卒業式(最終章-1-)
生徒達が入学した瞬間から頭を過るのは、この日が来ることだ。3年間の高校生活最後の日、この日を迎える時、生徒達はどんな表情になっているのか、入学式の時点では想像すらつかない。多感な16歳から18歳を大きな成長を遂げながら過ごすこの校舎は、彼らの人生そのものが詰まっている。だが、その人生の全てが詰まっていた場所は、今日この瞬間から過去のものになる。そして新たな人生を捕まえに、こちらに背を向け先を向き、歩み出す。この瞬間をこれ程楽しみにしているのは、生徒達本人よりもそれを見守る大人の方なのかもしれない。過去の自分を重ねては反省点を学び、自分とは違う人生を歩む生徒達の姿に感涙する。正装してくる保護者の清々しい笑顔は、生徒達が体育館を出ていく時、静かに頬が濡れ、その様子を眺める教員もまた、必死に涙を堪える。頑張れ。行ってらっしゃい。そういう気持ちで見送る事しか出来ない大人の自分達と、行ってきますと頼もしく未来を歩み出す生徒達の最後の祭典。初めて3年間担任を持ち、初めて担任した生徒達を送り出す。朝から想像通り気持ちが全く落ち着かず、ボウタイの位置をを何度か直していると、マイアから電話が来た。
「hey, what's up? How's the little king?(どう?キングはよく寝た?)」
「He was a good boy last night. He woke up just once! Well, are you ready for the big day?(いい子だったわよ。一回しか起きなかったわ。心の準備できてる?)」
「…I don't know if I'm ready or not, but this is the moment we've been waiting for. Three fucking years...(準備出来てるかは分からんけど、この瞬間をずっと待ってたからな…3年間)」
「Three fucking years, huh? Can you imagine our son's gonna be a teenager one day?(3年間か…ねぇ、いつかこの子がティーンになるとか想像できる?)」
「I absolutely can't! He's just started to say goo goo gaga!(全く。ついこの間バブバブ言い始めたぐらいだからな)」
「Ahahahaha, we better enjoy this while he's tiny and cute.(あはは、今の可愛くて小さいうち楽しまないとね)」
「Yup. Hey, I'll pick him up tomorrow and keep him for a night, if that's okay?(だな。明日迎え行くから、一晩こっちで預かっていい?)」
「Of course, but are you sure? You may have company this weekend, don't you think?(勿論良いけど、本当にいいの?今週末は誰かさんがいるんじゃない?)」
マイアの含みのある言葉に、思わず一瞬だけ顔がにやけてしまったが、現実的に物事には順番というものがあると思い、返事をした。
「Nah, I mean, technically there's nothing wrong with it, but I have to go talk to his parents first. If they decide to kill me, find a new dad for the king, okay?(ないない。ま、別に卒業後だしアリだけど、まずは日和の親に挨拶行かないと。もし殺されることにでもなったら、キングの新しい父親探しといてな?)」
「...Good luck, baby. I'm sure you'll be fine. He's over 18, and he's going to fucking Harvard. You helped him to achieve that. (ファイト。まぁ大丈夫よ。彼もう18歳だし、なんたってハーバード行くの、貴方が凄く手助けしたわけだし)」
「No, I didn't. He did it all by himself. It's the result of his crazy effort. I don't even think I deserve that guy. I mean, look at me. I'm just a poor high school English teacher. On the other hand, a fucking Harvard student. I suddenly feel intimidated, you know.(俺は何もしてない。この結果は日和一人の努力の賜物。本当、見合ってないよな。だって俺だからさ。この貧乏な高校の英語教員。片や天下のハーバード。急にビビってんだけど)」
「I get that, but he wants you. He chose you and he's so clear about it from the beginning. You better hang on to him, he's a good catch.(わかるけど、彼は貴方がいいのよ。彼は貴方を選んだの。初めからそこはすごく明確に意思表示してたでしょ?彼はしがみ付いて逃さない方が良いわよ。)」
