高校2年春休み

 学校で起きた漣は、生徒達の間ではそれなりに思う所があったようで、それから学校内の生徒達の様子を眺めていると、若干男子が女子に優しくなったような気がした。それは俺だけが感じていることではないようで、他の先生達からも男子が少し大人になったと漏らしていた。性行為については、本当はきちんと大人が向き合って話す必要があるが、そう言う機会も中々持てない中、学校のしたことは意義のあるものだったと、親御さんも思ってくれたようだ。あれから時々、親御さんに校内で会う機会があると「有難う御座いました」と礼を言われる事が増えた。その度に、校長の提案である旨を伝えたので、あれから校長は何も言わなくなった。そして、職員内の関係も少し変化が出た。ざっくばらんに話が出来るようになり、自分の学科以外の教員と昼を食べたり、廊下で立ち話をしたりする機会も増えた。


 受験が終わった3年生を送り出し、これから入ってくる新入生とこれから3年に進学する生徒達への試験準備などで多忙な中、マイアの健診について久しぶりに外をゆっくり歩いた。マイアのお腹はまだ殆ど目立たない。体重が増え過ぎないように気をつけているのと、会社にまだ話したくないというマイアの努力で、少しの丸みで治っていた。だが、それもいつまで続くわけでもないのは、マイアが一番分かっていた。


「悪阻治まって来てよかったな?」


「本当…死ぬかと思ったけど、会議中の上司のポマードに何度吐きそうになったか」


「あはははは、お疲れ。ま、お腹の子も頑張ってるし、もう五ヶ月目か…」


 マイアはまだ家族の誰にも話をしていない。そして、今日の健診で子供の成長を確認したら、家族に話そうと計画していた。4月初旬、入学式を数日後に控えた学校の忙しい時期、それでもこの為に桜が揺れる住宅地を歩いていて感じた。この先、マイアがどうする決断をしても、この子供とマイアは守りたい。


 顔見知りになった産科の先生と挨拶を交わし、エコーを確認すると、すっかり人の形になった胎児の姿が映し出された。初めのエコーから衰えることのない心音に、マイアと目を見合わせて喜ぶと、先生が聞いた。


「あの、お父さん、少しお話宜しいですか?」


「あ、はい」


 マイアが他の検査をしている間、畏まった様子の医師に何か聞くと、少し言いずらそうに話し出した。


「あの、クルスさんの母子手帳に、お父様のことが記載されていないのですが」


「あー…えっと、マイアの気持ちの問題で、僕が決めることは出来ないので、今はそのままで良いかと思ってるのですが、何か問題でしょうか?」


 産科の医師がここまで踏み込んだことを聞いてくるとは思わなかったので正直驚いたが、その女医は真っ直ぐに俺を見据えて答えた。


「赤ちゃんが産まれてくると言うのは、本当に奇跡なんですよ。お母さんも赤ちゃんも、毎日一生懸命頑張って生きてます。でも、産まれて来たらもっと赤ちゃんもお母さんもサポートが必要になります。プライベートなことに口を出すことは、基本医師には一切許されていない上でも、初めからずっとこの健診にいらしているお父様が、そのサポートをする用意があるのか、少し心配で」


 個人医院で、年配のその医師はマイアと子供のことを、本当に気にかけてくれているのが分かり、マイアがこの産科を選んだのは正解だと思った。


「認知したいとマイアには話しています。でも、それもマイアの判断に任せているので、彼女がどうしたいか心が決まったら、法的なことは手続きをしたいと思ってます。でももし認知することを拒否されたとしても、サポートはします。全力で」


「…そうですか。人の事情に口を挟むことではないですけど、大事なことですから」


「はい、分かってます。気にかけてくださり、有難う御座います」


 マイアの検査が終わり、待合室に来ると何を話したか聞かれたので、正直に聞かれたことを話した。マイアは申し訳なさそうに「ごめんね」と謝罪した。


 お腹の子は順調に成長していて、一応安定期というものに入ったようだ。これから、このままお姉さんの家に行くと言うので、それに着いて行く為歩いていると、マイアが足を止めた。


