高校2年夏休み①
多分、と言う表現がここまで長く日和の心に引っかかるとは思わなかった。1学期の期末試験の答案用紙の一番下に、質問が書いてあった。
<Did you mean "maybe" or "probably"?>
その質問に無回答で返却すると、日和はあからさまに頬を膨らませて、俺を睨み付けた。
正直、どちらか分からない。好きだという気持ちがよく分かっていないのに、人に好きだと言うことは、大変間違っている行為であると生徒から教わった。この後に及んで、前言撤回すらしてあげられないのは、申し訳ない。ついでに言うなら、経験のない生徒にディープなキスをする事も、また大変間違っている行為であると学んだ。あの後、何度か視聴覚室や英語資料室に日和が来た際、これ以上ないぐらいの不器用さでキスを迫られた。頬にすると、決まってちゃんとしたのが良いと要求され、断るのに苦戦した。希望に応えるのは簡単だが、一度応えてしまえばその先は確実になし崩しになる予感しかしなかった。自分のだらしなさを自覚しているだけに、校内でそういった行為には及べない。卒業まで待とうと思っていたのに、あの晩、キスをした時点でもう待っているとは言えないが、一度だけの約束で、この先これ以上、関係を進めることは出来ない。日和がどんなにそれを望んでも。
****
「先生、今年の撮影会はインスタ映えスポット巡りする事にしました!」
夏休み前、仁道が嬉しそうに報告した。今年は新入部員女子が皆インスタをしている事もあり、そう言う事になったらしい。部活動の指導も教員の仕事とは言え、インスタと言うものに無縁の俺にはこのインスタ映えスポット巡りはただただ、面倒だ。日和はオケの練習が忙しく、このインスタ映え巡りには参加出来ないと、残念がった。
「先生、新入部員に囲まれて、チヤホヤされるんでしょうね」
「日和…忘れてるようだけど、仕事だから、これ」
「十分分かってますけど、凄く不愉快です」
「堂々と言い切ったな…。じゃ、俺、教師やめる?」
「それは困ります!僕が生徒の内は学校に居て欲しいです。その後は辞めて頂いても結構ですが」
「…日和って、意外に面倒だな?」
「そうです。僕、結構面倒だと思います」
綺麗な花には棘があるとは言うが、可愛い生徒にはかなりの癖があるようだ。思っていたよりも、癖の強い日和の事を知れば知るほど、厄介だと思う以上に興味が強まった。可愛いだけではなく、芯のある押しの強さは、案外嫌いではない。
「先生!!!こっち!このロケーション、最高だと思いませんか??」
「あー…な。まぁ皆適当に。先生、ここで珈琲休憩入りまーす」
「てか、先生、さっきも普通に珈琲飲んでませんでした?」
「大人になると、水と同量のコーヒー飲まないと、生活していけないんです」
結局鎌倉のインスタスポットとやらを巡ってはいるが、さっきからカフェにばかり寄るので、朝から4杯目のコーヒーを飲んでいた。夏の鎌倉の暑さは尋常ではない。額に滲む汗を持ってきたタオルで拭くと、無性にバイクに乗りたくなった。今日は9時前には家に着くだろう。その時間帯なら少しは気温も下がっているだろう。携帯をしばらく眺め、日和にメッセージを送信した。
<夜、バイク乗る?>
オケ練で忙しい筈なのに、間髪入れずに返事は来た。
<行きます!!!>
携帯の画面から顔をあげると、部員の女子達が夏の空に響き渡る甲高い声で、映えるーと叫んでいた。子供の成長を見るのは楽しい。この子達も後3年後には、大学生。日和も、後一年半で、卒業。
最近、自分の心が異常なほどに落ち着いていることに違和感を覚える。母の背中を見送ったあの朝から、落ち着く事のなかったこの気持ちを、常に紛らわせるために勉強に耽ったり、中学からは女遊びが酷くなった。タバコや酒は高校の時から。日和の年には普通に家の窓からタバコを吸って、外に投げ捨てていた。最低だった。日和とあの頃、もし同級生で出会っていたら、確実に俺はあいつとは友達にもなっていなかっただろう。
目の前ではしゃぐ生徒の姿を見ていると、突如として自分の置かれた立場が、不明瞭に見える。この生徒達と、俺との間には明確なガラスの壁があるのに、手を伸ばせばすぐそこにあるその世界とは、何処かで繋がっていて、それが恰あたかもこれから先も続いていくような、ひどい錯覚。だが現実は、そうではない。現実は、たった3年の関係で、それが終われば皆巣立って行き、それが大事でそれが全てだ。卒業してから学校に会いにくる生徒もいるが、大抵一度顔を出したら気が済むのが生徒で、それをにこやかに受け入れるのが教師だ。
この子供達が広い世界に羽ばたく後押しをするこの仕事を選んだのは、間違いではなかったとは思う。それと同時に、ここから自分自身が何処に羽ばたいていけるのか、疑問が残っていた。母の後を追って就いたこの職から、俺は何処へ向かっているのだろうか?
