高校3年3学期①
高校生活で一番登校数が減るのは、紛れもなくこの3年の3学期だ。大学受験に向けてこの3年間を過ごして来たと言っても過言ではない程、生徒達はこの試験日に向けて準備をして来た。それを、全力で発揮する時が来た。3学期の初日、冬休みを越えて、大事な日の迫った生徒達の表情は、緊迫感で溢れていた。教室に入り、騒ついた部屋に一瞬の静寂が訪れると、定位置の机に座り、輝く瞳をこちらに向ける生徒達の顔を一人一人見渡した。自然に、笑みが溢れた。
「…いつの間にこんな育ったんだ、お前達?」
つい本音が漏れると、大八木が大きな声で明るく言った。
「先生が紅白歌合戦見ている間です!」
「あははは!先生は紅白歌合戦を見たこと一度もないんだけど、まぁいいや。そういうことにしておこう」
笑う俺につられて笑う猪田先生が「紅白見たことない」発言をした俺に騒つくのを静かにさせると、それに小さな声で礼を伝えてから話を続けた。
「本当は今日、これからこの学期の始まりで色々言おうと思ってたけど、辞めます。皆の顔見たら、もう分かったから」
「何がですか?」
生徒の一人が声を張って聞くので、それにしっかり答えた。
「That you guys are ready. 先生には何も言えることはないけど、もしあるとしたら、風邪だけは何があっても引かないように、それだけ気をつけること。まだ少しだけ共通テストまで時間あるけど、気を抜かないで最後まで健康維持して、前日はゆっくり風呂に入って、早く寝る。ギリギリまで勉強しないこと。その為に、どの教科の先生も学校に毎日これから放課後9時まで残ってるから、必ず分からない事は聞きなさい。曖昧、有耶無耶を一つずつ消して、安心を持って試験に行けるよう。以上」
生徒達の返事は、いつもの明るさよりも、自信と不安の混ざった少し重い返事だった。当たり前だ。この3年間努力して来たことが、この2−3ヶ月で全て決まる。大学は浪人も可能だが、現役合格を目指してきた彼らにとって、そのオプションは今の所ない。皆で合格、皆で卒業。いつの間にか後ろの黒板にそう書いてあった。実際に、そうなる事を願い初日から、放課後は自習室に向かった。
自習室の担当は、相変わらず順番だが、担当時間や担当日以外も、生徒の質問にすぐに答えられるように、全ての教員が自主的に職員室に残ることを申し出た。それは、今年の生徒達の勢いとやる気に、教員が乗せられているからだ。高校を卒業し、大学を出て社会人になり、多くを得て多くを失った。その中でも、この高校生の形容しがたい勢いというのは失ったものの一つに入るだろう。大人になると勢いが衰えると言っているのではないが、高校生の勢いというのは目を見張るものがある。大人では到底出せないようなエナジーは大人を巻き込む。これを、応援したいと思わない大人は、恐らくいないだろう。自分が教員だから特にそう感じる可能性は否めないが、「未来」というふりがなの付いた進学を決める為、我武者羅に努力するその姿は単純に美しく、これ以上なく真っ直ぐで心を激しく揺さぶられる。自分にはなかったこういう高校時代を、生徒達を通して再度経験させて貰える奇跡に、深く感謝の念を抱く。
自習室ではすぐに生徒がテキストとノートを持って質問に来た。
「先生、これ聞いてもいいですか?」
「Fire away.(どうぞ)」
「このThatからの文が掛かってるのが何処なのか、説明読んでもイマイチピンとこなくて…」
「ん、じゃあこの文の前後合わせて、まず音読して」
「はい」
生徒の発音を少しずつ直しながら音読をさせていると、昔の自分を思い出した。米国に越して、初めの3年間、他の生徒とは別に英語のクラスを受けていた。その時の先生の存在を、すっかり忘れていたが、自分があの国で大きないじめにも遭わずに生活出来たのは、あの先生がしっかり俺の発音を直してくれたからだ。急に頭の中に浮かんだ先生の面影を、朧ながらに思い出していると、生徒に手の甲を突かれ我に返った。
「Sorry, I didn't catch what you said. (悪い、聞いてなかった)」
「Oh come on! ってちょっと言ってみたかったので使ってみました。でへへ。使い道、合ってました?」
「Hahaha, yeah, you said it at the right moment. Sorry about that. (あはは、ドンピシャ。悪かったな)」
この生徒達、一人一人の全てを支える力は俺にはないが、もし、あの頃の先生のように、この3年間でこの生徒達が学んだ英語が、この先の人生で彼らの何かを支えてくれるようになったら、これ以上ないと思った。未来に俺はいなくても、未来のどこかに、今ここで俺や他の教員から学んだ何かが小さな種として残っていたら、それが全て。
