高校1年3学期①

 日和が正月に帰ってから、日和を家にあげるのを辞めた。日和からのメッセージに返信はしていたものの、家に来たいというものに関しては、きっぱりはっきり断るようにした。

 あのキスの感触が、生々しく唇から消えることがなく、家にあげるのが怖くなったからだ。意識をして欲しいと言われても、意識をしたらしたで、教員の立場を忘れた行動に出ない自信がない。母親がそうであったかもしれないのに、俺まで生徒と教師と生徒以外の関係を持つのは、唾棄だきすべき行為だと自分に言い聞かせた。

 日和の未来は明るい。それを、俺の存在で無下にはしたくない。これから先続く日和の人生を大事に見守り、無事に高校を巣立つのを見送りたい。俺は、日和の担任教員だ。それを忘れたら、絶対にいけない。毎日自分自身にそう言い聞かせないと、心が揺らぐ自分自身に虫唾が走る。

 こんな風に、気持ちを揺さぶられた事がなかった。経験したことのない感情というのは、人を只管に憂虞ゆうぐさせる。この落ち着かない胸の鉛のような重みを、どう始末したらいいのか分からなかった。

 そんな思いを抱いたまま、3学期が始まった。


「先生ー!正月痩せですかー?独り身って感じで切なっ!」


「うっさい。お前ら来週早速小テストあるからなー。しっかり勉強しろよ」


 正月から食欲がなく、確かに若干痩せた。16歳のまだ少年と呼べる一生徒に、こんな風に気持ちを揺さぶられて、自己嫌悪に陥る。

 ホームルームが終わり、教室を出るとそんなこちらの気持ちも丸で理解していない日和が、走って後を追いかけてきた。


「先生!これ、冬休みの宿題。今出しても良いですか?」


「あ、これあとで授業の時回収しようと思ったんだけど。ま、いいや。貰っとく」


 手から素早く受け取ると、視線を余り合わせる事なく、職員室へ急いだ。日和が宿題を忘れたことは、一度もない。成績も入学した時からずっとトップだ。一番を走り続けるというのは、想像以上の努力を要する。人生は、追われるよりも追うほうが楽だ。日和はこれ程大勢の同級生に常に追われているのにも関わらず、平然と一番を守り抜いている。そういう所は、本当に人としても尊敬に値した。


 職員室で預かったばかりのプリントの束にちらっと目を通すと、プリントの一番下にまたメモがあった。


 ーI'm sorry I fell in love with you.


 それに返事を一度書いて、慌てて消した。


 ーI might be falling for you.


 正月休み明けの小テストは、中々皆散々な出来だった。明らかに勉強していなかった者と、していた者の差が如実に現れて少し頭を抱えた。


「あー、なんでだろ…」


 冠詞のルールを中々皆、理解してくれない。参考書を何冊か読めばわかるだろうと思うのは、ダメな教師の考えだ。日本語には冠詞はないから仕方ないが、the, a, anが何処に入って、何処で不必要か、見ているとどう考えても適当な勘に頼って答えているのが4割はいる。複雑ながら明確なルールがそこにあるのに、何故それを無視するんだと悩んでいると、ALTのジョーが豪語した。


「僕も実際よく分からないよね。そうだから、みたいなさぁ」


 正月を明けて若干日本語が上達したジョーは、こういう文法に関してめっぽう弱い。ネイティブが文法に弱いのは、日本人が日本語の文法を聞かれても、明確に答えられないのと同じだ。だが、そういうものだからという説明で生徒が覚えてくれるなら、教師は苦労しない。

 日和だけは、相変わらず完璧だった。しかし全生徒が日和だったら、それはそれで教師は必要なくなる。自分自身、殆ど米国で育ったので英語に苦労はなかったが、明確な日本語に関してここまで来るのに苦労したので、出来ない生徒の気持ちはよくわかった。表現したい事が、自分の母国語のように合致した言葉で表せないもどかしさと言ったらない。

 あれこれ文法書を出してきて、重点的にテストで皆が出来なかったところをまとめていると、気が付いたら9時を過ぎていた。あまり学校に遅くまではいられないので、一応プリントアウトした資料を大量に抱えて自宅に帰ると、携帯が振動した。


