高校3年3学期③

 共通テスト前日、朝だけ学校に登校して来た生徒達は、緊張感が最高潮に達していて、隠すことなく体を仕切りに揺らしたり、爪を齧るものも見受けられた。どれだけここまで努力して来たかを見ている教師として、その様子は胸に刺さるものがある。大丈夫だと言いたい。でも、それは当日の本人のコンディションで大いに変わりえる、不確かなエールに過ぎない。珍しく朝から静まり返ったその教室の中で、沈黙の中こちらに救いを求めるように視線を投げかける生徒達を暫く無言で見つめ、それから今日共にしようとしていることを伝えた。


「大事な試験前、今、単語帳を見たい気持ちを抑えて、ここに集まった皆の時間を無駄にしないように、単刀直入に言います。今日は、ここで質問は一切受け付けません。体育館行こう。バスケでもしよっか?」


「え?バスケですか??」


 生徒の一人が叫び、教室が騒つく中、口笛を一度吹いて静かにさせると、それに答えた。


「そう。身体を動かす。その代わり、連絡網で回した通り、タオル持参な。汗かいてそれで外出て風邪引いたとか最悪だから。身体を動かそう。考える時間を一旦、消す。体育館は温めてあるから、伝えた通りTシャツになること。思いっきり遊ぶぞ!」


「ええええ、マジですか??他のクラス、詰め込みテストしてるのに?」


 生徒のその言葉に、ウィンクをして答えた。


「You guys are ready, and I know it. これ以上、教えることも、学ぶこともない。その頭の中にある知識は、今日の小テストで小出しにするんじゃなくて、明日明後日で全部一回放出して来たらいい。今日は遊ぶ!行くぞ!」


 朝、いつもより早くに出勤し、体育館を温めている。皆の体調が第一だが、メンタル面で追いやられることが一番したくないことだった。勉強は散々してきた。今日は、明日から迎える大きな日を迎え入れる、言わば前夜祭だ。自腹でクラスの分準備したスナックとドリンクも、体育館のクーラーボックスに閉まってある。前日は、運動をして、笑って、騒いで、悔いのない試験日を迎えて欲しい。皆で頑張ってきた、その結束力を感じて、それを盾に戦って来て欲しい。校長には反対されたが、半ば強行突破でこの決断をした。しかしジョーも猪田先生も賛成してくれた。猪田先生は既に来年から受け持つクラスとこちらを掛け持ち状態なので、参加は半分にはなるが、楽しみにしてくれていた。


 他のクラスがテストをするので、静かに廊下を通り、体育館まで全員で向かうと、体育館の壇上ではジョーがレイカーズのユニフォームを着て、頭に合格ハチマキを巻いて立っていた。


「Yooooooo!!! Let's do this!!!(ヨォ!やってやろうぜ!)」


「Ahahaha, hell yeah! Come on guys! Let's have some fun!(あははは、おう!行くぞ、お前ら!楽しもう!)」


 生徒達はジョーの服装に爆笑しながら「Yeah!!!!」と大声を上げ、着ていたジャージをそれぞれ体育館の端に投げて、グループ分けを自分達でし始めた。その様子を眺めながら、運動が得意ではない生徒達にも混ざるように声をかけると、特に運動が好きではないと二者面談でも堂々と発していた生徒が言った。


「僕はやらない、って言おうと思いましたけど、今止まってると明日のことが怖くなるので、めちゃくちゃ走り回ります。でも、ボール、僕の頭にぶつけないで頂きたい。耳から単語が一つこぼれるといけないので」


