高校3年1学期③

 校長室に呼び出され、伝えられたのは今朝から親からの苦情が殺到しているという内容だった。発言と行動が矛盾している教師がいると、子供に悪影響であり、受験期の生徒を混乱させ、成績が落ちたら一生の責任だと。校長が意気揚々とその内容を話し続ける中、世の中で噂話や表面上の言葉や情報の一片ほど不確かで、実質を語らないものはないのだと身を持って感じていた。


「こう言う状況ですが、勿論優月先生は公務員ですから、私の一存でどうすることも出来ません。ここは、先生ご自身の判断で、この先どうするのが生徒達にとって一番か、よく考えて頂けますか?大人として」


「それは暗に僕に辞表を書けと促しておられますか?」


「はははは、先生。私にはそんな権利はありませんよ?ですが、先生がそれが生徒達にとってベストだと判断するのであれば、それは先生の判断になります。それを止める権利は私にはないとお伝えているだけです」


 露骨なその言葉に、「考えてみます」とだけ伝え部屋を出ると、直ぐに小池先生と鈴木先生が近寄ってきて、何を言われたか聞かれたので、少し離れた場所まで移動して大まかなことを話した。二人は溜息を吐き、小池先生は申し訳なさそうに聞いた。


「優月先生は…どうしてもご結婚されないのですか?」


「はい、その予定はないです」


 その答えに、鈴木先生が何故かを聞いてくるので「互いの意志の問題」だと答えると、小池先生が頷いて答えた。


「優月先生には先生の事情があると思いますし、子供を持つのはお二人の問題で周りが口を出すことではないと思うので、私は先生を応援します。校長のパワハラには負けないで下さいね?」


「あははは、有難う御座います。そう言って頂けると心強いです」


 二人に肩を叩かれ、励まされるとここでの教員生活も、今頃になってしっかり地に足がついてきたのだなと感じ胸が温まった。自分の机に戻ると、俺が戻ってくるのを手ぐすね引いて待っていたジョーが、知ったような口調で聞いてきた。


「Hey, bro! I heard the news! Who's the lucky lady you knocked up?(ヨォ、聞いたぜ?誰だよ、お前が妊娠させたラッキーな女は?)」


「…Mind your own business, Joe. I'm not in the mood to talk about it now, okay?(勝手に言ってろ。俺はそんな事話す気分じゃねぇから)」


「Oh come on, Eight! We're amigos! Honestly, I can easily guess who it is. It's Maia, isn't it?(おいおい、エイト、俺達オトモダチ!正直予測はつくけど。マイアでしょ?) 」


「So what?(だから何?)」


「Yooooo, give me a high-five!!! Huuuuuge respect, bro! (すげぇじゃん、まじリスペクト!)How was it? ヨカッタ?」


「...if you say one more word, I don't really know what I'll do to you... Can you leave me the fuck alone? (これ以上喋られると自制心保ってられる自信無いから、是非とも一人にしてくれないか?)」


 今朝ジョーの軽さに救われたが、今この瞬間は殴り倒したいぐらい頭に血が上り震える声でそう言うと、ジョーは冗談だと思ったようで笑って「コワイー」とはしゃぎながら部屋を出て行った。期末試験の採点や、これから夏の補習で何を重点的に補っていくか、それに日和の大事なテストにお腹の大きくなったマイアの出産準備クラスへの参加に、校長からのプレッシャーと、生徒達からの冷ややかな態度、考えることもすべきことも山積みで、ジョーに構っている暇はない。


 午後の会議も微妙な空気ではあったが、生徒達の期末の事や夏の補習授業の話だけに集中し、終業式まで生徒達からのキツイ視線と、校長からのあからさまなプレッシャーと、同僚達の動揺に耐え続けた。自分自身、悪いことをしている意識は皆無で、その気持ちを周りの基準で判断されることによって屈する姿を生徒達には見せたくないと思ったからだ。だが、学校に行き続けることが正しいと思うのは、自分自身の勝手な気持ちの押し付けであり、学校からも生徒達からもそれを望まれてはいないと終業式後に学んだ。


 校長や教頭の長い挨拶と、夏休みの宿題や部活動についての話が終わり、生徒達が教室に戻る時間になったので担当クラスの先頭に向かうと、何かが背中に当たるのを感じ振り返った。デジャブだと思った。米国のハイスクールで何度か見かけた生卵。あの頃、見て見ぬ振りをしていたものが、我が身に振り返る。自業自得のような気がした。一気に体育館の中が大騒ぎになると、生徒の誰かが叫んだ。


「だらしない嘘つきの教師は出て行けよ!」


 近しくなった何人かの教員が立ち上がり、それを静止しようとしてくれたが、俺はそれを止めた。生徒達の声は、怒りと興奮と正義感に溢れていた。正しいことを正しいと言える環境は素晴らしい。だが、自分の正義が世界の正義だと思うことは、正しくはない。校長がマイクを通して静かにするよう叫ぶ中、壇上に向かって歩くと、校長にマイクを借りられるか聞いた。