「お疲れ。寄り道しないで家帰れよ、お前達!」
「はーい!先生、さよーならー!!!」
結局夕飯まで一緒に食べる羽目になり、子供達皆のお財布と化した俺は、寒々しい財布をケツに仕舞って思った。高校教師の薄給、甘く見積もるなと。
辞めたタバコをもう片方のポケットから出し、火を点けると気分が落ち着いた。マイアに散々やめろと言われ、マイアと別れた後に辞めたタバコ。こんなに明らかに体にいいことなど一つもない物に、依存する人間は心が弱い。
米国で連んでいた奴らは、大抵皆ドラッグを吸っていた。それを吸い、ハイになる友人達をタバコを吸いながら漠然と眺めていたのを思い出す。アップテンポなダンスナンバーに、ドラッグ独特の匂いと、奇声をあげて燥ぐ奴ら。手持ち花火で空に絵を描き、大笑いをして騒ぐ大勢の中にいて、尚孤独だった自分。あの匂いは苦手だった。それでも、それを悪い事だとか、いけない事だと指摘したこともなければ、思った事もなかった。したい奴はしたらいい。その程度にしか思わなかった。もし、あの時、辞めた方がいいとあいつらに言っていたら、俺はどうなって居たのだろう?その場でボコボコにされていたか、後で感謝されていたのか。
どちらにしても、俺はきっと一人だったに違いないし、止めたところであいつらの人生に何ら影響は無かっただろう。それでも、あの頃と同じ年頃の日和を見て思う。タバコも、酒も、ドラッグも、無意味なセックスも、日和には縁がない世界であって欲しい。それが人生にもたらす幸福は完全なる紛い物で、本当の幸せはそこからは決して得られない。それを、自分が散々経験して知っている。
手持ちの灰皿にタバコをねじ込み、最後の煙を口から吐き出すと、日和がこちらを見て微笑んだ。
「タバコ。辞めた方が良いですよ。体に良くないです」
「おー。ま、その内な。早いな?」
「先生、今ポケットに仕舞ったタバコ、ライターと灰皿、貸してください」
「絶対に嫌だ。行くぞ」
日和を無視して歩き出すと、突然日和がパンツの後ろにあるポケットに手を突っ込んだ。
「Hey!!何すんだよ、お前!」
「没収です!これ、全部!」
「何でお前にそんな事まで指示されなきゃいけないんだよ!俺は大人なの!良いんです、タバコ吸っても!」
「ダメです!先生が、僕より歳上だから!長生きして貰わないと、僕、老後一人とか絶対嫌ですから!」
17歳の子供が老後と言う余りに気の長い話をするので、思わず爆笑すると、日和は恥ずかしそうに照れ笑いをした。
夏の夜のバイクは格別気持ちが良かった。頬を浚う風の温度、街全体の浮き足立った雰囲気、後ろで必死に俺にしがみ付く日和は、必要以上に何度も俺の背中に頬を擦り付けている。笑えた。飼い猫に懐かれた気分だ。
日和の希望で東京タワーの見える増上寺の前に来ると、日和はメットを外して東京タワーを見上げた。
「綺麗!凄い!先生、カメラ持って来ましたか?」
「持って来るわけないだろ?携帯だって置いて来てんのに」
「え?何で?」
「バイク乗る時、ケツに物入れるの好きじゃない。後、椅子の中に入れとくと忘れるから、何も基本持たない。あ、一万札と免許だけケツに入れてあるけど」
「そっちの方が良くないと思いますけど。運転中、飛んだらお終いですよ?」
「ま、飛んでく金は、飛ばしとけば良い」
「…貧乏な癖に」
「おい、事実を普通に弄るのやめろ」
笑うと、日和が背後から思い切り抱きついて来た。日和お得意の顔を何度も背中に擦り付けながら、小さな声で唸るように言った。