「あははは、聞いたかー?誰の頭にも打つけるなよ?怪我だけはしないように!」


 クラスの纏まりを、この時ほど感じたことは無いかもしれない。このクラスはよく纏まっていると他の教職員にも褒められるが、運動が得意な者、そうで無い者、声を張る者、静かな者、それぞれ性格も何もかも違うが、お互いを尊重し合い、お互いを大事だと上手に伝え合える関係を築いている。自分には経験のない日本の高校生活、彼らを見ているとこの国の人間が更に眩しく見えた。子供の部分も大人の部分も、両方備えたティーンが、ティーンらしく切磋琢磨し送るこの3年間の締めくくりが、これだけ素晴らしいものならば、彼らの行く未来もきっと素晴らしいものに違いないという確信しか持てない。


 体育館の中に響く笛の音、チーム同士の掛け声、ボールがバウンスする音、シュートが決まる音、歓声と嘆き、そして何よりも笑い。気が付いたら1時間半笑いが絶えないバスケ試合になり、身体から湯気が上がる男子に負けず、女子も汗を拭きながら一旦試合を終了する笛を吹くと、皆突然大声を上げた。


「あああああああああああああ!!うっしゃーーーーー!!!明日やんぞーーー!!」


「ああああああああああああ!!!」


 その様子をジョーと壇上から見ていて、顔を見合わせて二人で笑った。ティーンの輝き、永遠の輝き、この時にしかない輝きを、彼らは目一杯で表現している。明日はきっといい日になる。


 丁度猪田先生が体育館に来たので、皆に褒美だと買っておいたスナックとドリンクを出すと、異常なぐらいに盛り上がってくれた。最高の笑顔で、「先生ありがとう!好き!」と可愛い声ではしゃぐ女子生徒の横で、「うぉおおお、最高!!」と低い歓声を上げる男子生徒。両方とも、愛しいでしかない。この子達を、ここまで育ててきた親御さんの気持ちを考えると、その愛しさは尋常ではないぐら跳ね上がる。大事にされて来た子ども達の未来、その一ページで存在する自分。瑛人がティーンになった時、この生徒達のようにいい仲間に恵まれる事を願わずにはいられない。努力することを、心が折れる日に支え合うことを、互いの良いところを躊躇せずに褒め合うことを、言い争いの後に素直にごめんと言える心を、特別なこの時期に全て学べる経験など、そうそう出来ることではない。何度でも言える。この時期に、この学校で仕事をできている自分は、恵まれている。


 生徒達がひとしきり盛り上がり、汗もしっかりタオルドライし、落ち着いて来たのを見計らい、最後に一人一人名前を呼んでアメリカにいる父から送ってもらったものを手渡した。


「青木、ほい」


「定番の!…て、何味ですか、これ?」


「うん、パンプキンパイ味。日本で見たことないから、父に送って貰った」


「おおおおお、すげぇ!おい、キットカットの変化球!アメリカから直輸入!」


 青木がトップバッターで受け取ったキットカットを高々と掲げると、生徒達から大歓声が上がった。ただし、アメリカから送られて来ているので、食べ慣れないことでお腹を下されるのを恐れた俺は、気弱に伝えた。


「今食べるなよ?!共通テストが終わった瞬間、その後すぐ食べなさい。その後の試験まで少し時間あるから、ちょっと腹下しても大丈夫だろ?」


「あははは、先生!お腹壊すものでも入れてるんですか?」


 大八木の声に、ジョーが答えた。


「AmericaのSnacksは人工ぶつのほーこだからねー」


「アハハハハ、キットカットは日本もきっとそうですよ!」


 猪田先生の笑いに皆が同調して笑う中、次々に名前を呼んでキットカットを渡した。日和の番になり、名前を呼ぶと日和も満面の笑みでやって来た。


「So, it's true that you like pumpkin pie, huh?(本当にパンプキンパイ、お好きなんですね?)」


「I told you so! It's darn good, but don't eat it before the exam, alright? Be a good boy!(そう言ったろ!すっごい美味いけど、テスト前には食べるなよ、分かった?良い子でいるように!)」


