第16話

「なんやヴォロージャ、機嫌悪い?」

 炉吏子が訊ねて来たのは昼の学食でのことだった。ここ最近のいつもの面子で並ぶと、俺の隣は必然炉吏子である。もそもそとサンドイッチを食っていた俺は、別に、と返したが、それ以上の事は言わなかった。言えなかったとも言える。機嫌は悪くない、胸糞が悪いだけで。朝から続いているその低気圧に、気付かれていたのか。逆隣りに座っている友人の男子にも、嘘吐け、と言われてしまった。こちらはカレーである。ナンの匂いが甘く美味しそうだった。明日はバターチキンにしよう。思いながらオレンジジュースを飲む。確かにメシとジュースはえぐい組み合わせだった。マヨネーズの味が残っている舌には、ちょいと気持ち悪い。せめて炭酸飲料にすればよかった。べったり甘くて残っている分を食う気が失せる。

「午前中ずーっと上の空やったやん。板書もせんと。テストで困るの自分やで」

「あーそう言えば、そろそろ中間テストだな」

「中間テスト?」

「学期の真ん中に定着度確認のために実行するテストで……あなた知らないの? ローリィ」

「知らん。うちいつも講師とマンツーマンやったから、特別受けた事ない。辺境は学校もあったけど、うち通わせてもらえひんかったし」

「英才教育? 帝王学ってやつかしら」

「ただのスパルタや、あははー」


 笑う炉吏子の声がいやに耳についた。やっぱり市井と関わるようなことは禁止されていたんだ、なんて。俺が怒ることでも、父上が怒ることでもないと言うのに、砦の図書室で孤独に過ごしていたのだろうことは想像に難くない。

 苛立ちが生まれそうになって、またパンを噛む。食うことは重要だ、気分転換になる。頭が咀嚼や吟味にリソースを割かれ、必然他の考え事の領域が小さくなるのだ。気にしていない。気にしちゃいけない。なのに周りはそんな俺の煩悶なんて気にしない。

「でもそれでよくうちの学園の速度に付いて来られてるわよね。この学校だって授業速度は結構早い方だって言われているのよ? 代わりに社交界でのマナー講座が入るから、きちきち詰まってて息苦しいわ。私も実家が遠くて寮暮らししているけれど、それでも時間が足りないって思わされるもの。高学年になったらもっと本格的なデビューに向けての指導があるから、うんざりしちゃうわ」

「すでにデビュー済みの王子としての考えはどうだ、うりうり」

 友人に肘でぐいぐい脇腹を突かれる。地味にウザい。

「学校での講座は俺にとってはおさらいに近いからな、あまり考えたことはない。顔と名前と爵位の一致にさえ気を付ければ、後はただ笑って世間話をするだけだ。年上の令嬢と接する機会は多いが、上手く逃げてるつもり。学園でも見掛けない年嵩の女性は、さすがに紹介されないが」

「年上過ぎても困るやんなー。向こうさんが百戦錬磨、ちゅーこともあるやろし」

「何を言う、ヴォロージャだって百戦錬磨だぞ。進学した当時は王妃様の趣味で色んな年頃の女性と対面させられている」

「あー王妃様やったらやりそうやな……」


 納得してくれるな。まあその反応は、二度おもちゃにされている炉吏子にとっては実感の籠ったものなのだろうが。母の趣味は意外と口外されていない。くるくる着替えさせられて飾り立てられて、疲れるばかりな挙句肝心の王子が逃げの姿勢を取っているからだ。やっぱり俺は女子が苦手なのかもしれない。


 でも炉吏子は。


 髪を引っ張ってちょっと伸びてきた前髪を目隠しの方向にさせる。炉吏子が訝る気配があった。昨日までとは全く逆な俺達のそれ。今はちょっと、長い髪が欲しい。くせ毛でもなんでも集めて、ゴーグルのように目の前の光景の彩度を落としたい。俺にだって逃げたい時はある。考えたくない時だってある。

 炉吏子はただの女子として見ても、政治的な駒として見ても、俺にはメリットばかりだ。メリット・デメリットで女性を見たこと自体初めてだが、それでもローリィ・ド・ツォベールも浪花炉吏子も俺にとって有益である。隣国の姫、辺境伯の養女、それから、気安い、クラスメート。珍しく喋れる女子。

 だが炉吏子の方には? 俺と居る意味は?