「手間は取らせません。3分下さい」


「君、今の状況見ても分かると思うけど、大人としてこの騒ぎの責任を取る覚悟、早めに決めなさい。受験期であること、教師として一番に考えるべきことは生徒の未来だと言うこと、忘れないように」


「はい」


 校長にマイクを渡され、壇上から生徒達を見渡すと、その若い視線の先にある未来に自分が一体どれだけの波紋を起こせるのかを考えた。


「夏休み前の大事なこの式を台無しにはしたくないので、手短に話します。9月に父親になります。子供の母親と結婚する予定はありませんが、子供は法的に自分の子供であると認知をしています」


 この時点で「最低!」とか「キモ!」とか、あらゆる生徒の中から溢れるネガティブな感情が言葉になり、壇上の自分に全力で投げつけられた。その事に対してはショックではなかったが、高校生は子供ではないと生徒達にも知って欲しいと思った。


「今、皆が口にした言葉、それは皆の中にある正義感から生まれたものであるというはよく理解しています。悪人に悪人だと言って何が悪い?そういう感情は人間誰でも持っています。ですが教師として、一人の人間として言わせて下さい。自分の小さな世界基準で測る正義が、この世界共通の正義ではないと言うことを、頭の片隅において欲しい。正義という名の下に相手の価値を全力で下げる言葉を直接投げかける自分自身に疑問を持って下さい。悪口は悪口でしかない。正しい正しくない関係なく、悪口でしかない。それを理解した上で発言して、その発言で起こる結果に対して責任を全面的に負ってでも言いたいと思うなら、堂々と言えばいい。迷うことなく、言えば良い。ですが先生は、間違ったことをしていると思っていません。だから、皆に謝るつもりもなければ、出て行かなくてはいけないとも思っていません。先生のプライベートな事に関して、全てを説明する義務はありません。違法行為はしていません。ただ、子供が産まれてくるのを楽しみにしている大人として、これから受験を迎える生徒達を抱える教師として、今出来ることを自分の出来る精一杯でしたいと思っています。これ以上、言えることはありません。全員の理解を得ようとも思わないし、得る必要だってない。生徒一人一人、教職員一人一人の人生があるように、これは先生自身の人生の問題です。人間たった一人の人生の決断を尊重する事って、そんなに難しいですか?先生は皆の人生を心から尊重してます。同じように先生にも人生があるという事実、受け止めて下さいと言うのは、ここまで非難を受けないといけないことなのかな?たまたまここの教員させて貰ってるけど、先生も人間です。人間に完璧は存在しない。完璧である必要もない。Just a little bit of respect, that's all I'm asking for. Is it too much to ask? (ほんの少しの尊重、それを願うことってそんなに大変なこと?)」


 体育館の中は静まり返っていた。背中から小さく流れ落ちた生卵の一部が、小さなぽたっと言う音を響かせ落ちると、校長が俺からマイクを取り上げて言った。


「優月先生のことは、これから職員全体で話し合いながら考えて行く予定ですから、受験生は特に勉学に集中し、部活動に励む生徒達は体調管理に気をつけて頑張るように。以上です。教室に戻って下さい」


 自分の担当するクラスの前まで行くと、先頭で待っていた生徒が小声で「御免なさい」と呟いた。それに「ありがとう」と答え、クラスの生徒を教室まで誘導した。教室に戻った後の生徒達の態度は、余所余所しさはあるものの、子供のことや結婚をしないことなどについての質問をしてくる者もいなければ、敢えてその話をする者もいなかった。改めて、高校3年生は、子供ではないと感じた。


 その日、職員室では今まで少し距離を取っていた教員からも声を掛けられた。皆、「御めでとう御座います。楽しみですね」というポジティブなものだった。その言葉を掛けられる度に、目頭が熱くなった。だが、校長の態度は変わらず、夏の間に俺の代理になりそうな教員を念の為探すと教頭に話しているのを聞いてしまい、それに対して何も出来ない自分が歯痒く思った。言葉で伝えられるものは少ないかも知れない。それでも、今まで生徒達とそれなりに培ってきた教師としての仕事は、もう少し評価されてもいいのではないかと言う不満を抱かずにいられなかった。


 日和の受験対策に関しては、ジョーと俺がSAT経験者なので、夏休みに入ってから模擬試験を定期的に行い、その間に他の生徒の苦手部分を補う補習をすることになり、終業式の翌日も普段と変わらず学校には毎日出勤した。日和の様子を見ていると、ジョーから見ても全く問題はないように思うそうだが、あの大学の何が大変かは入ってからの事であり、それに耐え得るだけのメンタリティがあるかどうかも彼らは見るので、ジョーはそれを異常に心配していた。だが、日和を知っている俺は、それこそ心配いらないと密かに思った。自分がこれだと思った道は、絶対に折れない強さをこの二年半で見せ付けられたので、これ以上あの大学に向いている生徒はむしろいないのではないかとさえ思う。