 キットカットを受け取った日和は笑いながら「I'm always a good boy!(いつも良い子ですよ!)」と答えた。それにはジョーが「Too good! You better learn to be a bit naughty sometimes! (良い子すぎるんだよ!ちょっとは人に手を掛かる事、覚えたほうがいいぜ?)」と笑っていうと、日和はジョーにウィンクして意味深に答えた。


「I can be VERY naughty. Trust me, I know what I'm talking about. (手に負えないぐらいのこともしますよ、本当。どうしもうもないぐらいね)」


 その答えにジョーが口笛を吹いて笑うと、日和はこちらに一瞥をくれて生徒の輪の中に消えていった。確かに、大概手の掛かる生徒だったと思い起こし、笑いそうになってしまった。

 

 体育館から直接帰れるように、荷物も全部持って来ていた生徒達には、防寒をしっかりして家路に着くよう伝え、全員の服装をチェックしてから体育館のドアを開けた。寒風が一気に吹き込んでくる中、生徒達は「さむ!」と言いながら、靴を履き、出て行くその姿をドアにも垂れて眺めていると、全員ヒソヒソ話しながらその場で足を止めた。寒いので早く帰るように言おうとすると、青木が声を張って叫んだ。


「先生!」


「ん?」


 予期していなかったので、間の抜けた返事をすると生徒達が一瞬笑った。しかしすぐに静まり返り、周りの生徒に促されるように大八木が声を上げた。


「今まで3年間、有難う御座いました!これからの結果がどうであれ、私達、先生に教われて良かったです!試験、頑張ってきます!」


「Oh my god... don't! I don't wanna cry here before the goddamn exam!!!! Go! Just leave! (マジか…辞めてくれよ、大事な試験の前に泣きたくないから!帰りなさい!もう、ほら行った!)」


 予期していなかった言葉に一気に涙が込み上げてしまい、慌てて生徒を返そうとすると、ジョーが俺を背後からハグして叫んだ。


「オレもEightがセンセイでよかったーーー!ありがとぅー!」


 その声に今度は思わず笑い出すと、生徒達も猪田先生も爆笑した。ジョーの助け舟に救われ、生徒達の前で号泣せずに済んだが、皆その場を去る時に小さな声で「行ってきます」と口にした。それに涙を堪えながら、「頑張れ」と伝え一人一人フィストバンプをした。照れている生徒、妙に慣れている生徒、それぞれ独特のその流れの中で、何故か最後に立っていた青木が、俺をまっすぐ見つめて言った。


「Now I understand why.(今なら何故かわかります)」


「What do you mean?(どういう意味?)」


「Nothing. I just wanted to say that you're the best teacher I've ever had. Thanks.(いや、特には。ただ、先生が教わった先生の中で一番良かったって言いたいだけです。ありがと)」


 瞬時に涙が込み上げてしまい、慌てて目を手で覆った。これはまずい奴だ。


「Oh, you son of a gun! Don't! You're doing this on purpose, aren't you??(マジか、お前!辞めろよ!わざとやってんだろ、これ??)」


 青木の言葉に、俺を泣かそうとしている思惑を感じて苦情を言うと、青木は爽快に笑って答えた。


「Ahaha, of course! I love making my old teacher cry. (あはは、勿論!俺はおっさん先生泣かせるのが趣味なんで)」


 先で待っていた大八木と日和がその言葉を拾って笑うと、青木は俺の背中を軽快に叩いてその場を去っていった。


「Dang it... (くそが…)」


 残された俺は、喜びと明日への期待と不安と全てを抱え、体育館の掃除をしながらジョーや猪田先生と生徒の話をし続けた。


 翌日、試験日は快晴だった。週末の静まり返る校舎の中で、人一倍心臓が高鳴っているのは、間違いなく全職員だ。気もそぞろで、期末やこれから入学してくる新入生の試験の準備、この学校は3年生だけで成り立っているのではない現実を、終わることのない仕事で思い知らされる。週末は瑛人が家に来る予定だが、この週だけは不可能であることを踏まえて、夜だけお風呂に入れるためにマイアの家に行く予定だ。


