第18話
放課後、無理やり城に向かう馬車に詰め込まれる炉吏子を見ていた生徒は多かっただろう。だがその伝播力で炉吏子――ローリィが王子の『特別』だと認識する奴がもっと出て来ればいい。手を出せない存在だと思えばいい、思いながら俺は傷の開いていた炉吏子の指の包帯を解いた。血が滲んでいる。膏薬を塗られた指は所々それが見えていたが、それでも傷はぱっくりと開いてた。
「まさかとは思うがお前、相手に遠慮して右手使わなかったわけじゃあるまいな」
「うちはそこまでお人好しとちゃうわ。両手で二発ぶち込んだだけ」
「せめて自分の怪我は庇え。縫った方が早いかもしれないぞ、この出血」
「一時的なもんやろ。また膏薬付けたら戻る」
「だと良いがな」
適当に包帯を結び直し、上から白いハンカチできつく巻く。オキシドールなら城にもあるし、染みはやっぱり残らないだろう。そうやって何もかも消えてしまうのが嫌で、いっそこの傷も残ってしまえば良いのになんて、考えが飛躍する。俺は何故そこまで炉吏子に拘っているんだろう。昨日の母上との会話。否、それは、関係ない。炉吏子のプライドの問題だ、これは。
一方的に攻撃されることを潔しとしなかった炉吏子の問題なのだ。だから俺にも怒った。でも俺は炉吏子が大事な友達だから、傷付いて欲しくない。まして俺が原因の根底にあることでなんか、絶対に嫌だった。俺の所為で炉吏子を。俺の隣の席でなんか無けりゃ炉吏子は。だがそれは責任を問う相手が変わってしまうので、本末転倒だろう。それを指定したのは教師だ。だが俺の周りに誰もいなかったのが要因なら、それはクラス内で孤立していた俺の所為でもある。やっぱり俺か。痛々しく腫れた頬はどす黒く内出血が進んでいる箇所もある。伝書鳩でも飛ばせば、氷なんかを持って来てもらうことが出来たのに。ぐっと口唇を噛むと、はあっと巨大な溜息を吐かれる。
炉吏子はうんざりした顔で俺を見下ろしていた。その数センチの違いがこんなに悔しいと思うのは初めてだ。俺は盾になってやることも出来ない。それが俺には堪らなく悔しい。何か起こってからでなきゃ事実確認も出来ないと思えば、本当、魔法使いにでもなれたら良いのにと思わされた。だがそれは現実的じゃない。でも例えば俺がそうだったら、こんな傷はすぐ治してやれたのにと思ってしまう。
俺もハンカチだけじゃなく絆創膏とか膏薬とか持ち歩いた方が良いのかな。炉吏子の為に。俺自身に喧嘩を売ってくる奴はいない。みんな表面的には仲良しだ。そのはらわたの下で何を考えていても、それはせいぜい好意の手紙として集まって来るだけ。今日ほどそれを醜悪だと思ったこともなかった。やはり数通入っていた手紙は巾着の中だ。炉吏子宛てには今日は一通もそれがなかった。剃刀じゃないだけ、マシだと思ってしまう。
炉吏子は誰かに愛されたいと思ったことはないだろうか。好意を受け取りたいと思ったことはないのだろうか。思って口を開くとふるふるその頭は振られ、肩を竦められた。表情は苦笑い。誰からの好意も期待していない、孤立した彼女はそう思っているのだろうか。ぽんぽん、と傷を押さえる俺の手を叩いて、炉吏子は口を開く。こんな面倒を起こす感情なら、いらないのだろうか。だとしたらそれもまた、俺の所為だ。
「うちは別に誰かに愛されたいおもたことはないかな。だってそれって期待やん? 待ってて受けるもんも、自分から能動的に動くもんも、うちは持ってへん。誰かにそうされたいなんて思わん。自分でそうしたいとも思わん。否定されたり否定したりするのは結構面倒くさいもんなんやで、王子様。毎日誰かの好意を持ち帰るのに別の入れ物用意するヴォロージャやったら解るんと違うの? そう言う面倒さ」
さくりと胸にナイフを立てられたような痛みが走る。いらない、と炉吏子は思っている。炉吏子は知らない。知らずに育ったからかもしれない。未知の物は面倒である。傷もつく。ならば俺がこうして無理やり城への馬車に炉吏子を乗せた事もまた、面倒の一つなのかもしれない。明日はもっと傷付くかもしれないと言う、要素なのかもしれない。