「どうした?具合悪いか?」


「ううん。ねぇ、英人。私、一人で行くわ。貴方は来なくていい」


「え?いや、何だ急に?」


 マイアは俺を見上げ微笑んだ。


「英人が居たら私甘えちゃうから、一人で行って話してくる。私の問題に英人ずっと巻き込んで、私友達として最低でしょ?先生にまで色々言われちゃって、全部私が悪いのに。認知も、法的に貴方が父親になるなんてやっぱり間違えてるわ。貴方の人生を振り回そうとするなんて、私何を勘違いしちゃったのかな…ごめん」


 微笑む瞳の奥から泉のように湧き上がる涙が、マイアの頬を伝い静かに地面に着地した。言葉がすぐに出てこない代わりに、マイアをそっと抱き締め思っていることを伝えた。


「マイア、前にも言ったけど、俺は振り回されてる訳でもなければ、巻き込まれてる訳でもない。自分の意思で、お前の隣に立つ選択をしてる。言っただろ?こういう家族の形態もあって良いはずだって。俺の気持ちを押し付けることは出来ないし、マイアが本当にそれを望んでるなら、俺はそれを受け入れるしかない。だけど、俺の人生を振り回してるとかいう馬鹿な考えで、そういう事言ってるなら、もう一回言うから聞いて。I'm not gonna be your husband, but I can be your baby's father. I love you so much as a friend and I'm totally in love with your baby. Maia, you're one of the best people I know, and I feel so honored to be a part of this beautiful process. I'm not just saying it to make you feel better, but I'm telling you the truth. I want to be responsible for this amazing baby. I don't have the confidence to be a good father, but I have the confidence to love your baby for the rest of my life. I'll be always there for you and for your baby.(結婚は出来ないけど、子供の父親にはなれる。お前を友人として大事に思ってるし、お前の子供も本当愛してる。マイア、お前は俺の知る中でも最高にいい奴で、俺はこの美しい過程の一部になれて心から光栄に思ってる。お前の罪悪感を無くすために言ってるんじゃくて、これが本音だから。この最高の赤ちゃんの責任を背負いたい。いい父親になる自信はないけど、この子供を永遠に愛する自信だけはあるから。いつでも、お前と子供が必要な時は側にいる)」


 泣き崩れるマイアが落ち着くまで時間が掛かった。通りにあるベンチに座り、泣き続けるマイアの背中を摩りながら、この涙がこうしている間にも成長を続ける子供の明るい未来に続くことを、心の底から願った。やっと話が出来る状態にまでなると、マイアは真っ赤に腫れ上がった目で、はっきりと言った。


「区役所、一緒に来てくれる?この子の父親になってくれる?養育費とか遺産とか、そういう部分は絶対に請求しないって契約書、公式に書くから。でも、私に何かがあった時、この子の面倒は英人に見て欲しい」


 正直、遺産になるようなものを残せるかも分からないし、養育費に関してはマイアが必要だと感じてくれた時、いつでも対応出来るようにしたいと思い、子供の定期預金を既に始めて居た。だが、彼女のプライドも覚悟も、ここで自分からこういうオファーをして傷付けたくはない。友人として、必要とされた時、必要とされただけサポート出来る状態であれたら、それが全てだろう。マイアが手帳を調べ、具体的に区役所に行く日程を提示したので、それに同意した。この子は、ちゃんと大人に望まれて生まれてくる。そういう準備を、大人がすることは悪いことではない。マイアも俺もこの時点で、しっかりその覚悟は同じページまで到着していた。


