第20話

「……はい?」


 流石の炉吏子も母上の言葉が頭を通過しなかったのだろう、きょとんとしてその顔を見上げていた。母はロングスリーブの手袋で目元を拭い、ハンカチでぢーっと鼻をかんでから、はふ、と息を吐いて炉吏子を見下ろす。

「あなたが王家にとっても重要な存在だと知らしめれば、嫌がらせは生半なものなら減って行くと思うの。事実あなたの王位継承権はツォベール辺境伯の三位に続いて四位、けっして軽視されるべき立場ではないわ。それに親戚であることが解れば、馬鹿な勘違いを起こす子もいなくなるでしょう? あなたはあくまで、王家の人間である、と言う事実の誇示の為に、城に引っ越して来れば良い。寮での生活だって悪くはないだろうけれど、このままではそちらもどうにかされてしまいそうで心配よ。荷物もまだ少ないだろうし、考えてみてくれないかしら。早ければ早いほど、決断は良いものよ」

「そ……そんなん突然言われましても、おとんへの連絡とか考えたら即答できやしまへんで、王妃様。早馬の往復だけでも一週間はかかる、」

「そんなことは大人に任せておけば良いのよ! あなたはあなたの事を考えなくちゃダメ! あなたがどうしたいか、それを教えて頂戴な、炉吏子ちゃん」


 人任せにして良いなんて言われたのが初めてだったのか、炉吏子は見て解るほどにうろたえていた。きょろきょろ動いた眼が俺に当たり、助けを求めるような仕草をこんな所で初めて示される。やっぱり母強い。でもここにいれば、確かに安全は買えるだろう。王家の血筋の近さを叩きこんでやれば、おかしなことをする連中もいなくなるかも。と言うわけで俺は眼を逸らし、この場面で炉吏子を見捨てる。


 炉吏子の同意があれば今日中にも荷物を持ってこさせることは可能だろう。ドレスや装身具はまだ社交界にも出ていないから少ないだろうし、勉強道具は学園のロッカーに置いているものも多い。洗濯物なんかはちょっと恥ずかしいかもしれないが我慢してもらって、そして城には客間がいくつも空いている。その中の一つにまとめてしまえる程度だろう。なんなら私服は母上の昔のドレスにすれば良い。

「うちは……別に、そこまでしてもらう必要はあらへんと思います。寮でもそれなりにやってますし、貴族のお嬢さん方の悪意なんて可愛いもんやし」

「でも、あなたは今怪我をしている。それは全然可愛くないわ」

「時間が経てば治るもんやし、こないなもん」

「また同じようなことが起きるかも知れなくても?」

「…………」

「心だって疲れるものなのよ、炉吏子ちゃん。あなたは自覚していないだけで色んなものが折り重なった状態でいる。いつ崩れるか分からない場所に居るんじゃ、冷や冷やして落ち着けないわ。それを解消する手段の一つとして、私は城への同居を勧めている。シーズンにはパーティーなんかも開いて落ち着かないかもしれないけれど、あなたが必要ないと思うのならまだ出席は見送ったって良い。本格的な社交界へのデビューが決まる頃には、馬鹿な貴族だってあなたを認めている頃だと思うわ。ここは少なくとも、寮より安全な場所。気安い場所だと思ってくれても良い。陛下だって、推奨してくれるわ」


 母上の正論に、炉吏子は逆らう言葉がない様子だった。母上はいつも理詰めで来る。強い人なのだ、本当に。九歳の子供が抵抗できなくなるだけの搦め手は用意してある。あんず色の眼が、父上――王の言葉とまで強いものに、勝てはしないのか必死で逃げ場所を探していた。


 逃げなくたって良いだろうに。こんな時こそ、そうだと言うのに。立ち向かえなくて膝を折って。しゅん、と頭を下げた炉吏子は、やっぱり反撃が出来ないようだった。相手が王妃だと言うのも理由だろう。逆らえない。上級生なんかよりもっと、強大な相手だ。大人な、相手だ。

 大人はやっぱり強いんだと思わせられる。母上には本当、敵わないったらない。あの学園で十年以上を王子の婚約者として、やっかまれながらもしぶとく図太く生き抜いて来た母上には。

