第15話
次の日いつもの時間に学園に向かうと、炉吏子と丁度教室の前でかち合った。都合が悪いな、と顔に出そうになったのを堪えて、よう、と挨拶すると、うぃ、と手を挙げられる。左手の指にはまだ包帯が巻かれていた。まだ取れないのか。やっぱり傷が開いてしまったんじゃないかと思うが、炉吏子はいつも通りの長い髪をくるくるさせていて、そっちに不便はなかったらしいとちょっとホッとする。
「いやー昨日の名残で身体バッキバキやわ。王妃様大丈夫やってん?」
「朝食を部屋で摂った程度にはバッキバキだったみたいだな」
「あはは、至れり尽くせりして貰えるところはええな。うちは髪巻いてる時ですら櫛落としそうになったで」
「髪は癖残らなかったのか?」
「湿気があるといつものに戻って来るねん。シャワー一発でいつものローリィちゃんやで。せやけどいい加減長くて面倒やさかい、切ってもええかなーって思っとる。でも貴族の令嬢はショートカット珍しすぎて、纏め方変えるしかなさそうやんなー。自分で編み込み覚えるのも面倒くさいわ。学生時分は」
けたけた笑って俺達は当たり前のように隣の席に座る。もう誰も見咎めるようなことはしなかった。慣れが入って来たんだろう。馴染みの友人たちに挨拶をするのを見て、俺も自分の友人たちに声を掛ける。別々の方向を向いて座っていれば、本当にこいつは俺の王子としての立場を無視してくれているんだな、と思うばかりだ。たまたま隣り合った女子に口をきかれることもなく、気まずい時間を過ごしたことも皆無ではない。緊張されて言葉が無くなる、なんてこと、炉吏子にはありえない。
それがこんなにも心地良いとは思っていなかった。だが同時に、それが俺の婚約者向きである性格であることに頭が悩まされた。確かに、確かにこいつはその素質を持っている。母上だって父上相手にはぞんざいな態度を取れるしなんなら土下座もさせて平手打ちも出来る強い婚約者だったのだ。俺にもそれは可能だろうか、と考えると、ちょっと想像が出来ない。と言うか、嫉妬する炉吏子が解らない。つまり現状俺は一切炉吏子に意識されていないんだろう。思うとちょっとは肩も落ちる。
いやいや、はてさて、俺は炉吏子に意識されたいのか? 鬱陶しいじめじめとした恋愛感情から逃げて来たのは俺の方だ。それなのに今更男として見て欲しいなんて都合の良い事じゃないか。我が侭が過ぎる。せめてもう少し様子見をしてからだよな、と落ち着くと、その顔を見て気付いたことがあった。ありゃ。
「ろ、……ローリィ、お前、前髪切ったか?」
巻いている様子ではないので訊ねてみると、ホントだ、と友人たちも気付いたらしい。あー、と前髪をつまんでへらっと笑う様子に、こんなだらしない笑いを見せられる程度には慣れて来ているんだと、一日目の仏頂面を思い出す。
「重うなって来たから、朝にちょちょいとな。汗かくと上がって来そうやけど、体育の無い日なんかはこの方が楽やってん。曲がってたり変なとこあるかな? 洗面台で揃えただけやから、自分でも分からんねんや」
「いや、特に変じゃない。いつもより眼が見えてて綺麗だと思う」
きゃー、と騒ぎ立てる女子たち。何か変なこと言ったか? と首を傾げると、するっと出ていた『綺麗』と言う言葉で自分もちょっと驚いた。男子も男子でニヨニヨした視線を向けて来るので、そっちも向きづらい。ええい。母上の所為だ。あんなこと言うから、変に意識して――いないから綺麗なんて言葉が出たのか。どうなんだ、俺。
あははっと軽く笑った炉吏子は気に留めた風もない。そら良かった、と長くて重そうな巻き毛を揺らせる。椿油の匂いにも慣れてしまった。ちょっとずつだけど、こいつのいる日常を俺は楽しんでいるのだろうか? 解らない。解らないけれど、悪くない。と、眼鏡を掛けた友人がそれを上げながら笑っているのに気付く。
