高校3年3学期②

 校舎の中はいつもより静かだ。その静寂の中で自分の乱れた呼吸が悪目立ちした。頭の中は真っ白だが、身体はその状況を無視して勝手に動いていた。バインダーを取り出し、一枚目のプリントを見ると、見覚えのある筆跡があった。母だ。すぐに分かった。


「Holy shiiiiit...(あぁぁぁ…)」


 几帳面なその字を覚えているのは、父がこっそり持っていた母の育児帳というのを、父の目を盗んで眺めていたからだ。漢字が多く、内容を理解出来たかと言われたら、その頃は全く理解は出来ていなかった。ただ、綺麗な字で、真面目そうな性格が表れている字だとなんとなく感じた、その字が目の前にある。間違いはないかプリントの裏を見ると、母のイニシャルが記してあった。首の横に手を当て、自分の異常な脈の打ち方に気が動転した。母が、ここに居たから来た。だから、こういうものが残っているのは想定内の出来事だ。しかし想定内だと思ったから、冷静でいられて、想定内だと思ったから全てを受け入れられるほど、人の心は単純に出来ていない。予期していても、身体は正直に反応する。手が震えた。ここで、教師として息をしていた母の、小さな足跡。明日には、廃品回収に出される、母の足跡。


「Oh god, what am I supposed to do? Why now? (あー、どうしたらいんだ?なんで今?)」


 小さな虚しい独り言は、資料室の静寂を一瞬だけ埋めるが、すぐにその倍の静寂が感情を圧迫する。今、これを見ないといけない理由は、何だろうか?天からのサインとか、運命とかそういうのは何も信じない自分が真っ先に思ったのは、日頃の行いの悪さがこのタイミングの悪さで表れたに違いない、だった。だが、震える手でプリントのページを捲り続けている内に、もし今日これを目にしなかったら、一生目にすることは無かった。タイミングは、今日この瞬間しかなかったのかも知れない。


 母の作ったプリントは、タイプライターのようなもので打ってあった。その文字の下に手書きで解説が書いてある。問題の傾向も、内容も今とはまるで違うこの時代の出題の仕方は興味深かったが、それ以上に母の丁寧な解説に、日本語が基本にあって英語を学ぶ人間にとっては、この説明の仕方の方が確かに分かりやすいと酷く感動を覚え、気が付いたら自分の手帳にメモを始めていた。これは自分が教師として少し成長するのに役に立つと思えた。大きなプリンターが側にあるにも関わらず、夢中になって手帳にプリントの解説をメモしていると、プリントとプリントの間に何かが挟まっているのが目に入った。この透明ホルダーだけが分厚く、他には無かったので、不審に思いながらホルダーに手を入れると、黄ばんだ封筒が出て来た。


 封筒には何も書いていないが、中に何かが入っている。ここに入っていると言うことは、誰が見ても良いと言うことだと勝手に解釈し、劣化した糊でつく封筒を慎重に開けて中身を取り出すと、頭から血の気が一気に引くのが分かった。母への、生徒からのラブレターだった。真剣な想いを、17歳なりの情熱を押し出して書いてある文面、母がこれを受け取った事実に、頭に血が上るのを感じた。母は、既婚者で、俺という子供がいた。この生徒は、その事実を知った上でこれを書いている。この生徒より長生きしている自分が腹を立てるのはお門違いだと分かっていても、無性に腹が立った。俺と、俺の父親、母の人生をこの生徒は、何だと思っていたのだろうか?

 一方的なその手紙は、しかしそこで終わっていなかった。母は、この手紙自体に返事を書いていた。しっかりとした字で、「Thank you for your kind words, but I'm happily married and I'm in love with my son. I hope you'll understand it.(優しい言葉、有難う。だけど先生は幸せな結婚をしているし、息子をとても愛してるの。分かってくれたら嬉しいです)」と記されていた。


 自分がどれだけの時間その資料室にいたのか分からない。ただ気が付いたら、窓の外は漆黒に飲まれ、人生でここまで泣いたことがない程に、泣いていた。それに気が付いたのは、ジョーが部屋に来たからだ。俺の肩を叩いたジョーは、俺を見るなり動揺しつつも、しっかりハグをし背中を摩ってくれた。


「Duuude, what happened?? What's going on here? Oh my god, I've never seen you crying like this before, you're making me cry for no reason now! (何だよ、お前、どうしたんだよ?お前がこんな泣いてんの見たことないから、ワカンねぇけど俺まで泣いてんじゃんかよ!)」


