高校2年2学期③

 マイアが帰って来た日曜夜に、事の経緯を話すとマイアは唸った。


「うーーーん、勿体ない!大事にしたいのは分かるけど、好きなら許される気がするけど」


「いや、そこは立場上ケジメを付けたい。一応、学校の親御さんに信頼されて、子供たちを預かってる訳だから。それに高校の時期って、本当に特別だと思うから、そこにそんな思い出をぶち込んで、アイツの青春時代を汚したくはない」


「ホォ、流石に好きになった相手は、ちゃんと本気で大事にするのね、英人でも」


「でも、って!まぁ、俺、お前を余り大事にはしてなかったかもな。悪かったな、あの頃は…」


「良いわよ、私もうとっくに立ち直ってる。それに、英人上手かったしね、キスもエッチも。良い思い出よ」


「お?褒めてくれんの?てかさ、上手いってのも今更思うけど、それだけ場数踏んでる感がすげーな。下手な方が、純で良いのかもな?」


 俺の言葉にマイアは大声で笑った。大人になれば、色々な経験を積んでいく。真っ新な状態でいられるのは、何となく、高校生までだと感じる。だから、日和のその真っ新な状態を、そのままで卒業まで送り出せたら、そう思ってしまう。翌週、マイアは見つけたアパートに引っ越し、俺の家はまた元の一人暮らしに戻った。

 そして、約束した通りウチには来なくなった日和が、放課後よく英語教職員室にやってくるようになった。ALTのジョーがいる時は3人でよく話をしたが、日和の英語の発音は、入学した時よりも断然良くなっていて、ジョーが部屋を出て行った日和を見送りながら呟いた。


「いーなー、オレもあのぐらいニホンゴ話せたらカッコイーよなー」


「お前の日本語、そこそこ上達したけどな?」


「まーじかよー?えー?オレ、あのセートぐらい話せてるかぁ?」


「いや、それはない。校長の英語ぐらいかな」


「…Dude, he barely speaks English...(おい、校長ほとんど英語話せねぇじゃんかよ…)」


「He does speak English but has quite a bit of a Japanese accent.(話すって、すげぇ日本語の癖があるけど)」


「Oh fuck, do I sound that bad?(まじかよ、オレ、そんな酷いか?)」


「No, you just sound like a foreigner, which isn't a bad thing, right? (いや、外国人にしか聞こえないってだけだし、それは悪い事じゃないだろ?)」


「Oh man! How come Hiyori speaks English that fluently? (くそー、なんで日和はあんな英語が流暢なんだ?)」


「Beats me, I've no idea how he learns that quickly. (しらねぇ、どうやってあんなあっという間に上達してんだろうな?)」


 バイトに、部活に、勉学の全てをこなせる人間などいないと思ってしまうが、若さというのがこういう時に活かされるのだと、日和のみならず他の生徒達の様子からも伺えた。眩しい程に溢れかえる未来の光そのものが、高校生という存在なのかもしれない。その晩、日和から電話があり暫くジョーが英語を褒めていた話をしたが、日和は恥ずかしそうに「発音出来ない音がいっぱいです」と笑った。自分が出来ない部分を把握している時点で、相当レベルが上であるという自覚がないのも、若さの象徴だ。誇らしい気持ちで聞いていると、日和が照れて話題を変えた。


「そう言えば文化祭、先生のクラスカフェですよね?」


「そうだな。2年の半分、カフェらしいな。飲食店だらけの文化祭になりそうだな」


「僕のクラスは焼き芋屋ですけど」


「ははは、食い過ぎるなよ?芋って腹張るからなぁ」


「…なんか、色気のない事普通に言いますよね、先生って」


「そうか?つかもう遅いから寝なさい。また明日、学校でな」


「おやすみなさい」


「ん、おやすみ」


 平和に過ぎていく日々の中で、教師として地に足がついてきた気がしていた文化祭前夜、放課後遅くまでカフェの設置をする生徒を手伝っていると、青木が来て軽い会釈をした。若干面倒な予感がしながら立ち上がると、宣戦布告をした割には生徒らしい言葉遣いで俺を呼んだ。