「んー……。好き」
「日和って、顔の割に積極的だよなぁ…」
「顔の割って何ですか?」
「怯える小鹿みたいな顔してるのに、中々中身は獰猛な野良猫」
「猫…ですか?微妙ですね…」
「団地のボス猫ぐらいの貫禄はあるから心配するな」
「じゃあ言わせて貰いますけど、先生はライオンみたいなオーラして、中身は小鳥ですよね?」
「…何故鳥?」
「綺麗な声と容姿で人を惹きつけて、捕まえたくなる。でも捕まえて籠に仕舞えたと思ったら、いつの間にかに何処かに飛んでいきそうだから…」
俯く日和の頭を持ち上げると、日和の瞳は潤んでいた。いつもこの瞳は潤んで見える。今だけではないのかも知れない。それでも、不安げなその表情に、迷う余地はないと思った。両頬を持ち上げて、顔を近づけると日和が呟いた。
「ちゃんとした方がいいです…」
一瞬当たりを見回し、希望通りのキスではないが、頬や額ではなく、瞼の上にした。増上寺の背後に映える東京タワーを背景に、生徒の日和にキスをする教師など、もう言い訳無用に解職処分されて良いはずだ。それでも、今触れている皮膚の薄いその柔らかな部分の感触を、出来る事なら何時迄も味わっていたいと思った。
日本の高校教師の夏休みに、余り楽しい事は無い。アメリカから時々友達が送って来る写真を見ると、羨ましいと思わずには居られない。彼らは生徒が休みなら、ほぼ皆同じく休みだ。その間に生活費を稼げない教師も居るので、その間はサマーキャンプで稼いだりという現実もあるにしても、休みが長いのは羨ましい。相変わらずの酷い湿気と、熱風の中、学校と家を往復して居る日々に、今年の夏は日和がいると言う小さな変化があった。
夕刻、ビールと夕飯の入った買い物袋を下げて家に帰ると、オンボロアパートに居着いたボス猫が、体育座りで玄関前で本を読んでいた。家には上げないとあれだけ念を押したのにも関わらず、とことん人の話を聞かないその姿勢に笑いながら声をかけた。
「おい、ストーカー」
「お帰りなさい。今日のご飯、何ですか?」
「冷麺。てかさ、お前、マジで家には上げないって言ったのに、どうしてこうも先生のいうことを聞けないんだ?」
「それは、夏のせいです」
「はぁ??」
「夏は恋の季節だから、恋した相手に会いたくなるように脳から指令が出るらしいです」
「だったら職員室とか来たら良いだろ?俺、大抵学校にいるし、お前も部活で来てるんだから」
「学校だと先生最近、その…全然キスしてくれないから」
「…バレたら、俺、首だから」
バイクで出掛けて以来、やはりどうしても卒業を見届けたいと思うようになり、学校でどんなにしてくれとせがまれても、どんなキスもするのは辞めた。溜息をつくと、日和は立ち上がり少し背伸びをして、素早く頬に口付けた。
「あのな、積極的なのも良いけど、ここ外」
「ドアの中入ったら、良いんですか?」
「良く無いって言っても、お前するだろ?」
「します。その為に来てるので」
「…こういう時だけ本当男らしいな、お前」
鍵を開けて家に入ると、ドアを締めた途端に日和が抱きついて来た。抱きつかれる事にも、頬を擦り付けられる事にも慣れはしたが、家の中でキスをして居ると、耐えているのが拷問のように感じて苛立ちが募った。
「あのな、俺、お前と違って本当盛りのついた年頃だから、こういうのマズイんだって。前にも言ったけど、先生の前に男。分かりますか?」