「ヴォロージャが女子の髪なんか気にしてるの、初めて見たよ。どういう心境の変化? 僕たちの髪さえ無頓着なのに、前髪なんて些細な変化に気付くなんてさ。でも本当、ローリィさんの眼は綺麗だね。この国では珍しい、あんず色なんて」
「生まれは国境だからな。隣国の血が多少混じってても不思議はない」
「それもそうか。ツォベール辺境伯って血統とかあんまり重視しない人なの?」
「それは――」
正妃に妊娠の兆候。それと引き換えるようにやって来た炉吏子。もしかしたらこれは、厄介払いだったのだろうか。王都で適当に扱われて問題ない貴族に押し付けるための。だとしたら、だとしたら? 血統と、ともに過ごした時間。スパルタ教育の結果の、他人に期待しないどこか投げやりな態度。それでも自分の子供の方が良いと、思われたのならそれは。
「――どうだろうな。俺もあまり会った事の無い人だから、よくは知らないんだ。ただ教育熱心だったとは、聞いているかな」
「それは体育の授業でも見たもんね。あの剣さばきと身のこなしは、よっぽどのレッスン受けてたとしか思えない」
それでも。
炉吏子は追い出されたのだろうか。
解らない、とふるふる頭を振って前髪を引っ張る。王都に来た炉吏子の奔放さが抑圧されていたが故の物だとしたら、その明るさは痛々しいものなのかもしれない。同級生とのやり取りだって初めてだろう。辺境では個人レッスンだったようだし、そうなると最初に呼び出された時に何も言わなかったのも、何も言えなかったからなのかもしれない。本当に助けを求めていたのかもしれない。どう喋ったら良いのか分からない、その葛藤を、どうにかしたのが俺だったら良いな。思わず吹き出してしまうほどの、俺の姿にだったら。
自分を正義面した断罪者だとは思っていないが、少なくとも炉吏子の味方である事だけは確かだ。こいつに敵視されることがあるとしたら、それは俺が炉吏子を裏切った時だろう。否、でもこいつは自分を用無しと判断した養父を憎んではいない。ただ諦められるだけだとしたら、その方が残酷なのかもしれない。諦める。好意も敵意もそうしている。だから傷つかない? 身体の傷は特に気にしない。だけど心の傷は?
チャイムが鳴って教師が入って来る。ぐるぐるした頭の中、ヅンっと突かれた頬に炉吏子を見ると、きしっと歯を見せて笑われた。令嬢っぽくない。お姫様っぽくは、もっとない。それなりに高貴な生まれをしているはずだろうに、それを感じさせない気安さがこいつにはある。愛嬌とでも言えば良いのか。身に付けられたそれは、少し醜悪でもあった。だがそれも処世術か。悲しい、空しい、寂しい。空虚で切ない。
「どないしたん? ヴォロージャ。何や様子おかしいで?」
つんつん柔らかい頬をつつかれて、俺はそれから逃げるようにする。全部母上の所為にしてしまえたらどんなに楽だったろう。でも俺は気付いてしまったから。これは俺の視点でしか見られない事だから。そう、ほんの少しの違和感と、絶望感に、俺は気付いてしまったから。
絶望感。こいつは何も期待していない。だから怪我も痛くない。筋肉痛も慣れっこで。どれだけ虐げられても強かで。それはまるで雑草のように。雑草は死なない、とはどこの諺だっただろうか。死なないために。いつか反旗を翻す気でもあったのだろうか。だとしたらその心配のない実子を選んだツォベール伯の判断は正しい。だがいきなり投げ捨てられたこいつは。まだ九歳で、親から二度も捨てられたこいつは。ローリィ。炉吏子。名前に振り回されてきたこいつは、こいつは。
可哀想なんじゃないかと、気安い同情をしてしまう自分が反吐が出るほどお気楽で、眉間にしわが寄る。
炉吏子はそんな俺を覗き込んで、不思議そうにそのあんず色の眼を丸めていた。
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