「I know that, but it's me, Maia. It's me. Why me? I still don't get it. How can he be so sure about me? (知ってるけど、俺だから。俺。なんで俺?未だに正直理解できない。なんであんなに俺だって言い切れるんだ?)」
昨日学校を出る時、この関係をゼロに戻す約束をしてから初めて、日和が俺の下駄箱に小さなメモを置いて行ったのを見つけ、手汗をかいた。そこにあったのは「It's time. I meant everything I've said. (時が来ました。今まで口にした言葉は全て本気ですから)」と書いてあった。正直、死ぬほど顔がニヤけたが、それ以上に緊張した。本当に、自分で良いのか急に不安が一気に募ったからだ。
「Ahahaha, now you sound like a teenage girl, baby! How cuuuute! (英人、ティーンの女子みたい!かーわーいー!)」
.「..are you having fun?(楽しんでるだろ?)」
「Of course, it's entertaining. Look, I don't know why or how, but he knows you're the one. He's a smart guy and he definitely knows what he wants. Let him guide you through this new phase of adventure. You won't regret it. He's the type of guy you need in your life. (勿論、超楽しい。まぁどうしてとかどうやってとか分からないけど、彼は貴方だってはっきり分かってる。彼は賢い人だし、何を自分が欲しいかは明確に見えてる。彼に人生の新たなフェーズの舵取り頼めば良いのよ。絶対後悔しないわ。貴方には彼のような人が必要なのよ)」
「...what do I say to his parents? Please may I fuck your son? God, this is fucking nerve-wracking!(つか、親御さんに何て言うんだ、俺?大変恐縮ですが御子息抱かせて頂けますかね?ってか?マジ、やばい)」
妙に現実的になってきた関係に、奇妙な恥ずかしさを覚えて思い切りふざけた事を言うと、マイアはその冗談に乗って豪快に笑いながら言った。
「Ahahahaha, they might say "yes, Yuzuki-sense, you may now fuck our son freely whenever you want."(あははは、案外ご両親も”優月先生、好きな時にご自由に息子を抱いてやってください”って言うかもよ?)」
冗談で言ったものの、よく考えたら付き合うと言うのはそう言う関係になるのは前提のようなものだから、それが起こる現実が目前まで実際に迫っている事に、恐ろしい程の罪悪感を抱き、頭を抱えてつい漏らした。
「Oh fuck, I feel sooooo guilty... I'm so scared and I've never ever felt this way about sex... I don't even know if I can do it...(ヤベェな、罪悪感が半端ない。セックスに関して怖いと思ったこと一回だってないけど、今死ぬほど怖い…できる気がしない)」
「Oh come on! You're gonna be okay. Just one at a time. First, graduation ceremony, then go talk to his parents, theeeen aaaafter that, you fuck him.(大丈夫よ、なんとかなるわ。一歩づつね。まずは卒業式、その後親御さんに話して、その後でやっと、抱きに行けば良ろし)」
「...If his parents won't kill me. I would if I were them.(殺されなきゃな。俺なら殺すけどな)」
「I wouldn't if I were them. You're the father of our little king. You may be a poor high school English teacher, and you may look like a Grizzly Bear, but inside, you have this beautiful heart of gold. You're everything that he wants, so don't overthink and go get him.(私が親御さんだったら殺したりしないわ。貴方は私達の息子の父親よ?安月給の高校英語教師かもしれないし、グリズリーみたいな形かもしれないけど、その中には最高に美しい心がある。貴方には彼が欲しいもの全てが詰まってるのよ。考えすぎないで、当たるのみ!)」
受験期の忙しさにかまけて、髪がかなり伸びていたのでグリズリーと言われたことを否定することも出来なかったが、確かに当たって砕けろなのかもしれないと思った。
