高校3年2学期③

 体育館はまだ蒸し暑かったが、ほんの少しだけ風に先で待つ秋の温度が入り混ざっている気がした。これからいい季節だ。


 集まった生徒達はこの集会が何の為に開かれるのかは知らず、何となく集まってヒソヒソとおしゃべりに夢中になっていた。何度も見たこの光景を、今日で去ると思うと名残惜しさは拭えないが、この判断は間違いではない。一つ深呼吸をすると、隣に座っていた小池先生と猪田先生がそっと背中を摩ってくれた。思わず「Thanks」と言うと、二人とも優しく微笑んで頷いた。


 教員達にもここを退職する本当の理由など話していないが、殆どの教員達の間では俺がパタニティリーブを利用すると言うことで話がついていた。学校始まって以来の男性教員の育休だと喜んでくれる教員もいたが、実際は全く違う。校長が壇上に立つと、笑顔で話し始めた。


「皆さん今日ここに集まって頂いたのは、優月先生から皆さんにお話があるからです。皆さんご存知の通り、先生にはもうすぐお子さんが生まれますので、それを期に少し時間が欲しいと言うことで、明日から長期の休暇を取る事になりました」


 校長のその言葉に、体育館の中が割れるほどの騒ぎになった。受け持つクラスの生徒は全員立ち上がり俺を見ていた。その生徒達の顔を見たら、泣いてしまいそうで自分の手を見るしか出来ない。黙っていると、生徒に静かにするよう大きな声で指示した校長が「優月先生、どうぞ」と壇上に俺を呼んだ。席を立つと、大八木が大きな声で泣き出したのが聞こえ、涙腺がもつか不安で仕方なくなった。壇上に上がると、校長の立っていた場所に立ち、深呼吸をして小声で「You can do this.」と自分を奮い立たせ、生徒達の方に顔を向けた。全員、静かにしているが泣いている生徒が何人もいるのが分かった。


「こんな時期に、こんな形で、貴重な皆の時間をもらって挨拶とか大袈裟な事までさせて貰って、感謝してます。なるべく手短に終わらせるので、辛抱してください。本当は、今の3年生が卒業する姿を見届けたかったけど、色々事情が重なって、こう言う中途半端で無責任な形で休暇を頂く事になってしまいました。本当に皆には申し訳なく思ってます」


 その言葉に、立ち上がった青木が大声で叫んだ。


「いつ戻ってくるんだよ?!」


「…その質問には答えられません」


 正直にそう答えると、再度体育館が悲鳴で埋め尽くされた。静かにするよう促す教員も、産休ですぐに戻ってくるとは答えない俺に、不安げな視線を向けた。体育館の騒めきが少し収まると、青木は座る事なく再度叫んだ。


「申し訳ないと思うなら、最後までちゃんといろよ!!」


「…I wish I could, but I can't. Sorry…」


 青木のこう言う思っていることをすぐに口にする性格、ずっと変わらないのに、ずいぶん成長したその姿に教師として感動を覚えていた。背が伸びた。日和同様、青年らしい顔つきになった。大人になって行く生徒達に見合う大人に、ここに立っている自分はなれているだろうかと、ふと思った。


 体育館が静まり返る中、青木が「出来る出来ないじゃなくて、しろって言ってんだよ!」と少し声のトーンを落として言うので、その声に答えた。


「先生、青木にだけはそんな事言って貰えると思わなかったから、今感激中です」


 少しふざけた言い方で青木にウィンクすると、青木が「うっせ」と口走った。それにジョーが「ドユコトー?」と調子に乗って叫ぶから、マイクを通して「We have a history, don't we?(ちょっとな、な?)」と青木に振ると、青木が懐かしの中指で「Shut up!」と泣き笑いで答えた。思わず笑うと、生徒も笑った。日和は、身動きせずにガチガチに固まっていた。受験生の心配を増やしたくはないので、どういう状況かの説明だけはしようと思い、再度話し始めた。