「勿論。でも先生、知ってますか?男の性欲ピークは10代です。だから僕の方が先生より断然我慢してます」
「…なのに何故こんな事する?」
「10代だからです。これまで我慢したらやり場が無くなります」
お互いに拷問なのに、我慢できないと言うのは、もう完全に脳が正常運転出来てない。だが玄関で俺に夢中でキスをして居た日和が、突然体を離して叫んだ。
「んあーーーー!!!駄目だ、先生!日和、帰りますっ!!!!」
「え?え?何、いきなり?」
「このままだともう全然我慢出来そうにないです!んんんん…うし!先生、さようなら!」
そう言い残し、猛スピードで玄関を出て行く日和の背中を見送った。俺も、我慢は出来ない所まで来て居たから都合はいいが、反応してしまったこの身体、どうしてくれるんだよと言う脱力感は拭えなかった。
仕方がないので、夕飯の前にシャワーを浴びた。一人で処理することなど、もうお手の物だが最近その度に罪悪感を感じるようになった。頭の中で想像する対象は、今のところどうやっても日和にはならないので、その度に、酷く日和を裏切った気がして胸が痛んだ。シャワーから出るとメッセージが来ていた。
<今日、家居る?行ってもいい?>
マイアからだった。もうアメリカに帰っていると思っていたので驚いた。
<居る。けどビール一本しかない>
夕飯を作り、食べ始めた頃ドアをノックする音がした。だが、外階段の音で、すでにそれが誰かは分かっていた。麺を口一杯に頬張りながら、玄関に向かうとマイアが明るい声で言った。
「英人、ワインとチョコとチーズも持って来たわよー」
チョコとチーズと言う組み合わせはどうかと思ったが、ドアを開けて見たマイアの姿に一瞬怯んだ。夏のワンピースは際どい程にスリットが脇に入っていて、片足を前に出して立って居るマイアの太ももは露わになっている。オフショルダーから出て居る肩は、綺麗に日焼けしていて、鎖骨にラメの入ったクリームが塗り込まれて居る。ふくよかな胸元も艶かしい。思わず口の中の物を勢いよく飲み込むと、マイアが爆笑した。
「英人って、本当に正直ね!今、絶対私見て、やりてーって思ったでしょ?」
「お前、俺を誘惑しに来たわけ?こっちが欲求不満なの知ってて?俺がどういう男か知ってて?」
「だって言ったら、どうする?エッチする?」
「Of course not! (しねぇよ!)お前もあいつも、俺の周りはSしか居ないのか??あーーー、イラつく!」
腹が立ってリビングに大股で戻ると、サンダルを脱ぎながらマイアが言った。
「あの子がSって、意外ね。絶対Mっぽいけど。あ、なんか作ってる。何?」
「夕飯。もう食べた?て、俺一人分しか作ってないけど」
「食べて来たわよ。冷麺?美味しそう」
「一口食う?」
「食べる。あーーー」
「はい」
冷麺を口に入れる時、マイアの口の横に傷があるのに気が付いた。
「傷、どうした?」
「なんでもない」
マイアはいつになく空元気だった。いつも以上に饒舌におしゃべりをして、いつも以上に俺から目を背けいていた。
「でね、従兄弟が私はもう25歳だからオールドメイドだって言うのよ?酷いでしょ?」
「今時結婚なんて、皆30過ぎだろ?今楽しんでおいた方が良いと思うけどね、俺は」
「そんな事言って、英人はもうオンリーワンに出会ってるんでしょ?」
「うーん。どうだろ?そんなの実際付き合わないと分からないしな」
「付き合ってるんでしょ?」
