高校3年2学期④
教員になってから長期休暇を経験した事はなかった。夏休みや冬休み、そういう休暇らしき名はあれど、やる事だらけで休みなどなく、子供が生まれて初めて2週間出勤しなかった。気持ちが落ち着かないが、それ以上に育児が思ったよりも大変で、出産で特に疲れているマイアは参っているようだった。
「I don't know if I should have done this...(この選択あってたか分からないわ…)」
「Don't say that. You're just tired. Go to sleep. I got the baby.(そういうこと言うなって。疲れてるだけだから、寝ろよ。子供は見てるから)」
夜中に何度も起きる子供、残念ながら子供の泣き声で目が覚めない俺を、二回に一度マイアが起こしにくる。換算していると、マイアは一晩に二時間程度しか連続で寝ていない。俺はそれに比べ四時間は寝ているので、昼間マイアを寝かせてミルクを与えて子供をあやした。全く手慣れないので、どう抱くのが正しいのかも初めはわからず、助産師に何度も注意されながら抱き方から学んだ。おむつも変えるタイミングを何度も失敗し、見事に子供に小も大も掛けられた。2週間経ってやっとおむつが多少上手に変えられるようになり、沐浴に関してはマイアの母親の厳しい指導でなんとか出来るような気はしているが、正直溺れさせそうで怖くて仕方がない。風呂に入れずにガーゼで拭くだけで良い気もするが、マイアに風呂に入れる時間だと毎晩言われるのでハラハラしながら入れている。ミルクはすぐに作り方を覚えた。マイアの母親が母乳は出る時出るだけ出せばいいから、後はミルクをガンガン飲ませろと言うので、産院で学んだ母乳の素晴らしさとやらは封印し、マイアが疲れている時は只管ミルクを飲ませた。自分が子供を持って初めて知る、人一人の生命維持がどれだけの努力を要するかと言うことを、泣く赤ん坊を抱きながら、夕焼けに暮れる東京を眺めて考えていた。この地で生活するすべての人間が、皆、この状態から人生をスタートさせている。親の存在、大人の存在がなければ、生きられない状態からのスタート。毎日マイアの両親が顔を出し、母親がマイアの好きな食べ物を作り、父親は俺と世間話をしながら赤ん坊をあやした。マイアは出産で使い果たした体力を取り戻すように、よく眠っていたが、熟睡は出来ないようで日に日に疲労が溜まっていく様子が分かり、自分の無力さを感じた。父親として名を戸籍に残すだけでは意味はない。きちんと、子供が育つ環境を整えると言うのは、母親のサポートが大切だ。だが、明日からパートタイムで学校に復帰するので、マイアが一人になる時間も出てくると思うと不安になり、夕飯を食べているときに少し話をすることにした。
「マイア、これから俺は仕事始まるから、家を空ける時間が増えていく。お母さん達がいる時はいいけど、そうじゃない時、誰か来て貰うとかする?」
マイアは一瞬食べる手を止めたが、すぐに静かに答えた。
「大丈夫よ。皆やってることだし、私も出来るから。母親なんだから出来て当たり前でしょ?」
「その考えは余り賛同できない」
思わずマイアの言葉を否定すると、マイアが顔を上げて「どういう意味?」と聞いた。
「皆してることだから出来て当たり前、そういう発想。お前が当たり前に出来ることを出来ない人間もいるのと同じで、周りができてもお前にできないことがあるのは普通のことだろ?全員が同じ事を同じだけのレベルで出来るなんて有り得ないだろ?皆が出来てる、だからすべきとか、しないといけないと思わなくていい。本心から誰の手助けも欲しくないならそれは尊重するけど、皆がしているからすべきだと感じてるなら、それは受け入れられない。 I need you to be okay at any cost, so please don't think you have to do this all by yourself. (お前が大丈夫であることが何より大事なことなんだから、一人で背負おうとしないで欲しい。)一緒に子育てしてるんだし、この子の為にもマイアがハッピーである必要があるだろ?」
マイアの瞳から涙が溢れたのは、初めての出産でのプレッシャーと疲労が相当溜まっている証拠だと感じた。暫く泣いたマイアは、もし可能なら昼間誰もいない時、家事をしてくれる人か子供の面倒を数時間でも見てくれる人が欲しいと言うので、すぐに同僚に片っ端からあたり、一人可能性のある人に辿り着いた。マイアに会わせる前に、一度自分が会いたいと連絡をし、すぐに明日の午後少し時間を持ってくれることになった。翌朝、久しぶりに教師らしい服装に着替えていると、マイアが子供を抱き抱えて起きてきたので、今日のスケジュールを話すと、マイアが胸元に額を置き小声で礼を述べた。
