高校2年2学期④

 マイアと二人で体育館に向かうと、その場でジョーが待ち構えていた。ジョーはマイアに積極的に話しかけながら作業をしていたが、マイアはかなり適当にあしらいながらも、しっかりと準備に貢献してくれた。昼までに風船以外のセットが終わったのは初めてだったので、マイアに昼を奢ると申し出ると、ジョーが横から口を出した。


「Eight, she's my plus one, not yours!(英人、彼女は僕のプラスワンだよ!)」


「あははは、知ってるけどこれ俺の係だし、手伝って貰って礼をしないのもな?」


 マイアを見ると、マイアはジョーにウィンクをしながら「お昼の後にまたお話ししましょ」と言って俺の腕を取った。ジョーは「Oh, come on! Seriously?」と食いついたが、マイアは笑って「Later!」と手を振り、俺を体育館の入り口に誘導した。ジョーの落胆ジェスチャーに笑いながら腕を組んで歩いていると、前方から青木が大八木と歩いて来て、一瞬不味いと思ったが遅かった。青木は瞬時に俺とマイアを見て顔が引き攣り、大八木はそんな事には気が付きもせずまた騒ぎ出した。


「先生!!やっぱ、付き合ってるんじゃないですか、その美女と!!!もおおお、腕とか組んでラブラブぅ!」


「だあああああから!違うの!この人は友達です!」


「友達と腕なんて組む訳ないでしょ!ね、翔?」


「さ、知らね。大人の事情なんじゃないですかね?」


 青木の苛立ったその言い方に、マイアが俺の気まずい空気を察して、笑いながら答えた。


「あのね、先生も私も日本より断然米国生活が長いのよ。だから友達同士でも腕は組むの。大人の事情でも何でもないわよ。フレンドシップ。それだけよ」


 マイアの言葉に青木はそれでも俺を睨んだが、大八木の「憧れるぅ」に救われ、その場をうまいこと切り抜けることが出来た。二人と別れた後、マイアに礼を伝えると、マイアは笑った。


「17歳って凄いわね?あんな露骨で。英人も大変な戦場に足を踏み入れたわね?」


「…戦場、本当その通りだな。無傷でいられる自信はねぇな…戦い方も知らなけりゃ、武器もねぇしな?」


 日本の高校生の恋愛事情を経験した事がないので、完全に丸腰だと思い笑うと、マイアが耳元で囁いた。


「武器はあるわ。英人は凄くかっこいい。戦い方を知らないなら、武器だけガンガン使えば良いのよ。頑張って、先生」


「何処がだよ?てか、その武器の使い方も知らないんですよ、先生は」


 何を持ってカッコイイと表現するかは、それぞれの主観が大きく関わるので、それを使って戦うなど不可能だ。相手がどう思っているかに掛かっている武器は、武器であって武器ではない気がした。お手上げだと手をひらつかせると、マイアが俺の腕を再度取り体にピタリとつけた。誤解を生みたくないので腕を離そうとすると、マイアはそれに力強く抵抗して言った。


「英人は昔から普通の状態で、武器使えてるから大丈夫。でも、多少は相手に貴方の現実も見せてあげた方がいいわ。相手が大人だと知ってて好きだと言って来たなら、大人と付き合うという事がどういう事か、しっかり勉強させてあげるのも優しさでしょ?」


「どう言う意味、それ?」


「貴方と私だけじゃなくて、貴方は女の友達には基本近いでしょ?腕も普通に組むし、スキンシップも普通に取る。友達としてね。そういう文化の中で育ったのだから、それに慣れてもらう事ね。いちいち相手が気にするとか気にかけてる時点で、相手のペースでしかないわ。貴方には貴方の世界がある。あの子にも家族がいて同級生がいるのと同じで。ここだけが貴方の世界ではない現実を、あの子自身も知る必要があるわ。意地悪で言ってるんじゃないの。私は自分がそこを見なかったことで凄く馬鹿な選択をしたの、後悔してるから」


 マイアは自分が別れた男の現実を、見て見ぬ振りしていた事を後悔している。だから、日和にも俺にも付き合うことは一対一ではなく、その背後に現実があることを念頭におけと言いたいのはよく分かった。その通りだと思った。学校と家の往復で毎日が過ぎ、先生でいる時間が生活の九割を占めている今、本当の自分という部分が顔を出す瞬間など余り無い。だがマイアといる時は、本来の自分でいられた。長年の付き合いもあるし、先生以前の自分を知っているから、あれこれ考えずに済む。日和がこの関係をよく思っていないことは知っているが、マイアが隣にいる俺も俺で、俺の現実だ。友達が一人もいない状態に保てば安心かと言われたら、それこそ本末転倒になる。互いの一番になることは、互いを互いしかいない状況に追い込むことではない。


 マイアの言葉に納得し、普段通りの距離感で話しながら学食に向かっていると、学食への渡り廊下で日和と日和の家族に出会した。やはり、この光景に慣れるのはかなり難しい。子供の日和、それを見守る親。日和はすぐにマイアを見て固まっていたが、日和の母親は俺を見て笑顔で挨拶をしてきた。