「いや、付き合っては無いだろうな。今の状態、何て形容したら良いか分からない。色々初経験すぎて」
日和と俺の関係は、付き合っていると言えるのだろうか?キスはしているし、時々二人でバイクに乗って出掛ける。でも、それだけだ。卒業後にちゃんと付き合えば良いと思っている今の状態を、きちんと表すことの出来る言葉が存在するのかもよく分からない。考え込んでいると、マイアが笑った。
「良いわね、なんだか新鮮な感じで」
「そうか?そこそこ拷問だぞ?お前は?そう言えば、マイアはいんの?付き合ってる奴」
「うーん。居た、かな?もうダメだと思う」
「え?何で?」
「英人、軽蔑すると思うわよ、私の話聞いたら」
「お前、9歳下の男の生徒に手を半分出してる俺に、それ言う?」
「あははははは!確かに!!!」
マイアは静かに、今付き合っている男の話を始めた。相手は、日本の取引先の男で既婚者で子供がいる。正直、驚いた。マイアは真面目で、真っ直ぐで人の道に逸れたことが大嫌いで、不倫なんて人間として最低だとよく学生の頃口にしていた。第一、マイアは物凄く容姿端麗で引くて数多だ。既婚者にいく必要性がよく分からない。会社も、マイアはアメリカにいるのだから、その男と会うのは数ヶ月に一回だと言う。益々理解に苦しむ。話を聞いていると、マイアが溜息をついて机に腕を伸ばして言った。
「あー、私、どこで間違っちゃったんだろ?ねぇ、英人、私達、あの時別れてなかったら、今頃どうなってたと思う?」
「どうだろうな?お前が相当苦労してたかもな。俺の節操のなさに」
「それは無いわ。英人、遊んでたけど、浮気は絶対しなかったでしょ?」
「そうだっけ?覚えて無い」
あの頃、もっとお互い話していたら、今頃まだ一緒にいたのだろうか?そしたら、日和と俺は、こんな関係になっていなかったのだろうか?どちらが良いかなど、今となっては考えるだけ無駄だ。
「な、マイア。そろそろ送るよ。もう遅いし」
「帰りたく無い。今日は泊めて。本当にお願い」
「布団も無いし、日和が嫌がるから、こういうの」
「何ー?あの子、そういう事いうタイプなの?」
「アイツ、結構面倒なんだよ。機嫌損ねさせると面倒いから。タクシー呼ぶから」
「英人、お願い。今晩だけで良いから。私、居間で寝るし。お願い」
マイアは無理をいう性格では無い。それはよく分かっていた。だが、今日は帰りたく無い理由があるのだろう。諦めてベッドのシーツを取り替えると、マイアを運んでベッドに乗せた。
「一回だけだからな?後、ここ泊まった事、誰にも言うなよ?」
「言わない。ありがと、何も聞かないでくれて」
「こちらこそ、ありがと。教え子と将来付き合おうとしてる究極ど変態の俺に、普通に接してくれて」
目を見合わせて笑うと、マイアが俺に背を向けて寝転がり、小さな声で言った。
「…あのね、お姉ちゃんにバレたの。不倫」
マイアと真里さんは仲が良い。いつも一緒に行動を共にしていて、いつも一番の親友は真里さんだとマイアは言っていた。口の傷は、喧嘩をした跡だろうか?姉妹の喧嘩で手が出るなど、想像していなかった。マイアの肩が小刻みに震えだし、鼻をすする音がした。こんな状態のマイアを、放って置くわけにいかない。一番どうしようもない時期の俺を、少しはまともな生活に戻してくれたのは紛れもなくマイアだ。
隣に座り、マイアの背中を摩りながら言った。
「荷物、明日俺が取り行く。住所教えて。アメリカ帰るまで、居て良いから」
