高校2年冬休み②
マイアの家に結局その晩は泊まり、朝マイアの家から学校に向かった。マイアが病院に行きたいのは、確実に妊娠していると確認する為に来週末だと言われ、その日の予定を携帯のカレンダーに打ち込んだ。マイアは会社を休み、今日は家から出ないと言うので、補習が終わったらまた戻ってくる事を伝えた。正直、補習授業よりもマイアと一緒にいたい気持ちの方が強いが、仕事を放棄するわけにもいかない。
学校に到着すると、偶然ヴァイオリンケースを抱える日和に校門前で出会した。複雑な気持ちで日和を見ると、日和は何かを察したように静かな声で聞いてきた。
「先生、何かありましたか?」
「ん…ちょっとな。日和は部活か?」
「はい。あの…大丈夫ですか?顔色が悪いですけど…」
「大丈夫大丈夫、先生、こう見えても風邪引かないタチだから。日和も風邪引かないようにな」
昨晩全く眠れなかった。マイアの相手の男に対して怒りが収まらず、眠れなかった。相手だけが悪いのではないと分かっていても、友人としてマイアの一番の味方でありたい自分にとっては、その怒りは尋常ではなかった。ジムにでも出向いて体を動かしこの怒りを収めたいが、ジムに行く時間があるならマイアが一人で居る家に行きたい。腹の底から湧き出る怒りに握り拳に力を入れると、日和が辺りを見回した後そっとその拳を握って言った。
「ストレス溜めないで下さいね。先生、僕は今は生徒だけど先生の未来は僕のものなんですよね?元気で居て貰わないと僕が頂ける筈の未来、取りっぱぐれるのは勘弁です」
日和のその言い方に思わず笑うと、日和は笑顔になった。
「先生が笑っていられる未来、僕が欲しい未来はそれだけです。無理しないで下さいね」
その言葉に抱き締めたい衝動を抑えるのに苦労した。友達のマイアならいつ抱き締めても良いのに、生徒である限り、17歳である限り、日和を本当は抱き締めるべきでないと本当の意味で理解してから、この葛藤の連続だ。抱き締めたい。でも、出来ない。思わず「Fuck!」と呟くと、日和が笑った。
「僕、何か言いましたか?」
「いや…アメリカはハグする文化なので、先生は今非常に日和をハグしたいが、それも出来ないと思うと無性にイライラするのです、はい」
「あははは、アメリカがそう言う文化だからハグしたいんですか?Or…?」
「No, not only that…I like you a lot…Like A LOT…This is so hard…(違います、それだけじゃないです。お前が好きなんだよ、凄い。きついな、これ)」
小声でそう言うと、日和は俺の手を離して、両腕で自分自身を抱き締めて言った。
「僕、こうやって我慢してます。先生ハグしたいって思った時、自分をハグして我慢してます」
「あはははは、何だよそれ!How freaking sweet!俺もそれやるかな?セルフハグ」
「良いですよ?卒業するまでって言い聞かせて、一杯自分自身を抱き締めて想像するんです。卒業した時先生を抱き締めたら、きっと気絶するぐらい感動するんだろうなって」
「…何で日和ってそう言う可愛いこと言うんだ?わざと?先生の覚悟揺らがせるような発言、謹んでな?」
苦い顔でそういうと、日和は試すような笑顔で聞いた。
「先生の覚悟、揺らぐぐらいなんですか?Can I try to provoke you a little bit more then? (じゃあ、もう少し揺すってみても良いですか?)」
「Please don't! (辞めて下さいっ!)」
笑う日和の笑顔に、数分前まで体の奥で疼いていた怒りが少し鎮まり、礼を言った。
「Thanks, I feel a bit better now. (ありがと、日和。ちょっと落ち着いた)」
「そうですか? ハグは本当にしなくて平気ですか?」
日和が不器用で可愛いウィンクをしてそう聞くので、大幅一歩下がってから、思い切り自分自身を抱き締めて言った。
「俺のこれ、下手したらHannibal Lecterにしか見えない気がするけど!」
「Who's…?」
「Ah, forget it!」
日和と俺のジェネレーションギャップは明白だった。だが、それで良い。ただ、お互い隣に立てる未来を共に願う気持ちだけはしっかり合致していたら、そこは後から互いに埋めて行けば良い。笑う俺に日和が困った顔で笑うと、後ろから大八木が走って来た。
「せんせーーー!今日は間に合った!!」
「宜しい。じゃ、行くぞ。部活頑張れよ、日和」
「はい。先生も補習頑張って下さい。大八木さん、英語全然出来ないから」