「優月先生、ちょっと良いですか?」


「中間の苦情?一応聞くけど、採点ミスは無いからな?」


「違います。俺の、友人、の事に付いてちょっと」


 その友人が誰かは、その青木の挑発的な態度でよく分かった。思春期の厄介な所は、一度何かに目覚めると、他のことが中々冷静に見えなくなる所だ。青木の態度は、溜息が出る程に、その勢いと熱気を体現していて、話す前から異常に疲れを感じた。


 青木に連れて来られたのは、渡り廊下で、外の秋風が夜空から吹き付けて肌寒かった。


「青木、寒いから中で話さないか?」


「ここで結構です。俺は寒く無いんで」


「…あ、そ。で、何?先生、まだ教室最終確認行かないとなんだけど」


「ひよに何か言いましたか?」


「は?何の話だよ?」


「俺が先生の所に行った話をしたかって聞いてるんです」


「する訳無いだろ?先生、そこまでクズでも無いぞ?」


 俺の言葉に、青木は腕を組んで俯いた。日和には青木の話はしていない。そこまでして、必死な生徒を陥れようとする子供でも無いつもりだ。青木は深夜に押しかけて来るほど戦闘態勢だったのに、こんな事を聞きに来ると言うことは、何か切羽詰まった事でも言われたか、されたかなのだろう。この17歳と同じステージに立って、挙句にその好きな相手を俺は獲得した訳だから、変に刺激をしたく無いと思った。それ以上聞くのも余裕を漂わせる気がして悪いし、無視するのも青木が生徒として気掛かりだし、そのジレンマに揺れていると、青木がこちらに背を向けて呟いた。


「先生は、一体何がしたいんですか?」


「いや、何がしたいって?」


「17歳の男の生徒相手に、何がしたいんだって聞いてるんです」


「Your guess is as good as mine...(いや、分からん…)」


 生徒に具体的な考えや感情を打ちまける程、若くも無い俺は、分からないていで返事をした。俺の返事を聞いた青木が、こちらの顔を一瞬見て舌打ちをしたと思ったら、一言、「マジでねぇ」と毒を吐いた。


「あのな、青木。一応言っておくけど、舌打ちは外国ではするなよ?」


「ここ、日本なんで」


「まぁ、日本でもするなよ。特に、目上には。そのぐらいの礼儀、弁えとけよ」


「年上札出すなら言いますけど、だったらその礼儀も弁えない年頃の男に押されてんじゃねーよ、って話です」


 その一言に、一瞬教師である立場を忘れて、酷く言い返してやろうかと思ったが、そんな大人気ない事をする程、社会人の自覚がないわけではなかった。

 腕を組み、俯いて溜息をつくと、青木はそのまま話を続けた。


「オッサンがいつまでも、ウロウロしてるのは目障りですが、先生はここの教員なので、我慢します。ただ、文化祭の間、ひよの予定は俺が全部抑えてるので、邪魔しに来るのだけは辞めて下さい。一応、報告しておこうと思って」


「日和にはその話、してんのか?」


「してます」


「それで了承を本人から得てるなら、そんな事を俺に言いに来る意味ってあるのか?」


「…アイツが今どうこう言ってても、俺はずっと一緒に回る予定なので」


 文化祭に好きな子と学校内を回ると言う行為、学生独特の感覚が世代差を露骨に感じざるを得ない。恐らく、日和はそれを断っているから、青木は俺が何かを言ったからだと思っているに違いない。ある意味、言ったが。


「じゃあ生徒の青木に一応報告。先生、文化祭の間、そこそこお仕事あって忙しい。お前がどう思ってるか知らないけど、学校にブラブラしに来てる訳でもないし、17歳の男にお前の言うように、押されに来てる訳でもない。先生な、先生の前に一人の人間としての意志もある。だから単に押しに流される程、伊達にオッサンじゃねぇよって話な?んじゃ。余り遅くなるなよ、帰るの」


 軽く手をあげて挨拶して、渡り廊下から校舎に入ると、その暖かい空気に、身体中が柔らかな毛布にそっと包まれたような感覚がした。思ったよりも、秋風は冷たい。

 少し歩いて振り向くと、青木が渡り廊下の柱に、手に持っていた鞄を打ち付けていた。


 17歳は17歳で、懸命なのは分かる。その時独特のあの感覚は、過ぎればどうやっても戻っては来ない。でも社会人は社会人で、その時の懸命がある。余りそこを、舐められても困る。


