第12話
炉吏子の孤立を憂いていた母にざっくり昨日今日の話をすると、手に持っていたティーカップを震わせるほどに憤慨したのは異常だった。確かに刃傷沙汰になるとは思っていなかったのは本当だが、それだけに母のショックというか、苛立ちは激しいものだったと言える。指をざっくり。包帯でぐるぐる巻き。利き手じゃなくて良かったが、そんなことは問題ではない。茶菓子のスコーンをばりっと乱暴に割って、クロテッドクリームを大量に付けて、オレンジのマーマレードを塗りたくったそれにがぶーっと噛み付いて口周りを子供のようにしながら食うのは、まるでストレス解消に学食に向かった俺のようでもあった。
やっぱり似てるのか俺達、親子だし。ちょっと嫌だなあと思いながら、クリームを零さない程度にスコーンをもっつもっつと口の中に突っ込んでいっては紅茶を煽る母を見る。学園の伝説の人。そんな彼女にとっては攻撃などとんでもないことだったのかもしれない。才媛でもあったと言うから、なおさらに。
正々堂々見返せるよう努力するのが母にとっては当たり前のことだったのだろう。あの今でもたまに若い淑女を見るとご機嫌な父上の隣に立つために、母は相当な苦労を強いられてきたはずだ。それでも母は負けなかった。図太く生き残って頂点を極めたのだ。そんな母にとって、つるし上げだの剃刀レターだのは、まったく理解の範疇の外にあるのか。
紅茶をぐーっと飲み干して、はーっとナプキンで口元を拭きながら鼻息を鳴らした母は、多分こんな学生だったんだろうな、と思う。卒業して十年経っても変わっていない。他人の事に真剣に怒れる人であることは、小さな俺の誇りである。母上強い。
しかし今日は炉吏子を連れて来なくて正解だったな、と思わされたお茶の時間である。仕返しにどんな知識を刷り込んで来ようとするか分からないからだ。ただでさえ俺に助けられたことを知った炉吏子は激怒していたので、余計に刺激を与えることになる。そうなったら楽しいクラスは作れまい。遠巻きにされて孤立リターンズだ。それは避けなければならない。本末転倒になってしまう。
「もうっ、女の子っていつの時代も変わらないんだから! 私の時なんか果たし状が入っていたぐらいだったのに!」
「何それ怖い。果たし状って、内容は何だったんです? 母上」
「テニス部のエースとの試合。二試合先取で叩きのめしてやったけれどね。ちなみに体育の選択は剣術だったけれど、テニスも知らない訳じゃなかったから出来たのよ。そうだわ、次の日曜には炉吏子ちゃんとテニスしようかしら。私と同じことになる前に、ルールは覚えておいた方が良いもの」
「体育着は」
「私のお下がりがあるわ!」
「どんだけ大事に持って来てるんですか実家から」
うふふ、と笑う母上に恐ろしいものを感じるのはあたりまえだろう。スコーンに蜂蜜を垂らして俺はがぶっとそれを頂く。父上の公務中は大概テラスでお茶をして一日の事を報告するのが、俺と母の習慣のようなものだった。それも部活が入る高学年までだろうな、と思っているので、出来るだけこの時間は大切にしたい。
しかし女子の話題が入ると断然張り切るのは止めて欲しかった。まあテニスに誘うぐらいなら構わないかもしれないが、炉吏子に肩入れしすぎるとまた余計な嫉妬を買うと言う事も解って欲しい。何人かの級友を集めて、と言うのならまだ分かるが。王妃と個人的に謁見しているのがばれたら何と言われるか。ただでさえすでに王家の馬車に乗ったのはバレているんだから、まったく危険性を分かっていない。
このテラスだって、三人には広いぐらいだが、六人七人となると狭いのは否めないのだ。そして俺にはそんなに沢山友達はいない。必然的に絞り込まねばならないが、女子に限定される。そしてまた憚るものとしてその女子はいじめのターゲットにされるだろう。
炉吏子ほどのバイタリティがなければ、すぐに頽れてしまうだろう、普通の令嬢は。犯人は突き止めて釘を刺しておいた、俺が言った時の炉吏子は珍しく頬を紅潮させて怒ったものだ。余計なことすんな、自分の始末ぐらい自分でつけられなあかんのやこっちは。言うと思ったが、俺の不始末でもあったのでそこはイーヴンにしてもらった。それでもぷりぷり怒っていたが、友人に窘められて学食を奢らせてもらって、どうにか機嫌を直してもらった。
