高校3年1学期②

 マイアのお腹は日々、少しずつ少しずつ大きくなって行った。健診について行った真里さんは、エコーを見て泣き、この子を一緒に家族皆で育てていこうとマイアに伝えた。マイアが住むアパートがある場所は、近くに良い保育園がないことと、うちからも少し離れているので、ちょうどいい距離にあるマンションをマイアの親が協力し、購入することになった。多くのことが一気に起きているその最中、俺とマイアは認知の手続きのため、共に区役所に向かった。


「マイアの本籍地がここで良かったな。届けが意外に楽」


「英人もここら辺でしょ、本籍?」


「いや、うち父親が本籍沖縄から移してないから、まだそっちにある」


「え?!そうなの??」


「ウケるだろ?戸籍謄本見れば分かるけど、行ったこともないのに俺の本籍は沖縄の島」


「Wow…それ、いつか行ってみたいとか思ったりする?」


 余り考えたことはなかったが、父は沖縄で幼少期を過ごしている。だが中学から東京に越して来ているので、そこまで沖縄に拘りがあるようには思えない。そして親族も沖縄にいるのかどうかすら知らないので、そう返事をすると、マイアが笑った。


「不思議ね、私達色々なところにルーツ持っていて、そのどれも繋がりがないような場所なのに、こうして繋がって。日和くんは、ここ出身?」


「うーん、聞いたことないな。今度聞いてみるかな」


「結婚する時、分かるかもね?」


 マイアのその言葉に、日和と交わした言葉を思い出し、それを話した。


「何か、あいつに有無を言わさず誘導されてるのに、なんの抵抗感もなくて、寧ろ自分を人間らしくして行って貰ってる気がして、こう言うのも悪くないなって」


「英人は日和君に出逢うべくして出逢ったのね。羨ましいわ、そういう相手がいて」


 少し寂しそうな表情をしたマイアの気持ちを考え、胸が痛んだ。好きになった人に、その想いを返して貰えない状況を経験し、傷付いた友人にする話ではなかったと思い謝ると、マイアは笑って俺の腕をとった。


「謝らないで、英人。私、そう言う話を英人から聞く度に、嬉しいのよ。羨ましいけど、希望が見出せる。私にも、いつかそう言う相手が現れるかもしれないって。だって、あの英人がこんなに変わったんだから、私にもそのチャンスはあるんじゃないかって思えるから。幸せになってね。絶対、迷わないで、大事にしてあげて」


「…ん。でも俺が迷わず大事にしたいと思ってるのは日和だけじゃない。マイアもこの子も、大事にする。Till death do all of us part. Literally.(死が皆を別つまで。文字通りな)」


「…You may now kiss the baby.(赤ちゃんに誓いのキスしても良いわよ?)」


 マイアが涙ぐんだ瞳で照れ隠しにそう言うので、その優しい瞳を見つめ、お腹の子にキスをした。It's a deal. I won't take it back.伝われば良いと思った。


 区役所での手続きは思ったよりもスムーズに終わり、子供の戸籍には俺の名前がしっかりと記載される。そして、その日にマイアは母子手帳に俺の名前と連絡先を記載した。不甲斐ない大人、まだ大人になっていく最中の大人。頼りないかもしれない。だけど、一人じゃない。これから生まれてくる子に、それが伝わりますようにと心から願った。マイアと認知の手続きが終わったことを日和にメッセージで伝えると、日和から<パパ、頑張れ!僕も頑張ります>と返事を貰った。パパ、良い響きだと思った。