「有難う。後悔させないよう、頑張るから」


「英人…本当に有難う。私も頑張る。仕事も子育ても頑張る」


「ん、よし。お互い不慣れな親になるだろうけど、ま、なんとかなるだろ?真里さん子育て中だしな?」


「うん。行こう。お姉ちゃんに話したい。これからどうするのか」


「うし、行くか」


 腕を組んで歩いた桜道、子供の未来を夢見て歩く二人の足取りは、思いのほか軽かった。一人より二人で居たら、どうにかなる。そう信じていたから。



 真里さんの家に到着すると、真里さんは俺とマイアを見て大騒ぎをした。どうも俺とマイアがよりを戻し、その報告に来たと思ったようだ。玄関から最高の笑顔ではしゃぐお姉さんに、マイアは苦笑いをしていた。


 リビングに通され、お茶を出されると、俺はただマイアを見た。話は全部、マイアからしたいと言われていたので、マイアが口を開くのを待っていた。が、マイアよりも先に、真里さんが身を乗り出して聞いた。


「で?より戻したのね?結婚とかそう言う話なのね?」


「…ごめん、お姉ちゃん。英人と私、付き合うことはないわ」


「…え?どうして?二人凄いお似合いだし、お姉ちゃん英人君なら大歓迎よ?」


 その言葉に、マイアが溜息を一つ着くと、意を結したように言った。


「お姉ちゃん、私妊娠してるの」


「…WHAT?!待って、え、英人君、どういう事?妊娠させて、付き合わないって事?」


 真里さんの言葉に、マイアはすぐに否定した。


「父親は英人じゃない。違う人なの」


「…どう言うこと?じゃあ何で英人君がここに一緒にいるの?え?ちょっと全然分からないんだけど」


 真里さんの唇が震えていた。その様子から動揺と若干に怒りを感じ取り、マイアを見ると、マイアもそれには気付いていて少し俯き加減に答えた。


「…父親が誰かは言えない。だけど、英人がこの子を認知して一緒に育ててくれるから、お姉ちゃん達に迷惑は掛けないし」


 マイアがそう言い掛けると、真里さんは勢いよく立ち上がり、マイアの頬に掌を勢いよく向けたが、寸前でそれを止めて酷く震えた声で聞いた。


「…相手は、あの人なのね?」


「…言えない」


「…あんたって子は…なんて馬鹿なの…英人君まで巻き込んで迷惑掛けないとかよく言えるわね…」


 真里さんのその言葉に、黙っている約束を破り口を挟んだ。


「真里さん、マイアは俺に認知して欲しいなんて言ってなかったんです。俺が、自分でそうしたい、そうさせてくれって頼み込んだんです。マイアはそれを受け入れてくれただけで、迷惑なんて一切かかってないです」


「そんな筈ないでしょ?英人君、それは優しさとは違うわよ?この子は、バチが当たったのよ!人様のものに手を出して、あれだけ別れるって言ったのに!マイア、お母さん達になんて言うのよ?!その人はなんでここに来ないのよ!おかしいでしょ!」


「…御免なさい…だけど、私」


「ごめんなさいでは済まないのよ!子供は生まれてからどれだけ大変か知ってるの?新生児の時なんて昼夜問わず泣くし、疲れて会社になんて行ってられないわよ?その間、どうするの?英人君に恋人が出来たりしたら、マイアはそれを妨げてまでこの子の面倒を見させる気なの?馬鹿馬鹿しい!話にならないわよ!どうしちゃったのよ、マイア!日本に来て頭のネジでも緩んだの?」


 完全に頭に血が昇っている真里さんの言葉は辛辣だった。マイアはただ、涙をポタポタと零して黙っていた。沈黙の中マイアを睨む真里さんに、自分が言えることは何かを考え、なるべく穏やかにそれを伝えた。