日和とは試験が終わった後も二人の話はしていない。だが、昨日受け取ったメモで、卒業式が終わったら、こちらから正式に付き合うことを許して貰えるか、両親に挨拶に向かおうと決心をした。日和に相談はしていない。だが、こちらに懸命に投げてくれたボールの行き先は、日和の望む方向へ投げ返したい。
ここまでお互い待って、ここまでいろいろなことを話してきた。戸惑いも過ちも全てを通って、この日を迎える。だから、もし、この先日和の気が変わることがあったとしても、今年のこの今日という日に日和が俺を選んでくれるのなら、やはり堂々と隣に立ちたいと思う。人生で付き合った相手の親に挨拶など一度もしたことがないので、何を言ったら良いのかは分からないが、とりあえず日和に今日渡す予定のカード、ジョーと猪田先生にもサインして貰ったものに、小さなメモを付け加えた。
<急ぐつもりは無いけど、落ち着いたらご両親に時間貰えるか聞いてくれる?まずは挨拶に行く所から始めさせて欲しい。宜しくお願いします>
試験前に約束したタキシードは、元から持っていたものを着る予定だったが、日和に指摘された通り、背が伸びていたらしく、長さが若干足りずに慌ててレンタルをした。意外に値段したので、汚さないように注意しながら家を出ると車に乗り込みエンジンをかけた。すぐに流れ出したラジオから聞こえる曲は、”It's Time"だった。吹き出しそうになったが、それを大声で歌いながら、学校への道を多くの感情を車の中に詰め、走った。
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「優月先生!カッコイイですね!!!」
「…ちょっと、やっぱスーツにした方が良かったですか?」
職員室に到着してすぐに女性職員全員に賞賛されたが、それが場違いな服装だと指摘されているような気もして赤面していると、ジョーと猪田先生が到着してその気持ちが消えた。二人共、かなり派手な服装をしていた。思わず笑うと、二人も俺を指差して笑った。
「英語教員がフォーマル海外仕様なのは、これからこの学校の伝統でも良いですね」
小池先生の言葉に皆で笑うと、全員で体育館の最終確認にこっそり向かった。小池先生と猪田先生は非常に仲が良くなり、ジョーと俺は相変わらずで、岸田先生と鈴木先生がそれに加わり体育館の入り口に立つと、既に胸がいっぱいになるのを感じて声が出なかった。一言も話さず、静かに全員で空の体育館を眺めていると、ジョーが呟いた。
「やっぱプロムないの寂しーよー」
「でも、お前今回の謝恩会、自分のDJブース確保したんだろ?」
卒業式の後にある謝恩会は地元のホテル会場で生徒と教師だけで行われるが、適当なゲームやらスピーチやらで今までダンスはなかった。大抵は校長の長い長い演説を殆ど誰も聞かずに料理とお喋りに夢中になって終わるのが恒例だ。今年は送り出す担任教員の一人として、壇上で花束を貰うのは知っていたので、あれは恥ずかしいから避けたいと密かに思っているが、DJブースがあってパーティ使用になれば、あの堅苦しい「先生、ありがとう」な雰囲気は流せるかもしれないという考えが頭を過ぎると、ジョーが得意げに言った。
「マミに協力して貰ってしっかり仕込んでるぜ?でも、バルーンがまだ終わらないから、式の前に手伝って?」
「あー、マジか…猪田先生も手伝って下さいよ?バルーン」
猪田先生を引き摺り込もうとすると、他の3名も手伝ってくれることになり、文化祭で残っていたバルーンの確認をし、準備万端ではなかった謝恩会の準備をこんなギリギリでする羽目になりバタバタしてしまい、結局猪田先生が先に教室に向かってくれた。足りない飾りの買い出しまで必要になったので、近くのホームセンターで少し買い物をし車で学校に戻ると、既にスーツに身を包んだ親御さん達が校門をくぐり始めていた。最後の日に、教室で式の前に生徒達に話が出来ないのは寂しいと思い、慌てて教室まで駆け上がると、俺の足音で気がついた廊下側に座る生徒が窓を開けて手を振った後、教室に向かって叫んだ。
「先生来たよー、みんな!!!!」
「悪い!ちょっと色々!」
ドアを思いっきり引くと、生徒達が全員こちらを見て悲鳴をあげた。何があったのかは分からないが、とにかく悲鳴が凄かった。猪田先生も一緒になって騒ぎ立てるので「What is this all about?(何これ?)」と口パクで聞くと、先生は「It's nothing. They're excited because you look great.(なんでもないです。先生が素敵だから興奮してるだけですよ)」と急に平静を装い答えた。思わず日和を見ると、日和は肩をすくめて「What?」というジェスチャーを送った。思わず「What's going on?」と口パクで聞くと、大八木が大きな声でまた叫び、それを皆が背中を叩いて止めたが、止めている皆も騒ぎが治らず、状況が理解出来なかった。暫く続く悲鳴の中、もう時間がないので久しぶりに教壇に登ると、生徒の一人が「先生、巨人!」と叫び、皆が笑った。
「えー、まず遅れて申し訳ない。バタつきました。最後なのに、ちょっと、ていうか、何?俺の顔に何かついておりますか?」
生徒全員が俺の顔をまじまじと見るので聞くと、日和が大きな声で「なんでもないです!」と叫び、他の生徒がまた悲鳴を上げた。意味が分からなすぎて猪田先生に助けを求めて視線を振ると、猪田先生は「続けて下さい」と落ち着いた表情で促すだけだった。生徒達の視線に居心地の悪い思いをしていると、大八木が小声で「先生、気合凄い。キメキメ」と呟いたので、それに返事をした。
