第26話

 王子だけれどナイトにもなれる。言っていたのは母上だったが、実力を見せつけた炉吏子への嫌がらせはめっきりなくなったし、放課後のレッスンを邪魔立てするような輩も出ては来なかった。良い事だと思う、炉吏子自身も自信に満ちていて、王族の貫禄を示しているほどだった。ツォベール伯はその仕種をどうやって教えたのだろうとちょっと嫌味な感じに思ってしまう。助けて。あの寝言が廊下を突き抜けて届いたことはないが。まだあるのだろうか。流石に炉吏子も寝入る時には部屋の鍵を掛けているので、探ることは出来ない。


 炉吏子の言葉は完全に標準語になりつつあるが、俺と母上とのお茶会の時だけは素を晒していた。息抜きには丁度良いのだろう、その時は笑顔も増える。やっぱり慣れたことが全部塗り替えられるのはしんどいのだろう、思いながら俺はレモンティーを飲む。ちょっと熱い。飲んでいるふりをしながら唇だけを付ける。あつい。火傷する。平気で飲んでいられる母上の根性凄い。

「ほんで、今日は体育のテストやったんですよ」

「あら、剣技のテストって事はトーナメントかしら」

「いえ、対先生でした。王妃様の頃はトーナメントやったんですか?」

「ええ、トップに輝くのが大好きだったわ」

「母上強い。炉吏子、この人はこんなナリをしていながらテニスも剣もぶち抜いて来た人だ。間違っても勝負はしようとするな。ただでさえ厄介なんだから」

「えー、うちも王妃様と勝負してみたいー。大丈夫やって。うち辺境にいた頃は大人の男と対決しとったんやから。身体大きい人の方がやりやすいぐらいやわ」

「そして先生の五十肩にとどめを刺したわけか」

「あれはオマケみたいなもんやん。うちかてびっくりしたわ」

「お前は令嬢にもナイトにもなれるな……」

「あら、女の子のナイトなんてお母さん許しませんよ。そう言うのはメイド達に任せているんだから」

「え」

「あらヴォロージャ知らなかった? 王家付きのメイドはみんな戦いのスペシャリストよ。いざとなったら戦えるようにしているんだから。半数ぐらいは私が学生の頃にスカウトした子なんだけれど」

 そうなの!? と思わずいつものように壁際に並んでいるメイド達を見ると、苦笑いしたり目を逸らしたりされた。まあ俺だって学校で自分の騎士になってくれそうなの見繕っているけれど、そう言えばそうしろと言ったのも母上だった気がする。信頼できる、ナイトみたいな友達を。そして俺もまた、ナイトになれと。それは多分、炉吏子に対するそれなんだろう。なんとなく気付いていたが。

 炉吏子のナイトになれるのは俺じゃない。炉吏子は自分自身を守る術を、酷く偏ってしか知らない。紙にうつせる成績でしか知らない。でなかったらあんな寝言は出ない。誰に、助けて欲しかったんだろう。お父様。いったいどっちのそれなのか。ツォベール伯なのか。それとも隣国の王なのか。助けて。耳にこびり付く、あの救済を求める声。

「ヴォロージャ? 何、紅茶熱いん?」

「まあぬるくはないな。でも平気だ、飲める」

 そ? と巻き毛を揺らして、炉吏子は自分のカップに口を付ける。今日のおやつはアプリコットパイ。甘酸っぱくて美味い。炉吏子は体育があったのでポニーテールで、横顔がいつもよりよく見えた。その顔がどこか浮かなそうなことも、分かってしまった。


 こんこんこんこん、とノックをされて、はぁい、と母が声を上げる。入って来たのはメイドの一人だった。手に持っているのは手紙。そう言えばツォベール伯の所に早馬を飛ばしたのが一か月前になるな。返事はまだ来ない。だから炉吏子はいつもそわそわしたところを見せた。主に食卓で。王と一番親しい時間をこんな風に過ごして良いのかと、迷うように。勿論傍目には良家の子女らしく振舞っていたが、時々父上を見ては目を伏せていた。そのぐらいの事には気付いている、なんとなく。代わりに俺にはあけすけな笑顔を見せるが。どっちが本物なのかは、分からない。どっちも本当なのかもしれない。