「真里さん、マイアは今この瞬間もお腹の中で小さな命を育んでます。まだ外の音が聞こえるかどうか、それは俺には分かりません。だけど、この子が耳にする言葉は、この子の母親とこの子を大事に想う優しい言葉であって欲しいと、俺は思います。マイアは、真里さんが一番知っていると思うけど、最高にいい奴で、本当に最高の友達で、その人が何かを必要だと思った時、それをオファーしたいと自然に思った俺の気持ちを、馬鹿馬鹿しいで片付けては欲しくないです。これは優しさではなく、マイアの日頃の行いから来る俺からの友情のリアクションであって、同情でもなければ、親切心で願い出た訳ではないです。マイアのお腹にいる子供を、大事な友人の大事な子供を、愛しいと想う自分の人間らしい感情、殺したくないだけです。マイアの伴侶にはなれませんが、マイアの子供の父親にはなれると思っています。いや、なれるかも分からないけど、なれる努力をしたいと心の底から思っています。この先、マイアが新たな恋をして、その相手がこの子の父親になりたいと言えば、しつこく付き纏う気は勿論ありません。だけどそれまででも良いから、この子供が産まれて来た世界に、それを受け入れる準備をしている大人が笑顔で「いらっしゃい」と言える環境作ることは、馬鹿馬鹿しくはないと思います。真里さんの、姪か甥になる子ですよ?大事にしたいと思いませんか?」


 真里さんは椅子に座り込み、ただ泣いた。この状況をきっと受け入れ難いと思っている彼女の涙の意味を、子供も家族も持たない俺には理解することは出来ない。だが、マイアと一番仲の良い真里さんだからこそ思うことが沢山あり、真里さんはかなり長い間ただ泣いていた。それを見て、マイアも泣いていた。姉妹の事に口出しは出来ないので、二人が話を始めるまでただそこで座って待っていると、先に顔を洗いに行った真里さんが俺にハグをした。どう言う意味のハグか考えたが、真里さんはすぐに話し始めた。


「英人君、ごめんね…マイアの事でこんな事まで一生懸命考えてくれて。ここまで来てくれて。だけど、これはマイアが一人でどうにかすべき事だと私は思うわ。認知したら、英人君の将来に傷がつく。多分、認知は結婚と違って、取り消しが効かない筈よ?将来遺産相続とか、養育費とかそういう部分で法的に責任が生じるなんて、もし英人君が奥さん貰いたいと思った時に、どうするの?マイアは良くても貴方には重荷すぎるわ。友達としてここまで想ってもらえるマイアは本当にラッキーだと思うけど、超えてはいけない線はあると思う。英人君の人生を変える権利は、マイアにはないわ」


 マイアと真里さんが姉妹なのだと、この時改めて感じて微笑ましい気持ちになった。同じ親に育てられ、根の部分では共通している気持ちがある。兄弟のいない自分には得られないそういう感覚を、少し羨ましいと思った。だが、マイアがすぐにそれに同意しながらも、真里さんに伝えた。


「英人にこの子の父親になって貰うにあたって、公式な文書として英人から養育費を貰うとか遺産相続とかこの子が請求することはないと残すわ。ただ、法的な父親として、私に何かがあった時、この子の面倒を見てくれる人が英人だったら、この子の人生は救われると思うの」


