高校2年1学期②

 翌週、写真部の外回りがあったが、日和は来なかった。今度はコンクールの練習があるとかで、特に2年になってから写真部に顔を出す回数は減っていた。写真部員は他にも掛け持ち部員が数名おり、2年になった途端にやはり日和のように来る回数が減っている生徒が増えた。その代わり、新入生女子が15名も入部してくれたお陰で、部長はご機嫌だ。


「優月先生、今回入ってきた女子美人ばっかりだし、皆ちゃんとカメラ持ってるし、最高です!あーざーっす!」


「いや、俺は何もしてない。お前達が頑張って宣伝したお陰だろ?」


「いやいや、そうでもないです。どうも、あの部員は先生目当てっぽいので。今のまま、イケメンキープして下さいね、先生。いきなり太るの禁止です。あと、突然の結婚も禁止ですよ、良いですか?」


「なーんだよ、それ。絶対ないって。そんな事より、来週情報処理室使うなら、ちゃんと予約入れておけよ?」


「はい!じゃあ、先生さようならー!」


「おー、気をつけてな」


 近所の河川敷で撮影をしたので、そのまま解散すると、学校に急いで戻った。今日は日和が待っている予感がしたからだ。携帯を見ると、携帯にはやはり何もメッセージが来ていない。こういう時は大抵の場合、いつもの場所で座り込んで待っている。

 小走りで学校へ戻ると学校に到着する前、雨が降り出した。少しスピードを上げて走ると校門を潜るその瞬間に、青木が日和の手を引っ張り全速力で走って来て思い切りぶつかった。日和を見ると、日和は目が赤くなっていた。青木を見ると、青木も目が赤い。どう声をかけたら良いのか一瞬迷うと、青木が先に口を開いた。


「俺が、俺の方が先だった!先生じゃ、絶対に無理だから!」


「What the…?」


「なんでもないです、先生、翔もうやめて、そういうの」


「ひよは、こんな奴の何が良いんだよ?こんな奴、お前を不幸にしか出来ねーよ!」


 雨脚がドンドン強くなる中、3人無言でお互いを見合って立ち尽くしていた。状況がいまいち掴めずにいると、日和が青木の手を払って、俺のシャツの袖を引っ張った。


「先生、風邪引くと仕事に支障出ますから、戻って下さい」


「…日和と青木は?先生の傘、貸すか?」


「大丈夫です、走って帰ります。さようなら」


 青木の横を素通りして日和が走ると、青木もその後を追った。理解出来ずに二人の背中を見送ったが、日和からその後説明するような連絡は来なかった。そして次の日、日和は学校を休んだ。


 <おーい、大丈夫か?風邪か?>


 日和にメッセージを送ると、すぐに返事が来た。


 <大丈夫です。でもお見舞い来てくれたら、嬉しいかもです。>


 担任でもないのに、ただ風邪を引いている生徒の家に見舞いは、どう考えても不自然だ。それは無理だと返事を送ろうとすると、間髪入れずにまたメッセージが届いた。


 <母は今日弟連れて、母の友人とコンサート行くので、帰りが10時頃です。お腹空いた。>


 最後の一言、これがなかったら、確実に行かなかった。お腹が空いた生徒を放置はいかんという、苦しい言い訳を正当化の武器にし、部活は部長に任せ、学校を5時に出ると久々に本気で走って帰宅した。家から朝取った出汁をタッパーに詰め、米、卵と梅干し持参で日和の家に着いたのは、6時だった。


 呼び鈴を鳴らすと、猛スピードでドアが開き、パジャマにパーカーを羽織った日和が出て来た。全く風邪を引いてるようには見えなかったので、安堵を覚えた。


「Playing hooky, huh?(サボりか、お前)」


「No! I did have a fever this morning…not now, but I did...(違います!朝は熱あったんです、今はないけど…)」


 しおらしく返事をする日和に、嘘ではないのはよく分かるので「治って良かったな」と伝えると、日和は静かに頷いた。


「けど俺はお前の母親じゃないから、お腹空いたとか連絡してくるのは辞めてくれ」


「すみません。でも、来てくれましたね?」


「腹空かしの病人を放置する程、生憎薄情でもないんだよ。お粥な、一応。台所貸して」


「はいっ!」


 日和の家の台所は、俺のアパートとは大違いで、ガスコンロも4口あり、毎日使っている割に綺麗に片付いていた。すぐ目の前に土鍋が出ていたので、米を炊き始めると日和が後ろをウロウロし始めた。