日和がそう言うと、大八木が「酷い!」と叫んだが、日和が「翔から聞いてる」と言った途端に、嬉しそうな表情で「もぉ」と満更でもない返事をした。恋する高校生らしい、純粋な笑顔だった。
補習二日目を無事に終え、足早に一度自宅へ戻り、自分の荷物を詰めて家を出ると、マイアの家へ急いだ。何度か電話したがマイアが電話に出なかったので、胸騒ぎがしていた。大荷物でマイアのアパートのエントランスのインターホンを押すと、無言でマイアが扉を開けた。取り敢えず家にいることは分かりホッとしたが、急いでマイアの家の前まで行くと、扉は開いていた。勝手に玄関に入り家の鍵を閉め上がり込むと、リビングの床にチョコの箱が沢山空になった状態で散乱していて、その横にはワインのボトルが置いてあった。
「お前!酒飲んだのか?」
「…飲んでも関係ないでしょ?もうこの子はこの世から消えるんだから」
「…関係あるだろ?お前の気が変わったり、何かあったら…今は辞めておけよ!」
マイアの前に置いてあるボトルを持ち上げると、コルクは抜かれた形跡があるが、中身はそのまま残っているようだった。困惑してマイアを見ると、マイアは静かに涙を流しながら言った。
「…飲めなかったのよ…飲んで忘れようと思ったのに、飲めなかったのよ…お腹の子が苦しむかも知れないって思ったら、飲めなかったのよ…Help me, Eight…Please tell me my decision isn't stupid…I just can't convince myself…Persuade me, please...(助けて、英人。私のこの決断がバカじゃないって言って。自分を納得させることすら出来ないのよ…私を説得して、お願いだから)」
「Sorry, but I'm not eligible for that. I can't tell you what to do, but I can tell you this; whatever you decide, I'll be with you. I'll always be your friend and always be on your side, no matter what. (その資格はないし、どうしたら良いは言えない。だけどこれだけは言える。お前がどういう決断をしても、俺は側にいる。何があってもずっと友達で、ずっとお前の味方だから。)」
マイアはその晩も泣き続けた。お腹の中の子供の存在を憂い、喜び、悲しみ、案じ、泣いた。男の話は一度もしなかった。電話番号すら変え連絡を取れないようにした男のことなど、もう話したくも無いのは理解が出来るので、敢えて何も聞かなかった。
その晩も眠りが浅く、リビングのソファで薄ら目を開けると、マイアがベッドルームから出て来て俺の横に座った。ブランケットに包まり、寝癖だらけの髪を俺にもたれかけ、小声で話し出した。
「…ごめんね、英人…大事な人がいる貴方に、友達の私がここまで甘える権利はないのに」
「何言ってんだよ?友達だからあるんだろ?少しは眠れたか?」
「…ん。でも怖い夢で目が覚めたわ」
「…どんな夢?」
朝陽が弱く差し込み始めたその部屋で、マイアは産まれて来た子供に授乳をしている夢を見たと静かに話した。
「自分の身体から産まれて来た小さな手をした小さな子がね、必死に私の胸にしがみついてるの…とても、とても小さな口で…必死に生きようとお乳を飲んでるの…」
「…お前に似たら可愛いだろうな?」
「…私に似たらろくな子にならないわ…こんなダメな人間が母親になる資格はないのよ」
マイアの声は、今までに聞いた中で一番母親らしい優しさを含んでおり、涙が溢れた。男は子供を産めない。だから他人事のようにことの事態の大きさを考えない男がこの世の中にいる。子供は生まれ出たら、そこから自分の命が尽きるまで、永遠に責任を伴う大きな存在になる。妊娠をする女だけがそれを全て背負うのは、馬鹿げている。マイアの頬を伝う涙を人差し指で拭うと、何か吹っ切れるものを感じた。
「マイア、子供、本当は産みたいなら、俺がいる。お前の伴侶にはなれないけど、子供の父親にはなれる」
「…何言ってるの?そこまで英人にして貰うなんて思ってないわよ?それに日和君が傷付くわ」
「日和には話す。でも、子供を友達の間で育てることだって可能だろ?まぁ…俺みたいなだらしない男が親じゃ、いない方がいいかも知れないけど…」
自分で提案してみたものの、こんな自分が親になるなど寧ろその方が子供に悪影響な気もして言うと、マイアが反論した。
