高校2年1学期①

「…日和、そうやって職員玄関で座り込むの、マジやめろ」


「校門より他の生徒の目につきにくいから、良いかと思って。駄目ですか?」


「駄目」


 日和と仮契約を結んでから、バイトの日以外、日和は当たり前のように職員室玄関で帰りを待ち、一緒に下校する日々が続いている。オケ部の練習も大概遅くまであるらしく、そんなに待っていないと言うが、待たれていると思うと気が急って仕方ない。元々待たれるのは好きではない。待たれるなら、待つ方がいい。自分勝手かも知れないが、待たれる罪悪感より待つ期待感の方が、楽だ。待たれると相手に落胆を生む可能性があると思うと、余り気分は良くない。


「携帯に連絡しろって。下らないことはしょっちゅう連絡してくるくせに、お前は賢いのかなんだか、意味分からないな?」


「待ちたいんです。待ってるのって楽しいから」


「いや、でも俺が本当に全然来なかったら、お前はがっかりするだろ?」


「うーん、落胆より心配はします。仕事忙しいのかぁ、大丈夫かなぁ、とか?」


「…お前は俺の親か何かか?」


「へへへ。先生、今日学校はどうでしたか?」


「どうって、何回も廊下で会ってるから分かるだろ?普通。日和は?今度演奏会だよな?」


「はい!先生観に来てくれますよね?僕、結構活躍予定です」


「I don't know...オケ部の顧問でもないし、学校で演奏する訳じゃないのに、行ったら不自然だろ?顧問とも別に親しい訳じゃないし」


「じゃあ、チケット後で渡しますね。一番良いところ座れるように、早めに会場入りして下さいね」


「…やっぱ、日和って人の話をとにかく聞かないな?」


 日和との下校はこの上なく平和で、学生の時にこんな付き合いが出来る相手がいたら、人生が変わっていたかも知れないと思う時がある。俺の場合、高校はまだアメリカだったから、付き合えば必ず肉体関係になり、大分滅茶苦茶に節操ない交際をしていた。廊下でキスは当たり前、何度も学校の一室でことに及んだこともあるし、未成年なのに友達のお姉さんのパーティに混ざり、酒を煽ってワンナイトも普通にしていた。これは、日和に知られたら絶対まずい過去に違いない。この純粋無垢な生徒と、汚れしか知らない俺は、やはり不釣り合いだ。


「じゃ、ちゃんと歯を磨いてから寝ろよ」


「先生、今日は先生の家まで行っても良いですか?」


「駄目。お前は出禁。卒業したら、また入れてやるよ」


「…まだ2年も先ですけど」


「じゃ、2年後な。おやすみ」


 日和の頭をクシャッとし、背を向けて軽く手を振り家の方向へ歩き始めた。日和を家に上げないのは、もう日和の希望通り、そして俺の意志で日和を意識するようになったら、家にあげるのが賢明な選択ではないのが分かるからだ。25歳の男が意識している相手を家にあげたら、もうすることは一つしかない。後2年、この距離感を保ちながら卒業するのを待つと決めたら、日和の押切に応えるわけには行かない。なのに、無言で俺の後をトボトボついてくるこの生徒は、何も分かっていない。


 天を仰いで盛大なため息をついた。はっきりと言わないと伝わらないタイプは面倒臭い。立ち止まり、振り返らずに家に連れて行けない旨を再度伝えた。


「日和、家にはあげない。待つ約束しただろ?待つって言うのは、家にあげるような事はしないって事だから」


「でも家に上がるからって、別にそういう事するって訳じゃないですよね?」


 鈍すぎるにも程があるので、今度は振り返り、眉間にしわを寄せつつ視線をしっかりと合わせ、間違いなく伝わる様と答えた。


「するって訳です。忘れないように板書しとくか、明日?25歳の男の家に上がると、エロい事を必ずされます。間違いなくされます。分かりましたか?」


「…行ってもいいですか?」


「Holy mother of fucking god!! NO!!!! 首になるって言ってんの!つか、法律に触れる!それにお前にはまだ早い!」


「…でも先生高校2年の時、絶対してましたよね、そういう事?」


「Uh…俺は俺。お前はお前。わざわざ自分を俺レベルに下げる必要ないだろ?お前は、そのままでいた方が良い」


「でも、」


「俺が嫌なんだよ。お前が俺みたいにはなって欲しくない。もっと他に楽しい事なんて一杯ある。今しか出来ないことは、絶対セックスじゃない」


「はっきり言葉にして言われると、恥ずかしい、です…」


 たった一言で、こんなに赤面しているこの生徒は、自分には不釣り合いだ。でも大事にして待つ価値は、ある。周りを見回し人が居ないのを確認すると、日和の頭を抱き寄せて囁いた。