「Thanks, baby... You're amazing.(ありがと、本当感謝してる)」
「I'm not, Maia. You're amazing. I'm sorry I let you take care of the baby most of the time during the night. My stupid brain doesn't wake me up even when he's crying out loud...(俺じゃなくて、マイアに感謝してる。夜中ほとんど世話させて悪いな。俺のバカな脳が赤ん坊が泣いても起こしてくれないもんで…)」
「Ahahahaha, it's normal. (あははは、それ普通のことよ。)殆どの男の人はそうなんだって。起こせばいつでも起きてくれるし、それで私には十分過ぎるぐらいよ。貴方はこの赤ちゃんにとってこれ以上なく最高のパパよ。本当ありがと」
マイアの腕の中で静かに眠る息子に小さなキスをすると、マイアにハグをしてから家を出た。側から見たら夫婦のようだとマイアの母親には言われたが、実際そうなのかもしれない。ただ、俺とマイアの間にあるこの感情は完全に家族愛であって、夫婦愛ではない。母親と、子供と、父親。3人の愛は家族という一単語で繋がるもので、それ以外に説明のしようがない。真里さんにはあれから何度かマイアと寄りを戻せないか聞かれたが、俺の気持ち以上にマイアの心は今子供のことで手一杯であることと、お互いにそういう感情がないからこそ築ける今の関係性が互いにとって心地がいいことを説明した。余り理解は示して貰えなかったが、マイアとはここまで真剣に正直にお互い話し合ってきたからこそ言い切れることで、周りの理解を得ることよりも二人が同じページで同じ思いでいることが、何よりも大事だと互いに分かっていた。そして、子育てを一緒に始めてから、更にその気持ちは深まっている。だが、この2週間、受験の準備以外のことで日和と連絡をしていなかったので、日和が今どういう気持ちでいるのか、そういう話は全く出来ていなかった。
学校に久々に到着すると、職員室で大勢の教員達が拍手をして出迎えてくれた。その中には猪田先生も勿論居て、一番初めに「おめでとうございます。お子さん、寝てくれてますか?」と聞かれた。余り寝てないみたいだと答えると、英語の教員室に行った時、マイアにとよく眠れるハーブティというのを渡してくれた。授乳中でも飲めるものだと気を遣ってくれたプレゼントに礼を述べると、ジョーが出勤し、俺を見るなり嬉々として叫んだ。
「Duuuuuuuude!!! Congrats, man!! I'm so proud of you! How's the baby?(おおおおお、おめでとさん!誇らしいぜ!赤ん坊はどうよ?)」
「Thanks, he's good…Yaaaaawn...excuse me...(ありがと、彼は元気だ…あぁぁぁ…すまん)」
欠伸を思い切りすると、ジョーも猪田先生も「子育て中あるある」と言って笑った。ジョーには子供の写真を送っていたが、今朝撮ったばかりの写真を見せると、猪田先生と二人で「he's good-looking!」と褒めてくれたので、調子に乗ってその前日に撮ったビデオを見せようとすると、珍しく大八木が職員室まで俺を迎えにやってきた。
「きゃーーーー!先生!!赤ちゃんの写真??」
「おはよ、大八木。そうそう、見る?」
「見るぅ!!!うっわ、なにこれ、超整ってるんですけど!睫毛長!」
「だろ?ま、世話してるマイアは大変だけどな」
「先生もしてるんでしょ?赤ちゃんのお世話」
荷物を持ち部屋を出て、大八木と猪田先生と歩きながら教室に向かう間、大八木の質問に答えた。
「してるけど、出産してすぐに子供の世話を身体使ってしてる母親と、出産時も隣にいるだけで、母乳も出ない父親じゃ疲労度は雲泥の差。俺なんて本当大変とか言えるレベルじゃない。一番大変なのはやっぱり母親だ」
「ふぇぇ…やっぱ、私はまだまだ赤ちゃんはいいや…大変そう」
「あははは、そりゃそうだ。受験もあるし、その後は大学生活。楽しいぞ?」
「あああああ、受かるか不安…先生、私、大丈夫だと思う?」
