第14話
泊って行けば良いのにと言う母の言葉を全力で無視して、炉吏子は帰って行った。髪は爆発するからそのまま、着替えは洗って返すと言っていたが城の物だから構わないと断固拒否しておいた。何より母の名前が刺繍されているそれを洗濯屋に出されでもしたら騒ぎが起きかねない。帰り道は間違えないようにな、と一応地図を渡したが、歩いて三十分程度の道のりなら大丈夫だろう。父母は馬車を、と言ったが、うちの馬車は高いし目立つ。一度凝りているので必死で止めた。
大体泊って行ったら明日の朝は一緒に馬車通学になるじゃないか。噂が広がって上級生にまで目を付けられるようなことになったら面倒過ぎる。男が相手ならまだしも男女の仲を今度こそ学園全体に疑われるような危険は冒したくなかった。そう言うところをまるで解らない婚約者同士だった父母が、ちょっとは鬱陶しかった。城に出入りするたびに服を持ち込んで自分の居場所を確保していた母と、俺との仲を疑う生徒との決闘の稽古をしに来た炉吏子の立場は、まったく違う。正反対も良い所だ。大体炉吏子にしたって俺の事なんかどうとも思っていないだろう。王子。それだけ。あと一応親戚。でも愛想は寄越さない。そこまで細やかに感情を砕いては、いない。
あいつにだって迷惑だろう。明日は多分筋肉痛で母は寝込むだろうが、炉吏子は平気な顔で俺の隣に座っているはずだ。むしろ大変なのは今日で、爆発した髪をどうにかしなければなるまい。運動をするからいつもの椿油は付けて来なかったようだが、丁寧にあの長くて重そうな髪を洗うのは難儀なことに違いない。すまん。母の事では謝ってばかりのような気がするが、重ね重ねすまん。炉吏子よ。寮のバスルームがどうなっているかは分からないが、多分凄いことになるだろう。髪が長い分、詰まりやすそうだし。
それにしても母上強かったな、と机に向かって課題をやりながら考えていると、コンコンコンコン、と折り目正しい四つのノックが聞こえた。どうぞ、とペンを置いてドアを振り向くと、ドアからちょろんっと顔を覗かせたのは母上だった。何だ、と思って目顔で問うと、そうっと入って来てぱたんと扉が閉じられる。メイドは連れていないらしい。
しかし母上が俺の部屋に入って来るのは久しぶりだな。進学してから少しの間は忘れ物の確認や課題・プリントのチェックをしていたものだが、それらが自分で足りるようになると自然と母の来訪は減って行った。いつもなら俺の方が向かうことが多いから、珍しくなってしまう。母も久し振りの俺の部屋で物珍しいのか、ほー、っと異国語の絵本や経済・政治の本を見ている。読んでいるものも大分変わった。もっとも絵本は、炉吏子の訛りを解読するために図書室から引っ張り出したものだが。
「宿題中だったかしら。お邪魔? 私」
「そんなことありませんよ、どうぞお掛け下さい、母上」
昼寝に使っている安楽椅子を勧めると、母はちょっと浅く腰掛けた。落ち着かない様子だが、何の用だろう。首を傾げると、母上は顎を引いて少し上目遣いになる。ブラウンの長い髪を下ろした姿は、少女のようだった。ガチ少女と容赦のないラリーを続けていただけの事はある。
「ヴォロージャ、学園生活は上手く行っている? ラブレターも返さないようじゃ孤立していないかしら」
「独立してるだけです、俺は。最近は炉吏子が転校してきて、慌ただしくしてますよ。なまじ隣の席なものだから、色々話してて、まあ、前よりちょっと騒がしくなってますかね」
「あら、いつもと違うお返事ね? 前はラブレターばかりで面倒くさい、って言っていたのに」
「そっちは進行形で煩いです。いっそ城に送って見ろってんだ」
足元の屑籠を見せると、そこに捨てられている十数通ほどの小奇麗な封筒が母の眼にも入る。あらあらと苦笑いしているのを見て、そう言えば、と思い付く。
「母上が学生の頃は、母上に手紙を出す人って居たんですか?」
「あら、これでも才色兼備の文武両道だったからね、皆無じゃあなかったわよ。でも私は王子の婚約者だ、と誇りを貫いていたから、それも段々減って行ったわね」
「そりゃ良いことで。自分で言えりゃ世話ないですよ、まったく」
「炉吏子ちゃんはどうなのかしら。あなたと近付いて、平気そう?」
ぐ、と黙ってしまう。炉吏子の傷。まだ包帯が取れていない。今日は両手打ちもしていたから傷が開いたかも。血が滲んでいる様子は、なかったけれど。でも俺と言う王子から離れたら、あいつはもうちょっと自由になれるのかもしれない。
だが城に呼び付ける母だって問題だ。俺だけの所為じゃない。ぷい、と視線を逸らすと、苦笑される気配があった。どうせ俺はまだ何の権力もない子供だと言うのに、屑籠の中身のように俺と近付きたがる生徒は多い。そのくせ彼女たちは、俺の『友達』にはなりたがらない。炉吏子が転校してくるまで俺の席の周りががら空きだったように。
幼稚部からの級友だって、ちょっと遠慮しているところが多い。そうしない奴が友達なんだと、俺は思っている。炉吏子のような遠慮のなさを望んでいる訳ではないが、学食を一緒に出来る程度の友人すら、俺には少ないのだ。近すぎると今度は周りに無言で責められる。だから人が離れる。よっぽど図太い奴でないと。
「ねえヴォロージャ、あなた、婚約者を作る気はなくて?」
「は?」
「女子にも男子にも強くて、私ぐらいに強い女の子。炉吏子ちゃんを、婚約者にする気は、なくて?」
離れるんじゃなく、もっと近付く?