「先生、こんにちは。彼女さんですか?いいですね」


「日和さん、こんにちは。これは友人兼今日の後夜祭セットアップの助っ人です。お元気ですか?」


 教師面で挨拶をすると、マイアが笑った。


「英人、日本って余りお元気ですかとか聞かなくない?」


「え?そうなのか?てか、なんで今まで誰もそれ指摘しなかった?」


 俺の反応に日和の母親が笑っていると、少し距離を置いて立っていた日和の父親が口を開いた。


「優月先生は、米国が長いって英人から聞いてます。彼方では何処ら辺にお住まいだったのですか?」


「あ、ミニアポリスです、殆ど」


「ミネソタですか。いいところですね」


「いや、そこそこ田舎ですよ?行かれたことありますか?」


「一度だけですが仕事で。Princeが好きだと言ったら現地の人があちこち連れて行ってくれました。音楽シーンがホットだと聞いていましたけど、本当僕は楽しかったです」


「おぉぉ!マイア、Prince好き発見。僕の父も音楽が好きで、Prince好きで、ミニアポリスに転勤したと言っても過言ではないです」


「おぉ、お父さんと僕、気が合いそうですね」


 日本を追われるように米国に越した時、何故こんな場所にしたのかと若干思ったが、父が密かなPrinceファンであったと知った時は、少し父の父以外の側面を見た気がして嬉しかったのを今でもよく覚えている。しかしミニアポリスと言っても、大抵の人間は、そこ何処?と聞いてくる。米国の真ん中右寄り上、そう答えると「あー…カウボーイ居た?」と聞かれることが多かった。正直、日本の地理も余り知らず大学で日本に戻った時、群馬と栃木と茨城は信州である、と平然と答えていた馬鹿な自分には批判する資格はまるでない。だが、時々こうして知っていると言う人に会うと、何となく嬉しかった。やはり、自分が人生の殆どを過ごした場所が認知されていると言うのは、素直に喜ぶべきことだ。暫く日和のことをすっかり忘れて日和の父親と話し込むと、日和が恥ずかしそうに父親を制止した。


「お父さん、もう良いよ。先生も忙しいし」


「あ、すみません、つい!あの、これからも英人のこと、ダブルエイトのよしみで、宜しくご指導下さい」


「ははは…。えっと、じゃ文化祭、楽しんで下さい」


 日和は俺に気まずそうな視線を一瞬送ると、両親の背中を押しながらその場を去って行った。隣でおとなしく聞いていたマイアは、日和の背中を見送る俺に耳打ちをした。


「あれが現実はキツイわね、お互い」


 まだ親の庇護の元、学生として勉学に励む日和。既に親元を離れて八年は経つ自活している俺。違和感が半端ではないと感じ、マイアに小声で返事をした。


「日和、Princeって何?って顔してたな…ヤバいわ、今最高潮にジェネレーションギャップ感じてるだろうな…」


 自分が感じることは、相手も同じように感じる筈だ。恋とか愛とかそういう感情は脳内発生だが、生活とか家族とかそう言うのはリアルに目の前にある。日和が今の状況をどう捉えたか考えると、胸の奥が騒ついた。


 学食でA定食を頼んだマイアに、カツカレーを頼んだ俺で壁際の席に隣合わせに座り、大学時代の文化祭の話に華を咲かせた。


「英人が作ったカレー、あれ美味しかったから行列だったわよね」


「俺はあのサークルの一年分の活動費をあれで稼いだと言っても良いぐらい稼いだのに、全然ウェルカムな感じではなかったな。なんで俺あんなにサークルの奴に嫌われた訳?」


 文化祭で荒稼ぎをしても、サークル内の特に学年が上の男からは露骨に嫌われているのは気がついていたので聞くと、マイアが俺の肩に手を乗せて耳元で秘密の話でもするように教えてくれた。


「それは英人が一番目立ってたし、どうやっても他の部員の男の子は英人みたいな華がなかったから、完全なる嫉妬よ」


「はぁ?それはないわ。俺、浮いてたし。まず初めは若干俺の日本語ダサかったしな?」


「あははは、それは私も!!お互い、NHK的な話し方しか出来てなかったわよね?」


「それな。崩して話すって親から学べないしな。マイアの自己紹介聞いた時、こいつ俺と同じだと思ってちょっと安心したの思い出した」


 サークルでの自己紹介は、地獄のようだった。皆がそれぞれ面白いことを言う中、一人で自己紹介定型文の挨拶しか出来ない事を恥ずかしく思っていると、マイアも俺とまるきり同じ手法で挨拶をし、心底ホッとしたものだ。外国人の生徒も多い大学ではあったが、あのサークル内は俺やマイアの様に海外育ちは他にいなかったので、初めの二年は日本語の習得に大いに役立った。


「私達が付き合う前まで、お互いリアルな日本語の習得に貪欲だったわよね」


「そうだなぁ。懐かしいな。マイア、ワタクシはっていっつも初め言ってたな?」


「Oh, shut up!!英人だって、僕って言ってた癖に!」


「…言ってたな。僕の名前は優月英人です。不束者では御座いますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます」