「今のまま頑張ればな?気を抜くなよ、もうそんなに時間がない」
「現実…眠って、目が覚めたら受験終わってて、第一希望受かってるとか言う奇跡、起こらないかな?」
大八木の妄想発言に猪田先生と声を揃えて笑ってしまったが、大八木の切羽詰まったその言葉は受験生の永遠定番の願望だろう。
久々に戻って来た教室、教室の扉の窓から真っ先に日和を見つけると、日和は小さく微笑んだ。それに小さく頷きドアを横に引くと、皆が一斉に隠し持っていたクラッカーを鳴らし、予期しない無防備な状態だったので思わず立ち尽くしてしまった。教室の中一杯に散らばったカラーテープを眺めていると、座っていた日和が立ち上がり、背後に隠し持っていた大きなプレゼントを教壇の上に置いた。言葉が出ず生徒達を見渡すと、日和の小さな合図で皆が一斉に叫んだ。
「先生、瑛人君誕生、おめでとーございます!!」
「…産後で涙腺緩いんだから、辞めてくれ…」
俺の言葉に「先生、産んでないでしょ!」と即座にツッコミが入り、生徒達が明るい声で笑った。皆が用意してくれたのは、ケーキオムツと涎掛け、可愛い帽子に手袋、そして靴下のセットだった。綺麗な緑のパステルカラーで、自然と笑みが溢れると、大八木が大きな声で言った。
「先生、赤ちゃんの写真、携帯に持ってるよ!先生、皆にも見せてあげてよ!」
皆の見たいと言う言葉に調子に乗り、今朝撮った写真を皆に鼻高々に見せると、皆が悲鳴に似た声で騒ぎ出し、特に女子が声を揃えて「可愛い!」と称賛の声を上げてくれた。素直に嬉しく思い「ありがとう」と礼を言うと、生徒の一人が手を上げた。猪田先生が「柏田君、何かな?」と聞くと、立ち上がった柏田が俺を見て質問をした。
「先生、あの女の人と一緒に子育てしてるんですよね?」
「そうです」
「一緒に暮らして、一緒に赤ちゃん育てて、本当に恋心とか生まれないものですか?あの人、凄い美人だし」
その発言に、大八木がすぐに「真の友情よ!」と叫ぶと、柏田は素直に納得がいかないという表情で俺を見た。それに答えようとすると、もう一人の生徒が手を上げた。猪田先生が「手嶋さん、どうぞ」と言うと、立ち上がった手嶋が柏田を見た後、俺を見て質問をした。
「あの人が、体育館で言ってたの、ちゃんと私理解出来てたとしたら、先生は他に好きな人がいるってことですよね?Love of your lifeって言ってたと思うので」
さっきまで歓迎モードのクラスが一気に静まり返ると、日和を見ないようにしながら両方の質問に答えた。
「ん、まずは初めの質問に答えると、恋心は生まれません。お互い、本当に掛け替えのない友達で、互いに子供の親という認識でしか繋がってない。男と女として惹かれ合う事はないです。元々マイアの好みは俺みたいな男ではないし」
「ええええ、そうなのぉ?先生、モデルみたいなのに?」
大八木の言葉に皆が笑うと、この大八木の明るさに何度救われたか分からないと感謝の気持ちを抱きながら、それに答えた。
「ありがと、大八木。でも友達にはそんなの関係ないからな。それと手嶋の質問、それはプライベートな事だからと言う返事で誤魔化しても良い?」
この返事には教室の窓が割れるのでは、と心配になるぐらいの悲鳴が響き渡った。皆が立ち上がり「これ、居るでしょ?誰?」と騒ぎ立てる中、不自然に何も言わない日和一人が悪目立ちし、目敏くそれに気が付いた大八木が日和をいじった。
「日和君、もしかしてショックで失語症にでもなった?なんてー」
「…あはは…」
「ん?まさか…日和君、先生の好きな人知ってるとか?」
「まさか!いや…先生のプライベートな事根掘り葉掘り聞くの辞めようって皆で話した側から皆があれこれ聞くから、どうなんだろうと思って黙ってただけだから!」
日和のその言葉に、クラスが一瞬静かになると、質問をした手嶋が「ごめんなさい」と小声で謝罪した。日和が焦って口にした言葉で、質問モードになっていたクラスの生徒達が一気に身を引き、救われた。日和は若干動揺しているように見受けられたが、懸命に平静を装っており、それが異常に可笑しくて思わず笑うと、生徒の一人に「思い出し笑い、ご無沙汰先生のエロスは健在!」と弄られた。すっかり忘れていたそのネーミングに仏頂面で大げさに睨むと、生徒達がティーンらしい底抜けに明るい声で笑った。
目の前に目を輝かせて着席している生徒一人一人、大事な時期に一波乱を起こした一教師に対する敬意と愛情と仄かな友情に近い感情を抱いてくれているのを肌で感じ、小さな目眩を覚えた。この瞬間に存在出来る自分が、どれだけ恵まれているか今更言葉にする必要もないぐらい明確ではあるが、その気持ちは言葉で伝えたいと思い、ホームルームの締めに少しだけ礼を述べる事にした。
