか、王様」
いつの間にかはちみつレモンタイムを終えて入って来る炉吏子である。そう言えばこいつは、父の事をどう聞かされてきたんだろう。訊ねてみると、あー、と口を濁された。ツォベール伯。真実を告げたんですね。要らないとこだけ。
「狂言だったけれど、陛下の人気がガタ落ちしたのはその頃ね。だから卒業するころには私しか隣にいなくなっていたの。ある意味良い仕事してくれたわ、彼女」
母上強すぎていっそおっかない。それでも父上を見捨てなかったのが母上だけだったんだと思うと、その愛情の深さが逆に怖い。ひゅっと背筋を冷たいものが走って行って、反面教師にはぴったりだと思わされる。父上。あなたの子供であることをこんなにも疎ましく思ったのは初めてです。俺には良い父親だから、やっぱ子供が出来て変わったのかなあ。ツォベール伯みたいに。
さてと、と母上と炉吏子が着替えて来ると、日はもう中天を指していた。差し入れのサンドイッチなんかを摘まんでいたのであまり腹は減っていない。ただ、走り回ったことで疲労がたまり、昨日の眠気がぶり返して来ていた。と思うと、炉吏子もふわぁっと欠伸を手の中に逃がす。そんな状態でも毎日教師役を演じてくれていたんだと思うと、やっぱりこいつは強すぎるよなあ、と思わされた。
仮にも父親として接されて来た相手からの絶縁状に近い手紙。そしてナイトウォーカーめいた深夜の覚醒。耐えられているんだろうか、本当に。ここまで体力を削った事にも意味はある。またドレスに着替えて、令嬢の姿に戻った炉吏子は、やっぱり手袋をしていない。母上の物じゃ合わないのだろうか。否。それとも、カッターを使うには素手の方が良いから? 刃物を扱うにはその方が都合が良いから?
すべてが計画され始めたのはいつなのだろう。否、計画なのだろうか。手ぐすねを引いているのはツォベール伯だろう。だがそれを立証できないと、断罪は不可能だ。もどかしい。
城の中に戻り、薄暗い部屋に向かう。城付きの魔術師の部屋だ。とは言え天文学や星座、石から意図を読み解いたり、簡単な怪我の手当てなんかにまじないを掛けてくれる、ごくごく普通のばーちゃんなんだが。俺が生まれるより前から城にいた人だ。父上もたまに政策の相談に来て、あっちこっちの政情を加味してアドバイスをもらうのだと言う。政治家の一面も持っている、と言う事だろう。見聞きしたものをそのままにしない。
黒い服でにこっと笑ったばーちゃんは、炉吏子を見ていた。指の怪我や頬を湿布で手当てしてもらったことがあるはずだから、初対面ではあるまい。ぺこっと頭を下げた炉吏子は、磨かれていない翡翠の並んだ机ごしに魔術師と対面する。俺と母上は、ちょっと後ろに下がった。きょときょとしている炉吏子に、お嬢さん、と魔術師は声を掛ける。
「久し振りだね、指はもう平気かい?」
「は、はい。その節はお世話になりました」
「緊張しないで良いよ、言葉も素に戻しておしまいなさい。私も向こうの方言は解るからね」
「はい……」
流石の炉吏子もここでへらへら笑い出す空気にはなれないのだろう。珍しく緊張しているが、歯が何本か抜けている魔術師の声は優しく響く。蝋燭で照らされた顔を見れば、とろん、とまた炉吏子が眠そうになっているのが分かった。くしゃくしゃにした新聞紙のように優しい声。他愛ない話から始まる。友人達の事。俺の事。国王夫妻の事。そして出る。ツォベール伯のこと。
「おとんは……うちに遊学に行けって言って……向こうには国王一家がいるから訪ねてみると良いって」
初耳だ。促していたのか、ツォベール伯。
「子供も同い年だから、そこからって」
俺も入ってたのかよ計画の勘定に。
ぼんやり原始の明かりを眺めながら、炉吏子は寝惚けたようになっていく。
「季節になったら……リンゴを送るから……」
リンゴ。香水か果汁かは分かれないけれど、擦りつけられていた匂い。
「届いたリンゴの匂いを嗅いだら……お裾分けついでに王を刺せって……」
出来ません。
ごめんなさい。
おとうさま。
たすけて。
――だがスイッチが入れられると、抵抗は出来なかった。
「それはこんな匂いかい?」
魔術師は長いローブの懐から父上に当てられたあの手紙を取り出し、便箋を広げる。
蠟燭の火に炙られた便箋に、ちりっと焼ける音がして文字が広がる。
トート。
それは異国で言う、黄泉の魔王の事だった。
つよく、リンゴの匂いが広がる。
「あ……あーあー、あああああ」
炉吏子は椅子から落ちて、意識を失った。
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