高校1年春休み
無事に卒業式を終え三年生を送り出しても尚、教員の忙しさは続く。4月から入学してくる生徒達の受け入れ態勢、入学早々ある実力テストの準備、担任クラスの生徒達の把握、言い出したらキリがない。2年になったら日和は2年1組で、俺の担当するクラスは2年6組。校舎も分かれる。そのことに、心から安堵を覚えた。
だが1組の英語のクラスを担当することにはなるので、週に4回は授業で顔を合わせる。部活でも時々会うことになる。しかしそれ以上なければ、恐らく自然に以前のような密な関係性から普通の状態に戻れる筈だ。
桜が満開になるこの時期、写真部としても撮影会をしないわけには行かず、旧芝離宮恩賜庭園に夕刻集合となった。日和もそこに参加していた。
入り口に輪になって話し込む生徒の姿をまず一枚撮ると、カメラのがしゃんというシャッター音が響いた。デジタルのような、ピピッという音より、この重たい音が好きだ。
「あ、先生!」
輪の中の一人が俺に気がつき手を振った。その一番奥に立って居る日和は、俺が写真を撮る前から俺に気が付いていた。ファインダーの中の日和は、皆がこちらに気がつかず笑って話して居るのに、一人だけこちらを真っ直ぐに見て微笑んでいた。
「行くか?」
ここは公園規模としてはとても小さいので、撮影はすぐに終わる。そう思っていたが、皆あれこれアングルやら拘りがあり、思っていたより時間が掛かった。
「先生、ちょっとそこ座って下さい」
「俺は映らないぞ、おじさんが写真映っても誰も喜ばないし得もしないからな」
「またまたー!前部長の撮った日和君との写真、あれ最高だったじゃないですか!」
あの写真は未だに部室の壁に飾ってあり、どのタイミングでこっそり外せばいいのか実は悩んでいた。
「あ、日和君も一緒に写ってよ」
「あー、じゃあ日和だけ撮ってやれよ」
慌ててカメラを向けられた場所から移動すると、日和が後ろからグイッと俺の腕を掴んで小声で言った。
「撮影協力も、顧問の仕事だと思います」
こういう時だけ、教員扱いだ。それでも、日和が俺を掴むその手が、小刻みに揺れて居るのを感じ、黙って従った。
「じゃあ、これからは夜桜タイム。1時間後に、ここ集合!」
部長が元気よく言うと、皆バラバラと散らばって行った。一人ただ、ベンチに座ってライトアップされる桜を眺めた。この時期は、好きではなかった。母を強く思い出す。悲しみという感情よりも、腑に落ちない霧がかった感情に、苛立った。
電気が灯るビルの背景に浮き上がる桜の儚い揺らめきが、様々な感情を複雑に絡ませ頭の中を駆け巡る。誰かと一緒に生きたいとか、誰かを好きになるとか、誰かを守りたいとか、そう言う感情は母親に裏切られたあの時点で全て縁のない世界だと思っていた。事実を知ることは出来ない。でも、現実に消えた母の存在は、今でも俺の生き方を支配して居る。ここから救い出してくれる誰かを、本当は待っていたのかもしれない。そしてそれがあの頼りなく笑う、執拗な程に俺の後を追い回す日和だとしたら、こんなにも皮肉なことはない。年下の男子生徒に救いを見出すなど、もし母が生きていたら嘲笑うだろうか?