「あはははは!それ覚えてるわ!見た目と言葉のチグハグさが恥ずかしい男の人だわって思ったから!」


「Oh, yeah?マイアも言ってたけどな?ワタクシの名前はクルス・マイアです。United StatesのAmericaから参りました」


 微妙に日本語に訳して米国を表現したマイアをいじると、マイアは真っ赤になって俺の肩を叩いた。日本語ゼロの状態で来日したわけではない。家では日本語だったので、そこまで不自由はしていなかったが、自然な表現方法や話し方などはやはり大学で日本に来てから同級生との会話で学んで行った。ドラマやバラエティ番組も貪欲に見続け、気が付いたら今のように違和感なく会話が出来るようになっていた。日本語で独り言を言うようになった時、本当の意味で本来あるべき場所に戻って来たような気がした。それをマイアに話すと、マイアも同意してくれた。


「わかるわ。私は見た目のせいで訛りがある時は、日本語で答えても英語で返事されること多くて、本当嫌だなと思ってたけど、日本語でしか返事をされなくなった時、私は登り詰めたわって気分良かった」


「あー、確かにお前は外国の血が強い顔してるからな。俺は逆にアジア顔なのに訛ってるから、は?って反応されるのがキツかったな」


「そう?英人、正直アジアでも日本人ぽくはないわよ?身長190近いし、大分作りがはっきりしてる顔立ちだし、体格が米国人だしね」


 米国で虐められる経験がなかったのは、おそらくこの体格のおかげだ。米国はかなりこう言う部分がシビアで、背が高く筋肉質な体をしているだけで、取り敢えずいじめの対象からは外されることが多い。この体格に救われていた米国時代、日本へ来たら逆にこの身長で浮いて何事も馴染むのに時間が掛かった。今でも学校一背が高いので、授業中は生徒が黒板を見れるようにそれなりに気をつかうが、それ以外であまり苦労することはない。トイレの位置と台所の位置が低いのはいまだに全く慣れないが。その話をマイアと笑いながらしていると、背中を突かれ振り返った。そこには日和が立っていた。


「お、親御さんどうした?」


「帰りました…あの、ちょっと良いですか?」


 日和がマイアをチラリと見て聞くので、マイアはそれに笑顔で答えた。


「日和君、私は学校関係者ではないし、口出しするつもりはないからここで話しても良いのよ?」


「…いえ、二人で話したいのですけど、良いですか?」


「…それ、今じゃないとダメなやつ?まだ飯食い終わってないんだけど、先生。後夜祭まで待てない?」


 マイアと話すことに夢中で、まだ全部食べ切っていなかったのでそう聞くと、日和は俺の皿に目を落としてから溜息をついた。


「…分かりました。あの、さっきはすみませんでした。父が」


「いや、俺は楽しかったけど。良いお父さんだな?」


「…はい。あの…あ、やっぱり後で…すみません、食事中に」


「はい、じゃあ先生残り食べるから、後でな。折角だからうちのクラスの売り上げにも貢献してくれよ?」


 日和が小さな声で「はい」と返事をしながら去る姿を見送ると、マイアが悪戯な笑顔で言った。


「Princeって誰ですか?って聞きに来たのかしら?」


「あはははは!歌ってやった方が良かったか?I just want your extra time and your xxxxx kiss♪」


 思って居たより大きな声で歌って居たようで、近くに居た生徒に俺が卑猥なキス音を鳴らしていると誤解を受けたが、Princeの曲だと訴えるとほぼ皆知らないと言って笑った。マイアとジェネレーションギャップだなと笑う中、お昼を買って来た小池先生が近づいて来て声を掛けてくれた。小池先生もPrinceが好きらしく、初めてあの一件以来話しをした。てっきりクラシックしか聴かないのかと思っていたので、3人で盛り上がり、話し過ぎて大幅に遅れて体育館に到着すると、中で一人必死に風船を準備していたジョーが両手の中指を立てて俺達を出迎えた。


「You guys SUCK!!(お前ら最悪だ!)」


「悪い、ジョー。ちとPrinceで盛り上がっちゃって。後は俺とマイアでやるから、自分のDJブースでも飾ってて」


 遅刻の詫びにクラスのカフェで買ったコーヒーとドーナツを渡すと、ジョーはブツブツ言いながらもそれを受け取り、自分のブースの飾りに向かった。マイアと必死に風船を膨らませ続けること数時間、やっとその設置が終わった頃には後夜祭まで1時間もなくなっていた。


「あー、やばい!俺、ちょっとクラス一回戻るから、マイアここでジョーと待てる?」


「えええええ、私も行っちゃダメ?」


「ダメ。邪魔するだろ?ジョー、マイアと曲決めでもなんでもしててくんない?」


「Eight, I told you this before but she is MY plus one, not yours! Get the fuck outta here!(英人、前に言ったけど、彼女は俺のプラスワンでお前のじゃねぇから!とっとと出てけ!)」