「いつ戻るか分からないと言っても、受験のサポートは全力でします。必要なことがあれば、全てきちんと対応しますし、皆を放棄して完全に縁が切れるというふうには捉えないで下さい。ここまで一緒に頑張ってきたもの、皆が受験に集中出来る様に出来る事は全てします。こんな適当な人間でも教師になって、皆に大人にして貰って、一応責任は最後まで果たしたいという気持ちはあるので、それは信じて貰えたら嬉しいです」


 騒つく体育の中で、生徒の一人が「もしかして婚外子をもつから首ですか?」と大きな声で聞き、更に体育館内が騒ぎになった。


「違います。全く関係ありません」


 その返事にすぐに他の生徒が「学校が先生に圧力かけてるって聞いたけど!」と騒ぎ、これには校長がすぐにマイクを通して否定した。


「学校は!先生の決断には一切関わっておりません!優月先生、個人の判断です!」


 それに同意しようとマイクに口を近づけると、体育館の入り口が勢いよく開き、体育館内の人間は全員その入り口に目をやった。仁王立ちしていたのは、大きなお腹を抱えたマイアだった。開いた口が塞がらず「What the…」と呟くと、マイアが大きな声で叫んだ。


「You!!!私に何一つ話してくれないなんてあり得ないでしょ!?You son of a bitch!」


 完全に怒り心頭のマイアは、入口からまっすぐ壇上に向かってズカズカ歩き始めた。生徒達はマイアに道を空けていたが、皆何が起きているのか分からない様子で戸惑っていた。マイアに来るなとジェスチャーを送りながら、慌ててマイクを通して話した。


「This has nothing to do with you, Maia! You don't belong here!(お前には関係ない!お前はここに何の関わりもない!)家に帰れ!」


「Oh yeah? I know what's going on! (あら、そう?私知ってるんだから!)あんた、そこのハゲたおデブちゃんのおっさん!あんたに話してるのよ!あんた、彼をここから追い出そうとしてるでしょ!?」


 校長を指差し叫ぶマイアの言葉に、猪田先生とジョーと小池先生とマイアの言ったことが理解出来た生徒達が笑っていた。マイアはウケ狙いで言ったわけではないのだろうが、もう頭に血が上っているので、何を言っているか分かっている様子はない。


「Maia!!! マジで黙れって!出てけよ、お前には関係ねんだから!」


 校長は英語がそこまで堪能ではないので、何が起きているのか分からず狼狽えていたが、すぐにそれに気がついた猪田先生が校長に状況を説明しに行った。マイアが今日のことをどうやって知ったのか意味がわからないと思ったが、小池先生を見るなりマイアがソルジャーのような敬礼ジェスチャーで「Thanks」と言うのが見え、それをされた小池先生が大笑いしていて、状況が掴めた。マミちゃんは、余り侮れない。


 壇上に近づくマイアに、ジョーが調子に乗ってマイクを調達して来て手渡すので、最大にそれを阻止するために叫んだ。


「Don't even think about it, Maia! (やるなよ、マイア!)一言でもそのマイク通して言葉発したら俺は…」


「Hey, Mr. Humpty Dumpty! If you don't see you're making the biggest mistake ever, you're just a fucking moron!(ちょっとそこのハンプティダンプティみたいなあんた!こんな最大の自分の過ち犯そうとしてることに気が付けないなら、あんたは単なる大馬鹿よ!)」


「OHhhhh fuck! Stooooooop!!!!!! Stop right there!! Enough, seriously!!! Somebody! Just stop her!!! Mami-chan!!! Joe!!! Do something! (あああ、やりやがった!辞めろ!マジでもう辞めろって!誰か!マミちゃん!ジョー!止めろって!なんとかしろよ!)」


 マイクを握りしめたまま壇上から飛び降りると、座っていた生徒が全員立ち上がり、俺の前に立ちはだかった。カオスだ。マイアの悪態ぐらいは流石に校長にも伝わるだろうし、もう何もかもがカオスでパニックになった。取り敢えず立ちはだかり壁を作る生徒達に「ちょっと、先生通してください!」と叫ぶと、生徒達の一人が叫んだ。