「I heard that! I wasn't planning to wear a tux, okay? It was only because…(聞こえたぞ!タキシードは着るつもりなかったんです、でもただ…)」
言いかけると、日和に着ろと言われたからとは言えないことを考え、黙ってしまった。一瞬の沈黙を破ったのは青木だった。
「I told him to wear it. You look a bit younger that way. Not bad.孫にも衣装だな?」
生徒達が思い切り笑いだすので、一瞬一緒に笑いそうになったが、まだ教員の身として一応青木を注意した。
「先生はまだ青木の教師です!つか、他のクラスもう移動?」
青木を見ると、廊下を団体が移動していくのが目に入り、思わず聞いたら、青木が呆れた顔で答えた。
「だってもうこの時間ですよ?」
「あー、じゃ、あれだ。お前らも準備しろ。もう行くぞ」
慌てて皆に皆に席を立つように促すと、生徒達が「卒業前の感動の挨拶なしですかー?」と叫んだ。皆が笑うので、一瞬その笑いを口笛で止めると、一言だけ伝えた。
「卒業、おめでとう。証書貰った瞬間からもうここは過去のものになる。でも、良い過去として、皆がこのクラスの事覚えていてくれたら、先生は嬉しいです。以上!行くぞ」
本当は色々言いたいことはあったが、一番はそれしかなかった。ここはもうすぐ彼等にとっては過去の思い出になる。だが、この場所を、このクラスメイトを思い出す時、温かな気持ちになる事を願いたい。悲しい気持ちや辛い気持ちよりも、皆で切磋琢磨して培ったこのクラスの絆を、忘れないでほしい。そう思いながら皆を廊下に誘導すると、俺の横を通った日和が小声で「You look amazing」と囁いた。思わず「Thanks」と答えると、大八木が遠くからまた悲鳴をあげ、皆に背中を叩かれていた。
既に在校生が体育館の中で待っており、オケ部が卒業生が入場するのを待っている。一番前で入場の合図を待つ1組から一番遠い場所にいる7組の俺達は、静かに列が移動するのを待った。いつもは体育館の中で、卒業生が入場してくる姿を見てきた自分が、今回は一緒に入場する。親御さんが卒業式で泣く気持ちが、今の段階で痛い程わかり、泣きそうな気持ちを必死に抑えていると、隣に立っていた猪田先生がそっと背中をさすって囁いた。
「御めでとうございます。先生のクラスに関われて、私の人生観が変わりました。ありがとうございました」
「…Please don't. Not now. I can't cry before even entering the goddam auditorium!(やめて下さい、今じゃないでしょ。体育館入る前に泣くわけにいかないのに!)」
「Sorry, but if I don't tell you this now, I don't think I'll have time to talk to you today.(すみません、でも今言わないと今日先生と個人的に話す時間はなさそうだから)」
「We'll have plenty of time after the ceremony! Oh come on, give me a good joke or something instead!(式の後に十分ありますよ!頼みますよ、何かジョークとかくださいよ、こんなじゃなくて!)」
涙腺を刺激するにしても笑いの方にして欲しくてそういうと、猪田先生は少し考えてから真顔で言った。
「Last night I found an origami porn channel, but…(昨日折り紙ポルノってチャンネル見つけだんですけど)」
「But?(だけど?)」
「I couldn't see it cos it was "paper" view only.(ペイパービューのみで見れませんでした)」
「Duuuuude, that was actually not a bad one! Gee, thanks! I feel a bit lifted. (あははははは、悪くない!ありがと、ちょっと肩の力抜けた)」
「I just told my boss a dirty joke... do I get fired?(上司に下ネタ言っちゃった…クビになります?)」
「I'm not your boss and I have tons of dirtier jokes, so no worries. (俺は君の上司じゃないし、俺の下ネタはもっと下劣だから問題なし)」
猪田先生が笑うと、俺も一緒に笑った。ここに俺の勝手で迷い込んできたと言っても過言ではない先生は、この半年で随分と教師らしくなった。だが、ただの教師としてそこにいるのではなく、大人として社会人として人として生徒と向き合おうとする姿勢を感じる、素晴らしい先生だ。ジョーが懸命に誘ってもそれを軽くあしらえる大人の猪田先生は、勿論生徒達の間でも絶大な人気を確立している。これからが楽しみだ。
「7組、入場お願いします」
声が掛かったので振り返って生徒を全員見渡した。皆、これ以上なく良い笑顔だった。思わずこちらも笑顔になると、生徒の一人が叫んだ。
「Are you ready??(準備万端?)」
「Heck yeah. This is it, guys. This is the moment. Let's go.」