 英語の補修授業に来る生徒達の中には、俺の授業を受けることを本意に思っていない生徒もいるのはその態度で分かったが、殆どの生徒は恰も何事もなかったように、ただ授業にだけ集中してくれた。これから受験に向かって詰め込みが始まる生徒達は、自分達の置かれている立場をよく理解し、今何に集中すべきかを心得ているようだった。やはり、大人になってきていると感じ頼もしく思った。


 そして7月30日、日和の模擬テストを行ったその夕刻、テストを終えて伸びをしている日和に初めて準備した3ヶ月も遅れた誕生日プレゼントを渡そうとすると、プレゼントを持って戻ってきた俺を見るなり、日和が聞いた。


「先生、手に持ってるのは更なるテストですか?」


「違います。テストの方が良かったか?」


「…内容によりますけど…何ですか?」


 日和のその質問に、仕方がないので念の為周りを確認してから、机の上にポンと紙袋を置いた。


「今更だけど…3ヶ月遅れの誕生日プレゼント…どうぞ」


「…え?本当に僕の誕生日、知ってたんですか?アピールしたのに、普通に今年もスルーされたから知らないと思ってました…」


「…お前が1年の時から知ってた。なんか、こういうの得意じゃないから流してた。すまない…言っとくけど、中身に文句言うなよ?」


 女に強制的にプレゼントを買わされることには慣れていたが、自分から選びに行ったのは生まれて初めてのことで、挙句に相手が高校男子と来たら何を買えば良いのか皆目見当がつかなかった。なので、かなりよく分からないものを選んでしまった。しかし、日和は期待値の高そうな輝く瞳で「どうしよう!嬉しい!」とはしゃぎながらプレゼントを開けた。そして、中身を見て固まった。


「…え?これ、誕生日プレゼントですか?」


「…what if I said yes??(そうだって言ったらどうする?)」


「…Oh my god... are you sure? I mean, wow...this?(うわ…本気ですか?先生…これは…)」


「…I thought you would use it, okay? (使うと思ったんだよ!)」


 俺のセレクションにもう一度視線を落とし、それからこちらの気まずい表情を再度見た日和は、思い切り笑い出した。かなり懸命に選んだのだが、ここまで引かれるとは思わず、大人としての威厳を失った気がした。余りに笑うので、返せと苦情を言うと、日和は袋に覆いかぶさり、プレゼントを隠して言った。


「返しません!大事にします!」


「…笑ったくせに」


「あははは、だって文房具セットですよ?小学生の誕生日会みたいじゃないですか!高校生に文房具セット選ぶって、今どき誰もいないですよ!」


「…毎日使うものがいいと思ったんだよ!お前、鉛筆使うだろ?ペンケース使うだろ?ノート、使うだろ?」


「あははは、つ、使いますけど、あはははは!僕、鉛筆なんて親にも貰わないですよ!あははは」


「…やっぱ、返して?違うの買ってくるから」


「嫌です。ノートのモレスキンはいいセレクションです」


「…だから嫌だったんだよ、自分で選ぶの!お前、来年は自分で選べよな?俺に選ばせるのだけは辞めろ!絶対!」


 プレゼントのセンスを全面的に否定された気がして、日和を睨んでいると、日和が笑いながら中のカードを取り出し、その中を読んでから笑顔で顔を上げた。


「カードの中身は満点です。流石先生。You always know what to say」


「I'll send you only a card from next year then.(じゃあ来年からカードだけ送るから)」


「I know what I want for the next year, so don't worry. You don't even have to think about it. (来年の欲しいものは決まってます。だから先生は何も考えなくていいです)」


「…Just out of curiosity, what kind of thing do you want for the next year?(一応聞くけど来年どういう系のもんが欲しいの?)」


「Something staple, something eternal, something you cannot ask me to give you back.(定番のものです。それで永続性のあるもので、先生が返してくれって言えないもの)」


「…don't ask me to buy you a goddam diamond ring. Just so you know, your future partner is a high school teacher whose salary sucks, okay? (ダイヤの指輪買ってとか言うなよ?念を押しておくけど、お前の将来のパートナーは薄給極まりない高校教師だからな?)」


「あはははは!No worries, I'm very good at math too, you know.(大丈夫です、僕数学も得意分野ですよ?)」


 全科目得意分野の日和が来年欲しいものが何かは、はっきりとは分からないが、きっと不得意分野の多い俺よりいいものを思いつくに違いないと思った。そして、夏休み中に誕生日のくる俺にも、日和が初めてプレゼントを用意してくれていた。カメラのフィルムだった。子供が産まれた時に、写真を撮るだろうからとモノクロフィルムを5本もプレゼントしてくれた。それにカード。中には可愛らしいシンプルな文章が書かれていたが、下には昔よく日和が宿題や解答用紙の下に一文質問を書いていたように、小さな質問文が書かれていた。


 <Will you give me the biggest hug ever after the graduation ceremony?(卒業式の後最大で抱き締めてくれますか?)>


 その場で「Hell yeah.」と呟くと、日和が「Can't wait」と呟いた。この距離感をもどかしく思う今は、悪くない。目を見合わせ笑うこの瞬間は、全然悪くない。互いに素直にそう感じた。

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