第9話
「ありゃ」
「あ?」
毎日持って来ているラブレター用の巾着を広げ、ロッカーの中の十数通のそれらをテキトーに突っ込んでいたところで、炉吏子に声に気付いたのは放課後だった。自分のロッカーを覗き込みながらふむ、と固まっている。そう言えばブラックレターはもう頂戴したことがあると言っていたが、またその類だろうか。気になって炉吏子のロッカーを見てみる。小奇麗な封筒が一通、粛々とそこには座していた。それ以外は特に何もない。辞書とレポート用紙のスペアぐらいだ。置き勉もしていないから、余計にそれは際立って見えた。
「ロッカーあるなら鍵も掛けさせて欲しいやんなあ」
「過去になくして教師に泣き付く奴が大勢いたそうで、今は廃止になっているらしい。俺だって出来るなら欲しいもんだ」
「あはは、ラブレター貰い慣れてる人はちゃうなあ。うちのは今日どっちやろな。またブラックレターやろか。普通の手紙やったらわざわざ放課後に突っ込んだりせえひんやろし、さて鬼が出るか蛇が出るか……」
くっくっくと喉を鳴らしてどこか楽しんでいる様子なのに、俺は本当に図太い女だと嘆息する。普通の女子なら何処の殿方かしらと顔を赤くしたり蒼くしたりするだろうに、こいつと来たら全くその気配がない。自分には敵しかいないとごく自然に思っているのが、俺には謎だった。少し屈んで封筒を取った炉吏子は、すぐにそれを落とす。と同時に、指から赤いものが垂れた。
血だ。
見慣れないものにぎょっとすると、封筒の一部から鈍い色の刃が覗いていることが分かる。
おそらくは剃刀だ。転校三日目にして送られるものではないだろう。ラブレターでも、ブラックレターでも。やはり俺と言う王子と絡んでしまったゆえだろうか、それとも体育の結果が気に食わない連中がいたのか。用意周到な所から見ると前者だろう。ハンカチを取り出して傷口を押さえると、あー、と炉吏子は俺を見た。
「汚れてもーたやんハンカチ。絆創膏ぐらい持っとるからええのに」
「良いから保健室行くぞ。消毒してもらわないと、変な菌が入ったら困る」
「せやな。でも一人で行けるで?」
「初めての場所なのに?」
「まあ先生に訊けば良いだけやろし」
「良いから。早く行くぞ。と、その手紙も持ってくか。怪我してるんだから証拠品は重大だ」
角や面の様子を見て大丈夫そうな場所を掴むと、四方に向かって固い感触があるのが解る。全面装備の剃刀レターだ。中に手紙の感触はなく、ただ凶器として作られたことが解って、その悪意に怯えてしまうそうになる。だが俺がそうなるわけには行かない。俺の所為で炉吏子が怪我をしたのだと思えば、湧き上がるのは怒りの方だ。左手の人差し指、赤く走った悪意。くすくす笑っていた女子たち。体育で十分にその強さは見せつけたと言うのに、それでもこう陰湿な嫌がらせを止めないのか。やはり俺の所為なのか? 俺が、連中を煽ってしまっている?