 ジョーの言い分に両手の中指を立てると、ジョーも巫山戯たポーズで応戦した。生徒には注意するものの、自分はこんな事している姿はやはり見られるのは不味いので、体育館を出ていくと同時に先生スイッチをオンにして教室に向かった。


 後夜祭前に教室の片付けを一気に手伝い、皆を体育館に誘導している間に日和を廊下で見かけたが、何故か異常な程に子供に見えて素通りしてしまった。自分の年齢、経験値、学校以外の世界に少し身を沈めるだけで、この如実な世代差を感じてしまう現状は、恐らく卒業まで変わる気はしない。その現実と罪悪感をお互いに抱えたままでも、その先共に居たいという気持ちが保てるかどうか、実際不明だ。日和にとって、自分がそこまで魅力のある人間とは思えない。自信がない。


 体育館にクラスの生徒を全員誘導し終わると、壇上の上で胡座を描いて座っているマイアが手を振った。それに手を振って応えながら壇上に向かうと、途中で教頭に捕まった。


「優月先生、綺麗な彼女さんいるんじゃないですか!」


「あ、友人です。本当、ジョーのプラスワンで来てるだけで、僕ではないです」


「そうなの?あー、彼女、ジョーには勿体無いなぁ。先生、ここは略奪してみては?」


「あはははは、いやいや、本当友人です」


 教頭にはいつまでも独身でいるとこの仕事はやりづらいから早く身を固めるようにと言われ、苦笑いしながら壇上のマイアの隣に行くと、マイアに笑顔で聞かれた。


「何?先生に叱られちゃったの、先生?」


「違う。早く優月先生も身を固めないと、何かと都合悪いから、この仕事。だと」


「あはははは、それ職場で絶対言ったらだめなやつじゃないの?」


「日本の学校なんてそんなもんだ。確かに年頃の生徒預かってる教員の俺がフリーでうろうろしてたら、教頭もハラハラすんだろ?生徒に手を出さないかとかさ」


 実際、若干出している。教頭に何かが実は勘付かれているのか内心気が気ではなかったが、ティーンの好きそうなポップが流れる中、マイアが声を少し抑えながら俺の耳元で言った。


「実際、ちょっと出しちゃってるしね?」


「…ヤバいな…」


「卒業まで後一年ちょっとでしょ?卒業したらもう大丈夫なのよね?」


「うーん、そう思ってるけど、学校にバレたら俺とあいつの関係が今どうであれ、在学中に手を出したって憶測は飛ぶんだろうなと思うと、ここで仕事はしずらくなるだろうな…」


 元教子と付き合っていますという教員が、この学校には一人もいないので、卒業後であっても付き合い出したら学校側からどういう風な扱いを受けるかは分からない。しかし、それがどうであれ、日和がこの学校で在学中に俺のせいで不当な扱いを受ける可能性さえなければ、正直どうでも良いと思ってしまう。自分が受ける罰は受けるとして、日和の高校生活自体に差し支えなければ、それで良い。それをマイアに伝えると、マイアは俺の肩に頭を乗せてつぶやいた。


「良いなぁ、日和くん。愛されてるわね」


「…何でそうなる?」


「大事にしてるって事よ。相手のこと。この英人が。友人としては嬉しいけど、一人の女としてはちょっと妬けるわ」


「…大事に出来てるって言えるのか?現に親御さん見て結構ビビってる俺が?」


「ビビるぐらい現実的に相手の事考えられてる証拠よ?良いのよ、本気の相手ならそのぐらい危機感ないと逆に表面的過ぎて引くわ、私なら」


「そっか…つかよくよく考えたら、俺、父親に日和いつか紹介とかすんのか?想像つかない…」


 中学から節操なく女と淫らな関係に浸っていた俺の荒れた生活を、見て見ぬふりをしていた父親だ。随分年下の男を連れて行ったところで、「あ、そ」ぐらいの感想しか抱かなそうではあるが、あの世代の男が息子が男を連れて帰ってくることをどう思うかなど、想像もつかなかった。それを話すと、マイアが体育館で流れる音楽や生徒の騒めきに負けないぐらい大きな声で笑った。あわてて静かにするように口を抑えると、マイアは俺の手を口から少しずらし、小声で言った。


「米国生活長い、Princeのファンよ?彼はゲイではないけど、そのコミュニティのアイコニックな存在ではあるでしょ?何とも思わないわよ、きっと。その同性どうこうって部分ではね」


「まぁ、そうかもな。普通に父親の同僚にゲイもいたし、平気なんだろうけど、俺の気持ちの問題もあるんだろうな…しかも生徒だしな…」


 一番地雷になりかねないのは、その部分だ。大きなため息をつくと、マイアは俺の腰に手を回し、体を寄せて真面目に返事をした。


「教え子という部分に関しては、英人の家庭ではセンシティブな問題だから、あえて話す必要もない気がするわ。お父さんの気持ち、わざわざ逆撫でる必要はないと思う」


「うーん…」


 付き合った女の中で、家族の話を全部したのはマイアだけだ。だからマイアは全てを知っていた。ここに俺がいる理由も、教師になろうと思った理由も全て。その全てを分かってくれている友人が隣にいることは心強かった。思わずマイアにハグをし「ありがと」と伝えると、マイアも俺の背中を察すって「頑張りなさい」と言ってくれた。しかし、ハグをしてすぐにジョーが二人の間に露骨に割り込み、マイアが笑った。