 クラスのカフェ設置がやっと終わり、夜の校舎に興奮した生徒達を追い出すのに一苦労した後、家路についたのは夜の10時半を過ぎていた。明日から始まる文化祭に、正直早く終わって通常運転に戻りたいと、生徒に顰蹙を買いそうな事を思い、その晩は夕飯も食べずに早々に寝た。


              ****


 文化祭初日、大量の飲み物と販売する焼き菓子をカウンター裏に並べる女子に、それを若干遠巻きに見ている男子生徒。この構図の純な事と言ったらない。何故か生徒と言うのは、文化祭、修学旅行に体育祭、何か日常と違う出来事のある時に、異性を意識し、告白のタイミングを図ろうとする奴が多い。こちらがそれを見ていても、明らかに普段と態度を変えるその様子に、若さと青春を感じ微笑ましく思う。


 担当クラスの教室を実行委員の男女に任せ、写真部の教室に向かうと、途中で日和にばったり会った。物凄い量のサツマイモを箱に入れて、何処かへ運んでいる途中だった。


「スゲー量だな、日和!どんだけ芋好きなんだよ!」


「だから!これうちのクラスの焼き芋の!誰が静香ちゃんなんですか!」


「ん?静香ちゃん?あ…不二雄氏の漫画?」


 まさかの返答に笑いが堪え切れず、口元を抑えて声を殺して笑っていると、日和が真っ赤になって芋の入った箱を俺に突きつけて来た。


「いいから!暇人なら手伝って下さい、先生!」


「いやいや、先生、忙しい。写真部の展示見に行かないとだから」


「…普通、手伝いませんか?重そうだな?とか、大丈夫か?とか」


「あ?お前、男だろ?そんぐらい、自分で持って行け。頑張れよ、静香ちゃん」


 日和の頭を軽く叩いて立ち去ろうとすると、日和が小声で言った。


「…恋人感、ゼロ…」


 思わず振り返り、日和を若干キツイ目で睨みつけた。


「お前ね…。ここ、学校」


「そうですけど、こんな時ぐらい、一緒に荷物運ぶとかしたいんです。そんな細やかな事もダメですか?」


 上目遣いで懇願する日和を拒絶する程、絶対に駄目なことでもなんでもないのは確かだ。


「あー、分かった分かった。何処運ぶんだ?」


 諦めて日和の手からダンボールを取り合えげると、日和は喜びを隠す事なく、顔全体で表した。その少し紅くなった頬に、キラリと光る大きな瞳に、青木が言う通り、押されてるなと自覚し苦笑した。


 日和のクラスメイトが待つ裏庭に行く途中、渡り廊下から校舎の裏を抜けていると、日和が校舎裏の階段に突然駆け上った。慌ててついて行くと、踊り場で待っていた日和は俺を階段に強引に座らせて言った。


「ここ、何処からも見えないって、知ってますか?」


「あー…マジか…。お前は…」


 抵抗する間も無く、17歳の男に押され暫くハグをした。日和の頭の位置が、少し上がった事に気が付き、何故か嬉しくなった。


 日和の策略にまんまとはまり、校舎裏の階段でした行為で少し乱れた気持ちを、一度渡り廊下にある水道でザブザブと顔を洗い落ち着けてから、写真部の展示室へ向かった。去年の展示は、日和がヒヤヒヤするような写真を提出していたので、今回は大丈夫かも若干心配だった。日和はオケ部の練習が忙しく、殆ど写真部には顔を出していなかったが、展示には写真を提出したと聞いていたので、その視察もしておきたかった。


 教室に到着すると、去年の展示とは少し変わって、それぞれ四切写真を、それぞれの撮影者の名前札の上に、自由に展示していた。今年入ったインスタ女子達の写真は、いかにもリア充アピールのポップなものが多く、高校生らしい可愛らしい作品が多かった。部長の写真は、若干テーマが重たく、一人で本気の報道写真に走っているのを感じる作品になっていた。日和の作品を探すと、たった1枚の写真がポツンと貼ってあった。それは、日和が家に来るなりシャワーを浴びたあの夜、俺が着ていた部屋着やシーツ、そしてあの朝一緒に食べた朝食などが、コラージュ写真になっているものだった。その余りの大胆な構想に、日和の本気を感じて開いた口が塞がらなかった。何処かに俺の面影らしきものが反映されていないか、くまなく写真をチェックしていると、部長が来て満足げに言った。