            ******


「先生、今、お話出来ますか?」


 日和が職員室に来たのは、共通テストが終わってから二日後だった。テスト後すぐに連絡が来ると思っていたので、校長が毎日「日和くんの結果はどうなってるんですか?」と聞かれ続け、正直辛いところだったので、日和から来てくれた事に胸を撫で下ろした。結果の報告で、それは声の感じからはどちらかを予期は出来ないが、二日も連絡がなかったので、受験をこのまま続行することになる事をこちらとしては予期していた。


「勿論。でもその前に、共通テストの結果、かなり良かったな。おめでとう」


「有難うございます。皆も凄い予想以上に出来てたって言ってたし、本当よかったです。自信になります」


 試験翌日に皆で答え合わせをしたが、その最中に叫ぶものや飛び跳ねるもの、ケアレスミスに悔しがるものも居たが、皆、自分の予想得点よりもかなり上まっている結果のようだった。これから各大学の試験が始まるが、これは大きな自信になる。日和の言葉に頷くと、日和は少し躊躇してから、小声で聞いた。


「あの…ここで話すのじゃなくて、資料室とか行けたりしませんか?今回だけ、特別に」


 二人で資料室に行くという機会は、もうずっとなかった。だが、もしかしたら、この試験結果が思わしくなく、人前で泣きたくないという日和の気持ちなのかもしれないと、とにかくネガティブな事ばかりが頭に浮かび、返事をせずに立ち上がり資料室に向かった。どう慰めたら良いのか、そればかり考え、資料室に日和を入れてから自分も入室すると、一応ドアの鍵を閉めた。日和は少し俺から離れた所に立ち、こちらを振り返ってみると、目に涙を浮かべて居た。もう自分が泣かないなんて、無理だと思った。


「Oh no, I shouldn't but I can't help it... You don't have to say anything, you did your best and I'm so proud of you. You know that, right? (あぁ、まずい。泣くべきじゃないけど、どうにもならない…何も言わなくて良いからな、お前はベストを尽くしたし、俺はお前が誇らしい。それは分かってるよな?)」


 思わず慰める為に教師としてハグをしようとすると、日和が大粒の涙を零しながら言った。


「I got accepted.(受かりました)」


 一瞬その言葉がプロセス出来ずに、フリーズした。それから、思い切り叫んでしまった。


「…WHAT?!(え?!)」


「I got accepted. I'm going to fucking Harvard. I did it, I got accepted! (受かりました。ハーバード行きます。受かったんです、本当に!)」


 日和が叫ぶより先に、自分が大声で叫んで思いっきりガッツポーズをしてしまい、その俺の悲鳴で外をたまたま通った人間が部屋をノックした。日和におめでとうのハグをしたいが、この吉報を誰でも良いからシェアしたい興奮で日和を放置し、ドアをすぐに開けた。そこに立って居たのはジョーで、ジョーは俺の興奮し切ったテンションと日和の涙に、すぐに察知して聞いた。


「Oh my fucking god, he did it, didn't he? He got accepted??(おいおいマジか、マジのやつか?受かったのか??)」


「YEEEEEEES, FUCK YEEEEEEESSS! He fucking did it! He's going to fucking Harvard!!!! (そうなんだよ、マジでそうなんだよ!受かりやがった!ハーバード、行くんだよ!)」


「Jesus fucking Christ!!!! Hiyori!!!!! You did it!!! Oh my fucking mother of god, this is insane!!!! Our student's going to fucking Harvard!(スッゲェ!!!日和!!!やったな、お前!マジクソすげぇじゃねぇか、信じられねぇ!!俺らの生徒がハーバード行くのかよ!!)」


