第19話

 きゃあっと声を上げたのは母上だった。タオルで氷嚢を顔に括り付けている子女なんて、流石に見たことはなかったのだろう。炉吏子が来たと聞いていそいそやってきた母に、それはちょっと刺激的な姿だったらしい。炉吏子ちゃん炉吏子ちゃん! と繰り返しながらむぎゅぅっと抱き締められた炉吏子は、きょとんとしている。血が滲んでいた絆創膏も代えられているが痛々しさは変わらない。ぽろぽろ涙を流しながらなんてことを、とその胸に抱きしめられた炉吏子は、戸惑っているようだった。

 一国の王妃がこれほど取り乱すとは思わなかったのだろう。それが自分の立場だと、分かって欲しい。その為に母上を用意した俺は、ちょっと意地が悪かったのかもしれない。自分がやるべきことを母に押し付けている。心配、することを。

「いったい誰に! 輿入れ前の女性の顔に傷を負わせるなんて、いくら貴族の子女でも許されないわよ! 何てことを……炉吏子ちゃん、大丈夫? 痛くはない? 炉吏子ちゃーん」

「殴り返しときましたから犯人は不問にしていただけると幸いですわ、王妃様……そない心配せんでも、派手なだけで痛みもあらしまへん。痕は暫く残るかもしれんさかい、湿布ぐらいは付けた方がええかも知れへんけど」

「ううっ、酷い、酷いぃ~……」

「大丈夫ですって、王妃様」

「大丈夫じゃない!」


 珍しく怒鳴られて、炉吏子の肩がビクッと震える。養父のスパルタ教育を受けて来た彼女にとっては、こんな風に泣いて心配されることも初めてだったのだろう。何故心配されてるのか、怒られているのか、理解が出来ない。今はそれで良い。いつか分かってくれたなら、それは俺の希望だが。

「大丈夫じゃないのよ、炉吏子ちゃん! 女の子の顔に傷を付けるって言うのはね、この世で絶対にやっちゃいけない事なの! 爪なんかで傷が付いてなくて良かったけれど、腫れるほど引っ叩くなんて最低の所業よ!」

「うち、みぞおちにぶち込みましたけど」

「反撃だし見えないから良し!」

 見えない所なら良いのか。まあ俺のみぞおちもいまだにずきずきしているが、それでも手加減されたもの一発だとしたら、本気を二発食らった上級生たちはどうなったんだろう。あまり考えてはいけないかもしれない。

「炉吏子ちゃんの可愛い顔にこんなことするなんて……! お母さん学園に抗議したいけれど大ごとになったら大変だから出来ないこの立場が口惜しいわ! ああんもう!」

「あたた、あんまりぎゅーせんといてください王妃様! 苦しいですよって!」

「だってだってー! ヴォロージャもそう思うでしょう!?」

「俺も一発食らってるんで、今はノーコメントで」

「あなたも炉吏子ちゃんを苛めたの!?」

「違います!」

 とりあえず今日は着せ替え人形にも出来まい。お茶も口の中に傷が出来ていたら迂闊に出せない。左手の指の傷は丁寧に包帯を直されていたが、動かさないようにとぐるぐる巻き度は増していた。右手の殴った際の傷にもバンテージのようにテープが巻かれている。両手とも使い辛そうだが、暫くはこうしておいた方が良いんだろう。それにしても転校二週間弱でどれだけのトラブルに巻き込まれているのか、原因がすべて自分であることが悩ましい。


 俺が炉吏子から離れれば良いのだろうか。思ったが今更席を移っても意味はないだろうし、その移った席にも炉吏子は隣に座って来そうだった。炉吏子も炉吏子で孤立していないことが楽しくなって来たらしいし、俺だって友人とこれ以上離れるのは嫌だ。丁度良い距離を探って得たのが今の場所だ。それを手放すのは、忍びない。