 俺に釣られて泣くジョーの肩に頭を置くと、ジョーが背中を摩りながら再度聞いた。


「What the hell happened here? You can tell me anything, you know that, right? I'm here for you... Please say something... you're seriously making me worried! (何があったんだよ?俺には何でも言って良いんだぜ?聞いてるから…つか、頼むから何か言ってくれよ、マジで心配になって来てんだけど!)」


 言葉は出てこないが、持っていたテッシュで思い切り鼻を噛むと、ジョーが少し笑った。それに釣られて少し笑うと、ジョーが顔を覗き込んだ。


「Hey, do you wanna go grab some coffee?(なぁ、コーヒーでも飲み行く?)」


「With this shitty face? No way, dude! (このひでぇ顔で?無理だろ!)」


「Ahahaha, wait here. I'll come back with instant coffee from Shokuinshitsu. Don't go anywhere, okay? I'll lock the door on the way out, so nobody gets in.(ダハハ、ここで待ってろ。職員室からインスタントコーヒー持ってくるから。何処にも行くなよ?部屋の鍵出てく時閉めてくから、誰も中に入れないように)」


「...Thanks, dude. I owe you one.(悪いな、借りが出来たな)」


「No, I owe you a lot, so this is nothing. Well, you can buy me Mameya coffee, if you want.(いんにゃ、俺はお前に借りだらけだから、これは借りでも何でもない。けどそうだな、礼がしたいなら、まめやコーヒーで奢って貰ってやってもいいぜ?)」


「...Dude, I know they offer excellent coffee there, but for a price. I'll buy you Doutor coffee. You're welcome. (おい、コーヒー美味いのは知ってるけど、値段ヤバいだろ…。ドトールで奢ってやるよ、どういたまして)」


 ジョーはいつもの調子で笑いながら俺の肩を叩いて、部屋を出て行った。目の前にある手紙、母は生徒に紙を準備して手紙の返事を一度も書いていない証。何度も同じ紙にやり取りがあった。生徒の苛立ちや、母の不安。教員として生徒を説得しようとする姿勢、距離を取る姿勢、思っていたのと、聞いていたのとは全然違うそのやりとりに、眩暈がした。


 暫くして宣言通り職員室からインスタントコーヒーを作って持って来てくれたジョーは、手に職員室にあったキッチンペーパーまであった。思わず笑うと、ジョーは気を付けながらコーヒーを机に置いて、キッチンペーパーをロールごと俺に手渡し言った。


「Now, you can cry as much as you want, だけど泣き出す前に、珈琲飲んで、何があったか話してくれるよな?」


 笑いながら礼を言って珈琲を口に入れると、いつも感じる苦味は余り感じなかった。ジョーも一緒に珈琲を飲みながら、こちらから目を逸らすことなく俺の言葉を待っていた。


「…it's a long story... (話長くなるけど…)」


「I don't have years of patience, but I can spare a night or two for my friend, so shoot. (何年も聞く忍耐力はないけど、一晩二晩ぐらい友達と過ごす時間はあるから、どうぞ)」


 ジョーに、初めて母がどう言う状況でこの世を去ったのか話をした。ジョーは驚いた様子だったが、途中で口を挟むこともなくただ静かに話を聞いてくれた。目の前にある手紙をジョーにも見せて、今日、これを見つけた過程を話すと、ジョーはやっと口を開いた。


「英人は、これどうしたい?警察に持って行く?」


「いや、それは出来ない」


「時効だから?これ見たら、明らかにお前の母親は無実だろ?」


「そうかも知れない。でも、その現場にいたわけじゃない。結局最後に何があったかは、本人達しか知り得ない。それに、母はこの生徒の親には責められたけど、刑事的な事を問われたわけではない。証拠も何もなくて、残念な事故だったとして処理されてる。それを、これで蒸し返すのは違う気がする」


「いや、でもお前の母親の名誉回復にはなるだろ?」


「名誉を母が欲していたとは思わない。今、自分が教師をしてて思うのは、ここにいる生徒の親御さんは本当に子どもの事を大事に思ってる。最終的に事実が何であったとしても、失った子は返ってこない。その上で、これを知ったら、傷口に塩を塗り込むのと同じになる。未来がある生徒が、この世界から一人消えた事実だけで、その家族は追い込まれてるのに、これを知ったら立ち直れなくなる。どれだけ周りが昔の話で処理しても、人は人を失った瞬間からその時間だけは止まる。昔の話じゃないんだよ、当事者たちにとっては。現在進行形で、その傷は永遠に乾くことがない。ずっと痛いまま。父を見てても、そう感じることが多々あったから、蒸し返したくはない」