「Okay, uh…ホームルームは以上なんだけど、ちょっとだけ良い?」
全員が大きく頷き静かに視線を教壇の横に立つ俺に送る。猪田先生もこちらを見て静かに頷いた。
「今回のこと。皆の受験期、人生で大事な節目に無駄に騒ぎを大きくして、ドタバタ体育館をあんな形で出て行って、教師としては本当ありえない事したっていう反省はあったんだけど…」
生徒一人ひとりの瞳に映る自分に、皆の成長に涙が出そうになるのを堪えながら話を続けた。
「皆凄い大人な対応してくれて、大人であるべき先生よりも大人の対応してくれて、言葉では表し切れないぐらい、本当感謝してます。ありがとう。大人という立場であるべき先生より、成熟したお前達の気持ち、誇らしいし、眩しいです。ここに、今のこの時期に皆とここでこうして未来に向かって進む努力を共に出来ていること、まだまだ長いとは言えない先生の人生の中では、一番の功績で宝そのものです。ここにいさせてくれて、ありがとう。俺を、教師としてここに立たせてくれて、ありがとう。I love you guys...」
本音が漏れると、大八木が笑顔で涙を零しながら手を上げ発言した。
「私、人生で初めてI love youって言われました!嬉しいぃ!」
その一言に静まり返っていた教室内に笑い声が再度響き渡り、その心地よい音階の美しい音色につられて共に笑った。純粋なこの世界中で一番美しい宝石、ティーンである彼らの未来が光そのものになり、この世界を明るく照らしていくに違いないと、教師という立場よりは、一人の人間として確信し、自分を再度奮い立たせた。皆を3月に、最高の笑顔で送り出すには、これから数ヶ月が勝負だ。他のことに形振り構ってはいられない。日和との関係が明るみに出ることを恐れていた自分の恐怖心を、一度頭の中から消し去り100%で全員と向かい合いたいと思い、その日の放課後、待ち合わせている人に会いにいく前に、日和と廊下の突き当たりで話をすることにした。
待ち合わせに選んだ場所は、二人だけの空間だが開けた空間でもあるので、声を顰めて話すのに少し屈むと、日和が笑った。
「僕の身長、伸び悩んでるみたいで全然先生に追いつかないって思ってましたけど、先生、もしかしてまだ伸びてますか?」
「いや、それはないだろ?」
「そうですか?今度保健室で測ってみて下さい、2センチぐらいは伸びてると思います」
「2センチ…どうでも良いぐらいの成長だな…」
「どうでも良くないです!良いですか?168センチの人が2センチ伸びたら170センチになるんです。177センチの僕が2センチ伸びたら179センチです。大きいねって言われるのは大体178センチ以上からです。僕の目標はそこが最低ラインですから、1、2センチは大きいんです!」
「あはははは、悪い悪い、でも先生既に巨人だって言われてるから2センチ伸びてもな?てか、そんな身長のことじゃなくて、真面目に話したいんだけど」
笑う日和は「すみません、どうぞ」と話を促してくれた。それに「ありがと」と礼を述べ、言いたかったことを伝えた。
「まず、ありがと。校長への演説から、今日のことも。俺がお前を守るどころか、逆に守って貰ったし、お前は自分で自分が守れる男なんだなって思ったら、頼もしかった。本当、感謝してる」
日和は目を輝かせて「へへへ」と可愛く笑った。それにつられて綻びる顔を戻すことなく、話を続けた。
「こんな話するつもりはなかったけど、マイアにも言われて一応反省点として活かしたいから、将来的に人生一緒に歩むつもりの相手のお前には、全部話しておきたい」
更に目を輝かせた日和は、今度は黙って頷いた。
「学校を辞めようと思ってた。その理由は子供のことじゃない。校長に言われたからなんだ、母親のこと」
「…え?」
「ん、生徒との関係とかそういうの。それで、俺にもそういう噂が立つ可能性があるって。その時咄嗟に思った。お前とのことが明るみに出たら、俺はお前の高校生活に汚点を作るかもしれない。そしてそれ以上にお前の両親を傷つけて、しかも俺を信頼してる生徒の気持ちを踏み躙ることになるかもしれない、そう思った。だから、辞めようと思った」
日和は沈黙の中、溢れ出そうになる涙を堪えながら、震える声で「御免なさい」と呟いた。
「待って、それは無しにしてくれないか?謝られたら俺がお前を傷付けてるみたいな感じで俺も傷付く。謝らないで、ただ聞いて欲しい」
