高校3年2学期①

 夏休み明けの生徒達の様子は、毎年ながら目を見張るものがある。夏の日差しを浴び褐色になった肌に、白い歯が輝く生徒達の笑顔はティーン独特の子供と大人の入り混ざった絶妙なバランスで成り立っており、この一過性の光は、希望そのものを凝縮しているように見えた。夏の間に個々人が経験する多くのことを、始業式の時点で感じているのは全職員で、それぞれ生徒達に対して誇らしく思う気持ちと、頼もしく思う気持ち、3年生はこの学期を終えたら殆ど登校しなくなるので寂しくなる複雑な心境だ。まだ蝉の歌声が体育館の中まで響き渡る茹だるような暑さの中、教頭がいつもより早く挨拶を済ますと、校長が満面の笑みで壇上し、咳払いをした。生徒達が静まり返る中、研修という名の元にやって来た、新たな教員を校長が紹介し始めた。


「えー、今学期から優月先生の元で研修を始める事になった新たな英語担当の先生を紹介します。猪田先生です。先生、此方にどうぞ」


 生徒達が騒めく中、壇上に上がった新たな女性教員を見て、男子は勿論盛り上がった。その中挨拶する女性教員を見ずに、俺に只管視線を送っていたのは、日和だけではなかった。クラスの生徒は皆、俺を見ていた。その視線に気が付いてはいたが、敢えて気が付かないふりをし、猪田先生の挨拶を聞き拍手を送った。猪田先生は大学在学中に米国に一年の留学経験があり、英語も完全に日本育ちながら発音はそこまで悪くはなかった。米国育ちの俺と比べられると恥ずかしいと謙虚なことを言っていたが、彼女の英語は懸命に努力した人間の英語で、寧ろ迷わず誇りに思うべきだと伝えると、最高の笑顔で礼を述べた。礼儀正しく、努力家、真っ直ぐな姿勢から自分よりもずっといい教員になると感じた。


 壇上を降りた先生と共に、一度クラスに生徒達を誘導して戻ると、痺れを切らせた生徒がすぐに手を上げ質問をした。


「先生!猪田先生は、どのぐらいの期間研修される予定ですか?」


「うーん、一応今学期は絶対かな。来学期はお前達殆ど登校しなくなるし、ま、詳細はおいおいな」


 曖昧な返事をすると、日和が手を上げた。日和にも何も話していなかったので、腑に落ちない様子の日和の挙手は意図的に無視しようと思ったが、隣に立っていた猪田先生が平然と「日和君よね?どうぞ」とそれに応えてしまった。苦笑いで猪田先生を見ると、猪田先生は「なんでしょうか?」と言わんばかりの表情を向けたので、仕方なく日和に「どうぞ」と言うと、日和は立って質問をした。


「優月先生は、僕達の卒業まで学校にいますよね?」


 その直球の質問に、教室内の生徒が騒ぎ出した。それを静かにさせるよう口笛を吹くと、教室は瞬時に静まり返った。猪田先生が小声で「いい音でしたね」と言うので、一瞬生徒達が笑った。


「日和のその質問には、答えはありません。それが今の正直な答えです」


 その返事に、教室内から悲鳴が上がり、日和は椅子に座らず立ち尽くしたまま、俺を凝視していた。その視線を拾わないよう、皆に静かにするようもう一度、今度は更に大音量の口笛を吹くと、皆は瞬時に静まり返った。猪田先生が「私口笛吹けないんですけど、大丈夫ですかね?」と言うと、また生徒達が笑った。猪田先生の気遣いのある言葉に救われ礼を言うと、猪田先生はただ笑顔で応えた。


「今、先生が言えることは一つ。皆、実力テストで夏の間の努力を、全力でぶつけるように。皆が色々気に掛けてくれたり、そういう気持ちは有難いけど、先生が例えば明日からいなくなって、代わりの先生がドナルド・トランプになったとしても、お前達の受験期は絶対変わることはない。言ってること分かる?」


 例えに一瞬の笑いは起きたが、皆は静かに頷いた。環境がどれだけ変化しても、全国共通一斉にある試験日は、覆されることがない。そこを目指して頑張ってきた努力を、無駄にはして欲しくない。


「3年間の努力、お前達の青春注ぎ込んで来たその大事な時間の成果は、どんな事にも影響されるべきじゃない。受験出来るって事は、それだけお前達を親や親族、誰か大人が必死に支えて来てくれたからで、恵まれているって事、忘れないように。今すべきこと、今考えるべきこと、今集中すべき事に集中する事。先生からは以上。じゃ、猪田先生、軽く自己紹介でもしますか?」


 生徒達が少し騒つく中、猪田先生は俺を見てから生徒達に顔を向け話し出した。


「教員歴のない米国育ちでもない猪田です。皆さんの優月先生と比べられると、本当に頼りないとは思いますが、先生から吸収出来ることは全て吸収したいと思います。先生の元どれだけの期間学べるかもまだ明確には分かっていませんが、今日ここに来られただけでも、私は凄くラッキーだと思っています。優月先生からは学ぶことしかありませんし、皆さんの若いエネルギーと真っ直ぐな気持ち、それを感じている今、教員になろうと思った事は間違いではなかったと確信させて頂いております。正直に言うなら、優月先生みたいな先生が私の高校の時先生だったら、もっと良かったかなとは思いますが」