「Just 2 more years, ok? 楽しみはとっておいた方が手に入った時喜びも大きい。Until then, build up your right wrist strength on your own, dude. (それまで自分で右手首の筋力鍛えてろ)」


「Oh my god, you just said a dirty joke! (わっ!!先生っ!下品!)」


「Oh, was it a surprise? (は?知らなかったのか?)よくそれで俺を知ってるとか、好きとか言ったな?」


 純粋に笑い出した日和の向きを変えさせ背中を押すと、日和は何度か振り返りながらも大人しく家に帰った。それを笑いながら見送り、帰宅すると家の中は何も変わらないのに、何故か小さな寂しさと同時に安堵を覚えた。一人の家に帰っても、一人ではないような経験のない感情に、少しの間クッションに顔を埋めて深呼吸をした。



 授業上がりで職員室に戻ると、封筒が机に置いてあった。封筒の裏にHのイニシャル。開けると中に演奏会のチケットと手紙が入っていた。


 <今しか出来ない事の内一つに、これは入ると思います。絶対に来て下さい。>


 高校生の部活動は、青春一ページの代表だ。確かにこれは、今しか出来ない事に違いない。同じ部活で一緒に頑張ることは出来ないが、頑張る日和の応援に行くぐらい、許されるかもしれない。

 オケ部の顧問、現文の小池先生は放課後になると自前ファゴットを片手に、小走りに小ホールに向かっている姿をよく見かける。指揮を担当しているが、自前の楽器を持って行く小池先生にとって現文を生徒に教えるよりも、確実にオケ部が命のようだ。本人も大学のオーケストラにいまだに所属していて、週末はあちこちで演奏をしているようだ。しかし俺には話しずらい大人の事情があった。それは一度小池先生とラブホの前でばったり会ってしまったからだ。しかも、入る所ではなく出て来たところを、目の前をファゴットを入れたケースを抱えて足早に通り過ぎる小池先生に。目が合った瞬間、立ち止まられて、あんな最高に気まずい瞬間はなかった。お互い大人で、そんなこともあり、ホテルから一緒に出て来た相手も、勿論大人で別に何も悪いことをしている訳ではない。しかし、教員というこの独特の職についている人間は、何故か自分を必要以上に聖人君子に見せようとしたがる。俺も含めて、イメージ戦略を大事にする傾向がある。学校では新人で初めが肝心だと思っていたから、必要以上に清潔感を売りにしていた俺が、ラブホから女と出てくる図は、小池先生には衝撃だったようで、翌日から目を合わせてくれなくなった。

 元から教科的に関わり合いも少なかったが、あの現文教員の間で俺の事が噂になっていてもおかしくはない。見た目通りの、ラブホ通いのチャラ男。今でこそ真っ黒な髪も、父親が不在気味で荒れた時期は、ずっと金髪だった。やはり、日和とは何もかもが違う。しかし、ここで怯んで折角のチケットを無駄にするのも日和に悪いと思い、携帯に礼を送った。


 <Thanks for the ticket. 頑張れよ。>


                  ***


「英人!! また偶然の再会ーーーー!!!」


 オケの演奏会のホールは、目の前が大きな公園になっていて、そこを通り抜けていると、子供が遊ぶアスレチックからマイアが走って来た。細身のジーンズに、白のスニーカー、胸元の開いたVネックのピタリとした黒のシャツ。思わず胸元に遠慮のない視線を送ると、マイアが笑った。


「Oh god, you're so obvious! You're just staring directly at my cleavage! (ちょっと、あからさま!人の谷間見過ぎ!)英人、欲求不満?」


「Sorry, can't help it. I'm accumulating my sex drive too much...(悪い、無意識。欲求不満でつい)」


「珍しいわね、今お相手いないの?」


「いや、仮契約者がいるから別に良いんだけど。つかさ、お前よく帰ってくるんだな?」


「あー、そうね。4ヶ月に1回は最低帰って来てる。それより、その仮契約者って何よ?」


「え?まぁ、将来付き合う約束した相手がいるって事。今は…なんだろな?準備期間?」


「Oh my fucking god!とうとう生徒に手を出したか、この不良教員!」


「Don't get me wrong!!マジで出してねーから!出してないから欲求不満。これでも真面目なんだよ」


 こちらの必死の返事にマイアが体を捩って大笑いをし、出て来た涙を人左指で拭きながら聞いた。


「あのバンビーノでしょ?」


「Uh... don't wanna answer that question, if you don't mind?(えっと、その質問には答えたくないんだけど…)」