「…はい」
「ん。ありがと。あのさ、俺はお前とのこの関係、大事に思ってる。お前が多分思ってる以上に。だけど、お前のクラスメイトも皆俺には本当大事で、何事にも代え難い存在っていうのは、今更お前に言わなくても分かってくれるよな?」
「はい」
「ん。だから、この関係が卒業前に明るみに出るのだけは、全力で避けたい。その気持ちは今も変わらない。だけど、そこに気を取られて目の前でヘルプのサインを出している生徒の気持ちに気がつけないような教師でもありたくない。だから、お前と俺のこの関係を気にして、この関係が露呈しないように必死になったり、お前を傷付けないよう振る舞わないといけない状況に身を置いておくのは、今のベストだって言えないと思ってる」
俺が言わんとしている事を、誰よりも敏感な日和は察知し、一つ深呼吸をするとひよりから口火を切った。
「一旦、この関係、ゼロにした方が良い、って事ですよね?」
「…ん」
「距離感気を付けようとか、そういうんじゃなくて、ゼロに…個人的な連絡も、一切取るのを辞めて…」
「うん。生徒と教師、間違いなくそれだけの関係だって、何か騒がれた時に嘘を懸命につくんじゃなくて、堂々と言えるように。学校以外でのプライベートな連絡は一切辞めよう。卒業するまでは出会った頃と同じ、ただの生徒と教師に戻ろう」
将来を約束した。卒業したら付き合う、それだけじゃなくてその先も。だけど、卒業までの半年間、距離を気をつけた所で個人的に連絡を取り合っていると、やはり格別気になってしまうし、その個人的な繋がりが何処かで漏れないかを常に気にしないといけなくなる。それは、日和にとっても大きな負担で、教師としての俺にとっても不必要な妨げになる。今、本当に集中すべきは受験。目の前にいる生徒全員残らず、努力が結果になるように後押しするには、この関係を一旦ゼロにして、卒業したら一からやり直す。それがお互いにとってのベストだ。
日和は暫く何も言わなかった。でも自分の考えを押し付けたくはないので、返事を静かに待った。何度も近づいたり離れたりを繰り返し、失敗したり躓いたりして試行錯誤して色々考えて良い形になって来たと思ったが、一度ゼロにするのが本当はベストだとこの一騒ぎで感じた。でも、それが自分ではベストだと思っても、もし日和がそう思わないならそれは独りよがりでしかない。卒業した先を見据えての行動ならば、二人が同意しないと話は進まない。だから、待った。校庭から響く生徒の声、廊下を走る足音、静かにそれらに耳を傾けていると、日和は顔を上げはっきりした口調で答えた。
「分かりました。僕は、距離感気を付けていたら、二人で会うことを辞めたら、このままで良いと思ってました。正直、今もちょっとそう思います。でも、僕も先生が思う以上に先生を大事に思ってるし、友達も大事です。皆の気持ちを、僕の邪な先生への恋心で無駄にかき乱したくはない。連絡先、消します。それと貰った約束は一旦お返しします。一生に一度の約束事、全部お返しします。それで無事に卒業したら、また貰いに伺います。それで良いですか?」
その男らしい言い方に思わず笑みが溢れると、日和も肩の力をストンと落として微笑んだ。
「笑い事じゃないですよ?僕、先生に結構な回数振られてるので、それなりの痛手です。ゼロになったら、もう今の状況、僕には不利でしかないですから」
「どう言うこと?」
「…先生、マイアさんと暮らしてるし、子供一緒に育ててるし、僕のメンタル的には大分不利です。先生を信じてるけど、この約束返したら先生は鳥籠から飛び出した鳥と同じになる。折角捕まえたのに」
「あははは、ごめん、笑い事じゃないけど凄い表現力だな?」
日和が片眉を上げ不満を露わにするので、抱き締めたい衝動に駆られたが、それをグッと堪えて答えた。
「ごめん、そのことも話しておくべきだったな。今、俺がお前に言ったことと、それは全然関係ないって。俺とマイアがどうこうなることは、絶対にない。それだけは確約出来る。って言うのは簡単だし、お前が不安に思うのも分かった上でこの話してるから、俺は狡いと思うけど…。この仕事、思ったより好きで、お前のクラスメイトを本当に大事に思ってる。散々お前の機転に助けられて、挙句に色々振り回しておいて申し訳ないとは思ってるけど、初めに恋愛は得意分野じゃないって言ったよな?自分でも、よく分からなかった。どうしたら良いのか。距離を気をつけたら良いのか、何が本当のベストなのか手探り過ぎて。でも今回のことでやっとベストはこれだって思えたから…。I'm sorry I'm not really the one you expected me to be... I'm still adulting, you know...(予想してたような男じゃなくて悪いな…先生、まだまだ成長期でな…)」