「英人はだらしなくない。日和君と今しっかり向き合ってる。それに私は自分の馬鹿な過ちを友達に背負わせる程最低でもないつもりよ?」
「お前の為に言ってるんじゃない。お前のお腹の子、お前の夢にまで出て来てる。お前の中で、その存在が明確になって来てるって事だろ?今すぐ決める必要はないし、お前が全て決めたらいい。だけど、もし、この子を産むなら、俺がいる。一人で育てようと思う必要はない」
マイアは俺に抱きついて泣いた。こんなに大声を出して泣いているマイアを初めて目の当たりにしたが、恋をした相手の子供を本当は見切りをつけられない気持ちを、友人として愛しく思った。男を許せない気持ちよりも、周りが見えなくなる程想った相手の子供を大事に想う友人を、愛しく思った。そして、そのお腹に宿る子供を、愛しく思った。
その日も補習で学校へ向かったが、マイアも身支度をして出社した。まだ産むかどうかは決めていないが、どちらにしろお金が掛かるから、仕事を休むわけにはいかないと毅然とした表情で、会社に向かった。マイアに起きていることを、今日和に話すことは出来ない。だが、日和なら分かってくれると感じた。
****
マイアの初めての検診に付き添い、産婦人科に人生初足を踏み入れた。女性の多い待合室に、数名の男性がいたが、明らかに体の大きな俺を見て驚いている人だらけで、居た堪れなくなった。
「マイア、俺、居ても平気?すげぇ視線感じるんだけど」
「この産婦人科、待合室も小さいし英人のサイズではないから居心地良くないと思うけど、居てくれたら嬉しい。でも無理はしないで」
「…お前が良いなら良いけど、久々に露骨な視線感じる…何か俺変なことした?」
「英人がかっこいいからじゃない?」
「お前、今それで株を上げてこの後、昼飯俺に奢らそうとしてるだろ?」
「あはは、バレた?」
マイアの空元気に乗って笑うと、マイアが名前を呼ばれた。一緒について診察室に入ると、やはり医師にも一瞬驚かれたのに気がついたマイアが、「彼大きくてすみません」と言うと、医師が笑って「こちらこそ狭い診療所ですみません」と言って笑った。
診察室の中にはエコーを見られる画面と、診察台があった。マイアはそこに上がるように言われ、俺はマイアの頭で待つように指示をされた。その場でマイアは下着を脱ぐよう言われ、俺が慌てて目を逸らすと医師に笑われた。エコーを見るのはお腹にジェルを塗って見るのだと思っていたが、まだ妊娠していても7週に満たないので、こういう方法になると丁寧に説明をしてくれた。マイアが一瞬体を動かすと、先生に動かないよう言われ、すぐに目の前にあったモニターに小さな影が映し出された。
「妊娠7週目かな。サイズも丁度いいですね。心音聞きますか?」
「はい。お願いします」
画面に映し出される小さな粒が人になる。そういう実感は正直全く湧かず、マイアにこれが人?と小声で聞くと、マイアは笑った。その笑い声と重なるように部屋に突如大音量が響き渡った。力強く一定のリズムを刻む、奇跡のような音。その音を聞いた瞬間に、マイアと顔を見合わせ画面をもう一度見た。この人のようには余り見えない小さなものが、懸命に心臓を動かしている。鳥肌がたった。生命の始まりは、なんて壮大な音色を奏でるのだろうか?呆然とその美しい音色に意識を奪われていると、医師に母子手帳を貰いに行くよう伝えられ、マイアはそれに「はい」と答えた。その後色々説明があり、支払いを済ませると医院の外に出た。冷えた風が一瞬吹いたので、自分のマフラーをマイアの首に巻くと、マイアは「ありがと」と微笑んだ。
結局産婦人科に付き合ったお駄賃だと昼を近くのカフェでご馳走になった。若い女性が出たり入ったり、忙しく動くカフェの中、俺とマイアは殆ど会話はなかった。マイアが今、何を考えているのか察することも出来ない。生命を体内で育てることのできない男に、最大出来ることは話すことではなく、おそらく聞くことだけだ。マイアが話したい時に耳を傾け、マイアが必要な時に手を差し伸べる。友人としてマイアの決断をただ静かに待つしか出来ない。食事が済み、マイアがハーブティを頼み、俺にも珈琲を頼んでくれると、やっと口を開いた。
「英人…私、お姉ちゃんに何て言えばいいかなって、エコー見てる間、それしか考えてなかったの…」
「うん。どうしたい?」
「…あの人の子供だって、言えない…私、臆病なのよ…お姉ちゃんをまた泣かせて、嫌われたくないの…」