******
日本の冬は寒い。これはここに戻って来てから来てから一番身に沁みて感じた事だが、今年の冬は特に冷えた。校長は過保護と捉えられても構わないと、毎朝生徒達に防寒を促す電話連絡網を回していた。担任からまず4名に連絡をし、その4名がグループ分けされたトップとして、連絡を回すシステムだ。朝一に大八木の家庭に電話をすると、母親が電話に出た。
「あ、おはようございます。担任の優月です」
「あら、先生!うちの子、何かしましたか??」
「あははは、そういう連絡ではなくて、校長が今日もかなり冷えるから、必ず防寒対策をしっかりして家を出るよう連絡網を回せと」
「あらあら、校長先生、私の母みたい!今日の朝、母からも連絡あったんですよ、寒いからって」
「あははは、そうでしたか。すみません、受験が近いので、とにかく女子はスカートの下にタイツか体操着でもなんでもいいから、足を出さないようにして家を出してあげて下さい。男子は首回りと足首、パンツが短い生徒はくるぶしまでしっかり温めてくるよう、連絡網回して頂けますか?」
「はい。校長先生が、スカートの下に体操着のズボン履いていいなんて、ちょっと驚きですね?」
「本当そうですね。登校の身嗜みより、健康。とにかくそれが第一ですから、元々パンツで登校している生徒はいいんですけど、女子はスカートが短い子もいるので、やはり冷えるといけないですから」
「それうちの子ですね?」
「あはは、否定はしませんけど」
「あははは、先生!はい、わかりました。伝えておきます。朝からお疲れ様です、先生。気に掛けてくださって嬉しいです。うちの子、本当にこの学校選んで良かったと思います」
「…有難う御座います。校長に伝えておきます」
電話を他の3名に同じようにしたが、全員母親が電話に出て、大八木の母親と同じような反応を示した。そして、切った電話を眺めながら心底思った。自分も、この高校に来られて良かった。
放課後、緊張感の高まっている校舎の中で日和にすれ違い、足を止めると、日和も少し距離を取って足を停めた。毎朝教室で顔を合わせるが、受験のことで頭がいっぱいで、瑛人のことで頭がいっぱいで、日和の変化に全く気がついていなかった。日和は髪の毛がかなり伸びていた。疲れた顔をしているが、瞳の奥にある光は、今までとは比べ物にならない程に、強いものを感じ、逞しく思った。
「長髪男子でも目指してるのか?」
「…髪切り行く時間が勿体無いから、受験が終わったら切ります。先生も、かなり伸びてますけどね?」
「…受験が終わったら切りに行きます」
「あははは、お疲れ様です。受験日はいつですか?」
「まずは共通テスト。それから…」
冗談紛いに日和の冗談に応えていると、日和が声を顰めて言った。
「先生、有難う御座います」
「何が?」
「僕のこと、クラスで何も話さないでくれて。周りは僕に気を使ってくれて、何も聞いてこないけど、結果すら見てないとか誰にも言ってないし、翔すら僕には何も聞いてこないから、ちょっと罪悪感はあって。翔の受験結果はすぐに僕にだけこっそり知らせてくれたのに、僕は見てないことすら言ってないから」
素直な日和らしい考えだと思い、頬が緩むのを感じた。自分にはない、こういう部分に、どれだけ戸惑い、どれだけ心が揺れたか。友達想いで、正直者。それは一年から変わらない。
「先生は、青木も本当は薄ら勘づいてると思うけど」
「え?!何でですか?」
「お前と青木、付き合いが長い。お前が思ってるよりも、俺が知ってるよりも、青木はお前をちゃんと見て来てる。だから、気兼ねする必要はないと思う。このまま何も言わなくても、共通テストが終わった後に話しても、青木は笑ってお前の判断を受け入れる。先生は、そう思います」
「…やっぱり、先生は大人ですね」
「無駄に年取ってると言われないだけ、有難いです。有難う」
「僕のしてる事、子供だと思いますか?」
「まさか。全くそんな事思わない。日和の人生に関わる判断は、日和が自分ですべき事だ。それをしてるって事は、精神的に自立してる、大人のすること。寧ろ、大人だと思う。もう合法的に大人だしな?」
「…はい。有難うございます」
「事実です」
「…頑張ります。先生達の努力、無駄にしないためにも」
日和の言葉に感謝の念を抱きながら、それを否定した。
「それは違う。日和が頑張る理由は、日和自身の未来の為であるべきだ。先生達の努力は、お前達の結果には関係ない。こっちはこっちでプロとして仕事してるつもりだから、生徒達はそれを踏み台にして高く飛んでくれたら、それでいい。周りの期待、周りの気持ちじゃない。それを盾に突き進むのは良いけど、その為に頑張る必要はない。今は自分だけの為に、頑張れ」
