第25話

 中間テストはほぼ高得点を得、期末テストでも合宿にしようと言い出すぐらいには友人二人も良かったらしい。炉吏子はなんと学年一位だった。文武両道を他クラス他学年にも誇示することになって、本人は少し面倒くさそうだったが、それでまた下らない嫌がらせから避けられるのだと思えば都合は良いだろう。俺へのラブレターも右肩下がりで実に嬉しい。面倒くさいとは言っても読まずに捨てるのは多少罪悪感があったからな。まあ、些細なものだったが。慣れてしまったらほぼ何も感じなくなるのが、変わって来たのは、俺もまた恋を始めたからなのだろう。

 不本意ながら俺は炉吏子の一挙手一投足に反応するようになっている。これが恋でなければどれだけ良いだろうと思ったが、切っ掛けが母上の言葉でも、俺はこいつが好きなんだと思う。思う、と言うのは腰が引けているからだ。あれだけ忌避してきた感情が自分に宿るなんて、面倒くさい。面倒くさいけれど、気になって仕方がない。授業中も行き帰りの馬車の中でも、放課後の図書室でも、城の中でのお茶の時間も、食事の時間も。隣にいる異性を意識すると言うのはちょっと疲れるが気持ち良い。


 学園の図書室で宿題を済ませるようになってから、俺達はよくつるむ四人組、と学園全体で認識されるようになった。炉吏子が一人っきりでなくなったのは良い事だと思う。クラスでも勿論友人はいるが、一番と言うと彼女だろう。俺は幼稚部からの腐れ縁と、やっぱり他にも同じようなのがいる。話す相手には事欠かないから、学校での俺達は、俺と炉吏子は、そんなに話す方でもなかった。城に帰ったらどうせ母上にあれこれ訊かれて突っ込んで、を繰り返すのだから必要ないだろう。それに放課後は結構話してる。予習復習宿題ときっちり済ませるようになれば、おのずと気も引き締まったし、板書も怖くなくなった。

 炉吏子が転入してきて二か月。俺たちの生活は激変し、しかし好転している。それは認めなくてはならない事だろう。傷がすっかり見えなくなった白く細い指。ピアノでも弾かせたら綺麗に踊るんだろうか。じっと見ていると、ヴォロージャ、と窘められた。放課後の、図書室で。


「じろじろ何見てるの。早く課題進ませなさい、まったく」

「いや、お前の指ってピアノ弾かせたら上手そうだなって」

 素直に思ったことを言うと、ひくっと炉吏子の唇がつり上がった。笑っているようにもみえるが、多分違うだろう、何かの地雷を踏んだと悟って、慌てて教科書を持って盾にする。案の定口角泡飛ばしながら怒られた。あほか。

「出来たら芸術の選択授業音楽にしてるわ、悪かったな、そっちの方は全然習ってない情緒の無い女子で。どーせ才能が有りませんって匙投げられたわよ、だからペーパーテストと体育で点数稼いでるんじゃない。バカなこと言ってないでさっさと課題進める!」

「ローリィ。声が大きいわよ」

「って言うか出来ないことあったんだな。そっちにびっくりだ」

 俺もである。何でも出来ると思っていた。チッと舌を鳴らしてから、炉吏子はとっくに終わった課題のノートを確かめるふりして赤くなっている。不覚だと思ったんだろう。自ら馬脚を曝したところが。いや馬の脚って綺麗だと思うんだけどなあ、と、俺は盾にしていた教科書を下げ、自分の課題ノートを確かめる。前の二人はまだ復習中だ。知らない単語が出てくると一気に詰まるから、ちゃんと辞書で調べて傍線も引いて。

 ピアノだけは俺の方が得手なのかな、と三歳から七歳まで弾いていた自分の指を眺める。子供の手だから、あまりきちんと引けた曲も少ないが、黒鍵だけで弾く曲は結構できたと思う。にひ、と隠れて笑うと、向かいに座ってる悪友はくっくっと笑って見せた。考えていることが分かるんだろう。俺がピアノを習ってたことを覚えてるのなんてこいつと、眼鏡を掛けた友人ぐらいだろうから。女子は嗜みとして大概習わされる。ヴァイオリンかピアノと決まっていた。そのどっちも適性がなかったんだとしたら、ちょっと炉吏子に優越感を覚える。今まで知らなかった感覚だ。にやにやにや、口元を手で隠しているが、ちょっと伸びた前髪でも目元は隠せなかったんだろう。じとっと睨まれているのが分かる。でも怖くない。今は俺の方が、うわ手にいる。