「ジョー!友情のハグも許容出来ない男はモテないわよ?」


「I could smell something sexual going on here! What are you guys? (エロい匂いがした!君達一体なんなの?)」


「She's just my bestie. (ただの親友)」


「With benefits?(訳ありの?)」


「ある意味な?」


 互いに何でも話せる訳あり。ジョーを揶揄うようにそう答えると、マイアも「ある意味ね」と笑ってジョーを冷やかした。ジョーは暫くしつこく昔付き合っていたのかなど聞いてきたが、マイアも俺もそれには答えなかった。


 生徒達がジョーの流している音楽に適度に乗りながらおしゃべりに興じ、用意していたドリンクやスナック菓子を食べている中、マイアに椅子を出し、その隣に自分の椅子も準備し座ると、壇上から程なく近い場所で、日和と青木と大八木がこちらを見て立っているのが視界に入った。口パクで「何?」と聞くと、日和は首を横に振ったが、青木は来いと人差し指で俺に合図し、大八木はその横で異常にはしゃいでいた。状況はよく分からないが、ジョーにしつこく話しかけられているマイアを放置し壇上を降りると、大八木が口火を切った。


「先生!ジョーに彼女さん取られちゃったの?3角関係?」


「お前はまたそういうくだら無いことを…」


「だって、ジョーが先生達に付き合ってたのかどうかしつこく聞いてるの聞こえちゃったから!どうして今も付き合ってるって言わ無いの?」


「いや、だから本当普通にお友達なんですよ、先生の。それだけ。で?用事ってそのくだら無い質問?」


 大八木のゴシップネタ好きな質問に答えて青木と日和を見ると、青木は大層不機嫌な表情で言った。


「いや、ちょっと顔貸してもらえませんかね?」


「…え?お前、今教師の俺に顔貸せって言った?」


「言いましたが、何か都合悪いですか?」


「いや、言い方な?先生、お時間宜しいでしょうか?って言えよ。顔貸せって不良か、お前は?」


「不良なの、先生ですよね?あの女の人ともベタベタしておいて」


 青木の言い分に、完全なるティーンの熱を再度感じ、思わず笑い出してしまった。この勢いに敵う気はし無いが、これを可愛いと思えるだけの教師としての自覚がまだ自分にもしっかり残っていることが可笑しかった。一生徒の卒業を虎視眈々と待っているようなダメな教師でも、やはり生徒は生徒として可愛いと感じる。だが、笑ったことを勘違いした青木は更に不機嫌になり、俺の肩を思い切り引っ張り青木の口元まで耳を強引に持っていくと、小声で「You're pissing me off(ムカつくんだよ)」と言ったので、一瞬頭に来たが、隣で戸惑う日和を見て大人の余裕を保た無いといけないと思い、冷静を装い「Chill(落ち着け)」とだけ返事をした。


 大八木は状況がわかってい無いので、その場を歩き出した青木について行こうとしたが、青木に日和と残るように言われ、肩をすくめた。日和も青木に一緒に行くとついてこようとしたが、絶対に着いてくるなと言う殺気立った青木の様子に、その場で立ち尽くしていた。日和を見ると、日和は不安気な表情でこちらを見ていたので、一瞬日和の肩を軽く叩きその場を去った。日和から話があるとは言われていたが、青木が代弁するということなのだろうか?実際状況がよく掴めぬまま、ジョーに外行くと合図し、マイアにも青木を指差し肩をすくめると、マイアは人差し指と中指を交差させ笑った。


 体育館の中で盛り上がる生徒達の声が小さく響く渡り廊下の突き当たりで青木は立ち止まると、振り返るなり俺の胸ぐらを掴み下から睨み上げてすごんだ。


「お前、調子に乗ってんなよ!」


「…はい、これ、アウトな?お前、先生に今何してるか分かってんのか?」


「生徒に手を出してるクソ教師がそれっぽいこと言ってんじゃねぇよ!」


 日和から何か聞いてる可能性のある青木に、どういう返事をしたらいいのか分からず一瞬黙ると、青木は胸ぐらを掴んだ手に力を皿に入れて続けた。


「文化祭に女連れ込んで、壇上でベタベタして、お前は何がしたいんだよ?!高校生の気持ち弄んで楽しんでんのか?」


「それは、日和の感想?それとも青木の勝手な意見?」


「ひよはお前に何も言える訳ないだろ?お前に嫌われたくないんだから!」


「…あのさ、ちょっと一回落ち着けよ、青木。とりあえず手を離せ、お前」


 目一杯背伸びをして胸ぐらを掴む青木の手をそっと離すと、青木は睨みながら苛立った様子で続けた。


「お前がいるとひよは自由になれ無い!おっさんが、高校生相手に何血迷ってんだよ?マジでキモイし、ありえねぇだろ?いい加減、ひよを解放してやれよ!あいつはバカみたいなことばっかり言って、現実が見えてねんだよ。先生が、おっさんで女にだらしなくて、ただの貧乏な高校教師だって現実が!」