 マイアのお腹で育つ子供の血のつながりのある父親には、マイアが元いた会社に転職先をどうにか聞き出し、会社の前で待ち伏せをして話すことが出来た。少しお腹の出ているマイアを見て青ざめた男の顔は、これ以上なく情けないものだった。マイアはその姿に、興醒めしたようだった。その場に同席し、心の底から殴り倒したい気持ちを抑え、子供の父親は俺で、その男は一切関係がないこと、これからも一切の関わりを持って欲しくないこと、それと絶対にこれから先マイアの前にも、子供の前にも現れないという契約書にサインをさせた。男は俺が父親だと名乗ると複雑な表情をしたが、心底安心したような態度に、マイアが膝の上で握る強い拳を、席を立つまでずっと握った。相手は、真面目そうで清潔感のある言葉遣いの綺麗な男だった。だが、心が綺麗ではなかった。それを見破れなかった自分に責任があるとマイアは言ったが、人間の本質を全て見抜ける力など、誰にもない。恋をしたら、盲目になる。誰にも責められない。そう伝えると、それでもマイアは自分の過ちを子供に背負わせないように頑張ると、力強く泣くのを最後まで我慢して言った。男は去り際に、本当にすみませんでしたと頭を下げた。深く、何分もの間、沈黙で頭を下げ続けた。マイアが好きになった男に、もし少しでもいい所を見出せるとしたら、頭を下げている間男の視線が、マイアが固く握りしめた拳であった所、かもしれない。マイアが我慢している現状から目を背けず、その手を見つめ続け頭を下げ続けた。後日、マイアが男の転職先を聞いた人に偶然街中で会うと、その男が転職先から更に転職をし、かなり地方へ引っ越したと聞いた。マイアは内心ほっとした様だった。東京は広いようで狭い。何処かで会う可能性がある不安を、少なくとも感じずにいられる。その転職は、男が逃げたからと捉えるか、マイアへの責めてもの償いと受け取るかは、こちら次第だが、少なくともマイアは後者として受け取ったようだ。本当に、縁が切れた瞬間だった。マイアの中で何かが吹っ切れたのと同時に、自分の中でもこの子供の父親としてしっかりしたいという気持ちが再度強く芽生えた。


                 ***


 梅雨に入り微妙に雨の続く中、マイアの購入した家の中でベビーベッドを組み立てていると、真里さんが差し入れを持ってやってきた。


「こんにちは。ランチに生春巻きとかよく分からないけど美味しそうな麺類のテイクアウト、買って来たわよ!」


 真里さんはオリエンタルフードが好きだが、一切名前を覚えようとせず、常によく分からないけど、と説明して誤魔化す。マイアと顔を見合わせて笑うと、3人でダイニングテーブルに向かった。南向きに窓がある大きなリビングダイニングのあるマンションは、5階だが周りのビルが低めでやはり東京の景色がよく見渡せる。家が混在するその景色は、米国のそれとはまるで違った。ここが日本だと感じ、日本が好きな俺達3人はその景色を眺めるために、ダイニングテーブルで横並びに座り、何かはよく分からないけれど美味しいヴェトナム料理を堪能した。


「時々、私今でも興奮する瞬間があるの。I live in fucking Tokyo!って」


 真里さんが思い掛けない発言をしたので笑うと、マリアも同意した。


「私も。I sometimes feel this is so surreal. Do you feel that way too, Eight?」


「Fuck yeah…スーパーとかでよく感じる。わ、俺、日本で生活してる。すげぇって」


「あはははは、私達皆アメリカの田舎から来たお上りさんね?」


 真里さんのその言葉に、3人で笑った。日本に憧れて、東京に憧れて、米国からやって来たお上りさん。その通りだ。俺は日本で5歳まで暮らしていたので、戻って来たと言う方が正しいが、18まで米国で暮らしていた挙句に、日本をその間に訪れたのはたった一度だけで、日本はいつの間にか想像の中の世界になっていた。マイアや真里さんは日本には頻繁にやって来ていたが、一度も日本で生活をしたことがなかったので、やはり日本は憧れの地でしかなかった。そう思うと、日和にとっては米国がそういう対象の地になるのだろう。不思議な巡り合わせだ。


「生まれてくる子、いつか米国行きたいとか言うのかな?」


 マイアがボソッと言うと、真里さんが笑って答えた。


「多分言うわよ。その時はお父さん達のところに送り出せばいいわ。ど田舎で詰まらないって帰って来ちゃうかもしれないけどね?」


「あはははは、そうかも!」


「そしたら俺の父親の所に送ってもいいけど、リンさんと弟のアンドリューが同居してる挙句にウィスコンシン」


「あはははは、ちょっと皆田舎じゃないの!誰か知り合いいないの?シスコとかLAとかNYCとか!」


「いねぇな。あ、ALTのジョーはLA出身だけどな?」


 久しぶりにジョーの話題を出すと、マイアが真里さんにどう言う男か説明をし、真里さんが笑いながら言った。


「あはは、チャラい英語教員、ザ!な感じね。ねぇ、今の私の日本語、かなり日本人じゃない?」


「the!じゃなくて、ザと発音したところ?」


「そう。私、日本人らしい日本語話してる自分が好き。って夫に言ったら、この前笑われたわ」


 真里さんの日本語はかなり完璧で、俺やマイアでも気を抜くとすぐに英語の発音になりがちな部分も、きっちり日本語の音で発音する。マイアはそれを凄く尊敬しているが、本人がそうできることを誇りに思っていると堂々と言う所が、この国への憧れ度を如実に表しているように思えて笑えた。3人で集まると正直英語で会話した方が随分楽だが、それでも常に日本語で話そうとする真里さんに釣られ、3人で日本のどう言う所が良くて、どう言う所が不便かを話していたら、盛り上がり過ぎて夕方になっていた。真里さんが慌てて帰宅し、俺も急いでベビーベッドを組み立てマイアの家を出ると、微かに星が見えて雨がいつの間にかに止み、空から雲が消えていたことに気がついた。明日は、晴れそうだ。


