高校1年2学期③

 二学期の期末が終わり、冬休みに入る。この時期は一人でいても、気持ちがソワソワした。クリスマスは人恋しくなるというが、それよりもクリスマスの街の装飾が好きで、一人でいても楽しい気分になれた。きっと本当に楽しいクリスマスを、母が他界したあの年から送っていないからだ。一人でいる事が日常茶飯事すぎて、クリスマスだから寂しいという感情が生まれないのかもしれない。


「先生さよーならーーーー!!」


 終了式を終えた生徒達が元気に校舎を後にする姿を見送り、伸びをした。

 あの文化祭以来、日和は俺に対し明確に距離を置くようになった。これで良かった。踊り終わった後の日和の手は、小刻みに震えていて、真っ赤になった顔は、壇上にジョーが設置したカラーライトの下でさえもよく分かった。

 踊っている最中に、日和の耳元で俺が酷いことを言ったから、日和は近づかなくなったに違いない。


「ちゃんと人として答えてなかったから率直に言うけど、日和が生徒だからとか関係なしに、俺は誰も好きにならない、一生。中身のない体の関係しか持てない。俺に無駄な期待はしないで欲しい」


 事実だ。それを日和にわざわざ伝えたのは、俺がおそらく日和の中で美化されていて、好きだという感情を抱いてくれているのを感じたからだ。案の定、それから日和は俺を避けている。結局はそういう事だと分かり、安堵するのと同時に、また元の無味無臭の生活に戻ることに虚脱感を感じる。

 結局この教員生活3年で、母親の事を何一つ理解するに至っていない。奇しくも母親と同じ、生徒から想われる経験をした。だが、25歳の教員が16歳と付き合うのはまず犯罪行為であり、そんな事が露呈すれば教員免許は剥奪されるに違いない。そういう平常心が働く内は、母の事など理解出来ないのかもしれない。そして、もしそうならば、理解できなくてもいいと思えた。それでも、静まり返った心の泉にほんの小さな小石を投げ入れられ、揺れたのは事実だ。相手が誰でもそうだった可能性はある。それはわからない。だが日和という生徒の俺とは正反対の存在に動揺し、平坦だった感情に漣が立った。その風は、止まることなく去っていった。そして心からこれでいいと思えた。全てこのままで良いと思えた。


 クリスマスイヴ、学校に行く必要もないので一人で映画を観に行った。特に何かを観たかった訳ではないが、外の空気が吸いたかった。街を行き交う人は俺がそこに存在していることなど、知る由も無い。それが今まで心地よかった。誰にも気に止められない存在は楽だ。だが、今日は少し違った。初めて、何故か寂しいと言う感情が、腹の底で湧くのを感じた。歩いている足が、その瞬間に止まった。

 立ち尽くしていると、風に攫われ前髪が顔にかかり、一瞬目を瞑った。12月の風は肌に痛みを与える。その痛みを実感しながら、そっと前髪を掻き上げ目を開くと、マジックのように、つい数秒前は誰もいなかった俺の目の前に、日和が立っていた。


「…日和」


「先生…」


 あれから必要な時以外話しかけても来なかった日和の顔は、かなり強張っていた。露骨だと思った。


「寒いな。風邪ひかないように暖かくしろよ」


 日和の頭を触ろうとしたが、手が止まった。日和はその手を一瞬見たが、すぐにその手を戻し、他人のように日和の横をそのまま通り過ぎようと一歩踏み出すと、日和が腕を掴んだ。


「あの、先生、ちょっとだけお時間良いですか?」


 日和からのこの手の質問には、いい予感がしない。少し冷静に考えていると、日和が続けた。


「多分、先生のお宅で話した方がいいかと思うんですけど」


 日和を家にあげる気は二度となかったので断ろうとすると、俺が話すより先に日和が言った。


「僕が行くの、ご迷惑なのはわかりますが、クリスマスだから…」


 昔から人はこういうイベント事をいろんな事をする口実に使いたがる。日和もクリスマスだと言えば、俺がなんでも許すと思っているようだ。それでも日和の真っ赤に染まった頬を見ていると、クリスマスぐらい、締め出したものに慈悲を持つことは許される気がした。