「一応病人なら、座るか寝てるか、どっちかにしろよ」


「すみません。なんか、先生が家にいるって…凄いなんて言うか…」


「いつもの語彙力何処行った、日和?何か、何て言うか、じゃ何も伝わらない」


「だってこういう経験ないですし、どういう表現が合ってるか分からないんです。好きな人が自分の家の台所で、風邪引いてる時にお粥を作ってくれている。って状況の感情、どの言葉が合ってるんですか?」


「…知りません。良いから座れって!」


「…はぁぃ…」


 実際俺にも、そんな経験は一度もない。だから聞かれても分からない。頼んでもないのに作って貰った事は何度もあるが、好きな人ではなくその時寝ていた女、がピタリと当てはまる。作ってあげた事など、実の父親以外にはない。土鍋の蓋がカタカタと音を立て、水蒸気が小さな穴から白濁とした汁と共にボコボコ出始めるのを、無心に眺めて思った。今のこの状況は一体何だろうか?


 よく考えれば考える程、この状況は奇妙だ。教師が生徒の家の台所を、勝手に拝借してお粥を作る。日和を家には上げないと宣言したのに、日和の家に上り込むのも支離滅裂している。そんな事にすら気が付かず、ここに駆け付けた自分の思考回路に困惑する。教育者として筋の通らない行動をするのは、致命的だ。思わず本音を呟いた。


「What am I thinking?(何考えてるんだろ、俺…。)」


 急に冷静になり、溜息が漏れた。この状況、良い筈がない。弱火でコトコト炊き上がるお粥を少し味見し、火を止めた。


 ソファからこちらを眺める日和は、やはり少し熱のせいか、いつもより黒目がちの瞳が潤んで見えた。視線が合った途端に、目を輝かせる日和の口元は大きく両端が上がり、目の下の涙袋がふっくらと盛り上がる。まだティーンの可愛らしさが残る生徒の家で、何をしているのだろうかと再度思い、苦笑した。

 ソファに歩み寄り、片膝をついて日和の視線に高さを合わせると、日和は一瞬緊張した表情をしたが、こちらは至って真顔で伝えた。


「帰る。お粥出来たから、ちゃんと食えよ」


「えっっ!!!??何でですか?」


「先生だからです。帰ります」


「でもっ!僕と先生は、その……」


「ヤニ切れで先生は限界なの」


「……は??先生、タバコなんて吸ってましたか?」


「合法だし、別に酒を飲もうとタバコを吸おうと、ラブホに行こうと大人の俺は自由なんだよ」


「…ホテルって年齢制限あるんですか…?」


「知りません。でも制服では入れないだろ、多分な?」


「と言いますか、先生、行った事あるって事ですよね…?」


 星の数ほどある。意味のない性行為に罪悪感を感じなくなったのは、いつだったのだろう?目の前で戸惑う表情を浮かべるこの生徒には、そういう風にはなって欲しくない。真っ直ぐこちらを見つめ続ける日和の視線に、背徳感を感じざるを得なかった。こんなに純真の塊のような瞳を持つ日和と、ここまで落ちている俺と、どうしたらまともな関係が築けるのか、誰か教えて欲しい。


 その場を早く立ち去りたい気持ちに押されて、日和の肩に手を乗せて立ち上がると、日和がその手を掴んだ。


「さっきのは愚問ですね、忘れて下さい。僕には関係無いですから、先生の過去とか。今、僕の事を少しでも意識してくれている事実だけで、十分です」


 寂しそうに笑顔を取り繕う日和に、息が詰まる思いがした。過去は結局俺の一部で、それは変えられない。母親の末路も、俺の腐った生活も、変更不可能の現実だ。気がついたら何も言わずに、日和の家を飛び出していた。


 青木がどういうつもりで発言したのか分からないが、俺は日和を不幸にしかしないと言った言葉は、大方間違ってはいないのだろう。それが分かっていながら、待っていたいと思っている自分の愚鈍さが滑稽で、走りながら一人笑い出していた。

 日和と縮まる関係の中で、屋上に行くこともなくなり、心が落ち着き始めた気がしていた。だが現実は年下の日和の存在に寄り掛かり、見るべきものから目を逸らしているに過ぎないのだろう。