 受け持つ三年の生徒達は、過酷な受験戦争に向けスイッチが入ったように貪欲に学び始めた。彼らのその姿勢に応えるべく、教員も必死に対応に追われ気が付いたら7月になっていた。期末試験期間の今、教室内を緊迫した空気が漂っているが、良い緊張感だ。日和も大きなテストを8月に控え、頑張っていた部活も一足早く引退し、スポンジのようにどんどん教えることは吸収して行った。エッセイは何度も書き直しをしているが、かなり仕上がって来ていて、ジョーも日和の本気を感じ珍しく協力的で、俺が忙しい時は日和の面接の相手をよくしてくれる様になった。3年を受け持つ教員で会議を開き、また学校始まって以来の海外への本留学への対策や準備、そしてこの経験を今後どうこの学校で活かせるかを話し合う中で、一本の電話が学校に届いた。それは、一人の親御さんからの電話だった。


「優月先生、お時間少し宜しいですか?」


 教頭に呼ばれたのは、期末試験最終日を控えた前夜だった。遅くまで残って仕事をしていたので、大きな伸びをし肩をバキバキと鳴らしながらついて校長室に行くと、そこには見知らぬ女性がいた。困惑して校長を見ると、その女性が気まずそうに挨拶をした。


「初めまして。2年に在籍している山崎の母です」


「…あ、はい。初めまして。3年6組担任の優月です…えっと…」


 山崎という生徒が教え子でいたか考えたが、答えが出る前にその女性が校長に視線を移し、校長はそれを確認してから表情を変えずに話を切り出した。


「優月先生、この山崎さんが先日学校に電話を下さったんですよ。お子さんへの説明が難しい事案があって、どういう風に話したらいいのか教えて欲しいと」


「…はぁ」


 状況が読めずにその女性を見ると、女性は気まずそうにしたが、校長の促しに従い小さな声で聞いた。


「あの…先生を娘が見たっていうんです。お腹の大きな女性と一緒に歩いているところ。でも先生は独身だって娘が言うのでお友達なんじゃないかって話したのですが、娘は納得していないみたいで…」


 いつかは起こることだと思っていたが、今の時期に起きては欲しくなかった。子供は9月に生まれてくるので、夏休みの間に校長にも話をするつもりでいたが、生徒に見られていたのなら今更誤魔化すことは出来ない。一瞬時計を確認し、それから女性に向き直って説明をした。


「期末試験の大事な時期に、生徒の気持ちを乱すような状況を作ってしまい、すみません。生徒達への説明は、求められたらしますが、個人的な事ですし、今期末試験の最中ですので、今話すことではないと思っていました」


 聞かれたら答えるつもりではいたが、無事に子供が産まれてくるまで公にする事も避けたかった。その理由は、インターネットだ。生徒達の所持するスマホで有る事無い事囁かれ、産まれてくる子供が傷つく状態にはしたくなかった。大人の俺やマイアは何を言われても乗り越えられるが、子供は違う。こちらのそういう気持ちを、しかしティーンに察しろなど不可能だ。その女性も、校長も教頭も、俺が次の言葉を発するのを待っていた。


「…期末試験が終わったら、生徒達にも話そうと思いますが、子供が産まれます。9月に」


「…ご結婚はされていらっしゃらないですよね?」


「していません。する予定もありません。でも、子供は認知しています」


 その言葉に被るように、校長が声を荒げた。


「優月先生!貴方、今年あんなに偉そうに性教育を子供達にして、貴方はその時もう結婚する予定もない女性を妊娠させていたという事ですよね?どういう事ですか?生徒達に嘘を教えていたのですか?望まない妊娠をさせないとか、傷つけないとか、全部上辺だけの言葉だったという事ですか?生徒が聞いたら、どう思うか考えなかったのですか?」