「We're not kids!(俺らは子供じゃない)全てを知る権利があります!」


「You're absolutely right, but she's pregnant! (そうだけど、彼女妊婦なんだよ!)ここにいるべきじゃないだ!ちょっと先生通してくれ!」


 だが、通すどころか、皆が城壁のようにマイアと俺の間に壁を作った。教職員も、それに加わった。校長がマイクを通して「辞めなさい!」と叫び続けていたが、ジョーが勝手に校長のマイクのスイッチだけをスピーカーから切った瞬間、人の壁で見えなくなったマイアがマイクを通して言った。


「This is one of the things I hated about you when we were dating.(あなたと付き合ってた時、本当こういうところが嫌だったのよ。)全部自分で解決しようとするところ!何もシェアしてはくれないところ!自分一人で生きてるみたいな態度!私は?赤ちゃんは?あなたの生徒達は?あなたの同僚達は?あなたの大事な人は?私たちあなたにとってその程度の対象でしかないの?」


「Oh god, please don't. (あー、辞めてくれ。)俺のプライバシーどこ行ったんだよ?今そんな事、ここで言う必要ないだろ?とにかく黙ってここから出て行ってくれって!頼むから!」


 生徒達と押し問答をしながら壁を越えようと試みるが、全く動けずにいると、姿の全く見えないマイアがマイクを通して生徒の騒めきを瞬殺するように言った。


「This baby isn't his.(この赤ちゃんは彼の子ではないわ)彼は素晴らしい人だから、この子を守ろうとしてるだけなのよ。ううん、素晴らしいんじゃなくて最高の人。彼は本当に最高に優しい人なのよ」


 この仕事を辞職すると決めた理由は、マイアの子供の事が一番の理由ではなく、日和との事が明るみに出て日和が傷つくのを恐れたからだ。子供の父親のことなど、絶対に露呈しない自信が何処かにあったので、全く心配していなかった。ここまで隠し通せたら、問題ないと思っていた。だが、マイアが勘違いをして明言してしまい、脱力感に襲われた。守りたい人を誰も守れていない自分の浅はかさに、力不足に手が震えた。マイアの言葉で体育館内が大騒ぎになる中、生徒の一人が「日本語で話して頂けませんか?」と叫び、一瞬笑いが起きると、マイアがマイクに向かって「ごめんね」と呟いた。


 校長は切られたマイクを放棄し、大きな声で叫んだ。


「優月先生!こんなことは許されませんよ!」


「分かってます!ちょっと待ってください!Maia, I'm serious. Please leave right now. これはお前とは全く関係ないんだって。子供のことは全く関係ない。マジで。そもそもそんな事は今となってはなんの問題もないんだって。とにかくマイクのスイッチを切って、帰ってくれ。Please, I know you're trying to protect me here, but you're making the situation worse. (頼む、俺を守ろうとしてくれてるのは分かるけど、状況悪化させてるだけだから)家に帰ったら全部説明するから、とにかく帰ってくれ、頼む!」


 マイアが返事をする前に、生徒の一人が大きな声で「先生の赤ちゃんじゃないってどういう意味ですか?」と聞いた。今更こんな話をしたくはないので、関係ないと返事をしようと思ったが、マイアがマイクを通してそれに勝手に答えた。


「英人は、優月先生は、ああ見えて真面目なのよ。凄く。私と先生は本当にソウルメイトで、大事な友達なの。この子は、先生とは全く関係のない人が父親なのよ。だけど、先生が父親になるって言ってくれたの」


 マイアの返事に体育館が再度騒然とする中、マイクを通して叫んだ。


「マイア、そんな話はしなくていい。頼むから帰ってくれよ。もう良いんだって!そんなこと、もう関係ないから!」


「関係なくないわ!貴方、この学校で生徒達にも誤解されて、上司にも誤解されて、汚名被されて辞めるなんて、私が許せない。私が私を許せなくなるようなこと、勝手にしないで!この子の父親になってくれるなら、堂々としてて欲しいのよ!英人がどれだけ素晴らしい人間か、この子の為にも貴方の同僚や貴方の生徒達に知って欲しいのよ!」