「炉吏子ちゃん」

「はい?」

 少し強張った声の母上は、ぺけぺけと室内用のシューズを鳴らしながら、炉吏子に手紙を渡す。封蝋は馬の顔、ツォベール伯の家紋だ。開けられた封筒から手紙を取り出し、一枚しか入っていない手紙を眺めた炉吏子は、ふぅ、と息を吐く。

 どこか諦めを含んだそれに、仕方のなさそうな笑顔。母上も戸惑っている。何が書いてあったのか。覗き込みそうになるのに気付かれて、ほい、と手紙を渡された。すまん、と一応謝ってから中身を見る。リンゴの匂いがした。香水だろうか。手紙に? 何でそんな。と、本文本文。


 ご機嫌麗しゅう我がヴォルコフ・ド・スミルノフ陛下。

 このたび妻が孕みまして、余計なことをしている場合ではなくなりました。

 ついてはローリィの事ですが、学費は大学部まで前納しておりますので、好きにしてやってください。

 粗相をして寮に戻るようになったらまた連絡を頂ければ幸いです。

 どうかこちらを穏やかに過ごさせて頂きたい。

 ツォベール・ド・ボリス。


「な……ッんだこれは!?」

 思わず怒鳴り声をあげた俺に、炉吏子が手紙を取り上げてくる。だが俺も離さない。何だこれは。慇懃無礼とかそう言う問題じゃない。まるで炉吏子がいては落ち着かないように、炉吏子の事を邪魔者のように扱っている、しかも短い手紙だ。何かあったのならそう書くだろうが、今の所奥方も息災らしいのに、炉吏子には帰って来るなと言っている。否。炉吏子の家であることを放棄している。こんな侮辱が許される物か。

 ぴり、と破けそうになった手紙を思わず離すと炉吏子はそれを取り上げ、丁寧に折りたたんで封筒に戻す。そして母上に渡した。ええ、と母は何かに納得して、それを受けとる。

「炉吏子! お前こんなこと言われて腹が立たないのか!? ツォベール伯家はお前の帰る場所なんだぞ!? それをこんな風に一方的に断絶されてッ」

「おとんが言うたら仕方ないんよ、ヴォロージャ。うちはおとんの采配如何でどうにでも出来る駒やからな。今は要らないってだけやから。十数年こっちに寄越そう考えた時に、もう決めとった事やと思う」


 苦笑い。

 そんな顔をするな。

 笑い事にするな。

 お前の事なんだぞ。


「まあ城での生活なら困らん思たんやろね。おとんも昔は城によく来とった言うし、その延長でうちの事も頼んだんやろ。別に何ともない話や。むしろこっちで引き受けてもらえるかの方が心配やで、十年以上も」

「面倒なら俺が見る!」

「見られとる方やんかヴォロージャ。馬車での通学もクラスでの視線も、ヴォロージャは見る方やのうて見られる側や。王子様なんやから当たり前やな。うちは友達。それでええやん。同い年の友達の方が、大人の陛下達より気安く出来る。これからもそうして友達を作って行けば良いだけや」

 まあ、テストの所為で敬遠されてる感じはあるけどな。

 へらへら笑う炉吏子に、俺は返す言葉を持たない。父母に恵まれて育った俺が何を言っても上滑りするだけなんだろう。おまけに俺は王子だ。父の従兄弟に対して発言するには、角が立つ。だが炉吏子の事情を話せば、門閥貴族を手なずけることは出来ないだろうか?

 駄目だ、炉吏子がツォベール伯の本当の娘じゃないと知れたらその利用価値は皆無になる。恩を売っても仕方が無くなる。俺じゃ炉吏子を守れない。俺じゃ炉吏子のナイトになれない。父上だって黙るしかないだろう。世継ぎが生まれるのは目出度い事だ。祝福されるべきことだ。分かってる。分かっているけれど。

 どうして父上を殺さないのか。ここに住むことになった最初の夜に、炉吏子は言った。炉吏子は父親を殺したいと思ったことがあるのだろうか、聞いてみたい気がした。家族観を訊いてみたい気がした。

 でもそれは駄目だろう。今は、聞いちゃいけない。ただでさえ切り捨てられた彼女を、余計に追い詰めることになってしまう。

 俺は何も出来ない。

 友人としても、彼女を慕う者としても、出番はまるでない。


 紅茶を一気飲みにして、速足で部屋を出る。自分の部屋でふかふかの枕に顔をうずめながら、俺は声を殺して泣いた。

 それは炉吏子の方にこそ必要な、仕種だった。

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