生徒達から大きな歓声が上がると、それを引き連れて体育館に入場した。何故か3年7組が体育館に入場した瞬間、体育館の中で激しい大歓声があがったが、すぐにそれは日和という生徒がいるからだと感じた。在校生や親御さん、皆日和に声をかけていた。流石にこの学校からハーバード生が出るのは初めてのことなので、皆から賞賛を浴びているようで誇らしかった。
全員が席に着席すると、オケの静かな生演奏が流れ続ける中、校長が壇上に上がった。ここまで来るのにぶつかってばかり来たが、この学校の全体像を守ろうと必死に努力している、やはり素晴らしい教員の一人に過ぎない彼を尊敬の眼差しで見ていると、一瞬壇上からこちらを見たので会釈をした。教師になりたての頃、会釈というのを余り知らずに目が合う人には微笑んだり手を軽く振ったり、親指を立てたりしていたが、あの校長に会釈をしろと教わった。日本の伝統的なそのジェスチャーは、相手に対する敬意を含む素晴らしいものだと教わった。海外映画やドラマでペコペコする日本人なんてイメージが冷やかされたりするが、あれは真意を知らない教養のなってない輩がメディア媒体で働いているのが悪いとさえ教わった。その時、この人はこの国もこの国の人も心から誇りに思っているのだろうと感じ、感動したのを今でもよく覚えている。俺のその会釈に校長が頷くと、何かを認められた気がして嬉しかった。
校長の大演説は、今年は内容が少し違った。今年の3年は入学した時から部活動も勉学もこの学校始まって以来の多くの好成績を残し、そして学年が一体で仲間だと感じられる互いへの思いやりや尊重を育み、ここまで来た。ぶつかり合うことも、心無い言葉を口にする事も、大人気ない行動に出ることもあったが、自ら過ちを認め潔く謝罪をし互いを許し合える心を育んだ。成績以上に心の成熟は目を見張るものがあり、今日を迎えた今感じるのは、生徒達に対する感謝の気持ち。皆さんと人生の大事な3年間を共に出来た奇跡に感謝したいと謝辞を述べた。親御さんからの大きな拍手と啜り泣く声、生徒達からのティーンらしい大歓声を浴び、校長は俺を見て親指を立てた。思わず笑って親指を立てると、猪田先生が小声で「校長先生、お変わりになりましたね」と呟いたので「元からああいう人ですよ」と答えた。
校長の挨拶の後、ジョーのスピーチになった。ジョーは拒否していたが、日和のたっての願いで、緊張した面持ちで壇上に立った。体育館が静まり返ると、ジョーは髪を恥ずかしそうにかき上げて、口を開いた。
「Hi, I'm Joe(ハイ、ジョーです)」
体育館に笑いが起こると、ジョーも照れ笑いをしながら胸ポケットから紙を出し、咳払いをして話し始めた。
「Uh…いつも、セイトたちとは、エイゴでハナシをしていますが、キョウはニホンゴでガンバリマス。ぼくは、ALTとしてこの学校に赴任して4年目です。1年目は訳が分からない間に終わリマした。でも2年目、この卒業生が入学した時から、少しずつですが、意識が変わり始めました。えいごを話すことを、恥ずかしがる生徒も沢山いる中で、この学年の生徒達は積極的に廊下でも職員室でもハナシをしにきてくれるようになり、学校へ来るのが楽しくなりました。僕の日本語が下手なのもありますが、生徒達が話してくれることで、必要とされていると感じるようになったからだと思います」
ジョーが素直な気持ちを話すと、生徒から「先生の日本語上手だよ!」という声が上がり、会場内に湧き上がる小さな笑いにジョーは照れながら「Thanks」と答えて、話を続けた。
「教師も人です。誰かに求められると言うのは、喜びです。僕は、生徒達に必要とされることで、外国での生活を乗り越えられてきたのだと思います。ホームシックになったら、職員室でアメリカンで浮いてる優月先生を冷やかせば気持ちが落ち着きましたし」
会場から笑い声が上がる中、一番大きな声で笑ってしまうと、ジョーは俺を指差してウィンクをした。
「ちょっとずつ、Uh…地に、足がついてきました。生徒達の成長よりも遅い速度ですが、僕も一緒に変化、できたからだと思います。だから今日、ここを卒業していくみなさんに、お礼を言いたかったです。僕に、この仕事を好きにならせてくれて、ありがとう。僕に、この国での居場所を見つけるきっかけをくれて、ありがとう。君たちと一緒に過ごせた時間を、誇りに思います。君たちがいたこの学校で過ごせた3年間は、僕にとっても宝そのものです。本当にありがとう」
会場から大歓声が上がると、ジョーは泣くのを必死に堪えながら不器用にお辞儀をした。そして最後に英語で話を締めた。
「Life can be brutal, but this, what you achieved here, what you obtained here will always help you bounce back. Your friends, your teachers, and these 3 years of amazing memories... everything you experienced here will support your life. Nobody can take this away from you, so believe you can because I know you can. I'll wrap up with this quote. "Education is the passport to the future, for tomorrow belongs to those who prepare for it today." You guys have been preparing for it 3 years. Your time is now. Congratulations, you've got the passport, now start your future today. Make it a good one!