 純粋な気持ちを誰かに抱いたことも、抱かれたこともなく、適当に周りに合わせて適当に周りの希望に答えて生きて来た。日和の穏和で嘘のない視線と、不器用この上ない純度の高い態度、駆け引きなくただ俺に好意を抱いて欲しいと思うその気持ちは、今迄誰からも感じた事がなかった。だから、それに甘えて待っていたら、いつかは俺もあの嘘偽りのない心に見合うような人間にして貰えるのかもしれない、という他力本願。後悔とは、後で悔いると書くけれど、何かが始まる前にすでに悔いている場合でも、それは後悔に変わりはない。待ちたい心と、消すことの出来ない過去への悔恨に苛まれ、腹の底から湧き上がるものを押さえつける為、コンビニに寄ってタバコを買った。


 一本火を点けると、煙が肺の中に染み込んでくるのを感じ、急にまた笑いが込み上がる。情緒不安定な25歳の男、痛い事この上ない。


 黙っていても日々夏に向けて外気温は生暖かく変化していき、夜空の暗ささえも明るみを帯び始める。肺を充満させた煙を、丸い形にして口から出した。米国でどうやってOの形に煙を吐くか学んだ。まだ高校生だった。日和の顔を思い出し、空気に溶けて行くOを眺めて、一筋涙が溢れた。


「英人??」


 振り返ると、マイアがスーパーの袋を下げて立っていた。


 日和と何度か話した家の近くの公園で、マイアとベンチに座り缶コーヒーを飲んだ。マイアはお姉さんの家に滞在していて、義理のお兄さんが今日は帰りが早かったので、気を使って家を出て無意味にフラフラ散歩をしていたらしい。スーパーの袋の中身は、ワインの小瓶1本、チョコレート1枚。


「ワイン片手にチョコ、昔から変わらないな、マイアは」


「ほっといて。これがないと、私生きて行けないから」


 マイアと付き合っていた頃、必ず俺の部屋には食べかけのチョコと、空いたワインの瓶が綺麗に整列していた。マイアとは、うまくいっていた気がしたが、気がついたら別れていて、何故別れたかもいまだに思い出せない。好きだったかどうかは分からないが、一番身体の相性は良かったのは覚えていた。


「英人、さっき何で泣いてたの?」


「泣いてない。タバコの煙が目に染みただけです」


「ははは、その言い訳こそ、昔から変わらない」


「そんな事言った記憶全然ねぇよ」


「そうね、英人そういう所、本当変わらない」


 マイアは長い髪に細い指を均等に差し込み、ゆっくりとかき上げながら俺を見た。


「英人、私達何で別れたか、覚えてる?」


「いや、全く。今丁度その事考えてた。でも、マイアが俺に愛想を付かせた、って所だろ、多分。俺が適当だったから」


「やっぱりね。英人ってさ、いつもそうだよね。Well, I'm not a Monday morning quarterback, so that's that. (ま、今更終わった事あれこれ言うつもりないけど)」


「Huh? (何だ、そりゃ?)まぁ良いけど」


「Want some?(食べる?)」


 チョコを差し出され、急に自分がお腹が空いていた事を思い出した。


「Thanks, I haven't had dinner yet...(頂く、俺夕飯まだだからさ…)」


 カカオ70パーセント、マイアの拘りは昔から変わらない。少し苦味のあるチョコを食べ、更にブラックコーヒーを飲むと、携帯が鳴った。画面を見ると、日和からメッセージが入っていた。


 <何か気に触るような事を言ってしまったなら、すみませんでした。お粥、美味しかったです。>


 マイアが画面を覗き込み、溜息をついて俺の肩に頭を乗せた。


「英人、この前の本気だったの?私、冗談って言うか、気まぐれ的な事でそんな事言ってるんだと思ったから、それに乗っかったんだけど…。あの子17歳とか、そんなもんよね?ちょっと、違くない?」


「…分かってる。それに、俺はこんなだし」


「こんなってどんなよ?」


「マイアの知ってる通りの、だらしが無い適当な男」


「そんな事ないよ、英人。私、そんな風に思った事一度もない」


「じゃ、ゲスいチャラ男?」


「それも違うわ」


 そう答えてすぐにマイアが頭を上げ、口のすぐ横にキスをした。挨拶でするキスよりも、明らかに唇に近いその位置にされたキスは、数秒の出来事だが、瞬時に日和の顔が脳裏に浮かんで罪悪感で息苦しさを覚えた。マイアは唇を離すと、微笑みながら俺の額を指で突いた。