 否定をすれば良かったが、マイアに嘘をつくのが昔から苦手で咄嗟にそう答えると、マイアは大きな瞳を見開き呟いた。


「Seriously?? Wow…生徒の挙句に男?」


「…Can we talk about something else now?(他の話しねぇ?)」


「Oh Jesus fucking Christ! You and that cute little boy?? ¿hablas en serio o me estás tomando el pelo?(うわ、貴方とあの可愛い少年?マジで言ってるの、それともお冗談?)」


「…Porfa ...no me digas nada más…(頼む、それ以上言わないでくれ…)」


 人に話すとどれだけこの状態が驚かれる状況なのか再確認してしまい、居た堪れなくなった。マイアの露骨に驚いた表情に片手で顔を覆って溜息を吐くと、マイアは勢いよく笑って俺の肩を小突いた。


「It was just a wild guess, so I didn't really expect you to admit it like this! Wow...あの子なんだ、本当に…可愛いわよね、好き好き好き好きーって感じで英人に視線送ってたし。けど…ごめん、意外過ぎてサークルの連中今夜にでも招集かけて知らせてやりたいわ」


「Don't!!! マジでそれだけはやめろ。俺の人生が色んな意味で終わる。俺に恨みでもあるのか、マイア?」


「あははは!あるって言ったら知らせてもいいの?」


「Please don't...(やめてくれ…)」


「あははは、冗談よ!で、その子と密会でもするの?それでそんなお洒落してるの?」


 演奏会というものに行ったことが無く、何を着て行ったらいいのか皆目検討がつかないので、カジュアルなスーツでノーネクタイを選んだ。一応、受付で渡そうと思い小さな花束も持ってきたが、とくに着飾っている訳でもない。


「密会じゃなくて演奏会。つか俺、昔も普通の服装してたと思うけど」


「ずっとお洒落だったけど、花束とか、全然ガラじゃないわ」


「あー、これは演奏会とかには持っていくものだと聞いたからであって、別に深い意味はない」


 花束を女に送ったことは一度もない。唯一あるのは母の墓に手向ける花束のみ。だが、演奏会は持って行くものだというネット情報に踊らされただけだ。それに日和はこの小さな花束だけでも、凄く顔を赤らめ喜んでくれるのが想像出来た。それだけで、これを買ってきてしまう俺は、相当バカだと思う。

 マイアにあれこれ聞かれたが詳細は話したくないと抵抗すると、俺にここで待つよう言い渡しその場を一度走り去って行った。その間に逃げることも出来たが、大人しく待っていると、走って戻って来たマイアが言った。


「私も見たい。一緒に連れて行って」


「何で?」


「え?興味あるからに決まってるじゃない。行こ!お姉ちゃんには先帰る様伝えてあるから」


 こちらの意向を聞かずにマイアは俺の腕を取り、歩き始めた。チケットは2名用だったので、観客は多い方がいいと思い、結局そのままマイアと一緒に会場へ向かった。会場に入るとすぐ小池先生に会ってしまったが、マイアと俺を見る目がやはり異常に気まづかった。


 会場は想像以上に広かったので、真ん中の列の後ろの方に腰をかけた。


「一番前折角空いてるのに、なんで行かないの?仮彼氏、喜ぶと思うけど?」


「Shush!! 中でそういう事言うな!お前だから話したのに、ここ関係者一杯いるんだから、マジで発言気をつけろって。てか、一番前とか演奏中に目でもあったら、あいつ多分失敗するから」


「ふふふ、ウブなんだぁ、あの子」


「純粋培養、俺と真逆」


 マイアが俺の肩に肩をぶつけながら笑っていると、真後ろから声を掛けられた。


「優月先生、なんで来てるんですか?」


 振り返ると、青木が不機嫌そうな顔で俺を見下ろしていた。青木も担任ではなくなり、殆ど会わなくなり、すっかり忘れていたが日和とは密かに一番仲の良い友達だ。


「教員にも色々付き合いがあるんです。頑張れよ。期待して観てるから」


「…ひよは、楽屋いるけど呼んできますか?」


「いい、いい、いい!あいつには俺がここ座ってるのも、絶対教えるなよ?」


「なんで?」


「気張って失敗したら可哀想だろ、折角見せ所があるのに。集中集中」


「…今の、凄い自惚れ発言ですね、先生。先生見たらひよが気張るって」


「…あ、先生、御手洗、行こうかな。マイア、すぐ戻るから待ってて」


 青木のこういうところが、苦手だ。面倒なほどの青臭さが、いちいち突き刺さって煩わしい。トイレに足早に行く途中、廊下で腕を掴まれて振り返ると、日和が目を輝かせて立っていた。