 過去、過ぎ去った時間、それは間違いなくそうだが、失った人のいた時間は現在もその状態で心に残る。成人し、家族を築いていた母は、まだ若かった。フェアだとは思わない。母にもこれからがあった。だが、この生徒にもこれからがあった。ボタンの掛け違い、もしくは本当に当日、本人達の意図とは反して起こってしまった事故を、この手紙のやり取りだけで結論づけてしまうのは、乱暴な気がした。それでも、この手紙を読んだ俺は、救われている。母に、愛されていた。父を母は愛していた。それだけで、救われている。その事実をジョーに伝えると、ジョーは手紙を眺めながら言った。


「Look, why don't you send this to your dad? 知る権利があるだろ?きっと、お前が救われたのと同じだけ、いや、多分それとは比にならないぐらい、救われる」


「I know, but I'm scared...(分かってるけど、怖いんだよ)本当に辛い時期を通って来たから、これを知ったら、父がどう言う行動に出るか分からない。もし、これを送って、父が逆上してこれをこの生徒の家族や警察に送ったら、どうなるかと思ったらどうしたら良いのか分からない。父の気持ちは救いたいけど、無駄な悲しみを齎したくはない」


「…難しいな。そこまで予期もコントロールも出来ないし。最終的に決めるのは英人だけど、俺は何となくお前の父親はこれを受け取っても自分の胸の内にしまうような気がする」


「なんでそう思う?」


「お前を育てた親だから。親子ってさ、全然価値観違ったとしても、何処か似ちゃうもんなんだよ。お前、意外に真面目だろ?しかも、相手の事をよく見てる」


「はぁ?俺が?見てねぇよ、自分しか見えてないクズだから、俺は」


「ダハハハハ、あんさ、本当のクズは自分でクズって言わねぇんだって。自分はいい人だって言う人間に限ってクズなんだよ。お前は違う。自分のダメな部分もしっかり見つめて、変えて行く努力してるし、間違いを犯してもそれを無かったことにはしないだろ?あのセックスエデュケーションの時に思ったんだよな。あそこまで自分の非を認めて話せるって、すげぇなって。俺は無理だからさ、常に自分をよく見せたくて仕方ねぇから」


「ダハハハ、んなことない。お前はクズっぽい事言うけど、それも色んな感情への誤魔化しに過ぎなくて、現実は真面目に一人とずっと付き合ってる」


「…まぁな」


「ん?歯切れの悪い返事。何?何かあった?」


「いや、うーん、ま、ちょっとこれは考え中ってかさ、俺の話をするために俺はここに来た訳じゃねぇから、また今度でいい。で、どうする?」


 ジョーの言葉を濁した態度に気になったが、本人が話したい時に聞くのが一番だと思い、聞かれた事を考えた。


「とりあえず、持ち帰る。持ち帰って、考える。けどさ…」


「けど?」


「何回も手放したと思ってた感情に、本当は引くぐらい、すげぇ拘ってたんだなって…。気にしない気にしないって言い聞かせてただけで、本当はずっと気にしてたんだなって…。俺も大概子供だなって自分に驚くぐらいだから、父に送る決心つく気がしない」


 もう、母のことは忘れようと思った。拘っても仕方がない。校長に以前言われて、人の話では母が立場的に悪いような印象を受けたのは否めないし、それは違うと否定したい気持ちがこれを読んで湧いているのも事実で、しかしそれをして浮かばれるものは何かを考えると、自分の怒りや虚しさを抑える事はできる。だが父は違う。生涯一緒に生きる予定だった相手だ。子どもの俺とは立場も感情も別物だ。それを思うと、どうしたらいいのかなど、もしかしたら一生決心がつかないのかも知れない。その気持ちを正直に話すと、ジョーは机に肘を置いてその上に頭を乗せ、漆黒の空を窓から眺めて話した。


「Why do we all fall in love? We know it'll fuck us up, but we can't help it. I don't understand why the fuck we fall for it. It's a death trap, and we go for it. Are human beings hopeless dumb-ass? (何で恋なんてするんだろうな?酷い目に遭うって分かってても、どうにも出来ない。何でそれでも恋に落ち続けるのか理解不能過ぎる。恋なんて死あるのみなのに、それでも頭から突っ込んでく。人間てどんだけ頭悪いんだろうな?)」