 多分、殆ど無いだろう。孤立していられる強さも持っているし、今は友人も作っている。怖いものなど何も無いだろう。否。多分だが、炉吏子は意図的に恐れを教わらずに生きて来たんだと思う。競い合う友人もなく、笑い合う学友もなく、一人で本を読んで育ったのかもしれない。知らない。けれど恐れ知らずだからこそ、俺にも素を晒してくれたのだろう。謙譲も尊敬もなく、だけど偏見もなく、母とだって渡り合った。すさまじいことなのだ、それは。


 俺にとって、父母は足かせに近かった。王子でなければと思ったことも無いではない。だが父上と母上はただの両親として見ればとても優秀だった。母は少しはっちゃけることもあるが、おおむね状況を理解して適切な助言を与えてくれる。父は大らかな眼でそれを眺め、行く先を眺めている。それが王と王妃だから、とは思わない。二人は二人で経験をもとにしている。それは市井の夫婦も同じだろう。だが特殊な立場による経験と言うのは、勿論あったはずだ。俺の受けるラブレター攻勢のように。炉吏子が受けたブラックレターのように。父は母に土下座した。平手打ちも食らった。でも王妃にすることに躊躇いはなかった。俺はどうしたら良い? 炉吏子を、ただの『気安いクラスメート』として学園でだけ関わって行くのか? たまに城に呼んでお茶会をして。それで満足なのか? 俺は、俺は。


 いつの間にか食べきってしまったサンドイッチ、ストローを嚙みながら啜るオレンジジュース。食後なら悪くないんだな、と気付いて、でもやっぱり紅茶かコーヒーの方が無難だな、と学んだことを無駄に確認する。

 俺は。俺は一体炉吏子を、どう思って。どうなりたくて。どうしたくて。


「ツォベール辺境伯嬢のローリィ・ド・ツォベールさんと言うのは、あなたかしら?」

 背後から掛けられた声にぎょっとしたのは俺で、他の三人はその前に後ろを向いていた。椅子の足が滑る音が一拍遅れて四人分。腕を組んで立っていたのは上級生と思しき――多分初等部の六年か五年ぐらいだろう――令嬢が三人。全員手袋を付けているから貴族出身だろう。顔は、見たことがあるような曖昧な所だった。他学年の事なんて自学年の女子すら把握しきっていない俺には無茶な事である。それに小学生なんてまだ顔の形が整っていない。アルバムを見れば解る事である。はい、と応える炉吏子に、三人の眼が行く。

「少しお話があるの、昼休みのお時間頂けるかしら。勿論昼食は済ませてからで構わないわ」

「今食べ終わったところです。ところで何の御用でしょう、上級生のお姉さま方。心当たりはないのですけれど」

 標準語だった。一応ヒアリングして覚えていることは覚えていたのか。きょとんとしたのは残された俺達三人である。さっきまで異国訛りでぺちゃくちゃ喋っていた、俺達同級生である。よほど気を許されていたのだな、と今更ながら気づいて、自分が恥ずかしくなった。鈍感だった。思えばクラスメートとの会話も、だんだん滑らかになって来ていたように思う。イントネーションも聞き慣れたものに。

 俺には最初から随分、砕けて話しているが。そこは自惚れて良い所なのか、分からなくなる。

「話はおいおい致しますから、来て下さる?」

 母上ほどではないが圧を感じる笑顔に覗き込まれて、はあ、と炉吏子は席を立つ。

「ヴォロージャ、食器片づけといて」

「え? ああ、分かった」

 立ち上がりがてら俺を振り向いたその瞬間の上級生たちの目つきは、険しくなっていた。だが炉吏子が顔を上げるとすぐににっこりとした笑顔に戻る。女の怖い所が存分に出ているのが気になって、だけど俺は、何も出来なかった。何もしようとしなかったと言っても良い。炉吏子が遠ざかるのがむしろ、好ましいような気がしたのだ。少なくとも今の俺からは。

「おいヴォロージャ。あれヤベェ奴だぞ」

「見りゃ解る」

「なら何で止めない」

「俺が関わった方がややこしくなるだろ」

「確かに。とは言え、なあ……」


 両隣の友人たちは押しなべて不安そうだったが、俺は息を吐いて人心地つくだけだった。

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