何もかも後手後手に回ってしまう。俺は黙って炉吏子の話を聞く。城はもう、近い。
「だからと言って他人が他人をどうこう思うのは否定せんで。うちを巻き込まんのやったら、勝手にきゃっきゃやってればええ。社交界やって半分以上の子女は結婚相手の吟味やろ? そう言う年頃になっても、多分うちは遠巻きにされるやろな。問題起こしてばっかやし、器量よしと言えるほどの事もない。誰かに興味を持つ自分なんて想像出来んし、誰かに思いを寄せられる自分も想像出来ん。その時それを疎ましく感じる今みたいな自分から、どう成長していくのか。そこからもう、想像は、出来ん」
「……お前はそれが、寂しいとは思わないのか?」
訊ねれば、あははっと炉吏子は笑ってから、口元の傷に顔をしかめた。そっちも絆創膏の上に血を滲ませている。やはりちゃんとした手当ては必要だろう。だがそうしょっちゅう保健室に行くわけにもいくまい。件の上級生たちは、顔を覚えているのであとからアルバムを浚おう。そして学校に訴えるのか? 俺は。
だが炉吏子はそれが必要ないと思っている。やり返したのならイーヴンだと、言い張っている。俺の出来ることは何なんだろう。やるせない焦燥感に、炉吏子は畳みかけてくる。
「別に、結婚せんでも生きて行くことは出来るしなあ。それに恋人がいなくても友人がいれば結構楽しいのが最近分かってきたところやし。自分の心配してくれる人がいるって、なんやくすぐったくて悪い気せえへんもんやな。自分の事やで、ヴォロージャ」
「俺は――良い友達じゃない」
「せやったら今の状況は何やろな?」
これは俺の責任。俺なりのけじめ。でもそんなものは必要ないと一蹴されるだろうから、俺は何も言わずに炉吏子の指をぎゅっと握りしめる。わずかに顔をしかめられる。痛めつけられている事に無頓着で。こいつは、こいつは。
もしかしたら自分が捨てられたのかもしれないと言う事にも気付いているのか。義父や教師たちに見放されたと言うことを、知っているのだろうか。だからここへと、まるで流刑のような遊学に出されたのだと。だって、でなきゃこんな半端な時期の転校は説明も出来ない。
お前はどこまで傷付かないでいられる? 否、傷付いていることに気付かないでいられる? 不意に凶暴な衝動が生まれて、それを試してみたくなってしまう。
「お前、ツォベール伯妃が妊娠したことは知っていたのか?」
きょとんとされて、もしかしてと期待してしまう。
「当たり前やん。一応家族やってんで」
そしてその希望は粉砕される。
「自分が遊学に出された本当の理由も――」
「まあ、嘘でもないけど邪魔やったんやろな。正当な世継ぎが生まれるんやから」
けろっとした態度は一切、崩されることはなかった。
五年。けっして短くない間自分を育ててきた相手にぽいと捨てられる。荷物も恐らくは最低限、学費はもしもの時のための投資、本音は厄介払い。そんな扱いをされても、炉吏子は傷つかない。何をいまさら、と言う態度でいられるのは、いっそ恐怖ですらあった。こいつは何にだったら追い詰められるのだろう。暴力には暴力を持って返す。手紙なんかじゃ傷付かない。傷が付いても精神的な所ではまったく動揺しないし、自分が余所者であることは理解しているから騒ぎ立てもしない。
どうして。どうしてお前はそんなに、強いんだよ。弱くたって良いのに、まだまだ誰かに甘えていたっていい年頃なのに、お前は。炉吏子、お前は。
城に辿り着いた馬車から、手を繋いで一緒に降りる。玄関に向かえばいつものようにメイド達が控えていたが、ひっと喉を引き攣らせる声も上がっていた。真っ赤に腫れ上がった炉吏子の顔の所為だろう。俺はメイド達に、その手当てを頼む。自室に向かって巾着袋を屑籠に向かって逆さまに振れば、面倒くさい感情がぼろぼろと零れてゴミの中に落ちて行った。
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