「そんな事言っても、英人君の将来のお嫁さんになんて言われるか分からないわよ?貴方、立場が逆だったらどう思う?嫌じゃない?」


 マイアが口を開きかけたので、それを止めてもう一度自分の気持ちを説明した。


「真里さん、今、ここで話しているのは、マイアのお腹の子の未来です。俺や、母親になるマイアの未来なんて、どうにでもなる。俺もマイアも大人で、自分でどうやってでも人生を変えていける力がきっとあります。だけど、この子は生まれてきた瞬間、何が出来ますか?食事すら大人が与えなければ生き抜く力だってない、フラジャイルな存在です。それを、大人の俺達が「大丈夫だよ、出ておいで。ずっと一緒にいるよ。側にいるよ。安心してこの世界に出てきて、一緒に大人になっていこう」って言える状況、用意してたいって思う気持ち、そんなに責められなくてはいけない事ですか?俺には母親が5歳の時からいなかった。父親はいたけど、仕事で忙しくて話なんてほとんどしなかった。それでも、守られて居ました。父が仕事することで、学校に進学出来た。大学は日本に来ることが出来た。適当に生きて来て、母親のことに囚われて、根本的なことが見えてなかったけど、この子の父親になりたいと思った時に、はっきりしたんです。不在の母親の影に隠れて見えなくなっていた、父の努力を痛い程。一人で必死に俺を育ててくれてた父親の想いを。昨日、初めて父に電話出来ました。再婚した父に、おめでとうって初めて言えました。この子がそうさせてくれました。それに今、受け持つ生徒達の笑顔見てて、本当心から思うんです。子供は大人が守らないといけない。あの笑顔は、大人がしっかり側で見て、大事に愛しまないといけない。俺じゃ頼りないと思うし、マイアならすぐに良い男に出逢うと思う。だけど、この子が生まれ出る瞬間から、大人に愛されて大事に思われて、望まれて生まれて来たんだって、いつか戸籍を見た時思ってくれる材料になるなら、俺はこれを間違えた判断だとは思えない。マイアのお腹で育つ子供は、大人の俺達に歓迎されて、生まれて来て欲しい」


 真里さんは、反論をしなかった。力無く椅子に座り込むと、マイアに出産予定日を聞いた。そしてカレンダーに書き込むと、次の健診は一緒に行きたいと申し出てくれた。マイアは泣き腫らした顔で、笑った。嬉しそうに、真里さんがそっと手を当てるお腹に向かって「頑張ろうね」と母親らしい声を掛け、真里さんも似た声で「頑張ろうね」と声を掛けた。


 その晩、マイアの両親から電話があり、マイアは事情を説明した。相手の男の話はせずに、戸籍上は俺が父親になる事も話し、やはり両親は俺の未来を潰すのではと首を縦には振らなかった。だが電話を代わってもらい、真っ直ぐに気持ちを伝えると、真里さん同様、それ以上反対するような言葉は掛けられなかった。マイアと俺の気持ちは完全に固まって居たので、家族の了承を得たことで安堵を覚えると、マイアが聞いた。


「英人、貴方もお父さんと日和君に、この話してくれる?特に、日和君。英人が本当に彼が卒業した時付き合う気でいるなら、その頃にはもう父親になってる英人を受け入れて貰いたい。日和君の同意が得られないなら、この話はなかったことにしよ。私は、英人に幸せになって欲しいから」


「…ん。ただ受験期だから、余り色々言うのも負担になるだろうし、今悩ませたくはないんだよな…」


「受験期だから、早い方がいいと思う。認知する前に、話して。お願い」


「…分かった」


 認知に必要な書類が何かを調べ、また電話する旨を伝えマイアの家を出ると、すっかり春の柔らかな空気に変わっていた。日和をバイクに乗せた時のことや、初めて家で食事をとった時のこと、不器用にされたキスや、情熱的なキス、震える手で懸命に抱き締めるその手を思い出し、明日、話が出来ないか携帯にメッセージを送ると、部活の後に時間を貰えることになった。


  春休み最終日、体育館は新入生を迎え入れる準備が整い、学校内も桜の花びらが舞う、一番生徒達がやる気に漲る時期に気が引き締まる。この学校に来た理由を、俺はもう手放していいのかもしれない。永遠に分からないまま、消えた母親の影を追うことも、それを蔑むことも恨むことも、全て手放しこれからだけを見て歩いていけばいい。そう思えるようになったのは、マイアのお腹の子の存在が大きい。でも、それだけでもない。俺が来るのを待っている、まだ大人になりきれていない、将来の恋人とやらにも後押しされて来た。待つことの意味を、大事にすることはどういう事かを、教わって来た。これが本物である保証はない。だが、自分の気持ちは間違いなく相手に向かって動いている。それだけでも、俺にとっては大きな進歩で、こういう話をする事で日和がどう思うかは未知数だが、どういう反応が返って来ても、自分の決断は間違っているとは思えなかった。