 マイアの言葉が体育館内にエコーした。大きな溜息が自然と漏れ、頭を抱えると、マイアは勝手に話し続けた。


「優月先生がこの子を授かって、喜びと悲しみ両方同じだけ味わっていた私に言ってくれたの。もし、私が産みたいなら父親になるって。子供が産まれてくる時、大丈夫だよ、心配しなくて良いから出ておいでって言える状況を、子供に提供出来る大人が準備して環境を整えてあげても良いんじゃないかって。もし私がそれを許すなら、戸籍上に父親として名前を載せることで、この子が大きくなったときに、望まれて産まれて来たって思える環境を作ってあげたいって。それは別に父親の名前がない子はそう思えないとか、そういう事を言ってるんじゃなくてね、彼は純粋に皆や皆の親御さんを見てて感じたんだと思うの。どう言う形でも、大人が子供を守る環境を整えることが、大人の役割だって。友達同士でも、結婚はしなくても、親として子供を二人で育てることは出来るんじゃないかって。突拍子もない提案だと思ったけど、素直に嬉しかったの。凄く幸せだと思ったの。英人が、優月先生が、私の親友で、私も私の赤ちゃんも何て恵まれてるんだろうって。私の身勝手を、救ってくれた。この子も私も、優月先生に命を救われたのよ。大袈裟じゃなくて、本当に…」


 体育館内に響き渡るざわめきに、力無くマイクを通して「That's enough, please stop already…」と呟くと、大八木が声を張って聞いた。


「どうして先生は何も説明してくれなかったんですか?私達、知らなくて酷いこと一杯言っちゃったのに!」


 マイクを持つ手に力が入らず顔を上げると、いつの間にかに隠れていたマイアがしっかり立ち上がり、生徒達の山の中から頭を出し俺をまっすぐ見つめて答えた。


「この子のプライバシーを守りたかったからよ。皆が普段使い慣れてるインターネット上で、誰かがこの事を少しでも面白おかしく書いたとして、それがどこかに残ったら、将来この子の目に留まるかもしれない。それを恐れたからよ。父親として、子供を守りたいと思ったから、友人として私を守りたいと思ったから何も言わなかった。そうでしょ?」


「…そんなんじゃない。説明が面倒だったから。それだけだ」


「嘘は相変わらず下手ね、英人」


「…嘘じゃない。単なる俺の怠惰の問題。マイア、頼むから、もうこれ以上俺のプライバシーを暴露するの辞めてくれないか?つーか、マミちゃん後でお仕置きな?マジで、この暴れ馬焚き付けやがってあり得ないだろ?」


 生徒達がマミちゃんって誰と騒ぐ中、小池先生が笑いながらマイアに両手で親指を立てると、マイアが笑顔で親指を立て、その後校長に向き直って言った。


「貴方の価値観を崩したいとか、背負った責任を無視して欲しいと言うことではありません。でも英人は、優月先生は人間としても大人としても一人の男としても申し分ないのに、ここの生徒達からそれを奪うのは、この学校にとっては損失でしかありません。完璧ではないです。でも、そこも含めて生徒と一緒に成長を続ける良い教師だと思います。彼を生徒達から奪う決断は、賢明とは思えません」


 それに対して校長は、震える声で答えた。


「だらしのない貴方のような人間に賢明かどうか判断する脳はないと思います。こんな無駄な騒ぎを起こして、母親になろうとしている人が恥ずかしくはないのですか?」


 校長の言葉に、体育館内にブーイングが飛び始めるのを静止するように、マイアが真っ直ぐ背筋を伸ばして答えた。


「恥ずかしくありません。大事な子の父親になろうとしてくれている大事な人を守れるなら、何も恥ずかしくありません。優月先生は、この学校の生徒を本当に大事に思ってます。毎晩毎晩遅くまで生徒の為にプリントを作って、生徒達の話を嬉しそうにしてくれて、こんなに良い先生を生徒から奪う行為の方が、恥ずべき行為だと思います」