「先生のうち、今日何もないけど」


 今日は外で一人で食べようと思っていたので、何も用意していない。


「良いです、それは」


 日和が顔をやっとあげると、緊張に強張った顔が妙に心もとなく、保護のつもりで連れて帰るかと自分に言い訳をした。


「じゃ、どうぞ。おいで」


 日和は黙って頷き、アパートまで無言で付いてきた。玄関を開け中に入ると、玄関先に俺が飾っていたヤドリギを見て、日和が言った。


「先生、mistletoe 」


「あー、これだけ何となく毎年飾ってんの」


 ヤドリギを指で軽く弾くと、日和が突然勢いをつけて言い放った。


「あの!良いです、僕、体だけの関係でも良いです!」


 日和の言葉に部屋の空気が一気に強張った。この生徒の言い出した言葉が、頭の中で全く処理されず思考回路がショートを起こした。日和は明らかに震える手で俺の服を掴んで続けた。


「ずっと考えてたんです。けど先生が、そういう付き合いしか出来ないなら、それでもいいです。やっぱり、どうしても諦めるとか、無理みたいで、だから」


 日和が真剣なのはよく分かる。だが、どうしても笑いが抑え切れなくなり、思い切り笑い出してしまった。


「Ahahahaha, oh my god, I'm sorry I don't mean to laugh, but you...hihihi(あはははは!ご、ごめん!笑うつもりとか、全然ないんだけど、でも、お前、それは…ひひひ)」


 嫌われる為にわざわざ言った言葉を、この生徒は真に受け、おそらく今まで真剣に悩んだ挙句に、こんな事を言うために家まで着いてきた。それが、この上なく可笑しくてどうにもならなかった。


「I'm being serious here...(先生、僕、真面目に言ってるんですけど…)」


「Ahahaha! I know, I'm sorry but I can't help it...oh jeez...hihihi...(ははは、分かってるけど我慢出来ない…ひひひ)」


「Stop laughing!! You're hurting my feelings now! 僕でも傷付きます!」


 日和のさらに赤らんだ顔を見て、笑いで出た涙を拭いながらやっと返事をした。


「My goodness…Sorry, I really didn't mean to laugh…ふぅ…あのな、日和、まず先生が16歳のお前とそういう事すると思う?生徒と教師じゃなかったとしても、そういう行為は犯罪だから。お互いの人生棒に振る行為、分かる?」


 それを聞いて、日和が肩を落としてホッとしたような息を着いた。


「そ、そうですよね…いや、でも、諦めるぐらいなら、一層の事、そうなった方が良いかと思って…」


 純粋培養とはこういう人間の事を言うのかもしれない。大きなため息をついて、日和の頭に手を乗せて髪を思いっきりぐしゃぐしゃにした。


「あのな、お前のそういう真っ直ぐな所、尊敬するよ。だけど、俺は日和が思ってくれてるような人間じゃない。そこまで想われる価値なんて無いから、本当に」


 何を見て何を思ってここまで想ってくれているのかは分からないが、完全に勘違いだ。それを伝えようとすると、日和は毅然と答えた。


「じゃあ、教えて下さい。どういう人間か」


 日和の真摯な態度に、どうしても話さないといけないと感じた。生徒になど永遠に話す必要はないと思っていた、過去。これを聞いたら、確実に日和は怖くなるはずだ。日和の腕を取り、部屋の奥へ連れて行った。いつも座っている場所に座らせて、深呼吸をした。こんな事、話そうとしている俺も、この子供に明らかに何かを毒されてきている。


