第6話
母の口からでた異国語に、俺と炉吏子は茫然とする。すると母はくすくす笑ってもう一口紅茶を飲み込んだ。オーソドックスなダージリン、香りはテラスを漂ってリラックスさせるが、耳に入った言葉の余韻は無くならない。今母上は何と言った? 確かに異国訛りだったよな? なんだってそんなことを。炉吏子の出自はやはり知れているのか? 頭が混乱してぐるぐるする。炉吏子に至っては硬直している。自分をおもちゃにしていた相手にまさかそんな言葉が掛けられるとは思わなかったんだろう。俺だって驚いてる。母上、一体何事。
「やっぱり向こうの訛りがあるほうが良いみたいねぇ。二人とも口が開いてるわよ、うふふ。ローリィちゃんは国境沿いの街から来たんだから、訛りも入るでしょう? メイドたちにあれだけくるくる着付けられてもひとっことも文句言わないから、もしかしたら恥ずかしいのかなって思ったのよ。私も学生時代に隣国の言葉ぐらいは覚えなさいって言われていたからね、少しぐらいは話せるわ。せやろ? ローリィちゃん」
「はあ……せやけど驚きましたわ、王妃様がそないな言葉使うなんて、思ってもみませんで……ああ、すんまへん、どない言うたら良いのか分からんで」
カップを一旦ソーサーに戻した炉吏子は長い前髪を少し脇に避けてはーっと溜息を吐く。そうだよな、母上もお嬢様だったんだし、学園の卒業生でもある。中等部からは外国語選択があると聞いているから、炉吏子の国の言葉も話せておかしくはない。それに王妃たるもの、勤勉も善だ。あちこちの言葉が話せるのは、当然なのかもしれない。国際会議なんかもあるし、そう言う時は通訳はまどろっこしいんだろう。だったら喋れるようになればいい。単純だが、母にそんな面があるとは思わなかった。そう言えば昔異国の絵本を情緒豊かに読んでくれたこともある。
母は強しとは言え、言語に強いとは思っていなかった。俺もカップを置いて、ふるふると頭を振る。待て待て。母はちょっと喋れるだけでローリィが炉吏子だと知っているわけではないかもしれない。ならばちょっと動揺したぐらいに見せなければなるまい。炉吏子もそう心得ているはずだ。しかし人質交換。母はもしかしたら、それすらも見抜いて炉吏子を城に来させた?
「改めまして、ローリィ・ド・ツォベールです。よろしゅう頼んます、王妃様」
「こちらこそよろしゅうに。無口だって聞いてたけど、訛りの所為ならうちでレッスンしてみない? ヴォロージャには向こうの発音が分かるし、あなたにはこっちの発音が解るから、互恵的や思うんやけど」
「ちょ、母上! 俺の事無視しないで下さいよ!」
「あら、だってあなたも中等部に行ったら外国語選択があるのよ? 頭の柔らかい今のうちに身に着けておいた方が良いと思うわ。あなたも王になるべき立場なのだから、二・三カ国語は話せるようになっておいた方が便利よ。ローリィちゃんもそう思わへん? そしたら学校でも人と話せるようになるし、この先も便利になると思うんよ。そいで友達作っといた方が後々コネにもなるしなあ。うちの子助ける思て教えてくれへんやろか。日常会話でええねん。難しいのはそれこそ、進学してからでええし」
炉吏子はあからさまに戸惑って、え、え、と声を漏らしている。この母は唐突な所がある。九年息子やってればそれは解るのだが、強引で我が道を行くその性質はちょっと困りものでもあった。かと言って俺にはそれを止める口実が思い浮かばない。助けを求めるように炉吏子が俺の方を向いた。が、俺はその眼から限りなく曖昧に逸らした。すまんて。でも母上の言う事は正論でもあるから口答え出来ないんだ。悪い。俺が悪かった。自分でその直球を受けてくれ。
「せ、せやしうちのは本当訛り程度で、教えるなんて立場にはなれひん思いますよって」
「あらそうかしら? 『炉吏子』ちゃん」
炉吏子の顔が秒で固まる。
知ってたのか、母上。
そりゃそうか、王妃だもんな、どんだけ少女ぶってても。