 マイアの返事に、体育館の屋根が飛ぶかと思うほどの歓声が上がった。言葉にならなかった。教員も生徒達に混ざって大歓声を上げる中、マイアは俺を真っ直ぐ見詰めて「Everything's gonna be okay」と口を動かし親指を立てた。だが、すぐに校長が叫んだ。


「その話の証拠はまずありません!こんな話、生徒達の前でして、どう言うつもりですか!」


 それに返事をしようとすると、マイアが満面の笑みでマイクを通して答えた。


「優月先生、3年は女性と関係を持っていないので、この子の生物学的父親にはなり得ませんね」


 マイアの暴露に、思わずマイクを通して大声を出してしまった。


「Oh shut the fuck up, Maia!!! Why the hell did you have to say that?? Are you a fucking idiot?? (黙れよ、マイア!なんてこと言ってんだよ?馬鹿なの?)」


「あら、失礼?でもオープンにこう言う事話しておかないと、そこでお怒りのおじさまに伝わらないでしょ?」


「だからって俺のリアルなプライベートそこまで晒す必要ないだろ??God, emotional damage!!!(まじ、精神的ダメージ!!)」


「Ahaha, too late. もう言っちゃったわ。どうする?」


 それに答える前に、ジョーが勝手にマイクを通して笑いながら言った。


「Eight, I thought you were a sex machine like me, but かーわーいーそー(英人、俺と同じでセックスマシーンだと思ってたけど、かわいそー)」


「Oh fuck you, Joe! (うっせぇよ、ジョー!) 」


 体育館内に大きな笑いが広がると、生徒の一人が調子付いて叫んだ。


「先生、まさかのご無沙汰ですか?」


「だああああから!関係ないです、先生のプライベートなことは!何なんだよ、これ?罰ゲームか何かかよ?」


 思わず叫ぶと、青木がニタリと笑って叫んだ。


「俺達置いて逃げようとした罰。先生、あんなに熱く性教育の話してくれてたのに、まさかの3年ソロですか?かわいそー」


 生徒達のみならず教職員も若干哀れみに満ちた表情で笑うので居た堪れなくなると、ジョーが調子づいて大袈裟なジェスチャーをしながら叫んだ。


「Don't you ever touch me with your fuking right hand!(右手で絶対俺を触るなよ!)」


 体育館内の爆笑を攫ったジョーに腹が立ったので、笑顔を作って手招きをした。


「Joe, come here. Just come, right now(ジョー、ちょっとこっちこい。ちょっと、今すぐ)」


 ジョーが笑いながら「こわーいー、おかされチャーうー」と満面のウケ狙いで小躍りして近づいて来たので、左手の拳を出して言った。


「This is my left hand,(これは俺の左手)だからフィストバンプしようぜ?」


 ジョーが爆笑しながらフィストバンプをしたので、最後にそのまま左手でしっかり手を握り締めてから言ってやった。


「FYI, I use both hands. You're VERY welcome.(一応言っとく。俺はソロの時は両手使うから。どーいたしまして!)」


「Fuuuuuck!!! Let my hand go, Eight!!! (マジかーーー!!!英人、手を離せ!)俺の手が汚される!!!」


 ジョーと下劣なやり取りをしている間、笑う生徒と「男ってどうしようもない」という視線を送る教職員の間で、校長が痺れを切らせて叫んだ。


「優月先生!ここは幼稚園じゃないんですよ!歴史のある成績優秀な伝統のある高校です!さっきから下品な事ばかり、生徒の親御さんがこんな事態を知ったらなんていうか!」


 その言葉には生徒が大きな声で答えた。


「問題ありませーん!俺ら子供じゃないんでー!」


 それにすぐ青木が続いて叫んだ。


「ご無沙汰先生に性教育受けてるので大丈夫でーす!」


「青木!!!ご無沙汰先生って言うな!まじで!」


 思わず叫ぶと、体育館の揺れるぐらい笑いがおこり、恥ずかしさと気まずさで両手で顔を覆っていると、いつの間にか目の前に来ていたマイアが俺の両手を顔から退け、俺の顔をしっかり両手で覆って言った。