「今、英人、凄い顔してる。そんな顔するんだ、英人でも」


「…何、今のは?」


「ゲスイチャラ男はそう言う顔、し無いのよ。貴方はちゃんとしてる。自分を蔑むのは辞めなさい。ね、英人の家、行っても良い?」


「何で?」


「チョコをつまみにワインを飲みに。ここでチョコだけ食べちゃったら、後でワインしか残らないでしょ?お義理兄さんの為にも、飲める場所提供してよ」


「分かった。家、すぐそこ。言っとくけど、狭いからな?」


「高校教師の家を豪邸だと想像する人、居ないわよ!よし、行こ!」


 マイアの笑顔に少しだけ救われ、二人でアパートに戻った。アパートに着くと郵便物の中に、父親からのハガキが混ざっていた。学校から戻って来た時には、郵便物があったことにも気が付かなかった。それだけ急いでいた自分に苦笑いしながらハガキを裏返すと、ハガキには「今ウィスコンシンに居る。再婚した。」とだけ記されていた。

 再婚。ずっといつかはするのだろうと思っていたが、こんな形で知らせを受けるとは思わなかった。相手は恐らく俺が高校の時から家を出入りしていた、日系アメリカ人のリンさんだろう。彼女には俺より5つ下の息子がいる。葉書を背後から見たマイアが、そっと俺の背中にただ黙って手を置いた。


「笑えるな。葉書一枚で、義母と弟出来るって。しかもその弟より更に年下の男と、俺何やってんだろ…」


 先に見えた明るいものが紛い物で、滲んだインクで薄汚れたこのハガキが、俺の現実だと言われたような気がした。


「英人、飲もう。ビールぐらい常備してるでしょ?」


「してる。調理用に日本酒もある。つまみ枝豆と冷奴ぐらいしかないけどな」


「両方大好き!よし、飲むぞっ!お邪魔します!」


 マイアが家に入ると、急に男臭い部屋の中に甘い香りが加わり、体が疼いた。マイアは酒を飲みながら、今の仕事の話、昔俺達が付き合っていた頃一緒に観た映画の話し、文化祭でした酷い悪戯の話をして笑った。気が付いたらもう12時を過ぎていた。


「マイア、そろそろ帰った方が良いだろ?」


「うーん、もう飲み過ぎて歩けない。泊めて?」


「駄目。俺、人を家には泊めない主義。忘れた?」


「でも二人して泥酔して気が付いたら朝だった、って事はあったわよね?」


「…忘れた。てかさ、お前帰れって。タクシー呼ぶから」


 電話をしようと携帯を取り出すと、日和からメッセージが入っていた事に気が付いた。


 <怒ってますか?>


 9つ下の日和に顔色を伺わせるような事ばかりして、恥ずかしいにも程がある。返事をしようと打ち始めると、マイアがその手を止めるように握り締めた。


「英人、友人として言わせて貰うけど、その子が可哀想だよ。私の時みたいになったら、その子はまだ高校生だし、純粋そうな子だし、絶対に傷付いて立ち直れなくなる。相手に本気になれないなら、こんな若い子に中途半端に手を出すのは人の道に反すると思う」


「…中途半端なつもりは……ない」


「…Do you like him? 」


 好きという感情が、今日和に感じているものに当てはまるのか、それすら分からない。未経験の感情を形容するのは難しい。ただ、一緒に生きてみたいと、思ってしまっていた。中途半端なつもりはないと言ったが、何を持って本気というかも、いまいち分から無い。それをマイアを見て正直に話した。


「Honestly, I don't know...I don't even know how I should be feeling if I like someone, but I kinda wanna have a chance to live my life with that guy... I know it's weird, even creepy maybe, but (好きとか、分からない。でも、共に生きるチャンスが欲しいって思ってる…おかしいのも、むしろキモいのも分かってんだけど、でも…)」


「Well, I think you do like him, Eight...そっか…好きなんだ、あの子の事。17歳ぐらいの少年のこと」


「As I said, I really don't know...(だから、それは分からない…)」


「…Why him?(どうしてあの子?)あんなに若くて、何も知らなくて、英人の事理解できる経験値だってないと思うけど」


「多分、だからかも。俺みたいな汚い経験ばっかしてきた人間には、ここから救い出してくれる力があるように見えるのかもな。でもさ、それって大分自分本位で、相手のことを想ってじゃなくて、自分が救われたいだけなのかもな。最低だな、良い大人が」


