第10話
次の日の朝はいつもより三十分早く出たので、少し眠気のある状態だった。ふぁ、と欠伸をしていつもの教室いつもの席。まだクラスメートは誰も出席していない。父上と母上には訝られたが、課題をするためのプリントを忘れたと言い訳すれば笑われて見送られた。炉吏子の怪我の事は話していない。まだ些細な傷だからだ。これがもっと拡大していくようならばクラスメートとしても親戚としても王子としても動かざるを得ないが、今はまだただのクラス内の諍いで学園側も手打ちに出来る。勿論忘れたプリントなんてない。俺が気になるのは手だけだ。女子生徒の手だけ。と言うと何ともフェティシズムを感じさせて誤解を受けるようだが、昨日のうちに職員室で貰った選択授業表を見ていると、がら、と引き戸が開く音がした。
「おはよう」
「おー、おはよーヴォロージャ。何、朝早いけど何か用事でもあんの?」
「まあそんなところだ」
意外にも一番早く出席して来たのが馴染みの友人であることに驚く。それからぽろぽろ入室してきて、男子はノーマーク、女子も手袋を着けているのはスルー、テニス選択の女子は絆創膏や怪我の跡を見つけるのに注視した。何だー、とヘッドロックを掛けられるが、やっと小さなテープを巻いた指先に眼が当たって俺は眼を細める。
平民出身で、昨日は炉吏子に挨拶を返していた大人しめの女子だった。念のためクラス全員を見るが、条件に当てはまるのはその女子だけ。
じっと見ていると頬を赤らめられて俯いてしまった。何か勘違いをしたらしいが、まあ構わないかと出席してきた炉吏子を隣に迎える。その指にはきっちりと包帯が巻かれていた。やっぱりざっくり切っていたか。あの出血量ならそうだろう。縫うほどじゃなくて良かった。
「ヴォロージャ、これ」
差し出されたのは綺麗に洗濯されたハンカチだった。本当に綺麗に、血の跡が消えている。ちょっと驚くと、首を傾げられた。
「どないしたん? 一応染みは抜いたはずなんやけど、まだ残ってたやろか」
「いや、あの出血を受け止めたにしては随分綺麗だなと……」
「血ィはオキシドールぶっかけると取れるって教わっとったからな、白物やから色落ちする心配もなくて、綺麗になったで」
「どこで何の必要があって習うんだそう言うこと……」
「まあ王子様にはいらん知識や思うで。しっかし大げさに包帯巻かれてしもたわ。ちょっと邪魔くさい」
「完治するまでは続けろよ。女の子の指に傷が残るのは痛々しい」
「うちかて高学年になる頃には淑女らしく手袋付ける癖出来とるやろし、もし残ったとしても目につかんやろ」
「お前が素手でいるのは癖の問題なのか……って言うか貴族の令嬢が素手ってどうなんだ。何して来たんだ、今まで」
頭が痛い、うーんと唸っていると、教師がやって来る。パンパン、と手を叩かれると、友人と語らったり課題を片付けたりしていた生徒たちが席に各々散って行く。俺の周りは相変わらず空席だらけだが、一人炉吏子がいるだけでどこか孤独感は薄れていた。多分それはお互いだと思う。髪の匂い。くるくる綺麗なライトブラウン。今日は前髪も少し巻いたのか、長いながらも目がぱっちりと見えるようになっていた。いっそ切れば良いのにと思うんだが、女子は前髪一つも重要なのだろう。ないとないで寂しいし、長いとそれはそれで鬱陶しい。
考えながら俺は持って来ていた便箋に文字を綴り、畳んで封筒に入れた。蝋印はないのですかすかだ。まあ零れることはあるまいと、一限目の終わりにロッカールームに向かい名前を探す。あった、と手紙を入れてから、三時限目に使う辞書を自分のロッカーから出した。おそらく彼女も次の休み時間にロッカーを開けるだろう。そして俺の手紙に気付く。まったく、ラブレターでもブラックレターでも書くのが初めての相手がこんな形で出て来るなんて思わなかった。