 <宿題のプリント早速返却して下さり、ありがとうございます。>


 テスト前に手元にあったほうがいいと思い、皆の分を睡眠時間4時間マックスで直しまくって返した。礼を言われて、少し努力が報われた気がして嬉しく思い返信を送った。


 <どういたしまして。>


 部屋のドアを開け、大量のプリントを机に放り投げると、また携帯が振動した。


 <書いてあったこと、本当ですか?>


 <何が?>


 そうすぐに返事をしたが、1度書いて消したあの文が頭に浮かんだ。だが、しっかり跡形もなく消したはずだ。


 <1枚目のプリントにうっすら写ってた文です。>


 プリントをめくりながら書いていたので、最後に書いて消し、その後後ろの紙はチェックしなかった。まずいと思った。返答に困っていると、また携帯が振動した。


 <I hope you meant it.>


 <I don't know what you're talking about.>


 子供染みた返事以外、思い浮かばなかった。


             ****


 教室でも、部室でも日和に会うと目をそらすようになってしまった。平静を装っていても、どうしても態度に出てしまう。自分がこんなに精神的に子供だとは思わなかった。一体、何のスイッチが入ってしまったのだろうか?自分にこういう面があったという発見で、戸惑いが隠せない。

 キスと言う取るに足らない行為に拘泥こうでいしている自分が、寒心に耐えない。


 久しく行っていなかった屋上へ、昼休みにこっそりと出向いた。冷静に自分を保つため、そこでゆっくり深呼吸を繰り返した。事実を知らなくても、人伝に聞いたそれが本当なら、母は生徒と恋に落ちたからああいう結果を招いた。自分自身そうならない為には、日和から距離を取らないといけない。日和は一緒に生きたいと言ってくれたが、俺には誰かと一緒に生きる資格など、元々無いのだから。あの純粋な存在を守るには、全てなかったことにするしかない。現実を見ろと、自分に小さな声で言い聞かせた。


 しかし、ずっと辞めていたタバコが無性に吸いたい衝動に駆られ、更に苛々が募った。

 ここで未来がある生徒の人生に、色をつける訳には行かない。1月になり高3が登校して来なくなったからか、学校全体は寒々しく感じる中、蒼穹そうきゅうの下こんな事を考えている俺も、救いようがない。


「先生!この前のプリント神ってました!私多分、次のテスト完璧かも!」


 小テストの結果を踏まえて、夜な夜な作ったプリントを配った次の日、大八木が絶賛してくれた。素直に心から嬉しかった。教員になって生徒が分かりやすいとか、分かるようになったと言ってくれる事が教師冥利につきる瞬間の一つだ。頑張って良かったと思える。


「大八木、その言葉覚えておくからな。期末しっかりな」


 持っていたプリントで大八木の頭を軽く叩くと、大八木は笑顔ではーいと答えた。生徒と教師は、このぐらいが丁度良い。これからは、バランスを崩さないように細心の注意を払わないといけない。日和が言ってくれた言葉が嬉しかったから、心が揺れたのは事実だが、越えられない壁は、越えてはいけない壁でもある。


 行くはずの部活を急遽休んで帰路につくと、日和からまたメッセージが送られてきた。


 <僕が部活に行くの辞めたら、先生は部活に来ますか?>


 そうではない。でも、日和にそれをどう伝えたら良いか、まだ分からない。


 高校の1月2月3月は教員にとっては多忙極まりなかった。まずは3年の受験、相談、4月から入学希望の入試準備、試験後の採点、在学生の期末の準備。恐ろしい程の残業続きで、目まぐるしく過ぎて行く。そんな時期に来る、バレンタイン。毎年生徒がいくつか職員室に持って来てくれたが、日本独特のホワイトデーなるものを忙しさにかまけて忘れがちで、カレンダーに全部記入しておくとカレンダーが真っ黒になる。誰に貰ったか覚えておかないといけない煩わしさ、義理でも返さないといけないこの風習に毎年思った。アメリカのように分かりやすく、好きな人にだけ送るシステムを導入して頂きたい。お返し欲しさでチョコを贈られたくはない。しかし今年もそのバタバタな時期に来たバレンタインデーは、思った通りに朝から女子達が忙しく小さな包みを持って、あちこちウロウロしていた。そして職員専用下駄箱で先ず、下駄箱を開けた瞬間になだれ落ちるチョコの数に目眩がした。これだけ返す、こっちの身にもなって欲しい。高校教師の薄給という現実を、生徒は何も分かってはいない。取り敢えず全ての箱を拾って鞄と顎の間に挟み、職員室に向かっていると日和が英語教員の部屋の前に立っていた。