「じゃぁ……お世話になっても、ええやろ……か?」

 見たことがないほどにおどおどと上目遣いになりながらせわしなく指を組ませていた炉吏子は、やっとそう掠れるような声で母上を見た。

 にっこり笑った母上は、パンパン、と手を叩いてメイドを呼ぶ。音もなく入ってきた彼女たちに、母上はきびきびと指示を出した。まずは辺境伯家への早馬の準備、それから寮の部屋の片づけ用の大きな馬車の手配に、夕食から一人増えることになるとの厨房への指示まで。自分を置いて物事が進んでいくのに慣れていない、と言うよりも自分が中心になること自体が少なかっただろう炉吏子はあたふたしながら、しかしやる事は何もなく、母の腕の中でおろおろしながら視線を惑わせる。


 にやりと笑ってやると、ぷうっと頬を膨らまされた。

 見たか、うちの母上の恐るべき根性を。

 お前も恐らくは同じようなものを根底に持っているだろうが、一国の王妃ともなればそれは凶器に近いものがあるんだぜ。ぷっと思わず笑うと、あら、と母上が俺の頭の上から声を掛けて来た。

「何しているのかしら、ヴォロージャ」

「え?」

「あなたは彼女に城の中の案内をしてあげなくちゃ駄目じゃない。慣れないしちょっと広いから、迷子にならないように手を繋いで行くのよ?」

「え、でも客間はバスルームも完備だし別に改めて案内するような場所は――」

「良いから! 早く行ってきなさい、客間はあなたの部屋に一番近い場所にするから!」

「えええ」

「い、嫌やったらうち別にどこでも――」

「折角のクラスメートで親戚なんですからね、親睦を深める意味でも、色んな場所を教えて上げなさい。良いわねヴォロージャ。さ、エスコートは優しくね」

 とん、と背中を押された炉吏子が俺の肩にぽすんっと顎をぶつけた。顔を覗き込めば、今までで一番近いのが解る。赤く潤んだ眼をしているのがちょっとドキッとさせられたけれど、これから一緒に暮らす相手なんだと思えば、赤くなりたいのは俺の方であるような気もした。

 いや、別に親戚で友人なだけだ。何年か居候してもらうだけだ。必死に自分にそう言い聞かせながら、俺は炉吏子の手を取った。バンテージの感触がある右手。下手にテーピングになんか覚えたら拳の使用頻度が増えそうだな、と思う。まあこれに懲りて上級生が呼び出しなんてしなければ良いのだが。同級生は剣技だのテストだので競い合えば良い。下級生にはそんな度胸もあるまい。

 繋いだ手には剣ダコの感触。今週の体育までに治れば良いのだが、治らなくても全力でこいつは授業を受けるだろう。多分楽しいから。一人でいるよりみんなでいる方が楽しいと、知ってしまったから。孤立も不可能ではないが、独立はしている。今更寂しかったことなんて思い出したくないだろう。痛い目は今までに十分見てる。だから鈍感なところがあるが、それをこいつは乗り越えていくのだろう。一人で。たったの一人で。俺すら寄せ付けず、敵意も悪意も跳ね飛ばして行くのだろう。強い。母上とは少し違った、強さ。


 俺の出番なんてないのかもしれないが、これからは登下校同じになるのだから、ふるい落とせる悪意は増えるだろう。本当の憎しみを覚えるのに、俺達はまだ幼なすぎる。学園と言う社交の場は、狭すぎる。

 だからもっと、お前は、周りを頼って良いんだ。大人になる頃にはこいつも少しは俺に弱みを見せてくれてると良い。そう思って客間に案内すると、ふぁーっと声が出された。

「ぴっかぴかやん! 使わへん部屋もこない掃除してるもんなん?」

「まあ、城だからメイドには困ってないしな」

「わーお布団ふかふかー! 寮の部屋より広いー! 役得やんなあ、王妃様に負けといて良かったわー!」

「多分あの人あらゆる方向からお前を潰しにかかると思うぞ。俺の婚約者にしたいとか言ってたぐらいだしな」

 ぽろりと零れた言葉に、ベッドにダイブしていた炉吏子が俺を見る。

「え、嫌なんやけど」

 普通に傷つく言葉が胸に刺さった。

「うちはまだ辺境伯家の跡継ぎやからな」

「……子供が生まれたら継承者からは外れるんだろう」

「でも今はまだうちが跡継ぎや。その為の遊学中や。表面的でもな。その内ゆーたらヴォロージャかて次期王様やろ? 何で自分のおとん殺さんの? まだちーこいから? 家臣の説得しとらんから? それとも王様になる気がない?」

「それは――」

「うちがおとんに歯向かわんのと、同じことやで」

 飛躍している、と思うが、効果的な反論は見付からなかった。

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