 その言葉に、生徒達が笑って「優月先生は最高だよ」と可愛い言葉を発するので、思い切りニヤけて赤面すると、それをすかさず見つけた日和が珍しく冷やかすように「先生、顔真っ赤」と大きめの声で言い、皆が声高に笑った。羞恥心で顔を手で覆い、皆に静かにするようにジェスチャーで促すと、猪田先生も笑いながら言った。


「この学校のこの教室、そしてこのクラス。いつかここが思い出になった時、私はきっと今の優月先生みたいに自然と笑顔になると思います。こんなに最高のクラスにして来たのは皆の心と、優月先生の心が真っ直ぐ向き合って切磋琢磨して来たから築き上げられたものだと思うので、私もいつかそう言う最高のクラスを担任出来るよう、頑張ります」


 皆が拍手を送る中、猪田先生に「ありがとうございます」と伝えると、猪田先生は「宜しくお願いします」と頭を下げた。生徒達は、それ以上質問はしてこなかった。自分達がすべきことが何かを、分かるようになった。大人になったのだと感じた。



 <僕には何も話してくれないのですか?>


 その日の夜日和から来たメッセージには<Sorry, but I can't>とだけ返事をした。日和から返事は来なかった。マイアの家で寝泊まりを始めたので、その夜は家で仕事の引き継ぎの準備を遅くまでしているマイアに付き合い、猪田先生に渡したい生徒達の様子や成績の状況などを只管資料にまとめていると、マイアがお腹を摩りながらつぶやいた。


「この子の名前、どうしようかな…」


「…確かにな。候補は?日本名にするの?」


「うーん、私とお姉ちゃん、名前3つあるでしょ?でも私の日本名が渋すぎて使えないから、もし日本名とアメリカの名前つけるなら、どっちも使える状況にしたいのよね。どう思う?」


「確かにお前の日本名はちょっとな…悪いけど、その顔には全く合わない」


 俺のコメントにマイアが笑って「そうなのよ」と同意した。マイアのフルネームは、Taki Maia Maeve Cruzだ。母親の祖母から「たき」と言う名前を取ったそうだ。何故そんなに渋い名前をわざわざ選んでしまったかは、マイアのお母さんが二人目の出産後体力的に参っていて、名前はマイアのお父さんに丸投げしたからだそうだ。マイアの父親が嬉々として届出をした書類に記されていたのが、その名前だったらしい。マイアの父親はタキちゃんと始めはマイアを呼んでいたそうだが、マイアの母親が激怒して封印されたと聞いた。真里さんはMary Rachel Judy Cruzで、真里以外の名前は真里さんが気に入らないと絶対に誰にも呼ばせないらしい。3つ名前があることで選ぶオプションは増えるが、こういう例もあるのだと思うと、多ければ良いわけでもないようだ。暫く男の子の名前について話していると、マイアがふと聞いた。


「ねぇ、日和君も確か英人なのよね?」


「そうそう、同じ漢字の同じ名前。笑えるよな」


「じゃ、この子も英人にしようかな?」


「はぁ?辞めとけって、家の中に3人も英人いたら面倒臭いだろ??」


「英人パパ、英人おじさん、英人君。3人英人。あははは、面白くない?」


「面白くねぇ。つか、真面目に考えてやれって。一生ものなんだから。英人はとにかくダメ」


「私、英人って名前好きよ。呼びやすいし、覚えやすいし、日本では縁起が数字だし」


「…マジ、辞めろよ?もっとかっこいい名前にしろよ。絶対、英人だけは駄目。What about Leon? It's a good one.(レオンは?良い名前だけど)」


「Mmm... うーん、良いけど私達の子供って気はしない」


「What about Len?(じゃあレンは?)」


「 Yeah...nah, (あー、ないな。)私達の子ではないかな」


「じゃ…ショーンは?」


「Nope. I'm not Yoko fucking Ono and you're not John fucking Lennon. (絶対無理。私ヨーコオノじゃないし、貴方もジョンレノンじゃないでしょ?)」


「Hahahaha, じゃあジョージは?」


「No way! Hey, what about…Eight?(絶対嫌。ねぇ、英人は?)」


「Maia, seriously, Eight is just a fucking number! (マイア、マジで、英人はただの数字だから!)数字がらみの名前がいいなら、イチローは?いい名前だろ?」


「Not Ichiro!!! Oh come on! (イチローはないわよ!いいでしょ!)エイトって響きが好きなのよ!お願い!」


「Nope. Forget it. (却下。忘れろ。)ルイは?」


 その晩は結局これと言って目ぼしい名前が思い付かず、就寝した。マイアが英人という名前を気に入ってくれているのは有り難いが、日和も英人で俺も英人で子供も英人は避けたい。だが、朝マイアより先に起床し、パジャマのまま静かにキッチンに行くと、冷蔵庫に一枚の貼り紙を見つけた。そこには名前が二つ記載されていて、一つはDaniel。もう一つはエイトだった。牛乳を飲んだ後、そのメモに一応意見を書き足した。


 <Daniel is perfect, but not エイト>


 マイアは明日から産休に入る。もう少し前から入れたのだが、今の仕事のポジションをどうしても維持したいマイアが、ギリギリまで仕事すると申し出て、今日が最終出勤日だ。マイアの両親が明後日日本に到着するので、今は自分がすべきことを、生徒達に話した通り自分自身実行に移していきたいと思っている。


「猪田先生ってスタイル良いですよね。運動してますか?」


 大八木のホームルームとは全く関係ない質問に、猪田先生が一瞬俺を見てから答えた。


「少しだけジムに通っていた程度です」


  俺はそれに笑いそうになるのを堪えた。

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