「…でも…あのバンビーノは…?」
「話す。お前の事情は伏せて、お前がここにいる事ちゃんと話す。心配いらない」
「ありがと…ごめんね…本当に…ごめん…」
「その代わり、その際どい格好でうろつくの、マジやめろよ?俺の理性を試すような事したらケツ蹴飛ばして追い出すからな?」
「ぶふふ…英人…あの子が居ながら…最低…」
「しょうがないだろ?俺は男なんだから。ほら、寝ろ」
「ん。Good night…」
「Good night. Sleep tight.」
マイアの啜り泣く声は、それから暫くして優しい寝息へと変わった。生きていたらいろんなことがある。マイアは大事な友達だから、日和も流石に理解してくれる。そう思いながら居間の大きなクッションに顔を埋めて寝た。
翌日、マイアのお姉さんの家に荷物を取りに行った。
「ごめんね、なんか私達の喧嘩に英人君巻き込んで」
「いいえ。でも、アイツも自分で自分のした事、本気で反省してるし、立ち直ろうとしてます。だから、信じてやって下さい」
お姉さんが怒ったのは、自分も既婚者で子供がいる立場だからだ。それは理解が出来た。当たり前だと思う。自分がもし、同じように裏切られたとしたら、それはとてつもなく悲しく苦しい生き地獄の始まりになる。お姉さんが感情的になって、マイアを引っ叩いたとしても仕方がない。マイアの小さな荷物を肩に掛け、小さなスーツケースを引きずりながら家に向かうと、日和が道の向こうから歩いて来た。
俺を見て、満面の笑みで走り寄ってくると、俺の持っている荷物を見て走る速度を落とした。明らかに女物の荷物に、スーツケース。日和はゆっくり歩きながら、俺の前に来て足を止めた。
「…これ、何ですか?」
「友達の。今、俺の家に居る。これからアメリカ帰るまで、家に泊める」
「アメリカ?あの人ですか?前、演奏会一緒に来てた?文化祭にも来てた?あの人ですか?」
「そう。でも、お前が心配するような事何もないから」
「…僕は、嫌です。絶対に。泊めるとか、絶対に。嫌です」
「あのさ、お前が嫌でもしょうがない。事情があるから。我慢して欲しい」
「無理です。絶対に。無理です、そんなの本当に無理!!!!!」
日和が嫌だと思う気持ちはよく理解できる。でも、マイアを今の状態で放り出す事は出来ない。顔を赤くして泣きそうな顔をする日和の頬に、頬を当てて耳元で呟いた。
「俺は、日和としかキスしない。心配なら、合鍵渡す。いつうちに来ても良いように。お前が突然家に来ても、俺はやましい事はしてない自信あるから」
日和の顔を見ると、日和は目を潤ませながら無言で手を出した。
「じゃあ、下さい。合鍵」
「…マジか?こういう時は普通、じゃあ分かりましたって、言うもんだろ?」
「言いませんでしたっけ?僕、結構面倒臭いんです。だから、下さい。鍵」
至って真顔で手を出している日和に、諦めの境地に達した。この男は、頑固だ。
「あーーーー!!もぉ、わーったよ!ちょっと待って。今作ってくるから、鍵!ほんっと、お前は…」
近くのスーパーで合鍵を作って、日和に渡すと日和はそれでも納得いかない顔をして俺を見た。
「先生、僕、先生が好きなんです。凄く。本当に」
「知ってる。心配すんな。マイアは1週間でアメリカ帰る」
「1週間…」
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