第17話

 昼休みが終わろうとしている時間帯、教室に入って来た炉吏子を見たクラスメートはにわかにざわついた。何だろう、と俺もドアの方を見るが、さっさと歩いて着席した炉吏子は何も言わない。

 その頬は真っ赤に腫れ上がり、唇も切っていた。ひゅっと息を呑んで思わず凝視してしまうと、こっちを向いたあんず色と目が合う。しらばっくれることが出来ず、固唾を飲んでから俺はローリィ、と声を掛けていた。痛々しく切れた口の端が動いて、笑う。何? 何はこっちのセリフだった。


「どうしたその頬。口まで切れてるじゃねーか」

「別に、ちょいと噛み付かれただけや」

「噛み付かれた?」

「やかましい犬にな」

 やかましい犬。まさか。

「さっきの上級生たちか!?」

 俺が怒鳴ると教室全体の視線が集まった。その中にくすくす笑う女子の声が混じっているのを俺は聞き逃していない。ぎろっとそちら側を睨めば、きゃっと怯えるような声を出すのが分かった。


 自分達じゃ敵わないからって上級性を味方につけた一派がいるのが解る。恥知らずめ、何と言う事を。頭に血が上って立ち上がろうとすると、腕を掴まれた。存外の握力に、俺は顔をしかめてその方向――炉吏子を見る。

 その眼は、しれっとしていて、何もなかったようだった。

 敵しかいない。自分とその他はすべてがそれだけ。他者に傷付けられることなんかなんとも思っていない、ある意味で恐ろしい眼差しだった。

 ――それにも俺の心音は上がり、カッとなってしまう。

「何にもなかったんよ、ヴォロージャ。何にもや」

「嘘を吐け! そんな顔してッ」

「こっちが何にもなかった言うことにしとかんと、うちがしたことも『あった』ことにされてしまうからなあ」

 ぱ、っと離された手、その指の付け根には赤い傷が見えた。まさか。まさかこいつ。

「殴り返したのか!?」

「浅薄なお嬢様の拳でうちがどうにかなるおもたら大間違いやでぇ、なあ?」

 炉吏子が声を掛けたのは俺が睨み付けていた方角と同じだった。ヒッと喉を引き攣らせたような声が上がり、けたけた笑う炉吏子を怯えた目で見ている。ぐーかぱーか解らないが、炉吏子はその頬を打たれたのだろう。何人に何回かは分からないが、口の端が切れるほどの力でそうされたのは事実だ。しかし、では炉吏子はどう報復したと言うのか。赤い、指の付け根。おそらくこっちはぐーだ。

「ちゃんと全員にそれなりのことはしといたさかい、そう怒らんでもええんやで」

「何を、」

「みぞおち二発を三人に。まあ下手に痕が残る場所にはせんかったから、うちの方が被害者で通るやろな。こんだけ派手に顔やられとったら。しかしお嬢様やなー、手袋越しの平手打ちなんて痛くも痒くもないで」

 笑う。


 何で笑うんだよ。お前はやられた方じゃないか。笑うなよ。俺の怒りの行き場は何処になる。自分自身だ。おそらくは王子に馴れ馴れしく近付いている女子がいるとでも情報を流したんだろう。そして上級生には、多分俺へと手紙を書いて寄越した奴もいた。出る杭は打たれる。意地も張れないぐらいなら。だけど。だけど、お前は、何で、笑っている。

「……すまない」

「何が?」

「俺の所為だ。俺が、」

「それ以上言うたらヴォロージャ、殴るで。ぐーでみぞおち。うちの腕力は知っとるやろ。いくらか筋肉痛は残ってるけど、痛いで」

「でも、俺がお前に構うせいでッ」

「ヴォロージャ!」

 怒鳴られて口唇を噛む。謝る事すらさせてくれないのは、どうしてなんだ? どうしてお前はそんなに強すぎるんだ? 弱くたって良いんだ、負けず嫌いでも良いんだ。どっちでも良い、でも俺に非のあることまで背負い込まないで欲しい。俺が悪い。なのにお前は違うとも言わない。ただ、その責任は自分にあると思っている。俺じゃなくそうなんだと、言い聞かせている。王子に近付けばただでは済まないと、解り切っているように。それでも俺の隣に座るのを、止めはしない。同じ距離を保ち続けている。