 待ち合わせた教室、久々に二人きりで話をするので若干緊張しながら教室に入ると、日和は窓際の机の上に座っていた。少し、背が伸びたようだ。日和は俺を見上げて微笑んだ。


「先生、3年は僕の担任ですか?」


「秘密です。明日のお楽しみ」


「やっぱり?」


「俺は先生だからな?背が伸びたな」


「はい。僕、今177センチあります」


「おぉぉぉ、お前この2年で7センチ伸びたのか?」


「はい。後一年で3センチ伸びて、その後大学で9センチ伸びたら先生と目線が同じ高さになります」


「あはははは、そりゃいいや。キスしやすそうだな?」


「えへへへ、はい!」


 眩しい笑顔は、もう子供ではないと感じた。大人になりつつある日和の笑顔に、頼もしさを感じて一つ離れた机に腰をかけると、一息ついた。日和が「話って何ですか?」と切り出してくれたので、日和の目を見て答えた。


「ん。先生、今年、父親になります」


「……え?」


「うん。子供が生まれる。母親はマイアだ」


 日和は動かなかった。瞬きすらするのを忘れ、俺を凝視した。怒るわけでもなく、泣くわけでもなく、ただ俺を凝視したまま固まっていた。


「全部話すようにマイアにも言われてるし、ちゃんと説明したいから聞いて。マイアは俺の嘘偽りない本当に大切な友人だから、勿論子供の父親は俺じゃない。学生時代に付き合ってたのは事実だけど、今はそういう関係では一切ない。でも、今マイアがお腹の中で育てている子供を認知する。俺の子としてこの世に生まれてくる」


「…え?あの」


「最後まで聞いて。マイアはさ、凄く好きな人が居た。でも、いい相手じゃなかった。分別のつく良い大人がって思うかも知れないけど、好きって気持ち、周りが見えなくなるだろ?俺も、お前も、去年の今頃はそこそこ危ない橋渡ってたしな?」


「…はい」


「人を好きになることは、止められない。でも、好きになってはいけない相手も世の中にはいて、マイアの相手はそういう人だった。二人の事だからそこに関して俺がどうこう意見する気はない。マイアは苦しんでたし、十分過ぎるぐらい傷付いて、泣いた。立ち直ろうとしてたけど、理屈じゃない。どうにも出来ない感情に押されて、相手をもう一度信じようとした。その時、子供を授かった。だけど相手は、それを知って逃げた」


「…最低…」


 泣きそうになりながら、俺の言葉に耳を傾ける日和が小さく発した言葉は、日和だけではなく俺の本心でもある。だが、大事なことは伝えたいと思い、日和の目を見て続けた。


「その気持ちは分かるし、俺も殺してやりたいと思ったけど、その男が父親である限り、俺は悪く言いたくはない。だから、日和もそう思う気持ち、胸の内だけに収めておいてくれたら、俺は嬉しい」


 相手の悪口を言っても何も解決もしなければ、救われる人間はいない。これは勝手な願いだが、子供に関わる人間を悪く言わないと決めた自分の気持ちを伝えると、日和は「分かりました。御免なさい」と返事をした。


「ありがと。それでさ、こういう仕事してて、お前にも出逢って、すごい考えて、この気持ちに行き着いた。この子を生まれてきて良かった、愛されて生まれて来た自分は幸せ者だって思える状態にしておきたいって。大人がこの世界に産まれ出る子供を全面的に肯定の気持ちで迎え入れる環境を用意したいって。だから、マイアと話し合って、子供の法的な父親になろうって決めた。結婚はできない。一応、仮契約者が目の前にいるしな?」


 日和が笑顔になると、照れたその笑顔を保ったまま、小さな声で聞いた。


「…でも先生、本当にそれで良いんですか?」


「どういう意味?」


「僕と約束したから、僕が先生を縛っているから先生が…マイアさんと一緒になれないとか…」


 不安げな声で、精一杯大人のふりでそう聞く日和は、やはり2年前入学式で見た日和より、大人びて見えた。離れて座っていたが、机を一つ移動し、目の前に立った。指をモジモジと動かすその仕草はまだ子供だ。だが、青年らしい顔つきだ。泣かずに堪えている。あんなにすぐ泣いて居たのに、泣かずに俺を見上げ返事を待っていた。抱き締めたいという感情は、きっとこの時確実に二人とも同じだった。でも、視線を絡ませることが、今出来る精一杯。その必死の視線を離さず、日和の視界に入る全てを意識の上で大事に抱きしめた上で、自分の気持ちを伝えた。