 瞬時に笑そうになるのを抑えるのに、言葉に詰まった。余りに的確な指摘だ。貧乏な高校教師であるただのおっさんで、女にだらしがない。青木を誉めてやりたいと思うぐらいの正確な描写力がツボにハマり、声にならずにいると、青木はとどめを指すように言った。


「俺がひよと付き合うから。周りでウロウロすんの、マジでやめろ」


「それは日和が合意してるって事?」


「合意はこれから得る。今日、ひよの親に泊まりに来いって誘われてるから」


「あ、そ。言いたいのそれだけ?」


「…言い返せもしない程度の覚悟で、よく生徒に手を出そうとしてたな、お前。クソダセェ」


 手を出したとか、出そうとしていたとか、明らかに青木に日和が二人の間での事を話してい無いのは分かり、鎌をかけてきているのは察しがついたので、その懸命な声にこちらも平常心を保ったまま答えた。


「お前の気がそれで済んだなら先生はそれでいい。だけど、教師にも友人関係はある。マイアは先生の大事な友人で、それを女連れ込んでるとかベタベタしていると表現される筋合いはない。お前と大八木が仲良いみたいに、俺にも大事な友人ぐらいいる。それを非難される言われは一切ない。それと、日和はお前が思ってるよりしっかり自分の意見を言う。それこそおっさんの、こんな薄給のただの高校教師に嫌われたくないからって何も言わずに黙ってる程、大人しいやつじゃない。お前がそう思ってるなら、お前は意外に日和のことを知ら無いだけだ。以上」


 日和は自分の意見はあれでしっかりと言う。そういう面を青木が知ら無い事に若干驚きを感じてそう伝えると、青木は更に顔を赤くして言った。


「俺以上にひよの事分かってるやつはいねぇから!あいつが男を好きだって知ってるのも俺だけだし、あいつがお前みたいな下らないおっさんに勘違いしてるのを知ってるのも俺だけだから!お前より、ずっと話して来て、ひよの事は一番分かってるから!」


「…そっか、あいつ、ゲイなのか。知らんかった」


「…は?そこ?」


「初耳だから。予期はしてたけど、そっか。なんか、納得するな。で、お前も同じって訳?」


 日和が俺を好きな時点で、ゲイであることは予期していたが、特に自分がゲイだと日和から聞いた訳ではないので、青木の言葉で納得し青木にも質問をすると、青木は俺の肩を思い切りどついて吐き捨てるように反論した。


「俺は違う!あいつだけだから!お前みたいに節操のない誰でも良いような男とは違う!」


「…先生も、誰でも良い訳ではないけどな?例えばお前とか無理だしな?」


 青木を揶揄うように言うと、青木は返事をしようとしてから俺の背後に目をやり、口を閉じた。振り返ると、日和が少し怒った顔で立っていた。二人にした方がいいのかと思い、日和を手招きしてから青木に伝えた。


「先生、まだ仕事中だから戻ります。後はよく二人で話し合いなさい」


 教師の出る幕ではないと思いその場を去ろうとすると、日和が俺の腕を掴んで足を止めた。何か言い出すのかと思い一瞬ドキッとしたが、日和は俺の腕を掴んだまま青木に言った。


「翔、僕が勝手に先生を好きなだけだから、先生を困らせるような事いうの辞めて欲しい」


「…でも、ひよは」


「先生は、ちゃんと先生で、僕は先生を困らせてる駄目な生徒ってだけだよ。翔、先生は大人だよ?僕みたいな子供は相手にしてくれない。でも、それでも好きなんだ。そういう勝手な僕の気持ちを、先生は蔑ろにしないで目を瞑ってくれてる。それだけだよ。だから、翔も先生に当たるの辞めて欲しい。僕は、翔を友達としてしか見れないし、友達として以上に思うことは出来ない。ずっと言ってるけど、僕は優月先生が好きなんだ。ずっと好きだった。これからもずっと好きだし、それは変わらない。でもそれは僕の一方的で独りよがりな感情で、先生は関係ない」


 日和の男らしい毅然とした態度に、呆気に取られて日和を見ていると、青木が日和の腕を取り声を荒げた。


「いつまでそんな事言ってんだよ!関係ないなら、何でこいつの一挙手一投足に動揺してんだよ?おかしいだろ?こいつがひよを誑かしたり、何かしてるからじゃないのか?」


 青木の言葉に、日和は一瞬俺をチラリと見たが、すぐにそれにも声色を変えずに答えた。


「先生は僕に対して教師として接してるのに、僕が勝手に動揺してるだけだよ。翔、先生には先生の世界がある。僕達生徒とは関係のない、大人の先生の世界が。僕達にはどうやっても入り込めない世界が。どう頑張っても僕達が追いつかない世界が。好きな人のそう言う世界見て、動揺しない人はいないでしょ?僕は自分が子供な部分が嫌なんだ。でも、親に養って貰ってる僕には、どうにも出来ない現実もある。僕と翔は同じステージだけど、先生は違うステージにいる。そこにどう頑張ってジャンプアップしようとしても、手が届かない。その現実に勝手に打ちのめされてるだけだよ。僕が未熟で子供だから。先生は、ただ先生をしている一人の大人ってだけだよ。僕をわざと動揺させようとする程暇でもなければ、そんな大人気ない事考えつく程子供でもない」