 ああ、本当。良い女だな、お前。こっちの胸が痛くなるほど、良い女だよ、炉吏子。父上や母上とも渡り合える。こっちの『特別』を丸っきり無視してくれる。一人でも生きて行ける、けれど。

 俺はお前を一人にしたくないし、俺ももう孤立なんてしていたくない。そのぐらいに大切な友達なんだ、お前は。もしも母上が言うように辺境伯家がお前を放り出すなら、俺が受け取っても良い。否、受け取りたい。痛々しく腫れた頬を際立てるライトブラウンの髪。血が滲んでいる包帯でぐるぐる巻きの指。いつもよりよく見える、前髪を切った、物事から逸らされない眼。誰の所為でもないと、本気で言っているんだろう? 俺は関係がないって、本当に思っているんだろう?


 あるんだよ。巻き込んでくれよ。関係者にしてくれよ。謝らせてくれ。何の関係もないのに、ちょっと仲良くしただけでどんな関係が生まれている訳でもないのに、苦痛を受けたのはお前なんだろう? ただの友達なのに。今はもう、ただのクラスメートに戻してやることもしたくない、大切な友人なのに。

 俺が王子だからだ。俺の所為だ。俺が為にお前は傷を負った。それに間違いは、ないんだよ。本当に本当なんだよ。間接的にでも、俺がお前を傷付けたんだ。

 頼むから、謝らせてくれよ。

 涙が出そうになって、ぎょっと跳ねさせた肩は細い。

「ど、どないしてんヴォロージャ。うち怖かった? ごめんな、でも本当にヴォロージャは関係ない事やってんで? それにうち、前は始末任せてしまったやろ? やから今回は自分でケリ付けとかなあかんおもて――」

「お前は悪くないっ!」

 思わず怒鳴れば、また顔が熱くなる。

「俺はお前の友達なのに、俺がお前を友達にした所為で、指だって顔だって、傷付けられてッ……それでも俺の所為じゃないなんて、言えないだろう!」

「ヴォロージャ、」

「俺は自分が情けない、友達も守れない不甲斐ない自分が心から申し訳ないと思っている! 俺は、」


 友達失格だ。

 言いそうになったみぞおちに一発重いのを入れられて、げふっと声が出る。

 教室中が、絶句する。


「せやから謝らんでええ言うとるやろ!? 言ったやん、悪目立ちしとるうちも悪いんやって! 大体こんな狭い社会で起きる刃傷沙汰まで責任取ってたら王様になんかなれへんで、ヴォロージャ!」

「げほ、げほっ」

「ほれ、うちは王子様のみぞおち殴った大罪人やで。謝る必要あるか? 自分のケリは自分で付ける、それがうちのプライドや。それを奪われるぐらいなら、罪人になる方を選ぶ。意地張ってでも泥啜ってでも! そうして生きて行くことは決まってたことや!」

 人質交換。生まれる子供。おそらくは遊学と偽って遠ざけられた、慣れた土地。違う言葉遣い。妬み、嫉み、尽きない悪意。でもそれは慣れたものだった。炉吏子にとっての悪意とは、常に隣にあったものだった。おそらく疎まれていたのだろう。立場は一応隣国の姫君だったわけだから。秘密。秘密は洩らせない。スパルタ教育。こいつは、いつも、胸を張って立っている事しか教えられなかった。強くあること以外を与えられなかった。

 それが、炉吏子のプライドだ。

 でもそんなもの、今は、叩き壊してやりたい。

 げほげほと咳き込んで椅子に深く座り込む。隣の席で炉吏子はさっさと授業の準備をしている。それで良いのか。良いんだろう。炉吏子は『勝って』いる。肉体的にも精神的にも、一様な被害者ではない。やり返している。強い。強すぎる。そんな強さじゃ、いつか立っていられなくなるのに。

「ヴォロージャ」

「……なんだ」

「口のトコ、絆創膏貼ってくれん?」

「何でお前そんなもん持ち歩いてんだ。前も思ったけど」

「こういうことが起こるのも察知してかんと。虎穴に入らずんば虎子を得ず、言うやん。うちにとって学園は虎穴やねんで」

「虎児は何だ」

「それは、まだ見付けてへん」

 けらっと笑った炉吏子は、直後に青くなりつつある頬を押さえた。

 笑いも出来なくなるぐらいなら、そんな度胸は要らない。

 思うのは俺の勝手なのだろう。

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