「日和が、もし俺と交わした約束を放棄したいと思ったら、それを止める術はないし、受け入れるしかないと思う。これから新しい世界に羽ばたく予定のお前の足枷に、俺はなりたくない。お前の未来は無限大に可能性がある。でも、俺からそれを放棄するつもりは一切ない。卒業するまで、待ちたい。お前を大事だと思う気持ちに、嘘はつきたくない」


 堪えていた涙が一粒日和の大きな瞳からこぼれると、日和は慌ててそれを手で拭った。それ以上泣かないように、必死に堪えて声を出さずに何度か深呼吸をすると、また俺を見上げてはっきりとした口調で言った。


「先生、おめでとう御座います。先生は絶対に良い父親になると思います。マイアさんにも御目出度う御座いますって伝えてください」


「…ありがと。あのさ」


 祝われることと、この関係を保つことは別問題なので、日和が本当はどう思っているのか聞こうとすると、日和は拳を目の前に出した。


「僕、先生を好きになって良かった。世界最高の父親に先生がなるなら、その隣で見劣りしない男になれるよう、僕ももっと頑張ります。良いおじさんになれるよう、一緒に頑張らせて下さい」


 日和のフィストバンプは、大分上達した。最高の笑顔でそれを交わした時、本当の意味で子供を迎え入れる準備が出来たと実感が出来た。日和には、マイアの事情や、子供の本当の父親のことなど、、一切他言しないで欲しいと伝えたが、日和は何があっても子供が傷つくような事はしないと大人の口調で答えた。これから学校側に話が露呈した時、その時は子供の父親は俺であるとしか言うつもりがないことも、日和には話した。インターネットのある社会、人は簡単に嘘偽りを噂程度の証拠で語る。それが誰の目に留まり、どれだけの人間が傷つくかも考えずに発言をする。自分の大事な子が、そう言う被害に遭うのだけは、耐えられない。その気持ちを日和に伝えると、日和は深い理解を示してくれた。


 校門まで一緒に歩き、そこで別れる時、日和に一言礼を言った。


「信じてくれて、ありがと。You've no idea how much this means to me...(どれだけ救われたかお前には想像もつかないだろうな…)」


 日和はそれに少し距離を取って、またあの可愛いセルフハグをしながら答えた。


「先生が例え本当はカエルで、今人間の姿になってるだけなんだって言ったとしても、僕はそれを信じます。I believe in absolutely everything you say. All your words are nothing but the truth to me.(先生の言う事は間違いなく全て信じます。先生の言うことは僕にとって真実以外の何者でもないから)」


 その姿を見て、この瞬間抱き締められない現実に思わず本音が漏れた。


「Fuck, this is fucking hard…(クッソきつい)」


 自分の両腕を握りしめ天を仰ぐと、日和が同じように本音を漏らした。


「Fuck, this is torture!…(クッソ拷問)はははは、先生の口悪いの移っちゃいました」


 空から日和に視線を移すと、日和はこちらに真っ直ぐで優しい眼差しを向けていた。愛しい、そう感じた。そして目一杯の理解を示し、笑顔を向けてくれる日和の可愛い初Fワードに笑って答えた。


「あはははは、もうお前18歳になるから全面的に許可する!でも親御さんの前で使うなよ?俺が苦情受ける羽目になるから」


「あはははは、気を付けます!」


 マイアに電話で日和の言葉を伝えると、マイアは俺が好きになった人が日和で良かったと言ってくれた。自分でも、そうしみじみ思った。

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