「先生!どこ座れました?一番前?」


「教えません。集中しろよ、演奏。じゃな」


「え?ちょっと、あ、ちょっと来てください、こっちこっち」


 日和に手を引かれて関係者以外立ち入り禁止のドアを潜ると、楽屋がある場所に連れて行かれた。だが使用中の楽屋まで行かずに、小さな個人用楽屋に押し込まれ、日和は扉の鍵を閉めた。


「…何してんの、お前?」


「演奏前に、頑張れるように良いですか?」


「え?何を?」


「ハグ」


「平和…」


 たかがハグに、ここまで顔を赤らめ嬉しそうな表情で俺を覗き込む日和が未来にもいたら、少しは俺もまともな人生を歩めるようになるかもしれない。黙って抱き寄せると、日和の心臓の音が異常な程のスピードで鳴り響き、そっと抱き締めるつもりが、腕に思わず力が入った。


「Wow, your heart is pounding like hell...(すげぇ心臓バクバクだな)」


「Don't say that out loud!( そういう事、口にしないで下さい!)」


 冬にキスをして来た大胆な行動は、日和のマックスだったに違いない。こちらの言葉に拗ねた顔をしてはいたが、笑顔で俺を見上げる日和の目は、ハグしただけで泣きそうに潤んでいた。

 部屋を出る時、つい悪戯心に火が付き挨拶時にするようなキスのフリで頬を一瞬付けキス音だけエアで鳴らすと、日和はシャックリをし始め、俺を部屋から押し出すと扉の向こうで、走り回る足音がバタバタと聞こえ笑えて仕方がなかった。あれで演奏失敗したら、俺の責任だ。でもギリセーフ、という事で。


「遅かったじゃない、英人。ナンバー2?」


「Oh, hell yeah. いやー出た出た。すげぇのが」


「Did you wash your hands?手ちゃんと洗った?」


「Oh, crap! I totally forgot! 忘れた。マイア、睫毛落ちてるぞ」


「きゃーーー!!!汚い手で触らないで!」


 マイアとふざけていると、開幕のアナウンスが流れ始め、ブーという音の後に照明が落ち、小池先生が幕の前にライトを浴びて出て来た。こう見ると、あの先生も堂々としていて舞台慣れしているように見える。学校だと結構中腰で小走りで、堂々としている印象は余りないので、少し驚いた。


 小池先生の挨拶が終わり、袖にはけるとすぐに幕が上がった。日和は思ったよりもリラックスしているように見える。時々、客席に視線を送って俺を探しているのが見えた。指揮者の小池先生が再度壇上すると、一気に緊張感が漂った。

 ドヴォルザーグ交響曲第八番第二楽章、見所があるから寝ないように言われていたので待っていると、分かりやすい日和のソロが始まった。指揮者のすぐ左前に座って演奏をしている日和の顔は、さっき控え室で見たものとは全く違った。ちゃんとオーケストラという中で演奏している日和を、こうやって見るのは初めてだった。あんなに沢山いるヴァイオリニストの中から、選ばれて演奏をしている。日和のヴァイオリンが奏でる高音の旋律は、伸びやかで美しい。楽器はギター以外人生で弾いたことがないが、こういう音に触れると現実を忘れられる。

 舞台上の日和を見て、また同じことを思った。俺と日和では、本当に真逆だ。舞台の日和に釘付けになっている俺に、マイアが耳元で囁いた。


「Your provisional boyfriend is gorgeous, isn't he? (仮彼、素敵ね?)」


 オーケストラを見に来たのも初めてで、高校生の部活だからと甘く見ていたが、皆本気で一つの曲を作り上げていて、物凄く感動してしまった。余韻に浸っていたかったが、また小池先生にロビーで会いたくはないので、早足で会場を去ると、携帯にメッセージが届いた。


<女の人と一緒でしたね。浮気認定。でも、綺麗なお花、有難う御座います。>


 どれだけ暗くても、舞台から客席はよく見えると新たな事をまた一つ学んだ。

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