(人生は過酷なこともあるけど、ここで達成したこと、ここで得たものが必ず立ち直る助けになってくれる。仲間、教員、この素晴らしい3年間の思い出、ここで経験した全てが君たちの人生を支えてくれる。君たちからこれを奪える人はいないから、出来ると自分自身を信じて。この引用で終わりにします。”教育は未来へのパスポートです。明日はそれに備えて今日準備する人の為にあるから”君達は3年間その準備をしてきました。時が来た。おめでとう、パスポートを手に入れた君達が未来を始めるのはまさに今日。気張ってけよ!)」
生徒達全員のみならず、会場全体から大歓声が上がると、ジョーは堪えていた涙を零しながら、お辞儀をして壇上を止まらない歓声の中降りていった。日和がジョーに頼んだ意図は、これだったのかもしれない。この学校でお茶らけキャラのジョーに、本当の意味で居場所を与える優しさ。このスピーチで、この学校の教師として認識され、受け入れられ、賞賛されたジョーはそれに何よりも気が付いていて、席に戻る前に日和の前を通り、日和の肩を抱き何か伝えていた。日和は笑顔でジョーの背中を摩り、ジョーにティッシュを渡した。そのやり取りを見て、猪田先生が涙を流しながら「日和君って、本当何もかも飛び抜けてますね」と言った。飛び抜け過ぎていて自分に見合っている気がしないと、心の中で密かに思いながら、小さく頷いた。
ひとしきり盛り上がった会場内が少し静かになると、卒業証書授与が始まった。生徒達の名前を一人一人担任が呼名し、クラスの代表が壇上に上がり、校長から証書を受け取る。名前を呼ばれて返事をする生徒には大きなガッツポーズをする生徒がいたり、それに笑いの声が上がったり、「〜先輩、おめでとうございます!」という部活の後輩達の声援を浴びて照れる生徒、調子に乗って名前を呼ばれると椅子の上に立って踊る生徒に笑う教員達、オケが演奏を続ける中、自分の担当クラスが来るまで穏やかな気持ちで生徒一人一人の様子を眺めていた。そして、学年最後のクラス、3年7組の番が来たので、席を立った。猪田先生は俺の後ろについて立ったが、俺の横には何故かジョーも満足げな笑顔で立っていて、思わずジョーの肩を軽く突いて笑ってしまった。会場から小さな笑いが溢れたところで、マイクに向かって一人目の名前を呼んだ直後、返事をした生徒が俺達の方に両手を振って叫んだ。
「優月先生が担任で良かった!!!ありがと!!」
生徒達がそれに大歓声を送る中、涙腺がもたないと思い咄嗟に辞めろとジェスチャーを送ったが、その後から名前を呼ぶ生徒一人一人、返事をした後に俺に大きな声で声をかけ続けた。全く予期していなかったのでボロボロに涙がこぼれると、隣で共に泣いていた猪田先生とジョーが俺を見て、一緒に泣きながら笑って言った。
「You're crying like hell!! Hahahaha, dude! (すげぇ泣いてんじゃんよ!ウケる!)」
「Shut up, Joe! You're crying too!!(うっせ!お前も泣いてんだろうが!)」
それに猪田先生が、鼻を静かに噛みながら言った。
「I just love these students. I'm feeling so sad... why do we all have to grow up this quickly?(あの生徒達本当大好きです。なんだか悲しい…どうして私たちこんなに急いで大人になっていくんでしょうね?)」
その言葉に、今度は思い切り鼻を咬んだジョーが答えた。
「It's a good thing. We need to keep changing, so we'll realize our own mistakes. (それは良いことでもあるよ。俺たちは自分の過ちに気づくために、変わり続ける必要がある)自分達にとって何が大事かに気がつけるまで、成長し続けて変わり続ける。あのさ、時にはさよならと言う言葉は、温かい今日はと言える出会いを運んで来てれてくるものなんだよ。This is that type of goodbye. They won't be here anymore, but they'll stay in our lives, at least in our hearts. Forever...(これはその類のさよならだ。生徒はここには居なくなるけど、俺達の人生に少なくとも心の中で留まってくれる。永遠にね…)」
「For the first time, I truly understood why you have a girlfriend, dude. (初めて今明確にお前に彼女がいるのが理解できた気がする) 」
「Oh, about that, I broke up with her. I'm in love now, so I'll just focus on one love.(あぁ、そのことだけど、別れた。恋をしたから、この恋に真剣になろうと思う)」
「WHAT?」