「…望まない妊娠ではありません。子供を授かった事を嬉しく思うから、認知をしています。結婚に関しては、二人の問題であって事情を何も知らない周りにジャッジされる義理は無いと思います。子供が産まれてくる事を、彼女も僕も、喜んでいる。それではダメですか?」


 その返事には、座ったまま俺を凝視していた女性が反論をした。


「ダメですかって…その女性は本当にそう思っているのか、先生がそうおしゃっているだけなのか、私達には知りようが無いですよね?子供になんて説明したらいいんですか?大人の事情で結婚出来ないけど、子供は産んで貰うと先生は言ってるわよ、って言えばいいんですか?」


「子供を産むのは彼女ですが、彼女の意思です。産みたいという彼女の意志で、産んで貰うというと僕が強要したみたいな響きがあるので、そこは違う気がします」


「先生、そんな事どうでもいいんですよ!現実に、先生が大人として責任を取らずに、子供を設けようとしている事実を子供達がどう思うか聞いてるんです!」


 校長のヒートアップした声に、俄に聞こえていた職員室からの職員の声が、一斉に消えた。恐らく、皆、聞き耳を立てている。教頭は狼狽えた様子の中、俺に「どういう感じなのかな?」と小声で聞いた。


「校長先生、僕は大人として責任を取るから認知をしています。戸籍上の父親は僕です。それは責任を取る事にはならないですか?」


 その言葉に女性が「認知しても養育費もろくに払わない人なんて沢山います!」と叫んだ。結婚をしないで子供を持つことは、無責任だという考えが一般的なこの国の現状は、恐らく養育費を払わない男が多く存在している現実からも来るものだ。実際、本当の父親は一銭も支払う事もなければ、自分の子供が生まれようとしていることすら知らない。男の無責任な行動から誕生した事実は消えることはない。だが、どう授かったかよりも、この子をどうやってこの世界に迎え入れ、どう育てて行くかが大事なのではないだろうか?結婚をしないという理由だけで、非難をされないといけないなど、馬鹿げている。静まり返ったその部屋で、思っていることを素直に伝えた。


「校長先生にも、他の教職員や生徒達にもプライベートな事を全て話す義務は無いと思っています。ただ、無責任だと非難される謂れは無いはずです。彼女と僕の間で話がついていることを、周りが口出しする権利など無いと思います。僕は、子供を愛していますし、彼女を友人として大事に想っています。それは彼女も同じです。二人で同じページにいるのに、周りの方々に理解を得られないというのは、とても残念で悲しいです。悪い事をしているとは思いません。大人として、二人で子供をこの世に迎え入れたいという気持ちがある、そこが一番大事なのでは無いでしょうか?僕はきちんと父親として子供を育てて行く過程で全て関わって行く覚悟でいます」


 女性は何も言い返さなかったが、校長は全く納得がいっていない様子だった。ここは日本であること、今年に入り性教育の機会を設け、子供達に話した手前、それを一番先頭切って話していた俺が、婚外子を設けることは受け入れ難いことだと言われ、この先どうするか期末試験が終わったら話したいと言われた。


 職員室に戻ると、残っていた数名の教員が俺とは視線を合わせなかった。あの性教育の話をした後から距離の縮まった教職員と、大きな溝を感じ胸が痛んだ。幸いなことにその場にジョーはいなかったので、無駄に冷やかされる事もなくその日は帰宅することができた。だが深夜過ぎに日和からメッセージが届いた。


 <クラスのチャットで先生が婚外子を持つと噂が流れています。先生は、どうする予定ですか?>


 <皆大変な時に悪いな。そのグループチャットに期末試験終わってから話を聞こうとでも書いてやって。今は勉強に集中するように>


 <はい。Please stay strong. I'm on your side. You're the best person I know.(負けないで。僕は先生の味方です。僕にとって先生は最高の人です)>


 <Thanks. You too. I'm glad you're in my life.(ありがとな。お前もだよ。お前がいてくれて良かった)>


 <Ditto!(僕もです)>


 期末試験が終わった直後、まずはクラスの生徒達に話をしようと決心したが、マイアには何も伝えなかった。余計な心配を、この大事な時期に掛けたくは無いと思うのと、生徒達は子供でも無いのでそれなりの理解を示してくれると信じている気持ちが、翌日学校へ出向く足の重石を軽くしてくれた。