 日和は大量の箱を抱える俺を見て、驚いた顔をした後、哀しそうな表情を浮かべて微笑んだ。何も悪いことをしてい無いのに、何故か罪悪感に胸が痛んだ。


「はよ、日和」


 努めて普通を装い挨拶をすると、日和は小声で囁いた。


「それ、お返し全部するんですか?」


「そりゃ、しないと怖いだろ、女子って」


 大抵の生徒は教師にお返しを期待してこういう物を献上するものだ。先生にあげる方が同級生に送るより、返ってくるものが良いと以前女子生徒が萎える話をしていたのを小耳に挟んだことさえある。だから貰ったら返す。返すというより、生徒達の場合率先して下さいと受け取りに来るのだから、用意しない訳に行かなかった。日和が立ちすくむその横を通り過ぎようとすると、箱が一つ落ちた。日和がそれを拾い、俺の鞄に載せながら一緒にカードを載せた。


「食べ過ぎて具合悪くならないで下さいね」


 そう言って去って行く日和の後ろ姿は、何故か緊張感であふれていた。日和がさりげなく載せって行ったカードを、職員室に誰もいないことを確認してから開けると、中には日和の整った筆跡でメッセージが書いてあった。


 <Ever since I met you, nobody else is worth thinking about.>


 慌ててカードを閉じた。動悸が凄くて暫く席を立てなかった。


 2月の高校入試、在校生の期末と追われたお陰で、日和のカードのことを余り考えずに済んでいた。しかし3月の卒業式準備をしているその頃、オケ部の演奏が体育館に流れ込み、日和が弾いているであろうバイオリンの音だけが、妙に際立って耳に滑り込んで来た。全身の緊張を解してくれるような、そんな優しい音色に、目を瞑りその音だけを只管に追って聴き入った。これぐらいは、赦される。

 共に生きることは出来ないし、このまま平行線で卒業を無事に迎えたら、この心の揺れは綺麗な過去に変わる。それまで後2年、あっという間だ。それに、もう4月から俺は日和の担任を外れる。英語のクラスはまだ俺だが、担任を外れると分かった時点でこれほど安堵したことはなかった。一つ、壁が取れた、そんな気がした。そしてそう思った自分を軽蔑した。

 まだ桜が咲くには早いホワイトデー、大量のチョコを持って登校した。女子にいつも飴は嬉しく無いから、チョコにしろと言われていたので、それから毎年お返しはチョコにしていた。日和にはカードを書いた。恐らく意味が分からないと言われる事は予期しているが、それ以外何も思い浮かばなかった。


「先生!お返しちょーだい!」


 朝から女子生徒が引っ切り無しにお返しの無心に来るが、日和は一向に来なかった。カードだけだから、いらないという感じなのかもしれないが、取りに来てくれたら話が早いと思い、朝から休み時間の度に日和が来ないか一日待っていた。そうして放課後になり、卒業式に必要なプリントをコピーしていると、日和が俯き加減に職員室に入っていくのが見え、慌てた。大量のプリントを持ち、職員室にダッシュすると、日和は英語教員の部屋の前に立っていた。

 不器用というか、子供というか、つい笑うと日和が顔をあげてこちらを見た。


「お返しの無心か?」


「違います。えっと、いや、違くも無いですけど…」


 笑ってはいるが、こんなのに振り回されてる俺も、同レベルに不器用で子供なのかもしれない。


「ほい。早く帰れよ」


 カードを取り出し手渡すと、日和は耳を赤くしてそれを抱えて小走りに出て行った。


 夜になると、予期していた通り日和から携帯に連絡が久々に来た。


 <先生、意味が分かりません。>

 <そのまんま。>


 カードに書いたのは<From the outside looking in, it's hard to understand. From the inside looking out, it's hard to explain.>俺も、分からなかった。この感情をどう説明したら良いのか。 

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