感動して泣いていたが思わず大きな声で聞くと、名前を呼んで返事をしたばかりの生徒が話を聞いていたかのように叫んだ。
「優月先生、大好きだよ!!Joe, good luck with Inoda-sense!」
その言葉にJoeが親指を立てるので、皆が冷やかすように悲鳴を上げた。この状況に、思わずまじまじと猪田先生を見ると、猪田先生は俺に小声で「Not gonna happen(絶対ないです)」と言ったが、Joeはそれを聞き逃さず「We'll see about that(ま、その内分かるから)」とだけ答えた。猪田先生は呆れた表情だったが、この二人がそういう関係になったら、ちょっと面白いと思いジョーに「Good luck!」と伝えると、ジョーより先に猪田先生が「Please don't. Not gonna happen(やめて下さい。本当ないです)」と真顔で答え、ジョーはそれを見て笑った。何処まで本気かは知らないが、楽しい気持ちになると、クラスの代表で日和が壇上に上がった。そして卒業証書を受け取り、校長と何か言葉を交わした後、他の生徒達同様俺の方を向くと、異常なぐらいに体育館が静まり返った。
入学してきた時から、この日が来ることは分かっていたが、実際に卒業書書を片手にしている日和を見ると、多くの感情が体内を忙しく駆け巡った。入学した時より、青年らしい顔つきになり、背も伸びて体格も男らしくなった。堂々と証書を両手で抱えるその姿を、今親御さんは誇らしさ以外の何者でもない感情で眺めているに違いない。沈黙の中ただ見つめ合っていると、日和が少し笑顔になり叫んだ。
「This is it! There's no turning back! I'm not your student anymore!(卒業しました!もう後戻りできませんよ!もう先生の生徒じゃなくなりました!)」
「Yes, you are! Until you all get out of this school, I'm still your teacher! Don't forget that!(まだ生徒だよ!お前達全員校門潜るまで俺は教師だからな!覚えとけ!)」
「Technically, that's not true! I got this certificate saying that I DID graduate, so I'm not a student anymore!(実際そうじゃないですよ!だってこの証書に卒業したって書いてあります!だからもう生徒じゃないです!)」
「Aaaargh, technically, you're right, but in my mind, you guys are still my students!(あああ、実際そうだけど、俺の中ではお前達はまだ生徒なの!)」
「In your mind, but not in reality!(先生の中では、でも現実は違うから!)」
「Oh shut up, be nice to your teacher! Now get off the stage, go back to your seat!(うっせ!先生には優しくしなさい!さっさと壇上降りなさい!)」
日和とやり合っている中静まり返っていた体育館は、日和が卒業証書を大きく振りまわしながら壇上を降り始めると、大歓声に包まれた。日和の性格から想像もしていなかったが、日和は証書をずっと高々と掲げ、座っている生徒達は日和が通ると全員ハイファイブをしていた。あんなに大人しくて、声を張らない性格の日和が、楽しそうに生徒達とハイファイブをしている姿を、親御さんはどういう気持ちで眺めているのだろうか?
生徒達が証書を受け取り、在校生の送辞があり、卒業していく生徒達がこれ以上ないほどの歓声をその尊敬と愛情のこもった挨拶に送ると、日和が卒業生代表で壇上に上がった。入学した時からこういう場面は何度か目にしたが、これも見納めだと思うと感慨深かった。日和は壇上に上がると大きく息を吸い、俺に一瞥くれてから在校生よりも保護者席へ視線を向け、挨拶を始めた。
「…この高校へ来てからの3年間、僕達は人として大事な事を多く学んで来ました。友を想う気持ち、互いを労わる気持ち、尊重する気持ち、大事な人を大事にする気持ち、基本的な礼儀から全て…。中学から高校は僕達にとっては大きなステップの様に見えましたが、実際の生活は毎日の積み重ねでしかなく、時には心が頭に付いていかず、挫折しそうになる事も何度もありました。それでも、今日のこの日を迎えられたのは、共に励まし合い支え合ってきた友が居たからです。懸命に耳を傾け、これ以上ないほどのサポートをしてくれた先生方が居たからです。そしてきっと、それ以上に、帰る家を与えてくれる親が居たからです。学生という身分で、生活に関わることは一切任せ、勉学に部活、交友関係に全てを注げる環境を当たり前の様に与えてくれた、父と母にこの場をお借りして礼を言わせて下さい。本当に、ここまで18年間側で支え続けてくれて、有難う御座いました」
生徒達の歓声とは裏腹に、保護者席は啜り泣く声で静まり返っていた。つられて泣く教員達につられないよう、必死に涙を堪えていると、日和はスピーチを続けた。
「僕がこの高校を選んだ理由は、とても不純なものでした」
日和の言葉に体育館中が笑いに包まれたが、こっちは冷や汗をかいた。何か言い出すのかと思い慌てて日和を見ると、日和は俺を見て軽くウィンクをして話を続けた。