 試験最終日、いつもより早めに学校に到着すると、教職員の下駄箱で職員達が集まっていた。それに参加しようと近づくと、小池先生がいち早く俺に気がついて気まずい表情をした。何事か分からないが、「おはようございます」と挨拶をすると、教職員が一斉に振り返り、沈黙した。その異様な中、自分の下駄箱に近づくと、下駄箱がスプレーで落書きだらけになっていた。アメリカのハイスクールを思い出すその光景に、一瞬目を疑った。ここの生徒は、いじめなどの問題もかなり少なく、こういう派手な行動を取るような生徒がいるとは思えない。呆然とその下駄箱を眺めていると、教頭がバケツとブラシを持ってきて、それを俺に渡して言った。


「取り敢えず、綺麗にして頂けますか?生徒の目につくと大変ですから」


「…はい」


 ハイスクールでこういう落書きがされたロッカーは何度も目にしたが、自分がその被害を受けることは一度もなかった。だが、教員の立場になり、そしてそれなりに平和なこの高校で、ここまで派手なグラフィティを目の当たりにし、内心は動揺した。生徒の誰かがしたと考えるのが筋だが、この高校で誰がここまで激しい事をするのだろうか?渡された道具で消そうと試みたが、どうやっても消えないのでため息をついていると、ジョーが到着し、その落書きを見て口笛を吹いた。


「Wow, what the hell did you do, Eight??(何しでかしたんだ、英人?)」


「None of your business... do you happen to know how to remove this graffiti?(お前には関係ねぇよ。つかこの落書き落とし方知ってたりする?)」


「Any paint thinner should work, but I would totally keep it if I were you. It's kinda cool.(シンナーで取れるんじゃん?けどなんかカッケーから俺だったら取っとくけどな)」


 ジョーのお気楽発言に笑え、少しだけ救われた。美術部の先生に相談すると、すぐにシンナーを出してくれたので、それでなんとか下駄箱を片付け自分の机に向かうと、途中で小池先生に出会した。最近、よく話すようになったのだが、小池先生は明らかに俺と目を合わせないようにしているのが分かったが、会釈をすると小さな声で言った。


「先生を信じてます」


「…有難うございます」


 その言葉の真意は分からないが、何度も話をしたことのある同僚にそう言われたのは、心強かった。だが、現実はそう美しいものでもなかった。準備をして教室に向かうと、生徒達が俺の姿を見るなり教室に入り、静まり返っていた。黒板には、大きく「Go To hell」と書かれていた。思わず「 Oh Wow…」と口にすると、生徒の一人が小声で「きも」と呟いた。日和はただ涙を溜めた瞳で俺を見つめていたが、俺は何事もなかったふりで教室に入り、試験の話を淡々とした。今、何かを説明する時間はない挙句に、試験に集中して欲しかった。生徒は「以上です。質問はありますか?」と聞くと、沈黙を通した。無反応とは違う、葛藤の中のその沈黙に、この状況が試験結果に影響がないことだけを祈り、期末最終日を送った。


 最終日は昼休み前で終わり、最後の科目が終わった教室に戻ると、「終わったー!」と体を伸ばし最高の笑顔でいた生徒達が一斉に俺を見て、その表情を曇らせた。どれだけの生徒の間にこの噂が広まっているのかは分からないが、廊下ですれ違う度にヒソヒソ話をしている生徒達を見ると、学校内の生徒達半数以上は、この情報の破片を握っているのだろうと察しがついた。


 教室の扉を開け、そこに足を一歩踏み入れると、生徒達が全員席につき、また沈黙の中俺に全ての視線を向けた。その気持ちに応えたいと思い、教壇を通り過ぎ小さな机の上に腰掛けると、一つ溜息をついた後、口を開いた。


「期末、お疲れ様。結果はすぐに出るけど、夏の間この結果次第で強化補習準備するから、気を抜かないように」


 誰も返事をしなかった。聞きたいのは、こんな事ではない。そういう沈黙だった。


「皆がどういう情報を今手にして、先生にどういう感情を抱いてるかは想像しか出来ないけど、勝手な噂話で人をジャッジするような人間に皆にはなって欲しくないから、言える範囲でなら皆が聞きたいと思う質問には答えます。どうぞ」