「悪い、炉吏子」
「何が?」
「お前を目立たせたのは俺だ。俺の所為でこんな、」
ぱしーんっと小気味良い音を立てられ、頭をはたかれる。
「悪目立ちの原因はうちかてそうや。体育では大分敵作ったしな。まあ正攻法で来られたら負ける気はせえひんけど、こういう悪質なんもいると知れたんは良いことやで。うちの方も気を付けなあかん、自衛の大切さが分かるしな。何でも背負い込むのは美徳かもしれんけど、この歳からそんな帝王学は必要はないんやで、ヴォロージャ」
「炉吏子、」
「これはうちと相手の問題。原因が何だとしても攻撃を受けたのはうちやから、報復はきちんとしとく。それだけの話や」
あんず色の眼に睨まれて、俺は竦んでしまう。
向けられた悪意にこんなに素早く立ち向かうことを決めてしまえる炉吏子は、強く、眩しく映った。
白い顔には紅潮もない。冷静に、実に冷静に状況を分析している。戸惑う事すらしない。こいつは一体どう育てられてきたのだろうと、改めて思う。人質交換。爵位の継承。下手をすれば辺境伯の領地がすべて隣国に寝返る可能性すら考慮されているだろう。向けられるのは不信感、おそらくは友人もいなかっただろう。毎日待っているのはスパルタ教育。心も体も、折れないように育てられている。たった九歳なのに、そんな。
無力感でいっぱいの俺は、ぎゅっとその指の傷を締め付けることしか出来ない。血は止まらなくて、滲んで来たものが俺の手にも付く。炉吏子が顔をしかめた。痛いのだろうか。決まっている、傷付いたのだから。血が出ているのだから。
「ローリィ、遅いじゃないどうしたの?」
昼食を一緒にしていた女子に声を掛けられ、俺は振り向いた。炉吏子はあー、と都合悪そうに頭を掻く。体育の時間からポニーテールになっている髪の中に、指を突っ込んで。下手に解くと乱れてしまうからと。細い首をくきっと曲げながら、どうしようかと迷っているようだ。剃刀レターを貰ったとは言えないだろう、流石に。
「殿下まで居残って、何か忘れ物? それとも、って、血が出てるじゃない!」
ロッカールームに入って来た彼女は俺達の手元を覗き込んで、びくっとした声を上げた。儀礼用の薄い白のハンカチはじわじわと赤色を広げている。丁度良い、と俺は彼女に頭を下げた。
「すまないがこのまま傷を押さえて、ローリィを保健室まで案内してくれないか。そこで消毒と治療を。俺はこの手紙を職員室に持っていく」
「手紙?」
「封筒に詰められていた剃刀で指を切ったんだ、こいつは」
「剃刀!? 物騒にも程がありますわ、殿下お早くそれを職員室へ! ローリィ、ちょっと速足で行くけれど付いて来られるわね?」
「あ、鞄と体育着持たなあかんわ。あとで取りに戻って来るの面倒くさい」
「少しは動じなさい、あなたは! では殿下、失礼いたしますわ」
言って彼女は炉吏子を連れ出してくれた。手に残った血の跡をぎゅっと握りしめながら、俺は歯ぎしりをする。
それからふるふる頭を振って、自分も冷静になろうと深呼吸した。しかし中々怒気を逃がすことが出来ず、ぶんぶん頭を振ってしまう。少し伸びて来た髪が乱れた。もう一度深呼吸。よし、と心音が落ち着くのを感じてから、改めて封筒を見やる。
右上の角に付いている血が、おそらく炉吏子の指を傷付けたものだろう。しかしじっくり見ると、左下にも血痕らしきものが小さく付いている。犯人がへまをして自分にも傷をつけてしまったのだろうか。とりあえず二か所の汚れを確認して、俺は職員室へと向かう。勿論鞄と巾着袋を持って。そう言えば炉吏子への手紙は無記名だった。字で正体がばれないようにしているのだとしたら、以前俺に手紙を出していた可能性もある。もっともそんなの一々覚えちゃいないが、犯人がそこまで念入りに痕跡を消したがったと言う事は、大分俺達に近い場所にいる相手なのだろう。やはりクラスメートか。ロッカールームは男女の仕切りがないが、クラスごとのパーテーションはある。同じクラスなら炉吏子のロッカーに手紙を入れる事なんて訳もない事だろう。
誰だ。よもや男子ではあるまい。体育で負けた女生徒も、例外だろう。もしかしたらそれを知らずに入れたのか? 炉吏子の腕前は選択剣術だった連中ならみんな知っている。じゃあテニス選択の女子か。
となると母数が多くて少し突き止めるのが面倒になる。否待てよ。
学園の女子生徒は手袋をしていることが多い。特に貴族はそうだ。面倒な事は自分でせず、結果だけを手にすることが出来る、自分では働かない身分の女性の特徴だからだ。だとしたら貴族の令嬢たちは候補から外せるだろう。その習慣がない平民出身のクラスメートで、女子、選択テニスと狭めて行けば、そう多くは残らない。精々二・三人だ。
その中で指に傷を持つ者がいたとすれば、それで違いない。ふーっと呼吸を逃がし、俺は改めて背を伸ばして職員室に向かった。
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