 俺に近づいて来た時から、時々垣間見ていた可愛さの合間にある日和の男らしさ。この時ほど強く感じた事はなかった。それは恐らく青木も同じようで、何かを言いかけたが口をつぐみ、俺を睨んで言った。


「ひよに何かしたら殺すから」


「その前に、先生は青木の教員に対する態度で停学になる方が早い気がして心配だけどな?」


 


 青木は日和の手を引いて体育館に戻ろうとしたが、日和がトイレに行くから先に戻るように言うと、青木は俺をもう一度睨み上げた後、体育館に走って戻った。日和がトイレに行くなら、体育館に戻ろうと思い、青木が体育館に入るのを見送った後歩き出すと、上着の裾を背後から引っ張られた。驚いて振り返ると、日和がいつにも増して真剣な表情で謝罪をした。


「すみません、翔のこと。悪い奴じゃないんです。ただ、僕の事心配しすぎてああなってるだけで」


「…それは分かってるし、お前が謝る事じゃないだろ?」


「そうですけど…あの、すぐ終わるので3分ください」


 昼に話がしたそうだったのを思い出し、体育館に早く戻らないといけない状況ではあったが、足を止めて日和を見下ろすと、日和は視線を逸らさずに話し始めた。


「今日、色々すみませんでした」


「何が?」


「オケ、来てくれてたのにお礼も言えませんでしたし、それに父が色々…」


「いや、そんな事気にしなくていいし、むしろ日和の父親話しやすくて楽しかったし」


 想像していたお堅そうな人ではなく、気さくなその様子を思い出しながら返事をすると、日和は一つ小さな溜息を吐いた。


「本当は、僕が嫌だったんです。先生が、父と話しているの見て、先生が僕の事子供だって気がつくのが嫌だったんです。だけど、それ以上に、僕は先生があの人と自然に楽しそうに話してる姿を見て、僕が居ない先生の世界がある現実を思い知らされて、凄く嫌な気持ちになりました」


「だけど」


「知ってます。友達だって言ってる先生の言葉を信じてるし、それを受け入れないといけないのも知っています。先生に一人になって欲しいなんて思ってないですし、僕に親が必要なように、先生には先生と同年代の交友関係が必要なのは分かっています。だけど、どれだけ焦っても、急ごうとしても僕には先生との間にあるこの歳月を埋める事はできない。初めから分かっていたのに、自分が子供なのが恥ずかしくて、先生に釣り合わないのが嫌で、先生に現実の僕を見られるのが嫌で、だから必死にそこから目を逸らせる為に僕だけ、ここにいる僕だけを見て貰えるように先生を押して来ました。結局、いつかは気がつかれる事だったのに、それが今日起きてるって感じたら、急に怖くなって…」


 自分が感じていることは、相手も感じている。今日俺が感じた現実のお互いの世界は、俺だけではなく日和をも不安にさせていた。だが、そこは無視する事はできない。日和と俺が生きているのが、二次元世界ではなく現実である以上、二人だけで話を進めることは出来ない。珍しく俯き溜息混じりの日和に、俺は俺で思っている事を大人として伝えないといけないと思った。


「ごめん、日和。俺も今日は正直参ってた。お前の家族見て、罪悪感が半端なくて、自分に興醒めしてた。でも、自分が何をしてるのか冷静になるいい機会だったと思う。お前を慈しんで来た家族の存在、本当の意味でこの関係を大事にしたいなら軽視したくはない。だから、もう少し距離気をつけよ」


「え?」


「学校でも必要以上に二人で会うのは辞めよ。ちゃんと本当に教師と生徒としての距離、保とう」


 一緒にいたいのは山々だが、二人きりの空間に入れば、きっと俺も日和も勘違いしてしまう。この関係は好きな者同士が一緒にいるだけの正当なものであると。だが、教師という現実、日和が親御さんに見守られている最中の子供であるという現実、ここを無視して築き上げていく関係の未来が、明るいとは思えない。日和の青春と呼べる時期を、大事にしたい。その為には、自分の欲は二の次にしなくてはいけない。日和は黙ったまま俺の目をしっかりと見ていたが、誤解がないようにもう一度伝えた。


「約束した事は守る。俺はお前が卒業するまで待つ。お前の言うExclusive、しっかり守る。けど、今までみたいに閉鎖された空間に二人を押し込むようなやり方はしたくない。お前が青木に言ってくれたみたいに、本当にこれから先も俺の事想ってくれるなら、卒業したお前の隣に、堂々と立っていたい。誰が何を言ってもこの関係が正当だってパブリックで言えるように、自分に色々言い訳してなし崩しにお前と陰でなんかするの、辞めたい」