「…はい」
会釈をして顔を上げた日和の目は、多くの水分を含み潤んで見えた。3年間の努力が試される日が近づく重圧を感じさせない、純粋な瞳だと感じた。
生徒達一人一人の努力を一番支えているのは、日々の生活を支えている親御さんだ。教員の自分達にできる事は、行きたい未来への一歩に到達する為に、階段の数を増やしてあげることだけだ。無数の階段の一段分、教員の立ち位置はそのぐらいしかない。それでも、その一段がいつか手の届く夢の大事な一段になる。そう信じてこの仕事をしている今の自分は、教員という職に就こうと思ってから随分と変わった。ふと、ここに来るきっかけになった母の事を思い出しながら、資料室で過去問題を漁っている間、考えた。母も、この部屋で俺と同じように生徒のことを思いながら、仕事をしていたのかも知れない。何があったのか知りようもない。だが、きっと生徒達のことを教師として想っていた。それが妄想であったとしても、これだけだらしのない自分が変われたのは、この時期独特の生徒たちの真っ直ぐな気持ちに押されたからだ。母が、そんな気持ちに揺さぶられない訳はない。
欲しかった資料、5年分を纏めてコピーを取っていると、部屋の奥に山積みになっている段ボール箱に目がいった。今までなかった箱だ。なんとなくそれを見ながらコピーをしていると、猪田先生が珍しく汗をかきながら段ボールの乗っているカートを押して部屋に入ってきた。
「お疲れ様です、優月先生」
「お疲れ様です、インストラクター復帰されたんですか?凄い汗かいてますけど」
「あはは、恥ずかしい!校長先生に、もう10年以上前のプリントは全部廃棄するように、こんな時期に言い渡されちゃいまして、地下の倉庫から英語関係のは渡されて、持って来てました。疲れました…」
「言ってくれたら俺がやったのに!」
「あー、大丈夫です。私、これでも力持ちなので」
「あはは、知ってますけど!てか、凄いあったんですね。あそこ、ここに赴任してから一回説明されて行っただけで、一度もそれから入ってないから知りませんでした。何箱持って来たんですか?」
「知りたいですか?52箱です」
「…先生、明日筋肉痛で倒れますよ?」
「まさか、これぐらいで筋肉痛になる程柔じゃないですよ!でも凄いです、これだけ多くの教員がプリントを自分で作って、ここに残していったんだなって思ったら、歴史を感じて感動します。教師としての情熱の歴史」
「確かに。うし、俺達のもしっかり残して行きますかね?」
「はい!では、私、この最後の箱置いたら職員室に戻ります。箱邪魔だと思いますが、明日一気に廃品回収で持って行って貰えるらしいので、ここにそのまま置いておいて下さい」
「はい。お疲れ様です。すみません、本当俺がやるべきことだったのに」
力仕事を一切しなかったことを謝ると、猪田先生は満面の笑みで答えた。
「Don't worry, I'm a strong woman. I don't need men for anything, except for a nice cuddle at night.(心配しないで下さい、私は強い女です。男の人が必要なのは、夜のちょっとしたじゃれ合いの時以外ないので)」
男は力仕事、女は事務仕事、そういう俺の古い考えを弄ったその茶目っ気ある返事に、思わず声を出して笑ってしまった。
「Ahahaha, you're cool. I got your message. Thanks anyway, I really appreciate it!(あはは、参ったな。了解。でも本当助かった。ありがと)」
「You're most welcome!(どういたしまして)」
猪田先生の背中を見送り、プリントを整えると、またその箱の山を見た。埃臭い段ボール、そこに詰まったこの学校の歴史。自分の作っているプリントも、いつかこの山の中に入り、そして廃品回収に回される。学習方法も、学習すべきことも、時代と共に変わるのだから、それは当然だ。ふと、昔はどういう事を勉強していたのか気になり、一番奥にあった箱を静かに開けた。浦島太郎の玉手箱、開けたらいけない箱を開けているようで少しドキドキとしたが、興味があった。
箱の中には黒のバインダーが一番上にあり、そこには年月だけが記載されていた。その年月から、自分がまだ小さな頃のものだと思うと笑いそうになったが、瞬時にバインダーに伸びた手が止まった。この年代は、母がこの学校で仕事をしていた頃だ。急に、手に汗をかいた。喉の奥が締まり、身体が硬直した。これは、開けてはいけない箱、だったのかも知れない。
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