「日和君、最近めっきり部活来ないから、このままフェイドアウトかと思ったけど、かなりやる気のある作品作って来てくれて、嬉しいです。良いですよね、これ。色っぽさと、こう、青春感あって」


 青春…。そのワードに、俺が組み込まれている。そうこの写真を見て感じると、自分が無駄に汚して切り捨てたあの時間が、これで少し浄化される気がして思わず笑ってしまった。他の写真もチェックし始めると、肩を不意に叩かれ、振り返ると予期していなかった人物が満面の笑みで立っていた。


「Hi baby!来ちゃったわよ、また、今年も!」


「マジで、お前、どんだけ暇なんだよ?俺、仕事中なんだけど」


 マイアを見た写真部の新入部員が、大騒ぎを始めて面倒になったので、マイアの腕をひき、急いで廊下に出た。来るという連絡は貰っていなかった。


「来るなら連絡しろよ!」


「どうして?一般公開してるんだから、誰でもウェルカムなんでしょ?英人のクラス、何してんの?」


「カフェ。まあ、良い。来たなら売上貢献してから帰れよ?俺、忙しいから構うつもりねぇけど」


「またその口のきき方!」


 マイアに苦情を言いながら渡り廊下を歩いていると、今度はALTにばったり会った。


「Wow、スゴイきれーーー!オレの好み!Eight、ショウカイしてよ!」


「面倒クセェな、お前。日本人の彼女出来たって沸いてただろ?」


「だって、彼女凄いキレイだよ?Hey, I'm Joe, ALTしてマス…オナマエ、聞いても、ヨロシイイ、デスカ? 」


「はぁ…マイアです…」


 マイアは日本で遊んでいる外国人を毛嫌いしているので、ジョーから距離を置こうと敢えてそれ以上答えずに立っていると、空気を読まないジョーは鼻の下を伸ばしたまま呟いた。


「Maia…キレイなおナマエ、ですね…Oh yeah, uh…アシタの4時半から、あるのコウヤサイ、来ない?」


「おい、お前、あれ生徒と教師だけのな。一般人立ち入り禁止」


 調子付くALTを一喝すると、完全に引いていたマイアが目を輝かせた。


「えーー、それ言われると興味ある!どうにかならない、英人?」


「ナルよぉ、僕のPlus Oneとしてきたら、Okay」


「いや、そんな緩い感じなのかよ、ここって!」


「ALT、けっこー、ナンデモ許されるだよー、Eight!じゃあ、Give me your number, please!」


 マイアはこのチャラいジョーに、こうしてまんまと連絡先を手渡した。たかが高校の文化祭の後夜祭。だが、マイアはこの歳でそんなものに参加出来るのが、楽しみだと異常に喜んだ。


「何するの、後夜祭。キャンプファイヤーとか花火でしょ?」


「いや、ここの学校、ディスコに近いパーティだな。あのジョーが調子付いてDJして、踊ってる」


「YES!!最近踊り行く時間もなかったし、俄然楽しみになってきた。英人も踊るんでしょ?」


「適当にな。生徒盛り上げ要員だから、教師は。てか、お前来るならあの体育館、飾り付けるの手伝いに来いよ!あれ、すげー大変だから」


 毎年ここに来てからあの飾り付けに、恐ろしい程こき使われて来た俺は、ここぞとばかりにマイアを誘った。マイアは高校生のパーティに忍び込む対価として、手伝いに来てくれると了承してくれた。そして、明日どうせ来るなら今日はもう帰ると、俺のクラスで適度に売上貢献をした後、大人しく帰って行った。


 用を思い出し職員室に一旦引き上げようとすると、保健室の前の廊下の行き止まりで、日和と青木が話し込んでいるのを見てしまった。青木が日和の腕を掴んで何やら話しているが、全く俺に気がつかない様子の二人に、何故か声が掛けられなかった。