 精神的に距離を置く、と言うのも手だが、無視したりなあなあで相手にすることは、失礼に当たる気がする。何だかんだこいつは俺の友人なのだ。その距離を今更遠ざけることは無理だろう。と言うか、俺の方が無理だった。せっかく出来た唯一の異性の友人だ。進級してクラスが変わるまでは、一緒に他愛ない事を話したりしていたい。それは俺の我が侭だとしても。それがまた女子のやっかみを買うとしても。


 どうしたら良いんだろうなあ、本当。どうやればこいつをそう言う『特別』として見ている訳じゃないと周りに伝わるんだろう。ただの隣の席同士、友人であると言う事が、どうして理解できないのか。妬ましいなら自分も入ってくれば良いだけじゃないか。俺は別に女子を疎外している訳じゃない。単に話せるのが炉吏子だけだと言うだけだ。他の女子とだって話せないことはないが、徒党を組んで一人を追い詰めようとする連中は気に入らない。だからそいつらとは相容れない。それだけだ。


 現に俺から炉吏子たちの話に入って行く事だってあるし、炉吏子から俺達の話に入ってくることもある。話題が合えば共有して、たまには笑い合う。その何が気に入らないんだ。無言の好意なんて知った事じゃない。手紙も一緒だ。どうして友達から始めようとしないんだ。嫉妬は醜い。しかも筋違いと来ている。それをどう説明したら良いのか、俺にはもう解らない。

 せめて守ることはしたいのだが、こいつはそれを要らないと跳ね付けている。俺の力は要らないと言っている。何もかもを自分で解決できると思っているのだ。最初の呼び出しも、俺が行かなくったって炉吏子は勝手に抜け出せたのかもしれない。剃刀の時だって、俺が見付けなくても炉吏子は自分で見付けられたのかも。本格的な暴力を伴った今回は自分で解決したが、そこまでしなくては炉吏子の沸点には届かないのだ。否、そこまでしても沸点とは行かなかったのか。やられたからやり返しただけで、炉吏子はもうそれを怒ってはいない。怒った俺にこそ怒っている。何でだ。冷静になるほど、炉吏子の思考パターンが解らん。自分のけじめは自分で付けると言っているが、その根底にあるのはいつも俺と言う王子の好意だろう。

 好意。悪意は抱いていない。むしろ好ましいと思っているからの、感情。それは他の友人たちに覚えるものとそう変わらない。変わらないのに、炉吏子は虐げられる。そのままでいないのが今のところは良い点だが、それでも包帯だらけの両手と腫れた頬は痛々しい。これがあと半年も続くとなったら、炉吏子の心はどこかでぽきっと折れてしまわないだろうか。


 強さしか与えられなかった、倒れることは教えられなかった炉吏子。強がることだけを強いられてきた炉吏子。折れたらそこまでだと思わされてきたのだろう。出来なければ仕方ないではなく、出来なければ要らないと思わされてきた。だから強くなるしかなかった。誰にも頼れなかったし、相談なんてとんでもないことだったのだろう。痛々しいまでの強さ。

 俺はそれを取り除くことが出来る相手にはなれないのだろうか。寄り掛かって来ても良いと、示せる相手にはなれないのだろうか。いっそのこと辺境伯嬢と言う立場をもっと強く出せていたら。こいつだって王位継承権は四位だ、けっして中央の貴族たちに負ける存在じゃあない。でも炉吏子はそれを喧伝するような真似はしないだろう。やられたらやり返すだけで良い。単純な思考回路。自分に向けられた悪意に、驚くほど堪えない。暴力には暴力で返す。悪意は流して捨てる。あっさりとしたその根性は、逞しい。だけど、でも、俺は。


「炉吏子ちゃん、あなたを守る良い手段が一つだけあるのだけれど、それを言っても良いかしら」

「守られるほど弱くあらしまへんで、王妃様。一応聞いてはみても良いけど、なんですのん?」

「うちに引っ越して来ない?」


 は?


「寮から城に、住み替える気はなあい?」


 何言ってんだ、この人?

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