真里さんとこの男との関係で大喧嘩をしているマイアは、また同じことを繰り返すどころか、今度は子供を孕ったことで、引き返せない所まで来ていると実感しているようだった。だが、マイアと真里さんは労苦を共にして来た一番の家族。他人の俺には話せても、家族には言えないこともある。兄弟のいない自分には分からないが、マイアの今の一番の心配がそこなら、もうこの子に関しては決心がついたのだろうと思った。
「嘘はつきたくない…だけど、本当の事も言えない…」
「…俺の子…って言うのもな、そこまで嘘ついたらお前が困るだろうし、第一俺の子なら何で結婚しないんだって話になるだろうしな…」
「英人、私がワンナイトの相手だったって言ったら、お姉ちゃん、どう思うかな?」
「…マイアはそう言う奴じゃないから、嘘ついてるってすぐバレるだろうな」
「…どうしよう」
「子供の父親が誰であれ、俺がゴッドファザーとして認知して一生責任取るって言えば、それで済まないか?」
ハーブティを静かに啜りながら、マイアはやっと笑顔になった。
「ありがと、英人。その事もずっと考えてたの。だけど、認知までして貰ったら、貴方は法的にこの子の父親になるのよ?それがどれだけ大事か分かってる?私の馬鹿な行動の結果を、人生かけて背負う必要なんて貴方にはないわ。英人には何の繋がりもない赤の他人の子なのよ?」
「えー、お前がそういう言い方する?赤の他人とか。Aren't we bestie, babe?俺は、DNA半分の相手が誰でも、お前の子ってだけで愛しいと思う。大事にしたい。マイアと結婚は出来ないけど、マイアの子供なら俺はそれなりにカッコつけて授業参観にも参加するけど?」
マイアの大きな瞳から涙が溢れると、椅子をマイアの隣に移動し、肩を抱き寄せ小声で伝えた。
「Please don't try to do this all by yourself. Let me be a part of it. I'm here for you and for your baby. We'll work it out. It's gonna be okay. Your baby's gonna be okay. We're gonna be okay.(一人で抱えようとするなよ。俺にも一旦担わせて。側にいるから。どうにかなる。大丈夫。子供も、俺達もどうにかなる)」
「I don't deserve this, baby. You're too good to me...(こんな事までして貰う資格私にはないわ…貴方は私に優しすぎる)」
「You deserve everything you want and need, babe. We're not gonna make out, but we can make a family. In our own way. Isn't it exciting? You're creating a human being inside you. You're gonna be a mother. This lucky baby's gonna have the best mummy in the whole world. (必要なもの、欲するもの全てを手に入れる資格がお前にはある。もうメイクアウトはしないけど、家族は作れる。自分達のやり方で。ワクワクしない?お前の体の中で人間が生まれてる。マイアが母親になる。このラッキーなベイビーは、世界一いい母親に恵まれる)」
マイアは暫く腕の中で泣いた。妊娠をして涙腺が弱くなっているのか、そんな事は男の俺には分からない。だが、この時の涙は、これから起ころうとしてる現実を受け止められるだけの覚悟を、マイアに植え付けたように思う。母親を幼い頃に失い、家族を持つという考えは正直ずっと頭になかった。だが、あの心音を繰り出す小さな存在は、俺の心の中にも小さな小さな種を撒いてくれた。責任、大人としてこの世に生まれてくる子供を迎え入れる準備を、出来る人間がして何が悪いのだろうか?遺伝的な繋がり、母親との婚姻関係、そんな事に拘らずにただ、子供という存在を愛しく思う大人がいて、それを大事にしたいと思う大人がいたなら、その大人が動けばいい。どんな形態でも、子供には大人が必要で、どんな形態でも子供の成長に関わるすべての人は、既に家族の一部だと思える社会が、正常なのではないだろうか?今まで考えもしなかったそういう事を、俺に考える機会を与えてくれるこの子は、きっと素晴らしい人生を送る。そう思えて仕方がなかった。
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