 大人の余裕でそうした訳ではなく、その場面に自分がいかに不似合いかを感じてしまったからだ。押されて、ビビって、年上面。なんとも無様だ。



 文化祭二日目、朝から生徒達が昨日にもまして精力的にカフェの売り出しに校内を歩き回っている最中、日和に来るように言われていたオケの発表を小ホールに聴きに来ていた。保護者や他校の生徒、教員が何名か覗きに来る中、壇上で準備をしている日和は俺をすぐに見つけ微笑んだ。咄嗟に目を逸らしたが、その逸らした先に青木が立っていて、青木はしっかりと俺を睨んでいた。寄り目で誤魔化したが、青木はそれに対して腕の下から中指を突き立てていた。流石に二度目ともなれば、本気で注意してやろうと思い壇上の方に移動し始めると、壇上に指揮者の顧問が出て来て、立ち止まった。


「本日はお越しくださり有難う御座います。本日はホルストの惑星より、木星を演奏いたします。この日の為に毎日練習を重ねて来ましたので、どうぞお楽しみください」


 日和からこの曲を練習していて、ヴァイオリンの曲としてもなかなか難易度が高く、趣味でしている程度の日和には苦戦を強いられたと笑っていたので、青木のことはすっかり忘れ、その曲に聴き入った。高校生が奏でるその曲のテンポと強弱のコントラスト、伸びやかな音に小ホールの中で聴いている者のみならず、外で聴いていた人間も感動を覚えたようで、演奏が終わった直後に大きな拍手喝采が中から外から響き渡った。気がついたら周りと共にこれ以上ないほど拍手をしながら、甲高い口笛を吹いていて、顧問の小池先生と目が合い親指を立てると、小池先生に初めて笑顔を向けられた。その直後に日和を見ると、日和は誰かに小さく手を振っていた。その先を見ると、日和の母親と弟らしき子供が嬉しそうに手を振っていた。そこから少し離れて立っている男性にも、日和は会釈をした。すぐに、父親だと分かった。


 親が子供の活躍を見に来るのは当たり前だが、そういう光景を実際に目の当たりにしてしまうと、罪悪感が尋常ではなかった。キスをしてしまった時点で、大分手を出しているという自覚はあったので、真っ新な状態の教師と生徒という関係を完全に超えているのは事実だ。それ以上に、日和が卒業したら堂々と手を出そうと思っている下心のある教師が、その生徒の親とまともに話すのは相当な演技力を要される。今まで嘘は腐るほどついて来たので、こういう状況に実際に陥っても何も感じないのではないかと思ったが、日和の両親と弟を見た時点で急に具合が悪くなり、その場をすぐに出て行くしか出来無かった。


 職員トイレに駆け込み、顔を何度も洗い、盛大に溜息を吐いた。あの家族の子供である日和の気持ちは、何事にも変えられないぐらい大事だ。だが、その日和を子供として育てている親御さんの気持ち、兄を尊敬している小さな弟の気持ちを考えると、居た堪れなかった。苛々して、密かに隠し持っていたタバコを持ち、人気のない校舎裏の階段の踊り場に向かった。校内で初めてタバコに火をつけ口から煙を吐き出すと、すぐに下から声が聞こえた。


「いーけないんだ、いけないんだ。セーンセーに言ってやろぉ」


「…お前、早くねぇか?朝から来る必要ないだろ?」


「ジョーが準備は朝からだって連絡して来たから来たのよ。ね、校内ってタバコいいの?」


「ダメ。誰にも言うなよ?てか、なんで俺って分かった?」


 マイアが階段を静かに登ってくると、笑いながら答えた。


「煙がOの形だったから」


 細身のジャンプスーツを着ているマイアの胸元に目をやると、懐かしいものが目に入り思わず顔が綻びた。


「なんだよ、マイア!まだ持ってたのかよ、それ」


「あ、気が付いた?英人でも覚えてるんだ?」


「そらな。お前に引きづられて一緒に買いに行ったから。捨ててくれて良かったのに」


 マイアの胸元で光るネックレスは、学生の時マイアに強制的に買わされたものだった。ティファニーの鍵のモチーフのネックレスは、付き合っている間毎日マイアが愛用していた。胸元のそれに手を伸ばして裏を見ると、記憶通りに8と刻印してあった。