「…もう、ハグもして貰えないんですか?」


「ん、しない。ごめん、でも俺はお前が想ってる以上に、お前の事が大事だから。散々あれこれしといて今更だけどな?」


 日和のファーストキスをしっかり貰っておいて、今になって辞めるというのは身勝手だろう。だが、もし本当にあの家族に笑顔で堂々と日和と付き合いたいといつか言える日が来るならば、今している全てのことは間違えでしかない。自分の大事な息子の一度しかない高校生活を、大人の俺が汚してしまったら、親御さんが傷つくだろう。日和を傷つけたくない以上に、今はあの親を悲しませたくはないという気持ちが芽生えている。それを伝えると、日和は小さな涙を一筋流してつぶやいた。


「やっと僕を見て貰えるようになったのに…」


「これからも見てる。ずっと。だけど、卒業まできちんとお前の先生でいさせてくれないか?俺にも男らしいところあるってカッコつけさせて。先生は先生だけど、一人の人間で、一人の男だってとこ。でも、卒業したらむしろエロいことしかしなくなるから覚悟して待ってろよ?」


「え!?」


 急に顔を真っ赤にした日和を抱きしめたい衝動に駆られたが、抱きしめる代わりに背を向けて笑いながら伝えた。


「あははは、冗談に決まってるだろ?まぁ冗談でもないけど、日和は高校生活マックスエンジョイしなさい。先生、それを影からそっと見守ってます。あきこ姉さんになって」


「…誰ですか、それ?」


「…今のは聞かなかったことにしてくれ」


 父が好きだった昭和漫画からネタを拾って撃沈したジェネレーションギャップ発言を撤回すると、日和はいつもの学生らしい声で笑った。


 後夜祭に戻ると、マイアとジョーが壇上で踊り狂っていて、すぐに壇上に呼ばれてその馬鹿騒ぎに参加した。マイアの言っていた通り、踊ると少しはすっきりとした。アップテンポなナンバーが静かな曲に変わり、体育館の照明が落とされ、天井に設置された風船に下から煽るビームとディスコボールの光が反射する中、俺はジョーと踊った。生徒達もマイアも爆笑してくれたが、ジョーは最後まで男の俺にリードを取られて踊るなんて米国人の恥だと大騒ぎをしていた。大きな口を開け、大きな声で純粋に笑う生徒の山の中に、同じく最高の笑顔で俺を見ている日和が目に入り、心が温まった。あの笑顔は、今のこの時期にしか得られない。大事な17歳。人生一度の青春を、綺麗なディスコボールの光のように煌めかせる為に俺ができることは、キスではない。抱きしめることでもない。あの笑顔を、大事に見守ることだ。


 後夜祭が終わり、生徒が帰った後は教職員総出で体育館の掃除をし、マイアと俺とジョーと小池先生はその晩初めて皆で飲みに出た。苦手意識でずっと話していなかった小池先生は、俺をラブホの前で見かけたことなど一度も話題にも上げず、マイアともジョーとも楽しそうに音楽の話をし続けた。同僚としてもう少し自分自身も周りを見る努力が必要だと、この日初めて思った。帰宅すると、携帯に日和からメッセージが届いていた。


 <携帯に連絡するのは、許されますか?>


 送信時間は数分前だった。もう深夜もとっくに回っているので、すぐに返信を打った。


 <どーぞ。早く寝ろよ>


 <翔が泊まりに来て、また付き合って欲しいと言われました。少しは妬きますか?>


 <Nope。でも大事な友達は失わないように大事にした方がいい。青木は悪い奴じゃないからな>


 <知ってます。先生は、やっぱり大人ですね。僕はマイアさんを見ると頭に血が上ります>


 <若い証拠。良いから早く寝ろって>


 <早く大人になりたい>


 <なるよ。その内な。おやすみ>


 <好きです。おやすみなさい>


 大人になった日和は、どういう感じになるのか想像すると無性に笑えて気分良く眠る事ができた。高2になり少し身長が伸びた。少しだけ額の端にニキビができていた。身体つきが少しずつ、少しずつそうやって大人になる準備をしている。最高の高校生活は、恋愛だけが全てではない。勉学に励み、友と連んで馬鹿騒ぎをしたりして、部活で泣いたりして、皆でそうやって大人の踏み込めない領域で築き上げられるものだったりする。その一ページ、高校青春アルバムの端っこに、俺がそっと載る程度が丁度いい。彼らの煌めきを応援する、大人の一人として、教員になって感じて来て彼らに対する教師としての愛情を、間違う事なく行使できるよう今一度自分自身に言い聞かせた。日和を大事にしたいなら、これが最大に出来ること。恋の仕方も分からないと思っていたが、生徒に自然と身体に教え込まれたのは、恋は独りよがりでは成立せず、恋は何よりも相手の現在と未来を大事にしたいと思い、それを実行に移すことで伝える事であり、好きだと言えば成立するものではないと言う事だ。恋には二人が必要で、それは根本的に人が成立するには複数の人間が必ず関わってくるという現実の象徴みたいなものであり、そこをしっかり受け止めることが恋というものを成熟させてくれるのかも知れない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る