「YEEEEEEEEEEEEEEEESSS!!!!! Oh fuuuuck, I'm gonna cry!!!(やったああああ、くっそ、もう泣く!)」


「You Are already crying, Eight!!(もう泣いてんだろ、英人!)」


 自分の受験の時は、こういう興奮はなかった。なんとなく淡々としていたが、これは大人しくはしていられなかった。泣く日和、俺とジョーは三人でその場で息が苦しくなるぐらいハグをした。何度も何度も、日和に「よくやった、おめでとう!」を口にしながら。日和はただ泣くだけで、言葉にならないようだった。ジョーと俺で日和の背中を摩り続け、日和の涙がやっと落ち着いた頃、校長に伝えに行くべきだと促すと、日和は笑顔で答えた。


「はい、でも一緒について来て頂けますか?優月先生とジョー先生」


「Moi aussi? Really??(アタクシもかい?マジで?)」


 ジョーの反応に、俺と日和は一緒に笑ってしまったが、日和はジョーに真っ直ぐ伝えた。


「Yes, I couldn't have done this without your support. We achieved this together, so I want both of you to come with me to the principal's office.(はい、先生のお力添えがなかったら、成し遂げられませんでした。これはお二人の力があって達成できた事だから、校長室には一緒に来て欲しいんです)」


 ジョーはその言葉に感無量になり、日和をハグして「Thanks, it means a lot to me.(ありがとな、本当感謝してる)」と伝えると、日和は「No, thank You. (いいえ、こちらが感謝してます)」と伝えた。


 校長室に3名で行くと、校長はすぐに結果を察して、飛び跳ねた。初めて、あの校長が飛び跳ねているのを見た。日和も、ジョーも、俺も思わず驚いてしまったが、校長は驚かれている事にも気が付かず、大層上機嫌に日和におめでとうを繰り返し伝えた。その場で校長は、卒業式の答辞を日和に読むように伝え、かつこれから入学してくる生徒達の為に、この受験の経験をまとめたレポートを出して欲しいと頼んだ。日和は全て快く引き受けたが、一つだけ校長に頼んだ。


「大変申し訳ないのですが、まだ受験をしている仲間の妨げにはなりたくないので、期末試験終わるまで、公表はしないで頂けますか?」


「期末試験は2月の末ですが」


「分かってます。僕も期末試験は受けないといけないし、勉強しないといけない状況は変わらないので、一緒にこのまま頑張っていこうと思ってます」


「…そうですか。分かりました。優月先生、ジョー先生、これから始まる書類や留学の準備に関して、最後まで見てあげてくださいね」


「勿論そのつもりです」


 ジョーと目を見合わせ頷くと、日和は「ありがとうございます」と丁寧なお辞儀をした。校長室から解放され、英語教員室に三人でなんとなく歩いていると、日和が俺のジャケットの裾を引っ張ったので振り返った。日和はこちらを見上げて聞いた。


「先生、あの、えっと…」


「あー、これからの事?あのさ、書類をとにかく全部先生が一回受け取っても良い?日和の両親にこれからどういう流れなのか、全部説明したいし、ご両親の都合つく時も知らせて。もし学校に来るのが難しそうなら、先生が日和の家に行くから。ジョーも一緒に来る?」


 何も考えずにジョーに話を振ると、ジョーは俺の肩を叩いて言った。


「Dude, I think he deserves a little bit more. (頑張ったんだから、もうちとなんかあるだろ?)」


 ジョーのウィンクに日和を見ると、日和は頬を赤らめ小声で口籠った。暫く立ちすくんで考えたが、咄嗟に思いついた事を日和に聞いた。


「今日のA定食なんだっけ?奢るけど、絶対他の生徒に言うなよ?合格した生徒全員に奢ったら、先生破産するから」


「Ahahaha, dude!!! That's not what I meant, but well, if you're gonna have lunch there, you can buy me A set menu too! (ダハハハ、おいおい、そういう意味で言ったんじゃないけど、まぁ昼飯あそこで食うなら、俺にもAセット奢ってくれていいぜ!)」