「俺の母親は、俺と同じ仕事してたんだ。しかも同じ高校の英語教師」


「えー、凄いですね!同じ職業って事は、それだけ先生がお母さんを尊敬してるんですね?」


 普通はそう思うのが自然なのだろう。母親の影を追う程、母を恋しく思い、母を尊敬していた。だが、理由は違った。


「違う。ただ、知りたかっただけだ。母親の人生を、少し」


「知りたいと思うほど尊敬してるって事じゃ」


「違う。俺の母親は、教え子と駆け落ちの最中に事故死した。俺が5歳の時に」


 日和を見ると、日和はただ瞬きもせずに俺を見た。ゆっくり肺から空気を送り出し、そして吸い込んだ。


「心中だって噂も流れたけど、結局真実は分からないから、どういう経緯かは今も不明。でも、尊敬なんかしてない。何処かに軽蔑の感情はあっても、尊敬はない。こんな話聞いて、お前も怖くなっただろ?そういう母親の子だから、俺は。きっとそういう要素を何処かで持ってる」


 日和は暫く考えている様子だった。


「な、お前が俺の何を良いと思ったのか不明だけど、俺は誰も好きになれない。真実がどうであれ、そういう母親の血を引いてる俺には、そういう資格もないし、きっと誰よりも自己中心的で自分のことしか考えられない、そういう人間だから」


 母と生徒の事を本当は知りたい。どうしてそうなったのか。どうして仲が良いと思っていた父を捨て、子供の自分を置いて、その生徒と共にあることを母が選んだのか。もしくは父の言うように、あれは真実では無いのか。だが同時に目をそらしたい気持ちが強く、本当は怖かった。それは自分が誰かを好きになって、もし母と同じように破滅の選択をしようとしたら、傷つくのは自分だけでは済まなくなるのを彼女を通して知っているからだ。自分の気持ちしか見えなくなり、周りを巻き込むようなことになるのが怖い。


 日和が分かりましたとこの場を去ってくれる事を願い反応を待っていると、日和は目を逸らすことなくこちらを見上げて、毅然と言った。


「先生とお母さんは、別の人間です。僕は僕の両親が離婚をしているからと言って、自分も離婚するとは全く思いません。寧ろ、僕は絶対に、一生添い遂げようと決めた人とは何があっても離れる気はありません。先生は先生です。先生のお母さんじゃない。それに先生、僕、絶対に死んだりしませんから」


「え?」


「もし、先生が僕を選んでくれなかったとしても、僕は死ぬつもりありません。先生が生きてる限り、死ぬつもりはありませんし、先生を死なせるつもりも絶対ありません。その生徒さんがどういうつもりだったか分からないけど、僕は先生を守りたいです。僕は先生と死にたいんじゃない。一緒に生きたいんです」


 こんなに頼りなさそうな9つも年下の教え子の、予想外の返事に、迂闊にも心が苦しくなった。


「本当に好きだったら、生きていて欲しいと思うものだし、生きたいと思うものです。僕は一緒に生きていける道を模索したいんです。僕は、ちゃんとここで生きます。先生を好きだから、逃げないでここで生きます。だから、先生も、」


 日和が最後まで言い終わる前に、体が勝手に動いていた。もしこの時、日和が俺の為なら死ねるとか俺となら一緒に逃げても良いとか言い出していたら、全く違った反応を示せただろう。だが、俺の為にここで生きるというこの生徒の気持ちが、恐ろしい程の扇動力を持って体と心を突き動かした。俺と一緒に生きたいというその言葉に、何も考えられなくなっていた。日和は黙って、それを受け入れた。

 リビングの床に日和を抱き締めて倒れ込んだ。どうしようもなく、きつく抱き締めずにはいられない。腕の力加減が分からない。こんなにも何かを許されたような、受け入れらたような気持ちになったことがなかった。


「先生、大丈夫。僕逃げません、ここにいます。この場所から逃げません、絶対。先生が…大好きだから」


 日和の励ますようなその言葉に、迂闊に涙が溢れた。生徒に泣かされている自分の無様さを客観的に気が付けても、どうにも抗えなかった。抱き締める手を緩めることも、流れる涙を止めることも出来ない。どうしたら良いのか分からない。腕の中で大人しく背中に手を回すこの生徒が、背負ってきたものを少し降ろしてくれた気がした。

 日和も俺の事は本当の意味で何も知らない。俺も、きっと日和の事をまだ全く知らない。しかし初めて、もっと知りたいと思ってしまった。

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