「I don't know, but I think it's beautiful. The feeling you get is indescribable, but it's darn special and turns your world upside down. You can't get this adrenaline from other experiences. Loving someone is the only way to make us grow, and it's the only thing that matters to people. When you think about it, it's crazy. You can't touch or see it, and it doesn't even pay the bill, but it's the most valuable thing you can obtain in life. (分かんないけど、美しいとは思う。恋する感情を説明って不可能だけど、とにかく特別で天地がひっくり返る感じ。これ以外の経験からこのアドレナリンって得られない。愛だけが人間を成長させるし、人間にとって唯一大事なのは愛だからな。考えてみたら、結構凄いよな。愛って実態を見ることも触ることも出来ないし、生活の足しにもならないのに、人生で得られる最も価値があるものってさ)」


「...That was kinda poetic, dude.(なんか、ちょっと詩的だったな今の)」


「Hahahaha, what are we talking about now??(ダハハハ、俺たち一体何の話してんだ?)」


「About love, about life, about your mom... She had everything, you, your dad, this job, but something just went wrong. Probably, that was it. She had it all. She had a fulfilling life.(愛の話、人生の話、お前のお母さんの話…。きっと彼女は満ち足りてたんだろうな、お前がいて、お前のお父さんがいて、この仕事があって。だけど何かが上手に噛み合わなかった。多分、それだけなんだろうな。彼女は必要なものは全部持ってた。満たされた人生を送ってた)」


「...Thanks, Joe. I really hope so...(ありがと、ジョー。そうだと良いって今は思う)」


 ジョーと暫く手紙を眺めながら、母の話をした。初めて、母に対する嫌悪感がなく、人と母の話を出来た。それが、嬉しかった。


 帰宅してからマイアに日課である電話をした時も、今日の話をした。マイアは電話口で泣いた。俺がどれだけ本当は気にしていたかを知っていたから、静かに泣いた。

 

 完璧な人生は存在しない。人は間違えを繰り返す。そこから少しずつ何かを学んで次に活かす。それでも、その間違えが、時としては取り返しのつかない事項に繋がったりして、母の事はきっとそういう事だったのだろうと思う。一人のティーンが恋をした。子供もいる、夫もいる教員に、恋をした。その気持ち、自分の感情しか見えなくなり走り過ぎた気持ちは、相手の未来よりも自分の心の中を見ることにしか向かなくなってしまった。誰にでも起こり得ることで、誰にでも身に覚えるある経験。それが、望んでいない結果を産んでしまった現実を、残された者に変える力はない。それでも、残された手紙のやりとりを読んでいて感じたのは、そこには悪意など一切なかったと言うことだ。生徒も、母に振り向いて欲しい気持ちを押し付けている節はあっても、それは誰もが可能性のある若さ故の情熱を履き違えた感情で、誰もこの生徒を一方的には責められない。母はこの生徒に、きちんと教員として向き合っていた。人としての敬意を持って。だから、その時は一生懸命だったこの生徒を、この世にはいないこの生徒を責める気にはなれなかった。


 手紙を手元に置くか、父に送るかは、まだ心が決まらない。ただ、父に送ると決めたら、父がどうなろうとも、それを家族として、息子として、全て請け負いたいと思った。ここまで、母を何処かで信じて、俺を育てて来てくれた父だから。


 翌日の廃品回収は、呆気なかった。母の作ったプリントを何枚か抜いて手元に残そうか考えたが、全てを手放すことにした。母の努力は、きっと今もどこかで生活する生徒達の中で生きている。だから、この仕事を残しておく必要はない。ここに居た事実は、何も変わらない。そう自分に言い聞かせ、箱を回収に来た人に全て持っていくように伝えた。決心が揺らぐのが怖いので、すぐに自習室に移動した。しかし生徒達の質問に全て答え、その後職員室に戻ると、机に一枚の紙が置いてあった。それは、母の字で記された学習予定表だった。黄ばんだ紙、女性らしい母の字、思わずその紙を手に持つと、ジョーが部屋に入って来て、俺を見てウィンクをした。


「I found it on the floor, so I thought you might wanna keep it. (床に落ちてたからさ、お前が取っておきたいかと思ってね)」


 言葉にならない気持ちをハグで表すと、ジョーが俺の背中をパンパンと叩きながら優しく言った。


「We're all allowed to hang on to something. I know it's just a freaking paper, but it's a part of her life and you were in it. Keep it. She'd appreciate it.(俺達、時には何かにしがみついたって良いと思う。ただの紙だってのは分かってるけど、これは彼女の人生の一部で、お前はその中でちゃんと生きてた。取っておけよ。彼女、喜んでくれると思うから)」


 ジョーが抜き取ってくれたその紙は、母が亡くなった年のものだった。紙が悪くならないように、帰りに紙をプラスチックで補正し、家に大事に持ち帰った。そして、その紙ごと、その翌日父に手紙と共に送った。これが、父の心を壊すのではなく、守るお守りになることを祈って。

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