「皆、ご無沙汰先生に残って欲しいみたいよ?」


「…お前、調子こくなよ?」


「ていうか……」


 マイアが何かを言いかけると、言葉を止めてそのまま俺の頬を覆っていた手に力を入れたので声が出そうになると、俺よりも先にマイアが大声を上げた。


「FUUUUUUUUUUUUCK !!!!」


「WHAAAAAAAAAAAT??」


「Fuuuuuuck!!! My water broke !!!!!(やばい!破水した!!)」


「What, did you just, what?(え?今なんて、え?)」


 マイアの足元を見ると、何かが滴っているのが目に入り、一気に頭から血が引くのがわかった。


「FUUUUUUCK!! Your water broke!! (マジかーー!破水してる!)どうすんだよ?どうしたらいい?救急車?息出来る?話せる?てか痛い?歩けるのか?え?立ってていいのか?」


 完全にパニックになって叫ぶと、すぐに猪田先生が山岸先生のところに走り、山岸先生が状況を把握し走ってきた。生徒達の山をどんどん通り抜けすぐ横にくると、俺にしがみついて立ち尽くしているマイアに言った。


「落ち着いて。破水してもすぐに赤ちゃんは出てこないから。私が車出しますから、出産予定の産院まで行きましょう。母子手帳はお持ちですか?」


 山岸先生の言葉で、全生徒が何が起きているかを理解し、体育館の中で再度大歓声が起こった。マイアを歩かせたくなかったので、着ていたジャケットをマイアの腰から掛け抱き抱えると、思ったより相当重く「You're fucking heavy!」と口走ってしまった。が、それを聞き逃さなかったマイアに「If you drop me, I'll kill you!」と返事をされた。こんな混沌とした状況で破水したマイアを抱え出て行くのは、明らかに校長を無視している挙句に、生徒達に最後まで対応できたとは言えない。だが、赤ちゃんは空気を読むなど出来ない。出てくる時に、出てくるものだ。どうにもならない気持ちで出口まで大股で進むと、一瞬足を止めて振り返った。生徒達も、教職員も俺とマイアを見ていた。何か言わなくてはと思ったが、言葉が見つからない。一瞬の静寂が訪れた中陣痛を感じ始めたマイアが「ううううう」と唸ると、一言も今まで発していなかった日和が叫んだ。


「Don't worry about us! Just go!(僕たちのことは心配しないで、行ってください!)パパになるんですよ!僕たちのことは大丈夫です、こっちのことは僕がなんとかしますから!」


「But how? I'm literally abandoning a whole shit here!(でもどうやって?文字通りひでぇ状態放置してくのに!)」


「I got this. I don't mind taking care of shit as long as it's yours. Now, go!(問題ないです。先生の粗相なら幾らでも何とでもします。行ってください)」


「Oh Wow, I owe you one, buddy! Thanks! You're an actual hero!(マジか、ありがと、バディ!助かる!マジヒーロー!)」


 日和の頼りになる言葉に礼を叫び、生徒達に背を向けると日和が叫んだ。


「You know what?」


 咄嗟に振り返り「What?」と聞き返すと、日和はウィンクをしながら叫んだ。


「I'm getting used to this "buddy" thing!(バディってやつになんか慣れて来ました!)」


 思わず大声で笑った後、マイアをしっかり抱き抱える手に力を入れ体勢を再度整え、背を向けたまま叫んだ。


「言っただろ?悪くないって!」


 車に乗り込みマイアの背中をマッサージしている間、日和が今何をしているのか考えていると、マイアが「バンビーノ、男前ね」と囁き、俺はそれに小声で「I know, right?」とだけ答えた。あんなに大人しく、クラスの中で声を張ることなど発表以外でする事が殆ど無い日和の声は、体育館中をマイクを通さず響き渡っていた。大人になる生徒達、教師が完璧ではない人間だと自分の失態で学んでくれたら、これも教育の一環だと好都合に考えても、今日ぐらいは許される気がした。子供が生まれる、今日ぐらいは。