思いつつ教室に戻ると、炉吏子は何人かの女子と談笑している。よし、とどこか安堵感を覚えながら、俺は席についた。辞書を引き出しに突っ込み、次の授業の準備をする。と、いつもの奴がひそっと俺の耳に囁きかけて来た。
「なあ、ローリィちゃんの指どうしたんだ? 昨日までは怪我なんかしてなかったよな」
「色々あったんだろ」
「色々って何だよ。ハンカチの件と良い、お前何か知ってるな? 教えろー、俺のローリィちゃんに何が起こったー?」
「いでで、お前のじゃないだろ」
「試合には負けたけど諦めはしねーの。俺って一途に情熱だから」
「しつこいだけだろ」
首を腕でぐぎゅーっと絞められた。図星の癖に生意気だ。まあ冗談半分だろうが、『ローリィ』も貴族の子女にとっては特別な存在だろう。王の血縁。莫大な領地。そして、奔放に育ったゆえの気風の良さ。それにまあ、本人自体も可愛い部類に入る。白い頬とあんず色の眼。それが不意にこっちを見て、ことん、と首を傾げる。
「ヴォロージャ、どないしたん? そんなこっち見て」
「見てない。首が固定されてるだけだ」
「男子のスキンシップは激しいなあ、うちのおとんも結構激しめやったけど、締め落とそうとは流石にせえひんかったわ」
「そう今にも落ち……ようと……うっ」
「俺そんな乱暴もんじゃねーから、ローリィちゃん! この真っ直ぐな目を信じて!」
「信用するな、馬鹿がうつるぞ」
「お前だって成績トップクラスって訳じゃねーだろ、ヴォロージャ!」
「殿下に何してんのよ、離れなさいよー!」
「そーよそーよ、失礼だわ! ねぇ殿下!」
「あはは、男女どっちにもモテモテやんなあヴォロージャ。おっと、うちも殿下とか王子とか呼んだ方がええんかな? 不敬罪食らわせられる?」
「最初からひと気のない所でって話だったろ……」
「それもそうやな! 呼び分けるの面倒やねんぶっちゃけ」
ぶっちゃけ過ぎだ。
やがてチャイムが鳴り、生徒達は方々に散って行く。例の女子を見れば、炉吏子の方を見て睨んでいた様子だった。が、俺と目が合い、慌てて前を向く。流石に素の剃刀を持って来てはいないだろうが、男子以外で俺をヴォロージャと呼ぶ女子は炉吏子が初めてなので、また妬みを買ったのかもしれない。
呼びたきゃ呼べば良いだけだろうに。炉吏子を謂われない中傷から守るために人前では制限していたが、今はもうその必要もないだろう。女子だって俺を愛称で呼んだって構わない。それもまた、憚らぬように躾けられてきた女子の煩悶があるところなのだろうが。
どうにしても名前一つで巻き起こる女子の荒れ狂う感情と言うのは恐ろしい。父上が在学中複数の女子と付き合っていたのは、他の女生徒の悋気を恐れた所為かもしれない。だが一番怖いのは婚約者だった。母上には誰も勝てなかった。炉吏子も多分、誰にも負けない所があるだろう。悋気を買おうが、傷を負おうが、逞しく図太い所がこいつにはある。
ある意味母上にも似てるかな、と思うとちょっと笑えたが、それは掌の中に隠すことにした。似ている。だがおもちゃにもされている。炉吏子が成長したら母上のようになるのかもしれない。その時は結婚相手が幾分可哀想かもな。げちげちと雑草のように踏み付けられてなお関係を続けて行かなくてはならないんだから、そっちには耐久力が試される。父上のように諦めている相手を探すのも手だろう。学園に通っているうちにそんな相手が見付かれば良いな。まだまだ学校生活は長い。大学部まで通うなら半分も過ぎていない。初等部でも半分だが、社交界に出るのはもう少し先だろう。その図太さが噂になる前に、良い嫁ぎ先が見付かれば良いが。
そのためにも今のうちに、小うるさい声は払っておこう。これは俺の、男としての決断だった。
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