「つかさ、8ってダサいな?」


「そ?私は気に入ってたわよ?インフィニティみたいで。私達の関係は、期間限定だったけどね?でもこの友情はインフィニティでしょ?」


 笑うマイアに釣られて笑うと、タバコを持っていた缶コーヒーに捩じ込み、大きなため息を吐いた。


「何?またバンビーノと何かあったの?こんな所で不良みたいにタバコ吸って」


 その指摘に苦笑いすると、思い切り伸びをして答えた。


「親が来てた。あいつの両親。それと弟。それ見て、言葉に出来ないぐらい凄い罪悪感で押し潰されそうになって吸いに来た」


「あははは、何よ!今更!だって、前にも会ってるでしょ?」


「ま、三者面談で母親には会ってるけど、こういう感じになってからは一回も会ってないし、なんていうかさ…俺が親だったら俺を殺すだろうなと思って」


「ま、散々煽っておいた悪友の私が言うのもなんだけど、私が親でも殺すわよ?だって17歳なんだから、親はまだ子供に子供でいて欲しいって夢を抱いてる時期でしょ?」


「…だよな。あー、ヤバイな…急に興醒め」


「じゃ、別れる?」


「…そうは言ってもな…」


 そう簡単に気持ちの切り替えが出来たら苦労はしない。現実的にあの家族の感じを見て自分自身に対して完全に興醒めしている部分はあるが、日和に対して醒めたかと言われたらそれは全くない。自分で自分に引いているだけだ。もう一本タバコを吸いたくなったので、タバコを一本出すと、マイアがその手を止めた。


「タバコ、辞めなさい。って私が言っても聞かないの知ってるけど」


「…いや、俺、お前と別れた後タバコ辞めてたから、聞かなかった訳でもないと思うけど」


「え?そうなの?」


 気が付いたら別れていた感じで、マイアが隣から居なくなって感じた喪失感のようなものに、自省を感じてタバコを辞めた。せめてもの償いというか、マイアに最後まで嫌がられていたものを一つでも辞めて、罪滅ぼしの気持ちにでもなっていたのだろう。その話をすると、マイアはサッと俺の頬にキスをして言った。


「ありがと。私英人と付き合って何もしてあげられなかったのずっと本当は心残りだったから、責めて禁煙のキッカケぐらい少しでも作れてたなら、口を酸っぱくして言い続けた甲斐はあったわ」


「…いや、こっちこそ悪かったな。ずっと嫌がるお前の前で吸い続けて」


「そうよ、本当反省しなさい?で、また元に戻るの勿体無いから、そのタバコ、預かるわ」


 日和に没収され、マイアにも没収され、いよいよ自分のタバコ縁のなさに肩を落とすと、マイアが笑った。


「良いじゃない、タバコなんて今どきダサいわよ?この時代にタバコがカッコイイと思ってるのは、バブル期勘違いして生きてたおじさんだけよ?」


「…カッコイイと思って吸ってんじゃねんだけどな」


「知ってるわ。でも、辞めた方が良い。教師なんて薄給って嘆いてる人は特にね?」


「あーーー…でもこのイライライライラしてるの、どうやって収めたらいいか分かんねんだよ…マイア、どうしてる?モヤっとした時」


 タバコが経済的にも健康的にも良くないのは知っている挙句に、他人に被害があるのもよく心得ている。しかし一度吸うとあの味は忘れられない。珈琲を飲めば吸いたくなる。外の綺麗な空気を吸えば、やはり吸いたくなる。ティーンの頃から死ぬ程吸って来ているので、身体の細胞が中々あの味と吸った時の感覚を忘れさせてはくれない。苦労して禁煙しても舞い戻る、これをどうしたら良いのか分からない。頭を抱える情けないその質問に、マイアは満面の笑みで答えた。


「踊る。これに限る。体動かすと多少のモヤモヤは消えるわよ?」


「うし、じゃあ後夜祭で踊るか?」


「Yes!そうこなくっちゃ。行こ、あの不良外人が待ってるから」


「あははは、その不良外人利用して後夜祭潜り込むお前も大概の不良だけどな?」


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