       ****


「FUUUUUUCK! Eight, that's not helping!! Do something!!(クッソ痛い!英人、そうじゃない!何とかしてよ!)」


「I'm doing my best, Maia! ちょっとミッドワイフにどうしたらいいか、もう一回聞いてくるから、待ってられるか?」


 腰下のツボを押すように教わり、懸命にマッサージをしているが、初めての経験で明確な場所がわからない。マイアが痛みに耐えている間、何もしないのは嫌なので、もう一度正確な位置を聞きに行こうと席を立つと、マイアが俺の手首を力強く掴んでいった。


「Don't go !!!! (いかないでよ!)席外してる間に赤ちゃん出て来たらどうするの?あぁぁ、クッソ痛い!!!もう赤ちゃん出てきて!!!!」


 マイアがそう叫ぶのとほぼ同時に助産師が来て、マイアの状況をチェックすると満面の笑みで言った。


「クルスさん、もう全開になるから一回お手洗い行けそうなら行って、その後いきみましょうか?」


「え?トイレ?この状況で?」


 思わず聞くと、助産師が笑った。


「お父さん、陣痛は波があるんですよ。今なら行けますよね、クルスさん?」


「はい…多分」


 同じ部屋にあったトイレにマイアを支えて歩くと、一度波が来たと立ち止まりはしたが、その後トイレに入ったマイアがトイレから叫んだ。


「Eight, this is fucking scary! (英人、これ超怖い!)赤ちゃんおしっこと一緒に出しちゃったらどうしよう?」


「Don't flash the fucking toilet!(便所流すなよ!)」


 マイアの笑い声が聞こえたと思ったら、また陣痛が来たようで唸り声が聞こえたので、ドアをノックすると暫くしてマイアが出てきて呟いた。


「赤ちゃんはこの子だけにするわ…I can't stand this pain anymore...(この痛み、まじ耐えられない)」


 助産師が分娩台がある部屋にマイアを連れて行くと、俺も白い割烹着のような微妙なガウンを渡されたが、サイズが小さ過ぎジョークのようだ。サイズが小さいと訴えてみたが、俺のサイズは用意がないと言われ渋々出ていくと、俺を見たマイアが爆笑した。


「Ohhh my Goood! Eight!Are you fucking kidding me?? (ちょっと!ふざけないでよ、英人!)」


「I’m just too big, okay? ふざけてるわけじゃねぇから、スルーしてくれても良いだろ?!」


 助産師さんも俺を見て笑っているのが分かったが、どうにもならない。マイアは暫く痛みと笑いの間でもがいていたが、いよいよ息むように助産師に指示されると、表情が一変した。言葉にならない叫びを上げながら必死に息む姿に、何も出来ない自分の存在が浮き彫りになる。子供を作るには男女が必要なはずなのに、子供が外で息をできる状態にまで育てるのも、出産時も完全に女性だけの大仕事だ。ただマイアの額の汗を拭いながら、握られた手をそっと握り返しながら「you’re amazing...」と呟き続けた。数回目、助産師に再度いきむように指示をされたマイアが悲鳴に近い声を上げた瞬間に、マイアの声とは別の声が上がり、赤ん坊が産まれて来た事を知らせてくれた。


「まぁまぁ、大きな子ね!お父さんに似たのかしら?」


 生まれたての赤ん坊を拭き、体重計に乗せながら助産師が笑顔で発した言葉に、俺もマイアも若干苦笑いをした。すぐに体重が3720グラムだと知らされると、マイアが「4キロの間違いじゃないですか?」と聞き、助産師が笑った。赤ちゃんが寒くないように包まれ、マイアの所に持ってくると、初めてマイアはその赤ん坊を抱いた。