「I expect you to be you, nothing less, nothing more. We all need to keep adulting til the end and that's the beauty of life. (僕は、先生が先生であること以外、何も望みません。僕達は人生の最後までずっと成長期で、それが人生の尊さだって思います。)僕達は皆永遠により良くなる事を望んでる子供で、僕は先生と一緒に成長する努力が将来的に出来たらって思います。それまで先生を解放しても、僕、ハーバードって名前がしっかり付いてる罠抱えて舞い戻って先生をしっかり確保するので、それまでは自由を謳歌して下さい。僕は、やると決めたことはやる男ですから」
「…and you tell me you're a fucking teenager? Get out! (んで、お前はこれでティーンってほざく訳?ったく、マジかよ!)参ったな…。ふぅ…。どっちが教師だよ?俺は日和から学んでばっかだな?」
「大丈夫です、僕も先生から一杯学ばせて貰ってます」
「そう言って貰えると有難いけど…てか、何教えた?英語以外で」
思わず聞くと、日和は少し声を潜めて揶揄うような表情で答えた。
「…you taught me how to kiss and possibly more later?(キスの仕方教えてくれました。それ以上も可能性としてはありますよね?)」
「Holy fuck... say no more, buddy, you're making me feel worse...(だー!辞めてくれよ、マジで余計自信喪失するから…)」
片手で顔を隠し特大のため息を吐くと、日和はティーンらしく笑った。明るく未来のある笑い声だった。日和は、俺から送ったメッセージは全部消すと言った。そこまでする必要はないと思ったが、日和は歴史は心の中に刻まれたものが全てで、携帯にあるものに意味はないから、証拠になるようなものは全消去した方がいいと言われ、その場で俺も日和に貰ったメッセージは全消去した。連絡先も消した。そして二人で携帯を見せ合い、頷き、握手を交わした。日和は、生徒として俺の前から立ち去る前、小さな声で呟いた。
「ゼロになっても、振り出しに戻ったとは思いません。ボールはきっちり投げましたから、先生のフィールドにそれがある事だけは、忘れないで下さい」
「I know. I won't disappoint you. (分かってる。ガッカリさせないから)」
日和は何も言わず、ただ黙って頷き、廊下を真っ直ぐ教室に向かって歩き出した。卒業したら付き合う約束。それが実現するには、これからの半年、お互いすべき事だけに集中する必要がある。学生の日和は受験を、教師の俺は受験生全てのサポートを。距離を気をつけるだけではなく、個人的な連絡を一切取れない状態にし、ゼロにする。そうしたから気持ちが変わるかと言えばそれはないが、これは何処か勉強中に携帯電話を他の部屋に閉まっておく儀式に似ている。視界に入らない、それは意識から遮断するのに一番効果的なやり方だ。個人的な連絡を取れないようにすれば、一度ゼロに戻そうと意識の上でも完全に一教師と一生徒に戻れば、ここにあるものはそれ以上でもそれ以下でもなくなる。本来あるべき定位置に戻った。だが日和が言った通り、日和はこちらのフィールドにしっかりボールを投げ込んでいる。その存在は、心の真ん中に大事に取っておきたい。
ふと、日和はアメフトをやらせたら、かなり良い線行く頭脳とガッツがある気がした。オフェンス、躊躇なく真っ直ぐ進む力、あの細さでフィールドをタックル交わしながら走って進む姿を想像すると、妙に笑えた。根性座ってる、負けていられない。ディフェンスばかりして来た自分が、オフェンスに回るのは卒業後。そこまで、このボールはきっちり保管しておきたい。あの覚悟を、あの何よりも純粋な気持ちを踏み躙らない為に、日和と日和のクラスメイトを受験でしっかり結果を残させるまで、ハーフタイム。春を両腕広げて迎え入れられるまで、半年。今が踏ん張り時だ。
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