 日和の純粋な心を利用して、ここから抜け出そうとしているだけなのかもしれない。酷く汚い大人になった自分に、軽蔑を覚える。だがマイアは急に笑い出し、俺の携帯を取り上げて何か携帯に打ち込み始めた。


「What are you doing?Give it back!(何してんだよ、返せよ!)」


「Relax, Eight! 変な事はしてないわよ。はい、返す。そして帰る!」


「いや、タクシー呼ぶから待って」


「良い、歩いて帰るわ。酔い冷ましになるし」


「じゃ、送るから待って。女一人で歩く時間じゃないだろ?」


「良い、一人で歩きたいから。ここは日本。安全なのよ、大丈夫」


 マイアは急にシャキッとして足早に玄関に向かい、靴を履きながら振り向きもせずに言った。


「あんなバンビちゃんに負けるとか、やっぱり全然納得は行かないけど、英人が人に助けて欲しいって気持ちを持てるようになったのは、元カノとしても友人としても心から嬉しいわ」


「え?」


「壁を崩して欲しいなら、壁、英人自身も崩さないと先には進めないわよ。ちゃんと向き合ってね。頑張れ」


 マイアが意味深なことを言い残し、玄関を後にした。


            ****


 マイアが家を出て、シャワーを浴びていると玄関の扉を叩く音がした。マイアが忘れ物をしたのかと思い、下半身にタオルを巻いて、びしょ濡れの髪のまま扉を開けた。


「マイア?忘れ物……」


 扉の外に居たのは、マイアではなく、日和だった。


「…マイア…?」


 ショックを受けたような日和の顔から、目が離せなかった。髪から滴り落ちる水が、玄関の土間部分をドンドン濡らして行く。


「…What the hell are you doing here? (何やってんだ、お前?)こんな遅い時間に!」


「…Uh, you pinged me...(先生がメッセージくれたから…)家に来いって…」


「Wait, what? I didn't...ohhh, holy crap!(え?してないけど…っあ!)」


 マイアが打ったのはすぐに分かった。飲み過ぎで訳が分からなくなったのか、高校生をこんな時間に呼び出すとか、非常識過ぎる。


「日和、ちょっと玄関入って待ってろ。今着替えてくるから。バイクは酒飲んでるから乗れないけど、家まで送る」


「え?呼び出してなんでですか?」


「いや、だからそれはマイアが、」


「その人は、家にあげるんですね、先生」


「…そりゃ、意識してない相手は家にいくらあげも問題ないだろ?」


「…僕は、それでも嫌ですけど。先生が、女の人家にあげるのは、嫌です」


「子供みたいな事言うなよ、日和。良いから、ちょっと待ってろ」


 寝室に洋服を取り行き、着替えようとタオルを取ると、いきなり背後から日和が抱きついてきた。


「Holy shit! What the fuck are you doing?? This is totally out of line, Hiyori! I'm completely naked!(おい!何やってんだよ、これは完全にアウトだって日和!俺真っ裸だから!)向こう行ってろ!」


「I know this is totally out of line but I can't help it! I don't wanna just go back home! (アウトだと僕も思います!でも!帰りたくはないです!)」


「God, I don't believe this! もしここに今警察踏み込んできたら、俺は現行犯逮捕されるから!I'm being serious here!まじで!」


「Even if this is what I want? (合意の上でもですか?)」


「Of course!!! 合意の上でもです!マジで、勘弁してくれよ!」


「どうして普通の高校生同士なら良くて、先生と僕だと駄目なんでしょうね…」


 日和が手を緩めた隙にベッドの上の服を素早く着て、喉の両脇をドクドクと流れる血管を落ち着けるように、両手で首を抑えながら日和を見た。日和は泣きそうな表情で頼りない視線を俺に向けていた。切実な気持ちは分かるが、こちらも大人として切実な状況があり、きちんと伝えたいと思いひよりを座らせ、その前に俺も胡座をかいて座り手をとって話をした。


「Look, you and I can't do it because you're still a teenager and I'm not.(なぁ、お前はまだティーンで俺はそうじゃないから、俺とお前はしたらダメんだよ。)大人はお前達みたいな未来のある青少年をそういう悪い大人から守らなくてはいけないし、俺は教師としてその役割の一端を担ってる。お前と寝るとか不可能だ」