「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」


 大きな声で泣き続ける我が子を抱きしめるマイアは、母親そのものだった。その横で、この子の人生を背負って行く大人の一人として、守るべきはこの母親と子供の二人であると改めて認識し、マイアと赤ん坊をそっと同時に抱き締めて伝えた。


「産んでくれてありがとう。一生大事にするから」


「産ませてくれてありがとう。私も、英人もこの子も一生大事にする」


 助産師さんが撮ってくれた写真を、マイアが小池先生に送り、俺は日和にその写真を送った。皆からおめでとうと共に、サイズの断然合わない割烹着のような物を身に纏った俺の姿に対する笑いのコメントが止めどなく届いた。9月12日、予定日より早く生まれた男の子は、まだ名前がなかったが、マイアも俺も「Baby」と暫定で呼ぶことにした。すぐに真里さんもマイアの両親も赤ちゃんを見に来たが、全員新生児室のガラス越しに見るマイアの生み出した奇跡を、涙を流しながら眺め続けた。マイアに似て大きな瞳の赤ん坊は、新生児にしては睫毛が長く、マイアの父親はマイアの赤ん坊の頃にそっくりだと喜んだ。マイアの母親には名前をどうするか聞かれたが、マイアは「今週中に決めるわ」とだけ答えた。出産したその日、新生児室で赤ちゃんを預かってくれるというので、俺は一旦マイアの家に戻り、マイアが持ってきて欲しいという物を詰め、産院へ戻った。出産の疲れですでに寝ていたマイアを眺めながら、無視するわけには行かない現実、学校からの連絡が届いているであろうメールを開くと、校長から短いメールが届いていた。


 <おめでとう。男性職員の産休は権利としてありますが、中間テストの準備もあるので、出来たら2週間後にはパートタイムで戻ってくることを検討して下さい。猪田先生は、1年担当の道川先生が来年から産休に入ると今日報告を受けましたので、優月先生復帰後は、彼女の後任になります>


 パソコンを眺める口が閉じられなかった。暫くそのメールを眺め、頭の中を整理していると、携帯が光り画面にメッセージが浮かび上がった。


 <We'll be waiting for you. (学校で待ってます)>


 日和からのそのメッセージに、すぐ返信を打った。


 <How did you do this??? (何したんだ??)>


 <先生の粗相の後始末が凄く得意みたいです。You're very welcome.>


 マイアが起きないよう、声を殺して笑った。ジョーから一部始終を翌日電話で聞いたが、俺の育休は正当な休暇だから生徒達はそれを受け入れるが、受験期の生徒達が望んでいることは担任が変わらず最後までいる事であり、身勝手な学生の言い分ではあるが早期に元通り教壇に上がって欲しいと校長に訴えたそうだ。それに対して校長は俺個人の判断に口出しする権利はないと返事をしたそうだが、この学校をここまで導いて来た校長の素晴らしさを永遠称えた後、そんな素晴らしい校長だからこそ俺が学校にすぐ戻ってくるように説得出来るずば抜けた能力がある筈で、それを信じて疑わない生徒達を落胆させるような事は決してしない校長だからこそ、保護者も全面的に校長を支持しているのだと言って退けたそうだ。日和が政治家演説のように綺麗にまとめると、それに便乗した全生徒と職員一同が拍手喝采を校長に向け、校長が黙ったらしい。その話を翌朝マイアにすると、マイアが「やっぱりバンビーノ、只者じゃないわね」と笑った。


 3日後、マイアの部屋にひっきりなしに生徒や職員、生徒の親御さんから電報や風船などが届く中、真里さんが意気揚々と持って来た出生届には、子供の名前が記載されていた。


 クルス・瑛人・ダニエル。マイアに漢字が違っても完全に同じ名前だと訴えたが、マイアは笑って反論した。


「彼はキングよ。英人の頂点。キングエイト。ダブルエイトの子供にもなるんだから、ちょうどいいでしょ?」

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