女子の機嫌を窺うなんて慣れない事だったので、ちょっと疲れたのも事実だ。しかし守られてもくれないとは、いやはや、ツォベール伯の教育は一体どんなスパルタだったのか。ちょっと恐ろしくなる。うちは比較的伸び伸びと育っただけに。帝王学もまだまだ学び続けている最中だし。
「取り敢えず日曜は炉吏子ちゃんを城に呼んでくるのよ、ヴォロージャ。寮からは歩いて来てもらった方が良いかしら。それともやっぱり馬車を出した方が」
「市井に慣れてもらうためにも歩いて来てもらった方が良いと思いますよ。あと炉吏子ラケットは持ってないので」
「私のがあるわ!」
「だからどんだけ持ち込んでんですか母上!」
宝物は全部持って来たと聞いているが、そんなものまで。まああるに越したことはないが、母上のテニスウェアなんて俺だって随分見ていない。子供を産んでも体形が大して変わらなかったと言うから学生時代に使っていたものがまだ入るのだろうが、炉吏子はどうだろう。細い身体だったと言っていた。なら大丈夫か。それにしてもテニス、俺も付き合わされたりしないよなあ。疲れるのは面倒なんだが。あんな右左と動き回るのは。その点剣術は最小限の動きで済むから良い。緊張感も適度にあるし。
何も付けていないスコーンをに噛み付いて、さっきの甘味を口から逃がす母上は、剣術もそこそこ以上に出来るのだろうか。聞いてみると、ええ満点だったわよ、と返された。マジか。
「文武両道は淑女の嗜みよ、ヴォロージャ。それに反する相手だからこそ、私は怒っているのだから。あら、でも指を怪我しているとなったらテニスのラケットはまだ持てないかしら。傷が開いちゃうわよね、下手をすると」
「利き手じゃなかったんでそれは問題ないと思いますよ。でも本人ルールを覚えるのが面倒だって言ってたんで、簡単に説明する用意をしておいた方が良いと思います」
「そんな複雑なことはないから口頭だけで大丈夫でしょう、うふふ、運動するの久し振りだから腕が鳴っちゃうわ」
「母上毎日お茶してても全然太りませんもんね」
「一日腹筋百回はしているからかしらね!」
「嘘ぉ」
「冗談よ。でもティータイムは結構遠慮しているのよ、これでも。クリームもカロリー高いし。美味しいからたっぷりつけたいけれど、そうするとジャムが乗らないし」
「それで悪あがきのマーマレードですか」
「悪あがきとか言わない! ヴォロージャの意地悪! でも言い返せない……コルセットが最近きつい……」
「蓄積されてるじゃねぇか」
「でもお茶も出来ないなんて嫌よ私ー! テラスでお庭を眺めながら息子とティータイムするのが至福なんだからー! 王妃してるのだって疲れるのよ、ストレス解消よー!」
控えていたメイド達がくすくす笑っているので、我が国は今日も平和である。うんうん頷きながら俺も二個目のスコーンを割った。平和なことは良いことだ。とりあえず俺のプライベートは充実している。学園生活はちょっと多難なものがありつつあるが、それは原因が積極的に解決していこうと言う態度を取っているので問題もないだろう。母上の言う通り陰湿なことがまた起こるかもしれないが、それでも炉吏子は強い。だがいつまでも一人で立ち向かおうとするのは危なっかしいので、俺もその隣か前に立ちたい。大体が俺絡みであるからには。
王子の肩書は重いな、と俺はジャムを塗りたくったスコーンに噛み付いて、日曜の事を考える。地図は渡しておいた方が良いな。来るのは簡単だが――何せ城だ、遠くからも見える――、帰るのが面倒だろうし。否学園もでかいので目印には困らないか? うーむ、考え込んでいると、母が紅茶のお代わりを飲みながらうふふっと笑う。
「ヴォロージャがこんなに一人の女の子に振り回されてるのを見るのって初めてね。お母さん嬉しいわ、息子がやっと初恋を迎えたようで」
「別にそう言う事は――」
くるくる巻き毛。笑う顔。
「――ありませんよ、母上」
ただ危なっかしいと思っているだけだ、こんなもの。
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