「…そんな普通の答えですか?」


「そうです。何度でも言うけど、俺はお前の教師だから」


「知ってます」


「じゃ、大人しく帰る。行くぞ」


 送ろうと思い立ち上がると、日和も立ち上がったが思いがけないことを口にした。


「あの!キ、キス、してくれたら帰ります!キスぐらいなら許される筈です!」


 一度日和からされたキス、ひどく不器用なキスを思い出し笑いそうになったが、それもダメだと返事をすると、日和は食い下がってきた。


「真剣交際の場合の性交渉は、僕と先生の年齢差でも違法では無いって僕知ってます!でも先生の立場もあるし、そこは百歩譲ってもキスは、その、性行為ではないから、先生が僕の事ちゃんと考えてくれてるなら、しても良い筈です!ちゃんと、約束してくれたみたいに、僕の事待っててくれるなら、キスして証明して下さい!本当だって証明してください!」


「Argh… You never give in, do you?じゃ、はい」


 日和の煽りに乗り額に素早くキスをすると、日和は俺の頬を両手で力強く掴み、口にキスをした。日和は、キスがめっぽう下手だ。一生懸命にしているのが伝われば伝わる程に、日和の震える手がどうしようもなく可愛らしく思え、理性がきかなくなる。日和が抑えるその両手を外し、日和の首の後ろに手を回し、腰を引き寄せ舌先で口を開かせると、日和がビクッと反応をして体が固まった。一瞬、この時点でもう捕まるなと思ったが、日和の唇の暖かさと柔らかさに止められなくなった。日和が口の中で舌を弄んでいたので、舌先を絡めると、小さな声を漏らしながらついてこようと舌を絡ませて来る。一度口を離して日和を見ると、日和の目は今にも泣きそうな程潤んでいて、頬はこれ以上なく赤らんでいた。


「…あ、あの…」


「There're many kinds of kisses, and this is one of them. I'll give you the one you like. Then you go back home, no more negotiation, got it? (キスには色んな種類があんだよ、今のはその内の一つ。お前が好きなのするから。んでしたら帰る。それ以上の交渉はなし、いい?)」


「…I like the one you just gave me...(今してくれたのが良いです…)」


「Alright(オケ)」


 ゆっくり口を開ける日和の口の中に、舌を入れると日和がまた小さな声を上げた。


「んっ…っふ…」


 息の仕方が分からない所に唆られている自分の感情に、後頭部がモヤっとする。こんな感じで誰かとキスをしたのはいつ振りだろう?いや、今までして来た数え切れないほどのキスの中で、ここまでキスだけで身体中が反応する事はなかった。首の後ろの手を頭に回し、更に日和の舌表面に舌をゆっくり這わせると、日和は薄っすらと目を開けて固まっていた手を俺の頬に置いた。日和には釣り合わないのは分かっているのに、止められない。マイアが言う通り相手を傷つけるかも知れないのに、待つという言葉から解放してやりたいと思えない。

 口を離すと日和が息を切らしながら、しゃがみ込んで顔を両腕で覆った。


「Well, shall we? 帰るか、日和」


「Wait, please wait a little bit...I just can't right now, just can't...(ちょっと、待って下さい。今、ちょっと無理です。ちょっと…)」


「Why?」


「…uh...何でも!落ち着くまで待って下さい」


「…Oh my god, are you pitch...?(あ、もしかしてボ…)」


「Nooooo, don't say it out loud!! (あわわわわわわぁ!声に出して言わないで下さいっ!!)」


 赤面した顔をこれ以上ないほど更に赤くした日和は、立ち上がることなくしゃがみ込んだまま叫び、本音が漏れた。


「あははははは、お前、本当に純情だな!くっくっく」


「笑わ無いで下さい…恥ずかし過ぎて死にそうです…」


 しゃがみ込む日和の耳から恐ろしい程の熱気を感じて、笑い続けると日和は笑い事じゃないと怒った。


「あははは、悪い。怒んなよ。ただかわいいな、と思っただけだって」


「……こんなの可愛くないと思いますけど」


「俺にとっては、可愛い」


「…好きですっ!」


「唐突に…」


「先生が僕をまだ好きじゃなくても、僕は好きです。凄く好きです!本当に大好きです!」


 顔を伏せたままそう言う日和を見て、壁を一つ壊したくなった。


「俺も、多分だけど、好きだ…と思う」

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