あいつと俺が?
いや、それは。
「それは無いですよ母上」
「あら、どうして?」
「母上もご存じの通り、あいつはツォベール伯の実の娘じゃない。隣国の王の妾腹と聞いています。それにツォベール家の家督の問題もある。とても王子の婚約者には、次期王妃には、向いていません」
「ツォベール辺境伯家に新しい子供が生まれたら?」
「え、なんですそれ」
「早馬で知らせがあったの。ツォベール伯妃に妊娠の兆候があるそうよ。そうなったら人質の炉吏子ちゃんより、優先される候補になるでしょうね。それに隣国では、妾腹の女の子には王位継承権がないと聞いているわ。そのままうちの国に取り込まれてもやむなしという判断がされているのは、想像に難くない」
存外理路整然と話すのは知っていたが、まさか炉吏子の事をそこまで考えていたとは思わず、俺はたじろいでしまう。確かに実の子に領地を託すのは当然の事だろう。だがそれでは炉吏子の人質としての意味がなくなってしまうと言う事ではないだろうか。それとも関税云々の関係は続けたままで、小競り合いの起きないよう、隣国の姫との婚姻を考えていると言うのか。現実的に考えて、確かに俺と炉吏子の関係がそうなっても、誰も困らない。むしろ円満であるのかもしれない。しかし、だがしかし。俺は髪を引っ張る。あいつと違う直毛。くるくる、ライトブラウン。あんず色の眼。しかし。だがしかし。
「……父上と母上の結婚は合理的でしたか。それとも愛がありましたか」
「なかったらあなたを産んでいなくてよ。あんな思いしてまで」
「あんなってどんな」
「鼻からスイカ?」
「いや何それ」
「まあそう言う例えがあるのよ、子供を産むって。学園でずっと一緒で、パーティーなんかでも優先的に誘って頂けて、ラブレターとブラックレターを交互に貰って、色んな面で他の子女たちと戦って。愛があったとは言えるわね。そしてそれは今もある。最初は解っていなかったけれど、王妃の立場は努力と根性で得るものだったわ」
「……そんなものが、炉吏子にあると言えますか?」
「ないとは言えない。私にあれだけ食いついて来た子ですもの。少なくとも根性はあるわ」
炉吏子を婚約者に? 確かに俺にはまだ決まった相手がいない。だからと言って、たまたま隣の席になっただけの女子をそんな風に簡単に縛り付けて良いのか? 母の言う通り、努力と根性を俺が強制しても良い物なのか?
そもそも俺はあいつをどう思っている? 愛してるとか好きだとか、そんな積極的な感情はまだ顕在化していないものだぞ? まだ初恋も知らないと言うのに、否それだからこそ都合が良いとでも言うのか?
考えておいてね、と言って母は部屋を出て行った。名残で揺れる椅子の籐が鳴る音。俺はさっきまで抱えていた課題をさっさと終わらせて鞄に突っ込み、まだ母の温度が残っている安楽椅子の上で膝を抱えた。
くるくるの巻き毛。あんず色の眼。俺は選べる立場にある。だけど、だけど。
顔を膝に伏せて、俺は自分の感情を探る。
解らない事ばかりで、頭を振るしかなかった。
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