「ですが、ここを選んで後悔した日は1日もありません。先生方一人一人が、生徒の気持ちに全力で応えてくれ、真っ直ぐに僕達の未熟な心を救って下さる包容力があり、この成長過程で憧れる大人に出会えたことは、僕達にとっては一生の宝です。部活に疲れた夕刻、顧問の小池先生が言って下さいました。オーケストラは一人では出来ない。人間は一人では壮大を音色を奏でる術を知らない、だから一人で完璧に全てをこなそうとする事自体が無謀だと。オケの仲間にも何度も言われました。一人が間違えても、他がカバーするから大丈夫と。休みがちだった写真部でも、文化祭の展示の準備の度に言われました。皆で出来る事をカバーしながら、写真部というグループの展示を作り上げたらいいと。本当に、いつもそうやって誰かに助けられました。僕一人では、ここに到達していません。勉強に疲れた時友から貰うメッセージにもう少しだけ頑張ってみようと思えたり、テストの答案用紙の下に先生が書いてくれるWell done!という一言でもっと頑張ろうと思えたり、気落ちしている時に母が作ってくれた味噌汁に心が安まったり、凄く些細な思い遣りが、この3年間を支えてくれました。自分の力不足に悩んだり、自分には出来ないと思う事が僕には沢山ありましたが、その度に思い出していたのは、何か一つの大きな感動的な言葉や出来事ではなく、こういう毎日に与えられて来た少しずつの優しさです。それがいかに大切な事かを、特に身をもって教えて示して来て下さったのが、担任の優月先生でした」
その一言で目頭が一気に熱くなるのを感じると、体育館内からは再び大歓声が上がった。猪田先生が渡してくれたティッシュで涙を慌てて拭くと、日和は歓声を打ち消すように話し続けた。
「僕は、先生の生徒になれた事を、奇跡だったと思ってます。3年間ずっと担任ではありませんでしたが、先生のいるこの学校で学べたこと、僕達が先に進む事を躊躇した時にも怪力で後押しし続けてくれた事、一緒に迷って、一緒に悩んで、一緒に我慢を覚えて、一緒に苦しんで、一緒に喜んで、一緒に沢山笑って、そういう感情の全てを凝縮して味わせて頂けた事、永遠に心の宝物として大事に抱えて未来に一歩踏み出したいと思っています。僕の高校生活、高校時代、先生がいて良かった。本当に、良かった。先生、3年間、僕達の先生で居て下さり、有難う御座いました」
涙で日和の表情を見ることも、生徒達の表情を見ることも出来なかった。父親になり子供の存在の尊さを学び、この言葉にどれだけ教師として、一人の人間として、成長する生徒達を見守る大人として感動しているかは、言葉では表しきれない。初めて担任した生徒達が卒業するときは、絶対に泣くと聞いてはいたが、泣くでは済まされないぐらい止め処なく溢れる涙に思わず隣に座っていたジョーの背中に顔を隠すと、ジョーが小声で言った。
「Dude, you're the best teacher I've ever known. Hats off!(お前は俺の知ってる中でも一番の教師だ。リスペクト!)」
「Stop it, Joe! This is the moment to be a jerk and say something stupid! Don't make this harder than it already is!(辞めろ、ジョー!こういう時にクズになって馬鹿なこと言うべきだろ?これ以上気持ちがキツくなるようなこと言うなよ!)」
「Well, at least, I'm not making your dick harder, so you're very welcome.(少なくともお前の下半身がキツくなるような事言ってねぇだろ?どーいたしまして)」
「Hahahaha, that's my Joe! Thanks... Awww, I really hate this kind of moment... He's too sweet.(あははは、それでこそジョー!ありがと。あー、本当嫌だこういう瞬間。あいつ可愛すぎるだろ)」
「He really is, isn't he? Lucky you.(本当そうだな。お前、ついてるな)」
「Yeah, I was so lucky with all my students.(あぁ、俺は生徒に恵まれてた)」
「That's not what I meant, but well, yeah, they're all sweet.(そういうつもりで言ったんじゃないけど、ま、奴ら皆可愛いよな)」
日和のスピーチは、在校生達に向けたエールで締め括られ、再度大歓声が上がる中、日和は満面の笑みで俺を見て拳を振り上げた。それに応えて拳を上げ、エアでフィストバンプをすると体育館内に更なる歓声が上がり、泣いていた教職員も在校生も卒業生も皆笑っていた。笑顔で締めくくることの出来る卒業式は、いい卒業式だ。そう思い満たされた心で猪田先生に「いい式でしたね」と伝えると、猪田先生が「まだ終わってませんけどね」と返事をし笑った。
入場時とは逆に、一番初めに退場する3年7組、クラス代表が一言叫んでから制服のネクタイやリボンを在校生に投げるのがお決まりなので、クラスの丁度真ん中に立つと、やはりクラス代表で日和にマイクが渡った。体育館の中ではオケが静かに演奏を続けているが、小さな悲鳴や「しー」と言う声があちこちから上がり、思わず笑いそうになると、日和がマイクに向かって話し始めた。
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