「ヴォロージャ、その笑いがどこに向かうか分かってるのよね?」

「え?」

「王妃様にあんたの失敗談訊きまくってやる。あの人そう言うの話すの好きそうだし、私もヴォロージャの事色々知れるしね。あーお茶の時間が楽しみ!」

「なっおい、ローリィ!」

「だから二人とも、図書館では静かに。あと復習終わったわ。次は宿題よね?」

「そうね、チェックするから一応見せて」

 本当教師の立場だよな。こいつ。悪友の方もチェックして、よろしい、と手渡す。宿題に入った二人を確認してから、俺は自分の宿題ノートを炉吏子に見せた。ふん、ふん、と指で確認しながら、よしっと笑う。

 今泣いた烏が、ってやつだろうか。その笑顔にどきりとしながら、俺は目を逸らしそうになる。変なことを口走りそうになる。どうしてお前の『おとん』は、お前をここまで追い込んで育てていたのだろう。音楽は効率が悪いと諦めたとして、他の勉強は? 剣技は? 何のために必要だった?

 王位第四継承者。その身を守るための自衛手段? それにしてはあまりにも過酷ではないのか? 王子である俺よりも、と言うのは、ちょっと自分が情けないぞ。

「よし、全問正解。じゃあ次は予習。このペースなら二ページぐらいで大丈夫でしょ、多分」

「板書当たってないからちょっと肩抜けるな」

「俺明日当たってんだよなあ……」

「私も当たるかもしれないのよねえ……」

「はいはい、足りない数字は努力で補う。勉強の鉄則よ」

「ローリィちゃんきっつい。厳しい。下手すると先生以上に」

「私は私がされたようにしか教えられないもの」

 どんな。

 一体どんな教育を受けて、こいつは。


 合宿の夜。寝ていた所で二人に起こされた。向かいのベッドで炉吏子はうなされていた。汗だくで毛布を千切らんばかりに握りしめて。真っ赤な顔で。医者が一瞬頭をよぎったが、次の言葉でその考えは去った。


 ごめんなさい。

 お父様ごめんなさい。

 でも出来ません。

 許してください。

 ぶたないで。

 おとうさま。

 たすけて。

 ――助けて。


 俺の部屋に一番近い客間を使っているとはいえ、こんな苦しげな声を夜ごと繰り返していたのかどうかは分からなかった。ただ俺達三人は、それを見てしまった。見てしまったら放っておけなかった。炉吏子の生徒になる振りをして、その身辺から不安を取り除く。それしか出来ない。握った手は熱かった。触れた額は汗だくだった。ツォベール伯は炉吏子に何をそれほど仕込んだと言うんだろう。いつかは捨てることになるかもしれない養子に、何をそんなに詰め込まなくてはならなかったのか。自分の子供にもそうするのだろうか。

 それは炉吏子を苦しめるだろうか、解放するだろうか。不意にいなくなってしまいそうだと思えば、俺にも震えが走ったほどだった。『いらなくなった自分』を、炉吏子は評価できないだろう。だから手に職を付けて唯一無二になろうとしているのか。そんな空しくて寂しい動機は嫌だ。だったらずっと城にいれば良い。留学だってさせてやれるし、何か王家のかけがえのない存在にしてしまうことが出来れば――。


 やっぱりそれは、俺の妃の座だろうか。隣国の姫を娶る形になるのは王位継承権で揉めるかも知れないが、それでも構わない。炉吏子のいられる唯一の場所になるために。今は取り敢えず生徒として頼ることで、その薄い自己認識欲求をどんどん満たしていこう。それはあの夜俺達が三人で決めた事だ。炉吏子を、ローリィを守るための、約束事だ。


 いや宿題に躓いてるのは事実なんだろうが。

 ヴォロージャ、と涙目で呼ばれてはいはいと解説する。

 canedはcanの過去形じゃないぞ。

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