 その言葉に、すぐに前列に座っていた女子が手を挙げた。


「先生、子供が生まれるって本当ですか?」


「本当です。9月に生まれます」


 すぐに教室内が騒ついたが、他の生徒が「結婚は?」と聞いたので、それにも答えた。


「結婚の予定はありません。子供の母親とも話し合った上で、認知という形で父親として法的に責任を取ることになりました」


 その返事に、すぐに大八木が大声で言った。


「でも!その人は?先生が責任を取るのは赤ちゃんだけでいいの?女性は男の性の吐け口じゃないって言ったの、先生だよ?どうして結婚しないの?先生独身なのに!」


 泣きそうなその姿に、胸が痛んだが、着かないといけない嘘と事実を混ぜて答えた。


「うん。彼女とそこは話した上で、この形がベストだと判断した、としか答えられない」


「どうして?先生が振られたの?違うでしょ?だって、嫌いな人の赤ちゃんなんて産みたい人いないよ?」


 その通りだ。マイアがこの出産を決めたのは、子を身籠った相手に恋をしていたからだ。そして、お腹の子に恋をしたからだ。そこに、俺が参加しただけに過ぎない。大八木の言い分は、そこまで間違ってはいない。


「そうだな。振られたとか、そういう話ではない。お互いの未来の為、子供の未来の為、これがベストだと互いの認識が合致したとしか言えない」


 生徒達がざわつく中、一人無言で俺から視線を逸らさない日和の心情を思うと、何も言わずに我慢してくれている状況に、ただ感謝の念を抱いた。暫く教室内がざわついていたが、一人の男子生徒が手を挙げて質問をした。


「望まない妊娠をしないよう、相手を傷つけないようにって散々言って、先生は相手の未来だけを、子供の未来だけを大事には出来ないんですか?次にそういう関係を持つ相手は大事にするって言ってたのに、子供は生まれるけど結婚しない意味がお互いのベストになる理由が全く理解できない!無責任だし、子供が可哀想だろ?」


「ごめん。でも、先生も一人の人間で大人で、全てを話す事は教師として義務付けられている訳ではない。言える事は答えると言ったよな?もう一度言うけど、結婚をしないことはお互いの同意の上で決めたことで、子供を持つことも同意の上です。子供が可哀想とだけは言われたくない」


 無意識に語気を強めて主張すると、生徒は一瞬黙ったが、やはり大八木が涙を零しながら言った。


「先生を信じてたのに…先生が担任で高校生活終われるって嬉しかったのに…酷い…裏切られた気分で悲しい…」


「…ごめん。だけど、本当に彼女も」


「先生はシングルマザーがどれだけ大変か分かってないから、そうやって彼女の同意がとか、彼女も納得してるとか言えるんです!結局、今は面倒見るとか言っても途中で他に女が出来たら、見向きもしなくなるくせに!その時、お母さんと子供はどう言う気持ちになるかとか、どう言う生活環境に追い込まれるかとか考えたことあるんですか?!本当、最低!」


 女子がそれに同意し、男子も口々に悪態を吐く中、それでも俺から目を逸らさず、真っ直ぐ視線を送り続けてくれる日和に支えられ、言える精一杯で伝えた。


「先生の家も片親だったから、両親が揃わないことがどれだけ大変かは知っています。母親に、自分よりも大事なものがあると言われるような形で終わった親子関係が、ずっと引っかかっていました。だから、認知をしたのは先生の精一杯の意思表示です。この子が生まれてくる世界には、父親と母親がいて、それを待ち望んでいると子供に伝えるための。君は望まれて生まれてきたんだよって証明出来る方法の中で、ベストだと思ったからそうしました。それでも結婚しない意味が分からないと言うのも理解出来るけど、大人二人がきちんと話し合った上での合意であって、皆に何を言われてもその部分は変えられないし、変えるつもりもありません。こう言う家族の形態があっても、良いと彼女も先生も思ってる。先生は、まだ大人としても発展途上で、全然大人らしい大人ではないと思うけど、これから先一生使って大人になる努力を続けながら、子供の一生を支えたいと思っています。見向きもしなくなるとか、途中で放置するとか、出来ません。法的に約束をしているし、父親になると言うのは生まれた瞬間から自分の命が尽きるまで、取り消しの効かない責任だと思っているから。後言っておきたかったけど、先生、正直お前達には地獄へ堕ちろよりは、おめでとうって言って欲しかったかな。子供が生まれる事、純粋に喜んで欲しかった」


 まだティーンの生徒にそんな事を求めるのは間違いなのかもしれないが、新たな命が生まれてくる事で増えるものは、憎しみや悲しみではなく、純度100%の喜びであるべきだと思いそう伝えると、日和が一人立ち上がって言った。


「おめでとうございます」


「…ありがと」


 その日和の言葉に教室内が少し騒めくと、廊下から校長のわざとらしい咳払いが響き、まだ納得していない様子の生徒を残し、教室を後にした。

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