「What? Why should I treat you to lunch? You're not even going to fucking Harvard! (はぁ?なんで俺がお前に昼を奢らないとなんないんだよ?お前はハーバードには行かねぇだろ!)一緒に来るなら、お前半分だせ。そしたら、これ俺とお前からの祝いになるから」


 ジョーと俺のやりとりを聞いていた日和が、一人で笑いながら言った。


「I appreciate your offer, but I gotta go back home. My little brother's off sick, so I gotta take care of him. All I wanted was a casual handshake. That's all I want. Is that okay?(その提案は有り難いのですが、帰宅しないといけなくて。弟が風邪で休んでて、世話をしないといけないから。あの、ただ気楽な感じに握手して欲しかったんです。それだけなんです。もし良いなら)」


 その言葉に一瞬戸惑いを覚えたが、すぐに日和と交わした約束を思い出し、動揺した。ジョーは「Of course, it's okay! He's your teacher!(当たり前だろ、こいつはお前の先生なんだから!)」とわざと気が付かないフリで俺の腕を日和の前に差し出した。

 生徒として見るという思考回路に切り替えてから、意識の上で日和が生徒にかなり戻って居た中で、手を握ると言う挨拶程度の接触に、妙に緊張感を覚えた。さっきまで三人でハグしたり散々接触をしていたが、改めて一対一で手を握る行為を求められた事に、理解が追いつかない程手が震えた。手を差し伸べられたら、誰とでも握手はする。だが、この瞬間の握手は、以前に感じたことのないほどの特別感があった。意識しないことを意識し過ぎて来たからか動けずにいると、ジョーがもどかしそうに、日和の手を強引に取り、俺の手を握らせて言った。


「You deserve this, Hiyori. You've been a wonderful student and he's one of the best people you'll probably meet in your life! Enjoy this moment, you earned this.(これぐらいして貰って当たり前だ、日和。お前は最高の生徒だったし、英人は多分お前が人生で出会う中の最高の奴の一人に違いないからな。この勝ち取った瞬間を思う存分堪能したまえ)」


 日和の手は温かかった。その温もりと肌質に、手を見て居た視線を日和の顔に移動すると、日和はしっかりと俺を見据えていた。全ての感情を押し込めた瞳の奥にいる自分。この生徒の、頑固なまでに揺るがない愛情を、受ける資格などやはりあるとは思えない。でも、これを失いたくないと、この瞬間痛いほどに感じた。自分に向けられた感情、日和が言葉で語るように永遠かどうかなど誰にも分からない。これから新たな世界に羽ばたく日和には多くの出会いがある。その中で、俺の小ささに気が付いて、この手を離さないといけなくなる日が来るのかもしれない。だが、例えそうであったとしても、これは間違いではなく、これを後悔する日が来るとは思えなかった。大切にする価値のある、宝。この気持ちは、一過性の物であったとしても、俺にとっては初めて感じ得た人間らしい感情だ。愛、そう呼ぶに相応しいのかどうか、今の自分には未熟過ぎて分からない。それでも、いつかそういう言葉をつけるに相応しい感情の素になり得るものが、自分の中に芽吹き始めていて、その芽吹きの底にある力強い根は、ちょっとやそっとでは腐ることはなさそうだと感じた。覚悟を持って、自信を持って、この気持ちを受け取りに、いける自分でありたい。日和が、紆余曲折あったにしても、俺を教師で居させてくれる生徒で良かったと思い、「Thanks, I owe you a lot(ありがと、俺は借だらけだな)」と囁くと、日和は瞬時に頬を緩め、目を細めて囁いた。


「I don't know what I did, but you can pay me back using the rest of your life if you want.(身に覚えはないですけど、もししたかったら、残りの人生全部使ってその借り返してくれても良いですよ)」


 その言葉に思わず小さく笑うと、日和も笑って手を離した。ジョーは、日和の言葉を聞こえなかったフリをした。

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