日和のことは、知らないことの方が多い。同性で、教師と生徒と言う立場で、年の差も凄くある。だが、あの瞳を見る度に激しく胸の内が騒めく自分を、無視し続けているのが辛い。
遠くに光る一番星は、都会の明るさに押されても尚光り輝く。日和の存在も、どんなに多くのマイナス要素を羅列しても尚、強烈に心の中でその存在をしらしめる。明確な理由も言葉で表現出来ないのに、その存在が色濃く心の中で燻る。
どうしたら良いのだろうか?分からない。
「優月先生、隣良いですか?」
顔をあげると、日和がこちらを真っ直ぐに見て立っていた。世の中に、人の考えがわかる類の人間が実在しなくて良かったと、この時心底思った。
「どうぞ」
少し右にずれると、日和はその横に遠慮がちな距離を取り座った。膝の上に手を置き、指を落ち着かない様子で動かす日和の手を何となく眺めていると、日和がか細い声で話し始めた。
「あの、色々考えたんです。あのカードの事…」
あんな事、書かなければ良かったと思ったが、日和は少し希望に満ちたような表情で続けた。
「それで、思ったんです。外から見ると理解できない、内から見ると説明出来ない。だったら、一緒に見たら良いんじゃないかって。二人で見てみて、理解できない、二人で説明出来ない感情だったら、とりあえず、二人の認識は共通しますよね?それは、出来ませんか?そこから始めることは出来ませんか?迷子になるなら、二人で一緒に迷子になるとか、出来ませんか?逃げないで、立ち止まって、それで一緒に模索して行けないかなって…」
これが公園で、無邪気に写真を撮り回る生徒達が近くを行き来して居る状況で、良かったと思った。もしそうでなかったら、今すぐに抱き締めてしまいそうだ。
だが抑えられないこの気持ちを、このままにはしておけない。
「日和、今日、家来るか?」
「…はい」
いつもと変わらないアパート、いつもと同じように帰ってくる。ただ、今日は日和を連れて帰って来ていた。写真部員と別れ、日和と二人で帰宅する。思わず誘ってしまった。それに素直に日和はついてきた。しかし誘ってはみたものの、何をどう話そうかまだ頭の中で整理がついていない。
玄関の鍵が開く音が、いつもより耳障りに響いた。緊張し過ぎて、やけに音に敏感になっている。日和も一言も話さないまま、緊張した面持ちだ。当たり前だ。キスをされたあの夜から、ここで二人になるのは初めてだ。
「なんか飲むか?」
「いえ、大丈夫です」
間が持たないから飲み物を出したいのだが、そこは空気を読んでは貰えない事に笑いそうになった。しかし、緊張しているのは自分だけではないのは明らかだ。仕方がないので考えがはっきり纏ってもいないのに、口火をきった。
「あのさ、日和、自分で来いって誘っておいてあれなんだけど」
「先生、僕は4月から先生のクラスですか?」
「え?」
「僕は先生と、毎朝同じ教室で顔を合わせられますか?」
「…それは、まだ言えない」
日和にだけ、どのクラスかを事前に教える訳にはいかない。話の行き先が読めず黙っていると、日和は膝で組んだ手に目を落としたまま続けた。
「もし、僕が先生のクラスじゃなくて、会う回数がドンドン減って行ったら先生は僕の事、意識するどころか、忘れて行っちゃうんじゃないかと思うと、不安です」
笑いそうになる気持ちを抑え、それに答えた。
「忘れるとかない、お前まだ2年同じ学び舎にいるだろ?日和は、どこのクラスに居ても、俺の大事な生徒だから」
そうだ、日和は俺の大事な生徒だ。それ以下であっても、それ以上であってもいけない。だが…。
「生徒だけですか?僕は、生徒だけじゃなくて一人の人間として見て欲しいんです。先生も前に言いましたよね?先生は、先生の前に一人の男だって。だから僕も、一人の男として見てもらえないですか?本当に好きなんです。先生を一人の人として」
日和を一人の人間として見ているから、心が落ち着かない。それを、伝えても良いのだろうか?日和が座ったクッションの横に、胡座をかき、ゆっくり日和の組まれた手を取った。正しいか正しくないかは、きっと正しくないが正解だ。でも、伝えない事も正しくないと思えた。
「日和、俺はお前の事をそんなに知らない。お前も俺のことをよく知らない」
「僕、先生が思っているより先生の事知ってるつもりです」
日和が少し拗ねた顔をした。思わず口元が緩み、心がほぐれるのを感じた。
「俺にお前を選ぶ権限が一切ないのは分かってる。でも、考える時間を持つことは、誰にでも与えられる権利な気がする…。あのさ、俺がもし待つって言ったら、お前はどうする?」
時間が欲しいと言った日和の言葉に対して、はっきり待つとは答えなかった。今、生徒である内に日和とどうこうなると言うのは不可能だ。絶対に出来ない。だが卒業後の予約は、許されるのかもしれない。日和を見ると、日和は大きな瞳に涙を溜めて、その長い睫毛の先から一粒ポロリと涙をこぼした。
「僕のこと、待ってくれるんですか?」
「If it's alright with you...でもお前卒業する時、俺もう27だけどな?」
日和が今までで一番の笑顔を見せ、この一歩がこの生徒にとって間違いにならないと良いと強く思った。
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