「沈黙は金って言う言葉もあるけど、うちはそうは思わん。何でも話せる相手がいた方がええやろし、無駄な誤解もされひんからそっちの方が大局的に見てプラスになるんと違うかな? ツォベール伯家を継ぐんやったら王家との段取りもちゃんと付けなあかんで。それに王侯貴族相手に渡って行くんやったら、訛りの取れた言葉も喋られるようになっといた方がええと思う。言葉は結構大事やで? せやから学校では隠してんねやろ? ヴォロージャもやけど、炉吏子ちゃんも頭のやらかいうちに使い分けしといたほうがええ思うで。『ローリィ』ちゃんでいたいなら余計になあ」
母上は茶菓子のパイを一切れ取って、皿に乗せる。そして渡したのは炉吏子の方だ。少し迷って、でも、炉吏子は受け取った。それが彼女の選択なのだと、俺も母も言外に気付いていた。次には俺にパイが渡される。薫り高いレモンパイ。俺もそれを受けとる。にっこり笑った母上は、少女のような微笑みで俺と炉吏子を見た。ローリィではなく炉吏子を。
早まったかもしれないけれど、母上の言う事はあまりにも正論なので、どうしても受け入れざるを得ない。下手に異を唱えれば子供の戯言になってしまう。子供だけれど子供でいてはいけない立場の俺達にとってそれは、どうしても逃げられない選択だった。子供を子供扱いしないのは、もしかしたらこの王妃の美点であるのかもしれない。もしかしたらだ、あくまで。こちとら九歳だぞ。人生の半分はまだ母の腕の中から見ていたような歳だ。それにさせる選択としては、大きすぎやしないか。
炉吏子が級友を作るのは良いことだろう。俺が隣国の言葉を覚えるのも良いことだろう。それを秘密裏に行うには、城はあまりにもうってつけ。だけど炉吏子が毎日城に来ていたら、流石に他の生徒にばれる。そうしたらなんと言い訳したら良いと言うのか。
「言語留学言う事にしといたらええんと違う? 別にそないな無粋なこと聞く奴もおらんと思うけど。お互い話してるの見せれば、別に眼ぇ付けられたりもせえひんやろ」
「母上は学園の女子を甘く見て……はいないか。卒業生ですもんね」
「そうなん? やったらえらい遺産残してる事になるで。あの女子たちとか」
「転校一日目にして呼び出されてるんですよ、こいつ。女子に。なんなら俺の隣の席を指定されただけで足掛けられて転びそうになってる」
「あらやだ今どきの女の子ってこわーい。そう言う時こそナイトの出番なのよ、ヴォロージャ。言ったでしょう? 男の子はナイトにもなれなくちゃ」
「かと言って四六時中引っ付いてるわけにもいかないでしょう……」
頭が痛くなってきて俺はパイをつつく。少し酸い、だけど心地良い甘味に何とか落ち着こうと頑張ってみるが、にこにこしながら俺の答えを待っている母上からは全力で逃げたかった。ナイト。最初から分かってたんじゃないか、母上。炉吏子が他の生徒と相容れない所があるかもしれないって。『ローリィ』じゃなくて『炉吏子』だから。その両面を見張れる位置にしようとして、俺を? 捨てられない考えじゃないのが悩ましい。
紅茶を取る。一口飲む。まだ熱い。炉吏子もパイに手を付ける。逃げられない。俺達は。
「取り敢えず一歩踏み出してごらんなさいな。案外受け入れてくれる人もいるかも知れなくてよ? ローリィちゃんにも女の子のお友達は必要だわ。社交界に出た時、お茶会に誰も来てくれないなんて事になったら可哀想ですもの」
「母上、ローリィは寮生ですから茶会なんて学校主催のものしか出られませんよ」
「あらそうだったわね。じゃあ、招いてくれるお友達を作る感じで行きましょうか。その時はまたうちにドレス選びに来てね? ええやろ?」
「えー、あー、じゃあ頼んます……」
「そうとなったらローリィちゃんの孤立解消を目指さなくちゃね! ヴォロージャ、あなたも手伝うのよ? 良いわね?」
「今まで感じたことがないほど母の圧が凄い……」
「王妃様ってこんぐらい強うないと張れん地位なんやな……うちの領地とは比べられんわこれ……」
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